ぬるい水にもまれるうちに、なにに向って腕を伸ばしていたのかも、忘れてしまった。

 けれど、このまま消えちゃならないと叫ぶ頭の奥からの声に、こどもの手は、なにかをつかんだ。
 硬い棒。

 水面の向こうから、美しい女の白い面が見下ろしていた。





「人の子が生きて流れつくのは、何百年ぶりだろうね。いや、何十年ぶりだったか」
 女は長い爪でこどものシャツをつまみ、暖炉の上へ放り投げる。

 こどもはゴワゴワの毛織物に埋もれて、大きなクシャミをした。

「火のそばであったまっておいで。今、ちょうどスープが煮えたところだ」

 渡されたのは、焦げたにおいの、泥みたいに黒いスープだ。
 そのままの焦げた味がする。

 こどもがじっと見つめると、女もスープに口をつけた。平然と咀嚼する彼女に、こどもはだまりこくって、自分のうつわを見下ろした。

「それで、おまえは失くしたか、失くされたか、どうしたんだい」
「なくした? なくされた?」
「おまえの名は」

 こどもは一度上げた顔を、しばし経って、また下げる。

「なまえ、わからない」
「おまえはあの河に、名まで落っことしてきたのだね。それじゃあ還れないよ」
「かえる……?」

 オウム返しにぼんやりとつぶやくこどもに、女は息をついた。
 そして長い爪で窓をさす。

「これは、失せものの河だ。私は河の守り主の魔女」
「うせもの。……なくしちゃったもの?」
「そう。この河へ流れつくのは、失くしたか、失くされたか、忘れさられるべきものばかり。おまえもそのひとつだ。失せてよいような、いらないこどもだったのだろうね」

 こどもは言葉を噛みくだけない代わりに、スープを飲み下す。
 やっぱり苦い。

「……いらないこどもだけど、ここにいてもいい?」
「よくはないが、悪くもない」

 霧のように掴みがたい返事だ。こどもはもじもぞとテーブルの下のつま先をこすり合わせる。

「好きにおし」

 魔女は三日月の形にくちびるを曲げ、「だけど私は、世話はうまくない」と笑って部屋から消えた。