「……うん、想像と違った」
私は都内にある立派な七階建てのビルを見上げる。
水珠と赤珠を屋敷に置いて、私たちがやってきたのは陰陽寮。
例の喰迷門を使っての移動は心身ともによくないので、安倍さんにお願いして電車通勤をしてもらった。
呪約書のせいで私から離れられない安倍さんは「喰迷門なら一瞬やのに」と、ものすごぉぉーく嫌そうな顔をしていたけれど。
にしても、てっきり神宮みたいな和風でだだっ広い建物を想像していたのだが、目の前にあるのはいかにもエリート社員が通っていそうな高層ビル。
予想外の外観に圧倒されていると、着物ではなく黒のスーツに着替えた安倍さんがスタスタと中に入っていく。
中は本当に普通の会社と変わらず受付があるのだが、そこに座っている受付嬢は額にお札が貼られたのっぺらぼうの式神。
他にも入館証の代わりに指で印を切って五芒星を見せると入館ゲートを通過できるとか、物珍しいものばかりできょろきょろしていると、安倍さんにギロリと睨まれた。
「口開けて歩くな。上京したての田舎者か。お前を連れて歩く俺までけったいな目で見られるやろ」
「これをポカンとせずに傍観できる、強靭な精神の女の子がいるのなら、連れてきてくださいよ……」
私の抗議を無視して、エレベーターに向かってずんずんと歩いていく安倍さん。私たちも続いて乗り込むと、タマくんは棘のあるため息をついた。
「女性に対して、きみは心が狭すぎるんじゃないか。器量のなさが言動と態度でバレるから、その口縫い付けたほうがいいと思うね」
「女性ねぇ……猫又憑きなんて、あやかしみたいなもんやろ。人ちゃう」
人じゃない……。
両親から『この、【化け物】が』『【気味が悪い】のよ!』と罵倒されたときのことが蘇り、自分の表情が固まるのがわかる。
私はまだ、あの過去に囚われてるの……?
ズキリと胸が痛み、いつまで私は弱いままなんだと俯く。つい自嘲的な笑みが浮かんでしまったとき──。
「口を慎め、彼女の耳を穢すな」
タマくんの空気がガラリと変わり、私は息を呑む。敵意を向けられた安倍さんは動じることなく、ふんっと鼻を鳴らした。
「過保護やな、あやかし同士仲良しなことで」
ピリピリとしだす空気。
このままじゃよくない、これから一緒に暮らすっていうのに……。
私は「そこまで!」と睨み合うふたりの間に入り、その胸を押して離した。
するとタマくんからは困惑の目が、安倍さんからは殺傷力抜群の鋭い目を向けられる。
逃げたい、もう息が詰まりそうだ。今後、この三人で密室には入りたくない。
そんな願いが通じたのか、チーンと開くエレベーターのドア。神様の起こした奇跡かと振り返ると、そこに広がるはごくごく普通のオフィスフロア。
テレアポみたいにヘッドフォンとマイクをつけて、パソコンに一心不乱に向かっているスーツ姿の男性がたくさんいる。
「これは……皆様、陰陽師で?」
目を瞬かせていると、脳天に安倍さんの拳が落ちてきた。
「あたっ、暴力反対!」
地味に痛む頭を両手で押さえる。
「こないに陰陽師がおるわけあらへんやろうが。陰陽師ってのは、天然記念物級に貴重なんやで。あいつらは陰陽師を補佐する式神や。東京都内であやかし絡みの問題発生したとき、通報を受けるスタッフや」
「式神……受付にいた式神と違って、人間との違いがわかりませんね」
「こらうちの所長が作った式神やさかいな。あの人は人間からかけ離れた式神は好んで作らへんねん」
「じゃあ、陰陽師はどこに?」
首を傾げながらエレベーターを出ると、棚の影に隠れるようにしゃがんでいる男性に遭遇する。
銀の長髪と瞳をした彼は黒のスーツの上から白い羽織りをはおっていて、私たちの存在に気づくと「あ、やっほー」となんともマイペースに片手を上げた。
「なにしてはるんですか、所長」
「その虫けらを見るような目がたまらないね、光明」
自分の身体を抱きしめてモジモジする大の大人を前に、まったく表情を変えない安倍さんのハートは鋼だ。
「またサボりですか。江永(えなが)さんに絞められますえ」
「江永さんって?」
つい会話に入ってしまった私に、「所長のお守……補佐役や」と言い直す安倍さん。
すると、所長さんは安倍さんの後ろにいた私とタマくんを見て、目を丸くする。
「おや、珍しい。光明がお客さんを連れてきた」
「お客ちゃいます。気づいてるんやろう、こいつらがただの人ちゃうって」
「そうだね、獣の匂い……失礼。妖気を感じるね」
所長さんは、すっと目を細めた。品定めするような視線に緊張していると、目の前にタマくんが立つ。
「おやおや、美しい忠誠心だね」
タマくんは無言で所長さんを見据えていた。気まずい空気が流れ、私はタマくんの隣に並ぶ。
「えっと……タマくんは幼馴染なので、忠誠とかそんなんじゃないですよ」
というか、忠誠って家来みたい。幼馴染の私たちを見て、そんな感想が出てくるって……所長さん、かなりの変わり者かも。
「幼馴染……そう、幼馴染ね」
所長さんはタマくんの肩をポンポンと叩き、私たちの横をすり抜けてどこかへと歩いていく。そして数歩先で足を止め、妖艶な笑みを浮かべながら振り返った。
「立ち話もなんだから、お茶でもどう?」
応接室に案内され、ソファーに腰を落とした私たちは簡単に自己紹介を済ませた。
向かいにいる所長さん──源英城(みなもと えいじ)さんは、三十四にして陰陽寮東京本部(おんみょうりょうとうきょうほんぶ)の所長を務めているすごい人らしい。
「じゃあ、美鈴ちゃんとの夫婦契約のおかげで、光明の呪いはひとまず解けたんだ?」
所長さんは懐から【TABASCO】と書かれたラベルが貼られている細長い瓶を取り出して、お茶にドボドボ投入した。
──え、今ナチュラルになに入れた?
自分の目を疑いながら、所長さんのお茶に投入されていく赤い液体──タバスコを凝視する。
「はい、ひとまずは……ですけど。ずっと夫婦やなんて、かんにんですさかいね。根本的にあの呪約書を無効にする術を探さな」
所長さんの隣に座っている安倍さんも、ポケットから小さなケースを取りだした。中から出てきたのは、朝食でも散々頬張っていたチョコレートだ。
……なんで常備してるの?
緑茶の中にチョコレートを入れて飲む安倍さんと、タバスコを入れて飲む所長さんを愕然としながら見守る。
私の隣にいるタマくんは、ボソリと……。
「陰陽師は味覚がおかしいのしか、いないのか?」
気分悪そうに、ふたりから目を逸らしていた。
「ああ、悪いね。私は辛党なんだよ、刺激物が好きなんだ。痛みは生を実感できるからね」
「唐辛子もそのままかじってますよね。尋常じゃない」
「うーん、光明も人のこと言えないけどね」
どっちもどっちだよ……。
と、タマくんと心の声が重なる。
「で、初めて陰陽寮に来た感想は?」
ニコニコしながら、所長さんが尋ねてくる。なんというか、掴みどころのない人だ。
「普通の会社みたいに見えます」
「ふふ、でしょ。でもここは、あやかし退治の専門課でもある。猫憑きのきみたちには、居心地悪くないかい?」
……なんだろう。所長さんは笑ってるのに、なにかを探られているような気になるのは。 それに、あやかし退治って……穏やかじゃないな。
返答に困っていると、タマくんが私の手を握ってくれた。隣を見ると、タマくんは所長さんに厳しい眼差しを向けている。
「人とあやかしは相容れないですからね」
タマくん……?
私もタマくんも、ただ猫又に憑かれてるだけの人間だ。
だけど所長さんの言い方は、私たちがあやかし扱いされているようにも取れて……不快な思いをしたのかも。
「遥か昔から敵対してきたからね。まあ、協力的なあやかしも増えてきたし、裏切られないことを祈るばかりだよ」
タバスコ入りのお茶をすする所長さんに、タマくんはなにも答えなかった。
「裏切るもなんも、協力関係にすらあらへんやろう。あやかしは駆除すべきもんです」
キッパリと言い切った安倍さんの瞳が翳る。心の奥にある深い闇の片鱗を見てしまったような気がして、背筋がひやりとした。
「光明、その意見に異論はないけどね。美鈴さんたちはそのあやかしに憑かれてるんだから、もっと気を使わないと」
気遣うように私を見る所長さんに、「気にしてませんから」と苦笑いで嘘を吐いた。
安倍さんにとって、あやかしに憑かれた私は駆除対象に近いんだろうな。一緒に暮らすのに害虫扱いなのは寂しい。
縁あって同じ屋根の下で生活するんだから、どうせなら家族みたいに打ち解けたい。そうなるまでに、かなりの時間がかかりそうだけど……。
「人にどうこう言える立場ですか」
バンッと開け放たれた扉の向こうに、極悪面の黒いスーツを着た男性が仁王立ちしている。
背後から黒いオーラを放ち、メガネを指で押し上げた彼を見て、所長さんの笑顔が凍りついた。
「あ……あー……比呂、これはね、ちょっと休憩してただけなんだよ。ははは、お茶でも飲む?」
所長さんが自分のタバスコ入り緑茶の入った湯吞みを差し出すと、男性の額にピキリと青筋が浮かぶ。
「いりませんよ。隙あらばサボろうとして、仕事をしてください」
静かに咎める男性は、私とタマくんに気づき、やや目を見張ると、すぐに「失礼いたしました」とお辞儀をする。
「来客ですか。お見苦しいところをお見せしました」
「あ、いえ……えっと……」
どなただろう? あと、タマくんで目が肥えているせいで気づくのが遅れたけど……この陰陽寮、イケメン率高くないだろうか。
イケメン陰陽師オフィス、ここに毎朝出勤できるなんて、世の女性の憧れシチュエーションだろうな。
「申し遅れました。俺は江永比呂、所長の補佐役を務めています」
折り目正しく腰を折る江永さんは、見かけの強面ぶりからは想像つかないほど礼儀正しい人だった。
この人が、さっき話題に出ていた所長さんのお守をしている江永さんらしい。
「補佐役って、つれない響きだよね。俺たち、中学からの親友でしょ」
「ここは職場です。プライベートな話題をペラペラ喋る場所ではありません」
「ふたりきりのときは英城って呼んでくれるのにぃ……英城、寂しい」
「三十四にもなるいい歳した男が寂しいなんて、所長の威厳に関わるのでやめてください」
かまいたがりの所長さんをさらりとかわすドライな江永さん。素っ気なくあしらわれても、めげない所長さんをいっそ尊敬する。
「そんなことより所長、京都本部の阿澄(あすみ)所長から電話ですよ。すぐに戻ってください」
「はぁ……あそこの所長、口悪いから苦手なんだよね」
「……所長がふざけるからでしょう」
江永さんに首根っこを掴まれ、引きずられるようにして応接室を出て行く所長さん。どんな気持ちで見送ればいいのか複雑だ。
「俺たちも仕事に出るで」
お茶を飲み切り、立ち上がる安倍さんを驚きながら見上げる。
「俺たちもって、私たちも!?」
「呪約書のせいで、お前を守らなあかんやろ。つーことは四六時中、一緒にいーひんとならへんってこっちゃ。こうやって俺の仕事についていくこともあるやろうし、使えるものは使わせてもらう」
本当に無茶苦茶だ、この人!
清々しいまでの冷徹王様ぶりに言葉が出ないでいると、タマくんが静かにご立腹している。
「俺たちをこき使う気でいるわけか。先に言っておくけど、その仕事は危険はないのか? 美鈴にもしものことがあったら、俺はきみを許さない」
「あやかしを相手にするんや、危険に決まってるやろ。ただ、忘れてるみたいだが、もしもそこの女になんかあれば、俺も呪いで死ぬやろ。そうならへんように手は打つ」
静かに口論するふたりの後ろについて部屋を出ると、デスクに座っている式神が「安倍様」と呼び止めた。
「化け狸が商店街で窃盗をしているようでして……」
「迷惑なやつらやな。駆除しに行くで」
駆除……あやかしって、そこまで邪険にしなきゃいけないような生き物なのかな。
私もそこまであやかしと親しいわけじゃない。そもそも、そう頻繁に遭遇するものでもないし。
けど、ときどきうちの庭に迷い込んでくるあやかしたちは、いきなり攻撃してくることはないし、タマくんのから揚げを貰いに来たり、庭の花を見物しに来たり、人間とそう変わりない。
「なにか……盗みを働く理由があるんじゃないでしょうか?」
「理由やと?」
安倍さんの片眉が怪訝そうに上がる。
「理由も聞かないで駆除なんて、可哀そうです」
「やっぱし、お前はあやかし側に立つんやな。可哀そうなんかちゃう、話し合う必要もあらへん」
歩き出した安倍さんの背には、近づく者を拒絶するような雰囲気があった。
「話し合いの機会も与えずに殺すのか……。俺には一方的に狩る陰陽師のほうが、知能の低い獣のように思える」
私の隣に立ったタマくんの目には険がある。第一印象が最悪だっただけに、タマくんは完全に安倍さんを敵視している。
でも、今回ばかりは私も安倍さんを庇えない。
所長さんもあやかしを退治することに肯定的だったし、陰陽師は話し合いもせずにあやかしを駆除するのが当たり前なのだろうか。
「光明のあやかし嫌いは重症なんだ」
急に私とタマくんの間に、ぬんっと顔を出したのは所長さんだ。
「わっ」と叫びながら、タマくんと後ろに飛び退くと、所長さんは「驚いた?」といたずらっ子の笑みを向けてくる。
子供というか、なんというか……。知り合って間もないので、所長さんのキャラがなかなかに掴みづらい。
お茶目とも言えるし、変人ともとれる所長さんを前に困惑しながら、タマくんは「ええと」と頬を掻く。
「そのあやかし嫌いの理由って?」
タマくんの質問に、所長さんは唇で弧を描く。そばに控えていた江永さんは、ふうっと息を吐いた。
「勝手に話していいんですか? 光明の許可もとらないで……」
「美鈴さんと光明は、一応夫婦だからね。〝あやかし〟が〝人間〟の彼になにをしたのか、歩み寄ろうとした結果、なにが起こるのか……一緒にいるリスクを知ってもらったほうがいいんだよ」
所長さんの貫くような視線に、気圧される。その唇がやけにゆっくりと開いたように見え、息遣いまで聞こえてきそうなほど周りの音が遠ざかる。
そして、放たれた言葉は──。
「光明は十歳のとき、両親をあやかしに殺されてる」
盗みを働いているという化け狸を探しに、商店街へとやってきたのはいいものの……。
『光明は十歳のとき、両親をあやかしに殺されてる』
所長さんのひと言が胸に突き刺さってすっきりしないまま、八百屋や【SAIL】の看板を掲げて客を呼び込んでいる婦人服店など、賑わっているこの界隈をパトロールする。
「安倍さん……化け狸を見つけたらどうするんですか?」
駆除とは具体的になにをするのか、聞くのが怖い。だが、知らずにいるのも落ち着かないので尋ねると、少し前を歩いていた安倍さんが振り返る。
「術で滅する」
「滅するって……」
殺すってこと? なにもそこまでしなくても……。
安倍さんが駆除にこだわるのは、両親を殺されたからなんだろう。それはわかるけど、やっぱり私は話し合いの余地があってもいいと思うのだ。
「納得いってへんって顔やな」
安倍さんの冷ややかな視線に晒され、ごくりと唾を飲み込む。
「そう、ですね……。私はあやかしに酷い目に遭わされたことはありませんから……。でも、安倍さんの立場からすれば、そう思うのも仕方ないですし……」
「俺の立場から?」
「あ……」
しまった、と口を閉じたけれど、時すでに遅し。安倍さんははあっとため息をついて、舌打ちをした。
「あの所長、勝手に人の過去をペラペラと……。お前もお前だ、わかったような口を利くな。あやかし憑きのお前には、俺の考えなんて理解できひん」
また、拒絶。こうも突き放されると、さすがに傷つく。かける言葉を探していると、肩にタマくんの手が載った。
「そうだよ、俺たちはは理解し合えない。彼があんなふうに、聞く耳を持たないうちはね」
「タマくん……でも、知ることを諦めたら、本当にそこで終わっちゃう気がするの。いがみ合って、誰が幸せになれるの?」
言葉が通じなくても、価値観が違っても、すべてをわかり合えなくても、寄り添うことはできる。
そうやってお互いを受け入れていって、いつかは理解し合える。そう信じる心はどこから来ているのか、自分でもわからない。
でも、前世の私と安倍さんは、敵対する立場にありながら結ばれた。
種族を超えて惹かれ合い、恋をして、夫婦になれたのだから……人とあやかしは駆除対象と狩人ではなく、共存する関係に変わっていけるはずだ。
「美鈴は、まだ諦めてないの? 人間とあやかしが同じ世界に存在している限り、平穏は訪れないんだよ」
「その通りや、どちらかが消えるしかあらへん。そら、無論あやかしのほうやけどな……と、見つけた」
安倍さんが視線を向けた先は、焼き鳥屋の屋台の前。そこには耳ともっこりとした尻尾がある男の子がいた。
ベージュのメッシュが入った焦げ茶色の髪をしていて、体格からするに十歳くらい。
まるで動物のように地面に四つん這いになり、男の子はこちらを振り向いた。その真っ黒でくりくりとした目の周りは、まさに狸のように焦げ茶色だ。
男の子は焼き鳥串を数本咥えて安倍さんを見るや、『しまった!』という顔をして一目散に逃げ出す。
「あ、泥棒!」
焼き鳥屋の店主のおじさんが叫んだ。
「あの狸少年、あやかしでしょう? どうして見えてるの?」
「あやかしは人に化けられる。そうして人間社会に溶け込み、姿をくらましてるんや。あの狸も化けたつもりなんやろうが、なんやあの中途半端な術は。そら、すぐに見つかるわけや」
術が苦手だったのかな。
化け狸を追うように歩き出した安倍さんは、静かに右手の人差し指と中指を立て、十字に切っていく。
「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)……結界(けっかい)、急急如律令──」
安倍さんが呪文を唱えると、商店街一帯に透明なドームが現れる。
「これで商店街の外には逃げられへん」
「このドーム……私の家の周りを囲んでた……」
「なんやと? お前の家に結界張られとったのか?」
「は、はい。結界かはわかりませんけど、昨日、安倍さんに会う少し前に、うちの周りを覆ってたこのドームみたいなものが割れたんです」
あれが結界だったなら、どうしてうちに張られていたんだろう。
「そういえば、あのドームってタマくんには見えてなかったよね?」
隣を見れば、タマくんは困ったように笑って肩を竦める。そんな彼を見て、安倍さんは眉をひそめた。
「……どないなこっちゃ? お前は陰陽師の気配を感じられる。そやのに結界見えへんなんてことはあらへん。今かて、お前は俺の張った結界見えてるやろ」
「昨日まで、猫又にならないように注意して生きてきたんだ。勘が鈍って、結界が見えてなかったのかもしれない」
その返答に安倍さんはまだ納得がいかなそうだったけれど、「まあええ」と前を向く。
「結界は陰陽師にしか張れへん。俺とお前を会わせたない陰陽師がおるってことがわかっただけでも収穫や」
安倍さんは難しい顔で、迷わず路地を曲がる。すると、そこは薄暗い路地裏だった。
「まずは、この化け狸を片付けるのが先や」
路地裏は行き止まり。ゴミ箱の影に隠れてプルプルと震えていたのは、口の周りにたっぷり焼き鳥のタレをつけた化け狸だ。
「お前やな、金払わへんで商店街の店ちゅう店から食べ物を盗んどったあやかしっちゅうのは」
「お、陰陽師ポン!? ご、ごごご、ごめんなさいポンっ、お腹が減って仕方なかったんだポンっ」
だポンって……狸だけに? ちょっと可愛いかも。
緩んだ頬は、安倍さんの「謝って済む問題ちゃう」という冷淡な一声に引き締まる。
「今は窃盗だけで満足しとっても、いずれ人を襲うかもわからへんさかいな」
「そ、そんなことしないポンっ。おら、うまく変化ができなくて、人間に混じって仕事ができなかったんだポン。それで何日もご飯を食べられなくて……盗むしかなかったんだポン~っ」
涙目で訴える化け狸を冷たい目で見下ろした安倍さんは、はっと吐き捨てるように笑った。
「どうだか、あやかしの言葉なんか信じられへん」
「あ、安倍さん、そう言わず……化け狸さんは生きるために仕方なく盗ったわけですし、厳重注意くらいでいいんじゃないですか?」
怖がっている化け狸が不憫で間に入ると、安倍さんは睨み潰す勢いで私を見る。
放たれた威圧感に竦み上がりそうになった。
視線のナイフを喉元に突きつけられているようで、生きた心地がしない。
両親を殺されたことで、安倍さんの脳裏には『あやかしは人間に害なす存在だ』と深く刻まれてしまっているのだ、きっと。
タマくんの言った通り、もうどんな言葉をかけても届かないのだろうか?
「あやかしは知性のあらへん獣と同じや」
どくりと、心臓の奥でどす黒いなにかが疼いた気がした。
「生かす価値もあらへん。これ以上の被害が出る前に駆除させてもらう」
頭の中で警鐘がけたたましく鳴り、頭痛がしてくる。激流のように胸に押し寄せてくるのは、『痛い』『苦しい』『憎い』という感情。
これは誰のものなのか、そんなふうに自分に問いかけている間にも、血の気が失せて四肢の末端が冷たくなっていく。
『また、皆殺しにするのか』
そんな声が頭の中でこだまする。
『一方的に、奪うのか』
心の中に黒い染みが広がっていくような感覚に襲われながら、私は下を向いた。
「許せない……」
そんな言葉が勝手に口をつき、隣にいたタマくんが「美鈴?」と顔を覗き込んでくる。
ああ、これはいけない。また、私の〝あの力〟が目覚めてしまう──。
抑えなければと、そう自分に言い聞かせても、もうコントロールが利かない。身の内で膨れ上がる力の放流を止められない。
「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)……」
──やめて、殺さないで。
願いに応えるように、ドクンッと心臓が跳ねた。鼓動は次第に早くなり、冷え切った身体が今度は熱を持ち始める。
「助けてぇ……助けてぇ……死にたくないぽん……っ」
あやかしが助けを求めている。私が救わなくては、守らなくては……。そんな使命感に思考が塗り替えられていく。
「滅せよ、急急如律──」
最後のトリガーを引いたのは、安倍さんだった。私はすうっと静かに息を吸い、言い放つ。
「──動くな」
声が、マイクのエコーのように辺りに響き渡った。その瞬間、振り返ろうとした安倍さんの身体が硬直する。
「なっ……くっ……お前、なにをした……。それに、その目……妖気も強なってるし……」
この瞳は、今は紫色に変わっているのだろう。こうなったとき、私は目が合った者を従わせることができる。
これが耳や尻尾が出てしまうことの他に抱えていた、長年の悩みの正体。
私が化け物である証のようなこの力を、ずっと嫌ってきたはずなのに、また人前で使ってしまった。
「そ、それは……猫又の姫にだけあるとされる、魔性の瞳ぽん!? 見た者を魅了し、従わせる力……」
「魔性の……瞳……?」
初めて聞く力の名前。どうして、その姫の力が私に……?
「そうだポン! あなた様は鬼(おに)、妖狐(ようこ)、烏天狗(からすてんぐ)、大蛇(だいじゃ)、猫又(ねこまた)、土蜘蛛(つちぐも)、犬神(いぬがみ)……あやかし七衆(ななしゅう)の頭首のひとりであらせられる猫又の姫様にございますポン!」
信じられないといった顔で、一歩、また一歩と近づいてきた化け狸は、私の前にひれ伏す。
「うう、今世でお会い出来るなんて、光栄の極みですポン……。オラを姫様の家来にして欲しいですポン」
家来にだなんて、私はただ化け狸が殺されなければそれでよかった。仕えてほしいとも思っていない。けれど、私の口は勝手に動いて──。
「よかろう、私の配下となることを許す」
そう返事をしていた。
なんで……。
自分じゃない誰かに身体を乗っ取られているようで、怖くなる。
「ふざけるな。なら俺の前世やらいう安倍晴明は、人間のくせにあやかしの姫と結婚したっちゅうんか?」
「なんと! では、あなた様がかの有名な安倍晴明様の生まれ変わりで? 安倍晴明様は、あやかしに寛容とお聞きしてましたが……」
化け狸は私の背後に隠れ、ひょこっと顔を出すや安倍さんを怖々と見上げた。
「今の晴明様は……ちょっと噂と違いますポン」
「俺は晴明ちゃう、安倍光明や。昔はどうやったか知らへんが、今はあやかしの敵かてこと覚えとけ」
安倍さんは聞き取れないほど小声で、ブツブツとなにやら唱え始める。
そして、最後にふっと息を吐くと──私の拘束を解いてしまった。
「美鈴の力を解くなんて、希代の陰陽師っていうのもあながち嘘じゃなさそうだ」
タマくんの声がすぐ後ろで聞こえ、両肩に手が載る。タマくんは私の力のことを知っているので、魔性の瞳の力を目の当たりにしても至って冷静だった。
「ここでやり合ったら、商店街に被害が出る。ここは穏便に済ませられるなら、それに越したことはないと思わないか」
「……穏便やと? それでそこのあやかしを見過ごせば、今度はおっきな事件を起こすかもしれへんのやぞ」
「冷静になりなよ。化け狸に敵意はない」
「俺は冷静や。そっちこそ、死人出る前に滅するしかあらへんってこと、なんでわからへんねん」
滅するなんて……どうして、この子は誰も傷つけてないのに……。
怒りが込み上げてきて、自分の中の力が……おそらく、安倍さんの言った妖気が暴れそうになるのがわかる。
それに気づいたのか、タマくんが「落ち着いて」と、私の耳元で宥めるように囁いた。
そのおかげで少しだけ気が静まり、力が弱まる。
「きみの力は、まだ覚醒しきってないから不安定なんだ。安倍さんを完全に縛れなかったのも、そのせいだと思う」
どうして、タマくんがそんなことを知ってるの?
そんな疑問がわくが、タマくんの前で力を使ってしまうことはたくさんあった。頭のいい彼のことだから、タマくんなりに推測を立てたのかもしれない。
「安倍さん、美鈴はあなたが引くまで魔性の瞳の力を解けない。もとはあやかしの力だ、人間の身で使い続ければ、命に関わる」
「──っ」
「なにが言いたいか、わかるだろ? 美鈴になにかあれば、きみも無事では済まない」
ぐうの音が出ないのか、安倍さんは悔しそうに私たちから顔を背けた。
「それは、化け狸がもう盗みをしなければ、この場は見逃してくれる……そう解釈しても?」
「見逃すんは、今回だけや」
安倍さんは不本意そうだが、ひとまず化け狸が殺されないとわかり、ほっとする。
「美鈴、この化け狸に『なにがあっても、うまく人間に化けられる』って言うんだ」
「あ……そっか、暗示をかけるんだね」
「そういうこと。できるね?」
タマくんはすごい。嫌でたまらなかったこの力の、正しい使い方を示してくれたんだから。
「化け狸くん、きみはなにがあっても、うまく変化できる」
「姫様……」
「私を信じて」
最後のはお願いだ。化け狸はこくこくと頷き、「変化!」と空中で一回転する。すると、今度はきちんと人間に化けることができていた。
「お前は……あやかしを従わせられる。人間にとって、脅威や」
ああ、この安倍さんの視線には覚えがある。化け物を見るような眼差し、私はよく両親に向けられていた。
「……っ、私は人間の敵になんてなりません。だって、今は人なんですから」
安倍さんとの関係がますます冷え切るのを感じて、切なくなる。
これが、当然の反応だ。私を受け入れてくれたタマくんやおばあちゃんが珍しいだけ。
安倍さんが私を嫌うのは当然だから責められず、ぎこちない笑みを返すことしかできなかった。
「お前、なんで笑うて……」
痛みを堪えるような表情で、安倍さんは私を見つめていた。
どうして安倍さんが、そんな顔をするの?
その問いが言葉になることはなく、身体がさらに熱を持ったと思ったら──。
ボンッと、完全なる猫の姿になってしまった。身体が縮んだせいで、着ていた服に埋もれてしまう。
苦しい……けど、身体が怠くて動けない。
ぐったりと倒れていると、タマくんが私を抱き上げてくれる。
「魔性の瞳を使った反動だ」
「おい、そいつは無事なのか」
安倍さんの声が心なしか頼りなさげで……心配してくれたのかもしれないなんて、そんな幻想を抱いてしまった。
「命に別状はないけど、数日は寝込むだろうね。きみがもっと早く引いてくれてれば、彼女はここまで消耗することはなかったのに」
「…………」
ぼやける視界、薄れゆく意識の中で見えたのは、安倍さんの傷ついた表情だった。
***
その夜、俺の部屋には猫又女の幼馴染──魚谷がおった。
「くれぐれも、美鈴に手を出すなよ」
「それだけはあらへんさかい、安心しろ。ええさかい、お前は早う出ていけ。いつまで経っても、俺が寝れへんやろ」
あやかしに欲情するわけがあらへんやろ。この幼馴染は過保護すぎるんや。
立ち上がって襖へと歩いていく魚谷を鬱陶しく思いながら、隣の布団に視線を移す。そこには丸くなって眠っている赤毛の猫がいる。
この仕事をしてると、あやかし憑きの人間に出会うことは少のうない。
そやけど、憑かれてるあやかしそのものに変われる人間に出会うたのは、この女と魚谷が初めてやった。
「お前らの妖気は普通ちゃう。特にこの女が魔性の瞳を使うたとき、高位のあやかし以上の妖気を放っとった。あの力を使い続ければ、この女はどないなる?」
部屋の扉に手をかけた魚谷の動きが止まる。
「力の動力源は妖気だ。人間が鍛えて肺活量や筋力を上げるように、彼女も力を使えば使うほど、その源である妖気を強めることができる。いずれ、彼女は覚醒するってことだ」
こちらを振り返らずに、淡々と答えた魚谷。表情が見えないせいか、底知れないものを感じた。
「つまり、あやかしに近づくってことやな? それがわかっとって魔性の瞳を使わせたのか?」
「使わせた? あれは彼女が自分の意思で使ったんだ」
「しらばっくれる気か? せやったら、質問を変える。お前はこの女があやかしになるかもしれへんとわかっとって、なんで魔性の瞳を使うのを止めへんかった」
この女が大事なら、あやかしにならへんように止めるはずだ。やけど、そうしいひんかった。その真意はどこにあるんや。
目的を探っていると、魚谷が振り返った。
「……あのときは、そうするしかなかっただろ?」
全てを覆い隠すような笑みだった。食えへん男や。
「お前は、この女をあやかしにしたいのか?」
その質問には答えず、魚谷は襖を開ける。
「俺はいつでも美鈴のために動いてる」
それだけ言い残して、部屋を出て行った。
「やっぱし食えへんやっちゃな」
俺はどっと疲れてため息をこぼす。そのとき、猫又女が苦し気にニャーと鳴いた。
どいつもこいつも鬱陶しいと、猫に背を向けて布団に横になるが、後ろでニャーニャー鳴くものだから気になって仕方ない。
「だぁーっ、もう、やかましい!」
俺は自分の布団をバサッと剥ぎ、猫又女の布団へ入ると、その小さな身体を包み込むように抱きしめた。
「熱いな……いけ好かへんあの幼馴染は、力を使うた反動や言うとったが、こらきついやろ」
あやかしは俺の大事な者を奪うた。そやさかい、この世界からいーひんようになったほうがええ。その考えは変わらへん。
そやけど、あやかしが皆、人間に危害を加えてくるわけちゃう。この猫又女からしたら、俺が一方的にあやかしを嫌うてる悪者に映るんやろうな。
こいつの非難の眼差しが、どうも胸をチクチクと刺してくるさかい嫌になる。
「……こうしてみると、ただの猫なんやな。尻尾も二又に分かれてへんし……」
やけど、あの幼馴染は尻尾分かれとったな。あら完全に猫又の姿や。この猫又女も、妖気強なれば、あやかし本来の姿に変わっていくんやろうが……。
そこではっとする。
なんで、あの幼馴染はあやかし本来の姿になれる……?
ますます怪しいやつやな、と内心で呟いたときだった。腕の中の赤猫がふーっと苦し気な息を吐き、身じろいだ。
「手のかかるやつや……臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)。封ぜよ、急急如律令」
静かに呪文を唱え、妖気を鎮めていく。
あやかしにとって妖気は生きる源。それを清めたり、無理に封じたりすれば命に関わる。
こいつはあやかしちゃうが、限りのうあやかしに近い、あやかし憑きだ。
やさかいゆっくりと、一晩かけてこの女の身体に満ちてる妖気を封じていく。
「安心しろ、すぐに楽になる」
こら猫や、ただの猫……。弱った動物に優しゅうするのは、人間として当たり前の行動やさかいな。
自分に言い聞かせるように赤猫の背を撫でてやれば、呼吸が落ち着いてくる。それに気づいた途端、胸に込み上げてきたのは……。
「ほんまに、しゃあないな」
どうしようもなくか弱い者を守りたいという、保護欲だった。
なんか、スース―する。
眉を寄せて身じろげば、すぐそばに温もりを見つけたので、すり寄る。
「んなっ──」という誰かの言葉にならない悲鳴が聞こえたような気がしたが、私はあったかいので満足だ。
でも、身体が軽いような……いや、心もとない……?
奇妙な感覚で意識がはっきりしてきた私は、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
眩しい朝日が視界を白いフィルターで覆っているみたいで、はっきり輪郭を掴めないけど……。
たぶん、タマくんだろう。私を起こしに来てくれるのなんて、幼馴染の彼くらいだ。
「おはよう……タマくん……」
へらっと笑えば、目の前の彼が息を呑んだのがわかった。
首を傾げると、私がしがみついているものが人だと気づく。
ああ、私……タマくんを抱き枕にした?
だが、どうも頭がはっきりしない。朝は苦手なのだ。
私にしがみつかれているタマくんの身体は、カチコチにして固まっている。
「タマくん、あったかい……」
ぬくぬくしながらも、少しずつ光に目が慣れてきた。
あれ、タマくんの髪が黒い。目も金じゃなくて青いし……。
そこでようやく、自分がとんでもない勘違いをしていたことを知る。
「あ、れ……タマくんじゃ……ない?」
私がしがみついていたのは、表情を凍りつかせている安倍さんだった。サーッと血の気が失せ、私は勢いよく飛び起きる。
「アホ! その格好で起き上がったら……」
ふぁさりと掛け布団が肩から滑り落ち、外気を肌に直接感じた。自分の身体を見下ろせば、まさかの素っ裸。
「な、なな……」
なんでこんなことに?
そういえば昨日、猫になったんだっけ。それで服も着られなかったから……ってことは一晩中、裸で安倍さんと眠ってたってこと?
「いやあああああああーっ」
両手で胸を隠しながら絶叫すると、誰かが走ってくる音がして──。
「美鈴!」
シュタンッと開いた襖の向こうに息を切らしたタマくんが立っていた。
タマくんは私と安倍さんを交互に見るや、じわじわと黒いオーラを漂わせ始める。
「くれぐれも、美鈴に手を出すなよって……俺、言ったよな」
「俺はなんもしてへん。起きたら、こいつが裸で横に寝とったんや」
「この際、経緯なんてどうでもいいよ。美鈴のあられもない姿を見たことに変わりはないんだからな」
裸の乙女をそっちのけに口喧嘩する、無神経な男二名。
私は布団を引き寄せ、身体を隠しながら息を吸い込むと……。
「もう、いいからふたりとも……出ていってーっ」
居候生活二日目の朝食の席は、それはもう葬式かのように重たい空気に満ちていた。
原因は今朝の一件なのだが、さすがにこうも沈黙が続くとご飯がまずくなる。
「このカレイの煮つけ、美味ですポン」
沈黙を破ったのは、昨日助けた化け狸だった。
「化け狸くん、なぜここに?」
虫の居所は悪いままだが、さらっと食卓に混じってカレイを食べる狸。この絵面に突っ込まずにいるほうが難しい。
「そんなぁ、姫様忘れたポン? オラが姫様の家来になるのを許すって、言ってくれたポンに……」
「そういえば……」
言ったような……『よかろう、私の配下となることを許す』って。時代劇か!
「でも、よく安倍さんが許してくれたね。あやかしなんぞ!って感じで、めちゃくちゃ毛嫌いしてるのに」
今朝、あれだけ怒っていたのに、自然と安倍さんの話題を出してしまった。
おずおずと向かいの席を見れば、安倍さんはそっぽを向いたまま……。
「それ、俺の真似か。まったく似てへん」
と、珍しいことに雑談に混じってきた。
「真似、とかじゃないんですけど……なんで化け狸くんが家に?」
意外で話を続けると、安倍さんは綺麗な所作で五目豆煮の豆を箸で摘まみ、口に運びながら言う。
「化け狸を追い出したら、お前がまた力を使う可能性があったさかい、しゃあないやろ」
しゃあないって……じゃあ、化け狸くんも居候にしてくれたってこと?
私が寝込んでる間に術で無理やり追い出すこともできたはずなのに……安倍さんはそうしなかったんだ。
「ありがとうございます、安倍さん」
「礼を言われるようなことはしてへん」
素っ気ないけど、いつもみたいに冷たく突き放されない。
それに胸がじんわりとして、私はその場に勢いよく立ち上がる。
「そんなことないです! 裸を見られたこと、化け狸くんを居候にしてくれたことで帳消しにしてもいいやってなりましたし!」
訪れる静けさに、襲ってくるのは後悔の波だ。
ああ、なんで気まずい話題をまたぶっ込んじゃったんだろう! 自分で墓穴を掘ったっ。
「あ、あー……よかったね、化け狸くん……って、なんか呼びづらいし、名前は?」
笑顔を引きつらせながら、私はその場に座り直す。
「名前……みんなはオラのこと、化け狸って呼びますポン」
「それは名前っていうより、名称じゃないかな? 私たちでいう人間、的な……。呼びにくいし、名前をつけてあげる!」
「なんとっ、姫様に名前をつけていただけるなんて、光栄至極ですポンっ」
両手を握り合わせて、瞳をキラキラさせている化け狸くんのためにも、可愛い名前を付けてあげないと。
「責任重大だなあ……た、太貫(たぬき)とか?」
「漢字変えただけかよ!」
すかさず、赤珠のツッコミが飛んでくる。
「それなら、みんなの知恵も貸してよ。なにか、案ない?」
「んー、怪盗ポン太でどうだ!」
自信満々に化け狸を指を差す赤珠。もしかしなくても、商店街で盗みを働いていたからなのだろうけれど……。
「通り名、みたいだね」
苦い笑みを浮かべるタマくんに、赤珠はムッと頬を膨らませる。
「そう言う魚谷は、いい案があるんだろうな!」
「俺は……名前とか付けるの苦手だから。ここは女の子たちの意見を取り入れたほうがいいんじゃないかな?」
タマくんが肩を竦めたとき、ふとあくびをしている安倍さんが目に入る。
「安倍さん、寝不足ですか?」
「朝弱いだけや」
でも、昨日は朝から言葉の切れもよかったし、テキパキしていたような……。
なんとなく誤魔化されているような気がして首を傾げていると、水珠がそろりと安倍さんの顔を見上げた。
それから手元のお味噌汁に視線を落とし、意を決したように私を見る。
「……光明様は……お嫁様のために一晩かけて、身体に満ちている妖気を……封じていたのです」
「え……」
寝耳に水だ。どういうことですか?と安倍さんに視線で訴えれば、すぐに目を逸らされた。
話してくれそうにもないので、私は水珠に「どういうこと?」と説明を求める。
「あやかしにとって妖気は命の源……。お嫁様はあやかしではありませんが、お嫁様の妖気もそれに近いだろうと光明様は考えられて……。一気に妖気を封じれば、お嫁様のお身体に障りますから、負担がないようゆっくりと……一晩かけて封じていたのです」
「そうだったんだ……」
だから、いつもなら力を使ったあとは何日も寝込むのに、たった一日眠っただけでこんなに身体が軽いんだ。
そんなこと、安倍さんはひと言も話してくれなかったから……。助けてもらったのに、朝は裸を見られたからって酷い態度をとっちゃった。
同じ布団で寝ていたのも、私の妖気を封じ込めるためだったんだよね、きっと。
「ありがとうございます、安倍さん。化け狸くんのことも、いろいろと」
あふれてくる温かい感情を大切にしまい込むように両手で胸を押さえながら、私は笑みを返した。
安倍さんは後頭部に手を当てながら、やっぱり顔を背けて「……調子狂う」と呟く。
「ほら、そこの盗人狸の名前決めてるとこやろ」
「ああ、そうでした! えっと、じゃあ……」
悩みながら視線を彷徨わせたとき、座卓にあるポン酢の瓶に目が留まった。
「ポン酢……ポンず……ポン助? あ、ポン助よくない?」
我ながらナイスネーミング!と人差し指を立てると、タマくんは眉を下げつつ笑う。
「ポン助……案を出してない俺が言うのもなんだけど、ちょっと平凡過ぎないか?」
「平凡だけど、周り回って、その平凡さが可愛いと言うか!」
パンッと両手を叩けば、化け狸もといポン助が「可愛いポンっ」と私の手を握った。
ふたりで「可愛いねーっ」と声を揃えてはしゃぐ。居候がひとり増えたので、安倍家の朝は一段と賑やかになった。
「本人の同意が得られたので、化け狸くんは正式にポン助と名付けることにいたします」
私に合わせて拍手してくれたのは、ポン助とタマくんと水珠だけだった。
「そうだ、水珠と赤珠の名前の由来ってなんなんですか?」
「なんや、急に」
「式神を生み出すのは陰陽師なんでしょう? なら、水珠と赤珠に名前をつけたのも安倍さんなんですよね?」
「そうやけど、んなもん聞いてどないすん?」
「なんとなく、気になって」
面倒くさそうな顔をした安倍さんだったけれど、式神双子からも〝聞きたい〟と言わんばかりの熱視線を受け、諦めたように深く息をついた。
「水と赤は火と水からもじったんや」
「火じゃなくて、赤?」
「そら、俺が火ぃ……いや、火といえば赤やさかいな」
歯切れの悪い安倍さんは、言葉を挟めないようにするためか間髪入れずに続ける。
「正反対やけど違うよさや強さがあって、お互いに補い合える双子であってほしい……そないな意味や」
理由を知った水珠と赤珠は、くすぐったそうに下を向き、モジモジしている。そんなふたりを見つめる安倍さんの眼差しは優しい。
ふたりのこと、大事に思ってるんだな。
「そういえば、お前らが生まれて明日で十七年やな」
「え……水珠と赤珠、明日誕生日なんですか!? そんなの聞いてない!」
「話してへんしな」
もう、そんなあっさりと……。プレゼントを用意してる暇もないし、せめておいしいケーキくらいは作ってあげたいな。
大根おろしの乗った和風の卵焼きを頬張りながら、密かに誕生日会の計画を練るのだった。
朝食後、私は安倍さんの仕事に付き添って古民家の集まる田舎道を歩いていた。
タマくんは急遽、ご両親が揃って実家に帰ってくることになり、家事のできないふたりのために今日だけ家に帰ることになった。
私と安倍さんだけで仕事に行くのがよっぽ心配だったのか、さっきからスマホが数分おきに鳴っている。
もちろん全部、タマくんから届いたメッセージの受信音だ。
「それ、どないかしろ。やかましい」
「たまに過保護なんです」
「過保護どころちゃう、ストーカーか」
迷惑げな表情を浮かべる安倍さんに苦笑いしながら、その前に回り込む。
「安倍さん、安倍さん」
「なんや、その顔。なにを企んでる」
不審がってか、安倍さんは眉を寄せた。
「人聞き悪いですよ。私はただ、手作りケーキとか、チキンとか用意して、水珠と赤珠の誕生日会をやりましょうよーって提案をしようと思っただけで……」
「ええ歳して、なにが誕生日会や」
「年齢なんて関係ないですって! 安倍さんは、ふたりが大切でしょう?」
ふたりの誕生日を覚えていたし、名前の由来を語るときの彼はとても優しい顔をしていた。
それだけで、どれだけ安倍さんが水珠と赤珠を大切に思っているのかがわかる。
「大切な人がいつまでも、そばにいてくれるとは限らないんですよ。明日お別れが来てもいいように、愛してるも好きも、ありがとうもおめでとうも、伝えておかないと」
なんでか昔から、命はとても儚いことを知っていた。
嵐が来れば吹き飛び、水がなければ枯れ、太陽がなければ萎れ、パッと咲いては散りゆく花のようだと。
黙り込んだ安倍さんは、ややあって私から顔を背ける。
「仕事のあとなら、買い物に付き合うてもええ」
「本当ですか! ありがとうございます! なにケーキにしようかなー、やっぱりイチゴと生クリームのケーキが定番ですよね。水珠と赤珠、喜んでくれると嬉しいですね!」
「他人のことなのに、けったいなやつや」
けったいって、『変な』って意味? 他人だなんて、つれないな。
「もう他人じゃないです。ひとつ屋根の下、一緒に暮らしてるんですから」
笑いかければ、安倍さんは面食らったように目を瞬かせ──。
「やっぱし、けったいなやつや」
訝しげな顔つきをする。攻撃的ではない安倍さんは新鮮で、少しのむずがゆさを感じながら、私は彼の隣に並んだ。
「そういえば、今回の仕事ってなんなんですか?」
「廃業したはずの元陰陽師が、式神を使うて女児を誘拐してるって疑惑があってな。実際、その子らは行方不明になってる。それが事実かどうか、探りに行くんや」
「ええっ、それが本当なら、それは警察の仕事なんじゃ……」
「警察じゃ手に負えへんさかい、俺ら陰陽寮の人間が動いてるんやろうが。向こうが術を使うてきたとき、生身の人間が対抗できる思うんか?」
「思わないです……」
陰陽寮って、結構危険な仕事なんだな。それも、ナイフや銃を使うのとはわけが違う。
私の魔性の瞳や陰陽術のように、人の手には余る力を持つ者を相手にしているのだから。
陰陽寮から小一時間ほどで、例の誘拐疑惑のある陰陽師の屋敷に着いた。
「あなたの噂はかねがね……まさか陰陽寮から、あの安倍晴明の子孫であらせられる安倍光明様がいらっしゃるとは。力が弱まり廃業した私に、一体なんの御用でしょう?」
案内された居間で向かい合っているのは、七十代くらいの白髪の男性。
湯佐茂(ゆさ しげる)さんというらしく、垂れた目尻や笑みを絶やさない口元は、とても朗らかなおじいさんという印象だった。
「最近、この近辺で十歳前後の女児が行方不明になっているのは知ってますか」
安倍さんの眼光が鋭くなるが、湯佐さんは動じることなく「ええ」と笑みを浮かべたまま相槌を打つ。
「不安にさせへんように、住民に聞き回るより先に、湯佐さんからなんか気づいたことはあらへんか情報を聞ければと思たんや。廃業しとっても、陰陽師やったあなたの視点や勘はそう簡単に鈍らへんやろ」
湯佐さんはそれを聞くと、困ったように笑った。
「どうでしょう? 私も現場を離れて、かれこれ五年近く経っておりますから……」
探り合うような問答に緊張が走り、さっきから背筋が勝手に伸びる。
お腹がぐるぐると音を立てて下り始め、耐えきれなくなった私は……申し訳なく思いながらも、挙手をした。
「すみません、お手洗いをお借りしてもいいですか?」
「ああ、生きた心地がしない……」
お腹をさすりながら、お手洗いを出る。
「にしても、広い家だなー」
先ほどいた居間からお手洗いまで、何度廊下の角を曲がったかわからない。むしろ、ちゃんとあの部屋に戻れるのかが怪しい。
出迎えてくれたのは湯佐さんだけだったけど、奥さんやお子さんはいないのだろうか。
式神の姿も見かけないし、こんなに広い家でひとり暮らし?
「寂しいだろな……」
私もおばあちゃんが死んじゃってからは、ひとりで家にいると嫌でも静けさを感じてしまって、寂しくてたまらなかったっけ。
タマくんはほとんど毎日家に来てくれたけど、今日みたいにご両親が揃って家に帰ってくるときは家族と過ごしていた。
それは当然のことだし、むしろうちに入り浸っていることのほうがおかしいのだけれど、家が広ければ広いほど自分がひとりぼっちなのだと思い知らされて、私はこのままずっと孤独で生きる運命なのかな?とか、悪い妄想ばかり膨らんで……。
「って、ひとんちで考え事してる場合じゃない! 早く安倍さんのところに戻らないと……」
そう思って居間の扉を開けた……つもりだったのだが、そこは薄暗かった。
部屋の奥には仏壇があり、遺影にはランドセルを背負った女の子と年老いた女性が映っている。
そして、その仏壇の前には──。
「んーっ、んーっ」
口に布を咥えさせられ、手足を後ろで縛られた女の子が三人も転がっている。
彼女たちは私を見上げながら、涙があふれそうになっている目で『助けて!』と訴えていた。
「こ、これって……え、どういう……」
頭には、安倍さんの声がこだまする。
『廃業したはずの元陰陽師が、式神を使うて女児を誘拐してるって疑惑があってな』
まさか、湯佐さんは本当に女の子を誘拐してた?
その結論に至ったとき、ゴンッと頭の後ろに強い衝撃を受けた。受け身を取ることもできず地面に倒れ込むと、頭に鈍い痛みが襲ってくる。
床に頬をつけながら、必死に私を殴った犯人を見上げた。
「だ、誰……?」
先に視界に捉えたのは三つ編みに結われた長い灰色の髪。次に、無機質に私を見下ろす……着物姿の男だった。
でも、その濡れ羽色の黒い瞳はどこか悲しげで、意識を失う寸前まで目を離せなかった。
「いっ……」
ズキズキとした痛みで、意識が浮上してくる。
私、どうしたんだっけ。部屋で女の子を見つけて、そのあと男の人に後ろから殴られて……そうだ、安倍さんにこのことを知らせないと!
そう思って瞼を持ち上げれば、私を待っていたのは闇だった。
「え……なんで、なに……ここ……」
震えが止まらない。昔から、ううん……お父さんとお母さんに物置小屋に閉じ込められた日から、暗闇は苦手だった。
少しして、薄っすらとホウキやちりとりなどの掃除道具が壁に立てかけられているのが見えた。私がいるのは、物置小屋のようだ。
早く、ここから出なきゃっ。
慌てて起き上がると、頭に鋭い痛みが走る。
悲鳴が喉まで出かかったが、そんなことよりもここから出るほうが大事だ。
構わず立ち上がった私は、両手を伸ばして出口を探した。
しかし、なにも見えないせいで、先ほどからいろんなものにぶつかってしまう。
「あっ……」
なにかに躓いて、思いっきり転んだ。
肘と膝を擦りむいたのか、ヒリヒリする。地面を這うように前に進むと、ようやく扉に辿り着いた。
「誰かっ、誰かーっ、ここから出して!」
どんどんと扉を叩いても、叫んでも助けはこない。
真っ暗で埃臭くて寒くて……私は世界にひとりぼっちなのだと、そう思わせるこの場所から一刻も早く逃げ出したかった。
「誰かっ、助けてーっ」
外から鍵をかけられているのか、扉は押しても横にスライドさせようとしても、びくともしなかった。
何度も何度も扉を叩きながら、どこかで失望している自分がいた。
どんなに足掻いても、私を助けに来る人なんていない。わかってた……だって、あのときもそうだった。
私を【化け物】と呼び、【気味が悪い】と恐れ罵倒したふたりが、私を助けになんてくるはずがなかったのだ。
今回も同じだ。安倍さんはあやかしを従わせられる私を、人間にとっての脅威だと、そう言っていた。
もし【呪約書】のことがなければ、ご両親の敵であるあやかしに憑かれた私なんて、死んだほうがいいと思っているかもしれない。
ああ、やっぱり暗闇は、私の心に絶望しか連れてこない。
がっくりと、崩れ落ちるように地べたに座り込む。膝を抱えて、その間に顔を埋めた。
どれくらい、ここにいたんだろう、あとどれくらい、ここにいなきゃいけないんだろう。
窓がひとつもないので、時間も確かめられない。本当の本当に、世界から切り離されたみたいだ。
「助けて……」
願ったって無駄だと、諦めたような私の声がする。
「助けて……」
散々、化け物だと罵られてきたのに、それでもまだ信じてる。
私をこの暗闇から救い出してくれる誰かが現れるって。それは、きっと──。
「助けて、安倍さん!」
声が届いたのだろうか。バタンッと勢いよく開いた扉から、光が差し込む。
「無事か! 美鈴!」
初めて名前を呼ばれた。私は眩しさに目を細める間もなく、彼へと抱きつく。
「安倍さん!」
ひしっとしがみつけば、安倍さんは突き放すことなく抱き留めてくれた。
「安倍さんっ、安倍さんっ、安倍さんっ……ううっ、ふうっ……」
人間って、ほっとしたらこんなに涙が出るんだ。
助けにきてくれたことが、自分で思うよりもずっとうれしかった。
「落ち着け、もう大丈夫や。俺がおるやろ」
「怖……くてっ……暗いの、ダメなんです……」
安倍さんのジャケットを握る手が震える。それに気づいたのか、安倍さんはぎこちない手つきで頭を撫でてくれた。
「なんで、暗いのがあかんのや?」
「昔……閉じ込められた、から……。お父さんとお母さんが猫憑きの私を気味悪がって、物置小屋に……」
私を抱きしめる安倍さんの腕に、力が込もった気がした。
「また……」
ぽつりと安倍さんがこぼした言葉に、私は「え?」とか細い声を返しながら、顔を上げる。
「また、お前が暗闇に閉じ込められたときは、俺が見つけたるさかい、もう泣きやめ。見とって鬱陶しい」
つっけんどんな物言いなのに、どうして労わってくれているように聞こえるのだろう。
本気で心配してくれている安倍さんに、私はようやく笑みを浮かべた。
「さすが、光明さん」
「んなっ──、なんや、急に名前で呼んだりして」
「光と明……名前の漢字、どっちも明るいから……私を照らしてくれそうだなって。私を見つけてくれた、今の光明さんみたいに」
甘えるように、安倍さんの胸に頬を擦り寄せる。
安倍さんは一瞬、身を固くしたけれど、
「なんか、猫に懐かれたみたいや」
と言い、脱力していた。
するとそこへ、足音が近づいてくる。
安倍さんと一緒に振り向けば、湯佐さんともうひとり、私を後ろから殴って気絶させた男の人がいた。
「長い御手洗ですね、おふたりとも」
底知れない笑みを浮かべている湯佐さんに、ぶるりと震えてしまう。そんな私を、安倍さんはそっと抱き寄せた。
「わかってるやろ。俺が席を立ったのは、御手洗目的ちゃう。帰ってきいひん連れを探すためや」
そこまで言って、安倍さんは物置小屋をちらりと見やり、鼻で笑う。
「まさか、物置小屋に閉じ込められてるとは思わへんかったけどな」
「あ、安倍さん。私、湯佐さんの後ろにいる人に殴られて、それで気絶しちゃったんです。それで気づいたら物置小屋に……」
安倍さんは、湯佐さんの後ろに控えている男性を一瞥した。
「あら式神や。あんた、式神になにをさせてる」
なにも言わない湯佐さんに、安倍さんはため息をつく。
「おんなじ年齢、性別の子供を誘拐してるんは、亡くなった娘さんのためですか」
亡くなった娘さん……?
それは初耳だった。じゃあもしかして、女の子たちがいたあの部屋の仏壇に映ってた女の子が亡くなった娘さんだったのだろうか。
「はは、あなたがここに来たときから、もう隠し通せないと思っておりました。私の式神も撒いてしまわれましたし」
湯佐さんの笑みが自嘲的なものへと変わる。その表情は、初めて湯佐さんが見せた本心のような気がした。
「……もう、三十年も前になります。妻と娘をあやかしに殺されたのは」
あやかし……それにどきりと心臓が跳ねた。あやかし憑きだからだろうか、私も他人事ではないように思えたのだ。
「あやかしを滅する立場にいる陰陽師を継いだときから、あやかしに討たれる未来は常に想像していました。ですが……あやかしは私を殺すのではなく、私の大事な者を奪うことで復讐を果たしたのです」
「そら……自分が殺されるよりもしんどかったやろうな」
感傷のこもった響きが、安倍さんの呟きにはあった。
安倍さんはご両親をあやかしに殺されたときのことを思い出しているんだろうな。
湯佐さんの気持ちがわかるだけに、今回の依頼はつらいはず。
だけど、あやかし憑きの私が慰めたところで、安倍さんを励ませるとは思えない。
むしろ、お前にはわからないと、また怒らせてしまうかも……。
それでもなにかせずにはいられなくて、私は安倍さんの腕に手を添えた。
こんな私の手でも、安倍さんの心を温めてあげられたらいいと、そう願って。
安倍さんは私をちらりと見て、
「お前が気にすることやない」
と、小声で言った。
お前に関係ないと突き放されたようにもとれるけれど、柔らかい声音がそうではないのだと教えてくれる。
「私の家族を殺したあやかしは、私が仕事で滅したあやかしの仲間だったのでしょう。それから定年まで、あの子と妻を生き返らせる術を探して、ようやく見つけたのです」
「死者蘇生の禁術に手ぇ出すつもりやったんやな。正確には別の肉体に死者の魂を入れる術やけど、それには生き返らせたい人間に近い器が必要や。そやさかい、娘さんとおんなじ年齢、性別の子供を誘拐して、娘さんの魂を入れる器にしようとしとった」
「そうです。いずれ、妻の魂を入れる肉体も探すつもりです」
「探すつもり……そらまだ、諦めてへんってことやな」
「諦めるわけにはいかないんです。──風切(カザキリ)」
風切は湯佐さんの式神の名前だったらしい。彼は前に出てくると、すっと大きな鎌を出して構える。
やっぱり、その眼差しには悲壮がこもっていた。
「やれ」
湯佐さんに命令された風切は、一瞬だけ躊躇うようにぐっと鎌の取っ手を握った。それでも命には逆らえないのか、強く地面を蹴って襲いかかってくる。
「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)。結界、急急如律令!」
安倍さんは素早く印を切り、結界を張って攻撃を弾いた。
後ろに飛ばされた風切は、宙で一回転して着地すると、すぐに鎌を振り上げながら結界を壊しにかかる。
「式神の力は主に比例する。俺の力はお前の主の何倍も上や。つまり、俺の結界はお前には壊せへん。……まあ、そう言うたところで主の命には逆らえへんか。酷い命令をするもんだな」
壊せない結界に鎌を振り下ろす風切を、安倍さんは憐れむように見つめている。
「本当は……従いたくないの?」
そう問えば、風切の肩がピクリと跳ねた。
風切は私を気絶させたときも、悲しげな目をしていた。今だって、苦しみを押し殺すみたいに無表情を貫いて攻撃してくる。
「言いにくい?」
「いや、発言すらも許されてへんのや」
「そんな……」
娘さんと奥さんを亡くした湯佐さんには同情できる。だけど、自分の目的のために式神に罪を背負わせるのは理解できない。
「安倍さんは、自分の式神を我が子みたいに大切に見つめてた。式神って、陰陽師にとって子供みたいなものじゃないの?」
「子供……そう思っていた時期もありましたがね、でも……あの子の代わりにはならないのですよ。本当の娘の代わりには」
湯佐さんの言葉に、風切が傷ついた表情を浮かべた。その瞬間、私の中のなにかが勢いよくぶち切れた。
「式神は親を……主を選べないでしょう? それを利用して縛り付けるなんて、ダメだよ」
「同感や。式神は道具ちゃうんやで。心がある」
「風切、あなたはどうしたいの? 教えて」
私が、あなたを自由にしてあげるから。
その思いに反応するように、ドクンッと心臓が音を立て、熱が全身を巡る。
今までは勝手に発動していた魔性の瞳の力が、初めて自分の意志で呼び覚まされていく。
「お前、またあの力を使う気か? 昨日の今日で無茶するな!」
「安倍さん、でも……こういうときのために、私の力ってあるんじゃないかなって。誰かを従わせるんじゃなくて、勇気をあげるんです」
私は結界の外に出て、風切に向かって歩き出す。
「なにしてんねん、危ないやろうが! 早う戻れ!」
安倍さんの呼び止める声が聞こえるけれど、たぶん大丈夫だ。だって、風切が私を傷つけようとしても──。
「──動けない」
風切は私に鎌を振り上げた状態で固まる。
それを目の当たりにした湯佐さんは「なにが起こって……」と狼狽を顔に漂わせていた。
私は風切の頬に手を添え、「──本心を聞かせて」と促す。
彼は肩の荷を下ろすみたいに、どこか諦めの滲んだ表情をした。
「本当の主は……こんなふうに誰かを傷つけてまで、自分が幸せになろうとするお方ではないのだ。けれど、家族を失った悲しみに心が蝕まれてしまった。だから、このように恐ろしい計画を……」
そっか、風切の苦しみは命令に従いたくないだけではなく、主を止めたいけど逆らえないことだったんだ。
「──あなたはどうしたいの?」
「……止めたい。止めようとして、私は言葉を奪われた。ただ、主が罪を犯す姿を見ているしかできなかった」
悔しさからか、唇を噛む風切。私は血が滲んだ風切の唇に指先で触れて、自分で自分を傷つけるのをやめさせる。
「──大丈夫、もうあなたは自由だよ。だから、あなたが助けたい人を、あなたのやり方で助けるの」
「え……?」
どういう意味だ?と目で問いかけてくる風切に、にっと笑って見せた。
「──風切、あなたの意思は誰にも支配されない」
強い言葉で、風切に暗示をかける。
これは陰陽師と式神の契約以上に強制力のある、新たな縛り。
だけど主に抗えるようになるから、風切は湯佐さんの命令から解き放たれる。
「……主、もうおやめください」
私に鎌を向けていた風切が、私を庇うように立つ。
自分の式神が裏切るとは思っていなかったのか、湯佐さんは動揺を隠せず後ずさっていた。
「わ、私の式神だというのに、敵になるというのか!」
「いえ、私は今もあなたの式です。あなたが、あなたの誇りを失わないために、こうして相対しているのです」
主に歯向かうのはつらいだろうに、風切は決して湯佐さんから目を逸らさなかった。
「自分の式に諭されて、ほんでもまだ目ぇ覚めへんのか」
安倍さんは歩きながらそう言い、私たちの隣に並ぶ。
「ここまで慕われてるんや、ほんまはこないな非道なことできる人間やないってことはわかる。そこまであんたを認めてくれてる式神を、これ以上失望させるな」
「それでも、私は家族を取り戻したい! あなただって、わかるでしょう! 家族を殺されたことがある、あなたなら!」
安倍さんは、ぐっと拳を握りしめた。
「……死んだ家族は戻らへん。そやさかい、今そばにいてくれてる存在をぞんざいに扱うたらあかん」
安倍さんの言葉が真に迫っているのは、実体験からくる考えだからだろう。
自分の傷を抉ってまで伝えようとする安倍さんの説得だから、湯佐さんの心も動かせたのかもしれない。
「……っ、すまなかったな……すまなかった……」
湯佐さんはその場に泣き崩れた。
風切はすぐに駆け寄り、その傍らに膝をつくと、主の肩をさする。
「風切、お前はいつだってそばにいてくれてたのに……本当にすまなかった……」
謝罪を重ねる湯佐さんに、風切はただ優しく首を横に振る。
そして、どこか憑きものが落ちたような顔つきで、こちらを見上げた。
「あなたのおかげで、私はこれから自分の意思で主を守っていけます」
その言葉が聞けてよかった。
命令と服従で繋がるのではなくて、心で繋がったふたりなら、この先どちらかがまた間違いを犯しそうになっても正しい道を歩いていけるだろう。
「本当、よか……た……」
これはデジャブかと思うほど、私は昨日と同じ勢いでその場にへなへなと倒れ込む。
力を使った反動で、またもや身体が縮んでいき……猫になってしまった。
「お前は学習しいひんな、まったく」
呆れながらも抱き上げてくれる安倍さんは、眉間にしわこそ寄っているが、言うほど怒っていなさそうなので安心した。
本当に嫌だったら、私を放って帰っているはずだ。
こうして、女児誘拐の犯人は湯佐さんであると判明した。
当然、誘拐は犯罪なので逮捕されることとなったのだが、式神を使った犯行だなんて普通の警察では信じてもらえない。
なので、陰陽寮と繋がりがある警察署の特殊な課……つまりはこういったあやかしの関わっている案件を扱う課に連絡をして、連行されていった。
今回、風切は命令されていたために抗える状況でなかったとして、罪には問われなかった。
主が罪を償い、この家に帰ってくるまで家を預かるのだと、寂しそうではあるが、どこか清々しく言い切った風切の顔が脳裏に強く焼きついている。
「ときどき、風切のところに遊びに行ってあげましょうね」
夕暮れの帰り道、安倍さんの腕の中でぐったりしながら話しかけると、指で額を弾かれた。
「痛いっ」
「人の心配してる場合か」
「だって、あんな広い家でひとりぼっちは寂しいですし……」
「まあ、見回りついでに寄るくらいはできるしな」
「安倍さん!」
それはついてきてくれるってことですね!と言わんばかりに感動の声をあげれば、またデコピンされる。
「痛いっ……何度も何度も、凹んだらどうするんですか……」
「いっそ凹ましたろか」
「やめてください……って、そうだ。大変です、安倍さん。私、これじゃあ買い物できません」
それだけで、私がなんの心配をしているのか察したらしい。
安倍さんは「ああ」と思い出したように方向転換して、行き先を変える。
「明日の誕生日会の買い出しやろ。なにが必要なのか言え」
「買ってきてくれるですか? 優しい……安倍さんがむちゃくちゃ優しい……これ、夢? 私、寝てる?」
「失礼なやつやな。俺だって、あいつらの誕生日を祝いたい気持ちはあるんや」
「ふふ、じゃあ、生まれてきてよかったって思ってもらえるように、いっぱいお祝いしましょうね」
そう言って、つらつらと買い出しリストを述べていたら、眠くなってきた。
瞼がくっつきそうだったが、なんとか最後まで材料を伝えきる。
やりきった達成感も相まって、急激に睡魔が襲ってきた。
「安倍さん……ちゃんと、忘れずに……買ってきて……ください……ね……」
「わかった、ええから寝ろ。どれだけ人のことばっかなんや」
眠る間際まで安倍さんの声は呆れ気味で、私は少し笑いながら眠りに落ちるのだった。
***
「ハッピーバースデ~」
急遽計画した誕生日会当日。
べたと言えばべたなのだが、安倍さんが買ってきたチキンにフライドポテトにピザなんかが座卓に並んでいる。 他にも、タマくんお手製の豪勢な料理も。
ポン助の変化ショーなる余興とともに夕食を堪能したあと、私は手作りのホールケーキを手に居間に入った。
「ふたりの年齢、見た目ものすごく子供だけど、十七歳ってことでよかったかな?」
さすがに十七本もロウソクを挿したら、ケーキが穴だらけになってしまうので、【17】という数字の形をしたロウソクを飾った。
水珠と赤珠は興味津々にテーブルに乗り出し、ケーキを覗き込む。
「これ、俺たちの名前か?」
「この茶色いの……光明様が食べてるチョコレートの匂いがする……」
ケーキの中央にあるチョコプレートに、自分の名前が書かれているのに驚いているらしい。
「誕生日ケーキ、見たのが初めてなの?」
「そや、こいつらには毎年服買うて終わりやったし……」
安倍さんは、ばつが悪そうにしている。
提案すれば誕生日会にも協力してくれるし、なにより水珠と赤珠を大事に思っているのは確かなので、安倍さんは甲斐甲斐しさがないわけでもない。
「単に、どう祝っていいかがわからなかった……とか?」
下から安倍さんの顔を覗き込むと、ぐっと悔しげな息を漏らす。
これまでの安倍さんは無表情か物騒な顔をしているのかのどちらかだったので、案外わかりやすい人で安心した。
「さーてと、ふたりともロウソクを吹き消して。その瞬間は、バッチリ私が写真に収めておくからね」
スマホを構える私に、水珠と赤珠は顔を見合わせて、それからふーっと火を吹き消す。
さすがは双子、タイミングまでシンクロしている。
私はシャッターチャンスを逃すことなく、撮影ボタンを押した。そんな私の服をポン助が引っ張る。
「オラにも、いつか作ってほしいポン」
「ポン助、もちろんだよ。ポン助の誕生日でも、ロウソクとチョコレートプレートをつけたケーキを作るからね」
ぱっとポン助の顔が明るくなる。
今度はポン助の顔をケーキで作ってみようかな?なんて想像を巡らせていると、安倍さんがふたりの前まで歩いていった。
そして、大きな包みを差し出す。
「……親父とお袋を亡くしたあと、俺はずっと京都の邸にひとりでいた。祖父母に引き取られてからも、心はずっと空っぽで……その寂しさを埋めるために作ったのがお前らや」
「はい、俺たちは光明様がすごく寂しかったのを知ってます」
「だから私たちは……光明様の心も支えたいと……今日までお仕えしてきたのです」
水珠と赤珠は親を慕うように、はたまた我が子を見守るように、安倍さんを見上げる。
式神と主というのは不思議だ。彼らにしか分かち合えない、強い絆のようなものを感じる。
「仕えるんは仕事のときだけでええ。それ以外のときは家族であり、相棒であり、兄弟であり……ひと言では表せへんけど、俺らは心で繋がった関係やろ」
「「……っ、光明様!」」
涙を浮かべる双子を、安倍さんは抱きしめた。
「あ、鼻水つけるなや。ああ……涙で着物がびしょびしょになったやんか」
文句を垂れながらも安倍さんは、まるで我が子にするようにふたりをあやしていた。そんな彼らを眺めながら、微笑ましく思っていると……。
「きみは……すぐに人の心に入り込むね」
すっと隣に立ったのは、困ったように笑うタマくんだ。
「入り込むなんて……もし安倍さんたちと打ち解けてるんだとしたら、人見知りしない性格のおかげかもね。氷結陰陽師みたいに、難攻不落な相手ほど燃えるんだなあ、これが」
「その氷結陰陽師っちゅうのんは、俺のこっちゃあらへんやろうな」
不機嫌な顔をして、安倍さんがやってくる。
座卓のほうでは水珠と赤珠にちゃっかり混じって、ポン助がケーキを食べていた。
そうだ、安倍さんにちゃんとお礼を言っておかないと。
「安倍さん、物置小屋に閉じ込められたとき、助けに来てくれてありがとうございます」
「なんや、改まって」
「こういうのは、ちゃんと伝えておかないとって思って。あやかしが憑いてて、それでいて前世の妻で……安倍さんからしたら嫌なところしかない私を助けてくれたでしょう? すごく、うれしかったです」
「別に、嫌なんかじゃ……」
もごもごとなにかを言いかけた安倍さんに、私は首を傾げる。そんな私たちを見ていたタマくんは……。
「いつの間に、仲良くなったんだ?」
「誰が、仲がええって?」
不服そうな安倍さんを無視して、私は今日あったことをタマくんに報告する。
「そう、物置小屋に……。嫌なこと、思い出したでしょ」
「嫌なこと? ああ、親に閉じ込められたっちゅうあれか」
「美鈴が話したのか?」
タマくんは驚愕の表情で、私を見る。
「安倍さんの顔見たら、なんだかほっとして……気づいたらいろいろ話してたんだ。それに、安倍さんは私を助けてくれたから、過去を知られてもかまわないよ。別に、隠していたわけでもないしね」
肩を竦めると、タマくんは悔しそうに拳を握り締めた。
「僕がそばにいれば、すぐに助けてあげられたのに……」
悲しげな顔をするタマくんに、私は首を横に振った。
「ありがとう、でも今日は安倍さんが来てくれたから、大丈夫!」
なるべく明るく振る舞うも、タマくんも安倍家さんは深刻な表情で言葉を探している様子だった。
今さらだけれど、こんなにめでたい日にわざわざ暗い話題を投下することもなかったかと後悔する。
「ま、それは遠い日の過去ですし! そうだ、安倍さんのプレゼントってなんですか? いつの間に用意してたんですか? 気になるなあ~」
焦って早口だし、質問攻めだし、話題の逸らし方が不自然も不自然。
とはいえ口から出てしまった言葉は撤回できないので、笑顔で乗り切ることにする。
「新しい着物や。毎年、あいつらに合うものを仕立ててる」
「へ、へえ~、呉服屋さんで?」
「そや」
会話が終了し、気まずくなり、タマくに視線を移して助けを求めた。
タマくんは苦笑いでため息をつくと、ケーキを食べている水珠と赤珠たちに目を向ける。
「変な光景だよね。相容れない人間とあやかし、陰陽師と式神が誕生日会をしてるだなんて」
話題が変わったことにほっとしつつ、私も目の前に広がる景色に頬を緩める。
「あやかしと人は敵対してきたのかもしれないけど、お互いを知ればこんなにも仲良くなれるのにね」
そこでふと、昨日の湯佐さんのことを思い出した。
「討って討たれてを繰り返していたら、復讐は永遠に繰り返されるよね。憎しみの連鎖が途切れない限り、また大切な人の命が奪われて、悲しみが生まれる。どこかで、断ち切れたなら……誰も泣かずに済むのに」
目を伏せれば、安倍さんは「綺麗事やな」と言う。タマくんも否定しないので、同意見なんだろう。
「誰しもが綺麗事だと思うかもしれなくても、世界にはその綺麗事こそ必要なんだよ。でなきゃ一生わかり合えないし、歩み寄れないから」
「……まあ、少しは……お前の夢物語みたいな綺麗事も一理あるな、とも思わなくもない」
「えっ、ついに光明さんが歩み寄ってくれた!?」
嬉しさのあまり詰め寄ると、安倍さんは「お前、今……」とわずかに目元を赤らめる。
そこでようやく、自分が安倍さんを下の名前で呼んでいたことに気づいた。
「あ……ごめんなさい、つい……」
「いや……構わへん。それに、物置小屋の前でも、俺のことそう呼んどったやろ。今さらだしな」
あのときは安倍さんが迎えに来てくれて、ものすごく安心して、勢いで呼んでしまったのだ。
「じゃあ、光明……さん……と呼ばせていただければと」
安倍さんは「ん」と短く答え、私たちに背を向ける。
「ついでに、その鬱陶しい敬語もいらへんさかい、やめろ。──美鈴」
「わかりまし……わかった。って……えっ」
今、美鈴って呼んだ?
夢かと思って頬をつねってみるけれど、ちゃんと痛い。じんじんする頬に、じわじわと現実なのだと感動が込み上げてくる。
思い返してみると、私を助けに来てくれたときも名前を呼んでくれた気がする。
水珠と赤珠のもとへ歩いていく安倍さんの背を見つめながら、ついに『猫又女』呼びから脱出したんだと実感していると、ふふっと笑みがこぼれた。
「うれしい? 安倍さんに名前を呼ばれて」
「うん、それはもちろん」
迷わず答えて隣を向けば、タマくんは少し切なげに笑っていた。
どうしたの?と問うのをためらったのは、どうしてだろう。
自分の気持ちに困惑していると、タマくんは私の変化にすぐに気づいてしまう。
「大事な幼馴染を取られた気分だよ」
「そんなっ、私が誰と仲良くなっても、タマくんがいちばんであることには変わりないよ! これまでも、これからも……」
「うん、そうだとうれしい」
うれしいなんて、これっぽちも思っていないような顔。
私の中のいちばんが、これからもタマくんであるということを信じていないような曖昧な返し。
タマくんの考えがわからないと思ったのは、これが初めてのことかもしれない。
***
あれは俺が十歳の頃の話だ。
陰陽寮の仕事から帰ってきた両親が、原因不明の熱病に倒れた。
北野天満宮の裏手にある塚に、巣を作っていたあやかしを退治したせいだろう。
呪いや毒の類を受け、何日も身の内から焦がされるような灼熱感と激痛に苦しみ、最後は……。
『ああ、なんで消えへんねん!』
床に伏せっていた両親の身体から、火が上がる。内側でくすぶっていた熱が一気に外へ噴き出したみたいに、発火している。
俺は自分の羽織で、何度もふたりの火を消そうとした。そんな俺の努力を嘲笑うかのように、火は強くなっていく一方だった。
『うああああっ、うがああっ』
『ぎゃあああああっ』
耳を塞ぎたいほどの両親の悲鳴。皮膚や肉が焼ける匂い。俺はただ、「どうして!」と繰り返し泣き叫ぶ。
『ぐあああっ、ぁ……こう……めい……逃げるんや……っ』
『なに言うてんねん、親父!』
こんな時まで自分の心配をする親父に、俺は怒鳴る。
『っ、そうよ……どうかあなただけは、無事、に……っ」』
『お袋まで…… !』
おふくろの笑みが炎の中に消えていく。
ふたりを形作る骨や肉までもが炎に溶かされていく様を、俺はなす術なく見つめることしか出来なかった。
両親を無情にも焼いた炎が、住み慣れた屋敷さえも燃やし尽くそうとしていた。
やがて骨も残らず炭になった両親を前に放心していると、辺りに割れたような声が響いた。
『消えぬ……怒りが、憎しみが、悲しみが……』
黒く大きな影が天井に映り込む。その声を聞いた瞬間、虚ろだった心に一筋の光が差した気がした。
俺はゆっくりと天井を見上げ、影を睨みつける。
『許さぬ……我が同胞にした仕打ち、必ずやこの恨み晴らしてみせようぞ。お前たちの血筋の末代まで、呪い殺してくれる』
『俺も許さへん。この恨みを晴らしたる。それまで首を洗うて待っとき』
『面白いことを言う。安心しろ、お前はすぐには殺さない。お前に妻ができ、子ができ、孫ができ……そうして繋がれた命をひとつずつ燃やし尽くして、我らが土蜘蛛の怒りを買ったこと、後悔させてくれるわ』
あやかしは人間の敵。ただ殺すだけじゃ飽き足らず、じわじわと炎で焼いて殺すなんて、どんな理由があったとしても非道すぎる。
──そないなあやかしは、この世から消えるべきだ。
***
今日も光明さんの仕事に付き添って、私はタマくんと一緒に陰陽寮に来ていた。
水珠と赤珠はいつものことだけれど、ポン助もお留守番だ。
さすがに陰陽師がいる陰陽寮に、商店街で盗みをしていたあやかしを連れてくるわけにはいかない。
本人はものすごく、ものすごーく、ついて行きたがっていたけれど。
「というわけで、きみたちには京都に行ってもらうことになったから……って、私の話を聞いてるかな? 光明」
光明さんから応答はない。
さっきから、光明さんは心ここにあらずで、所長さんがこれから担当する仕事の説明をしている間、ぼんやりと湯のみに視線を落としたままなのだ。
「光明さん、光明さん!」
肘で光明さんを突くと、ようやくはっとしたように顔を上げ、「……あ」となんとも抜けた返事をする。
「あ、 じゃないよ、光明。私の話、ほとんど聞いてなかったでしょ?」
「……すんません」
「まあ、無理もないよね。今回の仕事は、光明にはかなり苦しい案件になるだろうし」
光明さんにとって、苦しい案件?
私はタマくんと顔を見合わせる。それから、隣に座っている光明さんに視線を向けた。
光明さんはいつも以上に無表情で、誰にも自分の感情を悟られまいとしているかのようだった。
「京都にある光明の屋敷にねえ、土蜘蛛の巣食う塚ができちゃったらしいんだよ」
「土蜘蛛?」
どこかで聞いたことがあるな、と記憶の引き出しを頭の中で引っ張り出していると、ポンスケの言葉を思い出した。
『あなた様は鬼(おに)、妖狐(ようこ)、烏天狗(からすてんぐ)、大蛇(だいじゃ)、猫又(ねこまた)、土蜘蛛(つちぐも)、犬神(いぬがみ)……あやかし七衆(ななしゅう)の頭首のひとりであらせられる猫又の姫様にございますポン!』
そのあやかし七衆とかいう頭首のひとりに、土蜘蛛がいたな。ということは、私は前世で仲間だったのだろうか。
「土蜘蛛は名前の通り、蜘蛛のあやかしだよ。あれは吐いた糸で死体を操り、毒で身体に異常を起こす力を持ってる。土蜘蛛の塚の近くに植えられていた木を伐採した者は、病死したって事例もあるんだ」
「その土蜘蛛は、どうして光明さんの屋敷に?」
「……私の口から話していいのかい?」
所長さんは、わずかに首を傾ける。光明さんは横目で私を見るや、「別に構わへん」と答えた。
「俺だけが話さへんのも、不公平やからな」
私が両親にされたこと、暗闇が怖いこと、それは私が勝手に話したことだ。
だから、義理を感じることはないし、出会った頃の光明さんなら、お前には関係ないと突っぱねたはず。
でも、私には知られてもいいって思ってくれたんだ。少しは光明さんに気を許してもらえたって自惚れても、いいのかな?
「そう? じゃあ、私から話すけど……屋敷は光明のご祖父母が管理していたんだ。ほら、ご両親は亡くなっているからね」
あやかしに殺されたんだよね……。
少しだけ重たい空気が、私たちの間に漂う。
「管理しとった言うても、屋敷は半分以上燃えて住める状態やないけどな」
「じゃあ、どうして管理を……」
「……焼け焦げてようが、俺の帰る家やさかい。ほんまは自分で管理したかったんやけどな、俺は呪いのことがあったさかい、こっちの別荘に移り住まなあかんかったんや」
「それでおじいちゃんとおばあちゃんに、屋敷を任せてたんですね」
納得している私の横で、タマくんが「んー」と難しい声を漏らした。
「その住めなくなった安倍さんの家に、なんで土蜘蛛の塚が? あやかしは、あまり人里を好まないだろ。わざわざそこに巣を作る目的に、見当はついてるの?」
「……ついてる。そやさかい、この案件を俺に任せたんやろう、所長」
光明さんの視線を受けた所長さんは、「そうだよ」と頷いた。
「光明の親を死に追いやった、あやかしの仕業かもしれないからね」
「えっ……そんなつらい案件を光明さんにさせるなんて、酷すぎます!」
思わず立ち上がった私を、光明さんはため息をつきながら見上げる。そして、「座っとき」と言い、私の腕を引いてソファーに座らせた。
「俺はずっとこの日を待っとったんや。いつか、親父とお袋を殺したあやかしを見つけて、滅したるって決めとったさかい。向こうから会いに来てくれて、むしろうれしいくらいだ」
光明さんが浮かべた笑みは、見ているこっちが凍りつきそうなほど冷たいものだった。
「じゃあ、出張に行ってくれるってことでいいね?」
「はい、すぐにでも立ちます」
すぐにでもって……。
「目的地、京都だよ?」
「もう忘れたのか? 喰迷門を使えばすぐやろ」
「それは嫌っ、それだけは絶対に嫌っ」
「わがまま言いなや」
「だって、口の中に入るなんて、生理的に受け付けないんだもん! こう、ぞわぞわっと鳥肌が立つっていうか!」
腕をさすりながら抗議するけれど、光明さんはつんと顎を上げて言い放つ。
「お前の選択肢はふたつにひとつだ。おとなしゅう喰迷門で行くか、俺に気絶させられて喰迷門で行くか、選べ」
「どっちも大差ないじゃん!」
お笑い芸人のノリツッコミみたいに、コントを繰り広げる私たちを所長さんは呑気にお茶(ちなみに激辛)をすすりながら、タマくんは苦笑いしながら眺めている。
「私は絶対に新幹線で行くからねーっ、I LOVE文明の利器!」
陰陽寮には、私の絶叫が響き渡った。
***
抗議も虚しく、私は無理やり喰迷門に落とされて、京都にある光明さんのご祖父母の屋敷にやってきていた。
「大丈夫? 美鈴」
手で口を覆いながら「うっぷ」嘔気を催している私の背を、タマくんがさすってくれる。
「タマくんは、なんで平気なの……?」
喰迷門を通って、ケロッとしているタマくんを尊敬する。
「軟弱やな。 お前、猫やろ。猫はどないな高さから落ちても、華麗に着地できるんちゃうんか」
「光明さん、私は猫じゃなくて猫〝憑き〟」
「どっちも一緒やろ」
「全然違う!」
屋敷の門の前でガヤガヤ言い合っていたら、中から八十代半ばぐらいの白髪の女性が出てきた。
浅葱色の着物に身を包み、髪も綺麗にまとめられ、どこか品のある方だ。
「なんかやかましいな思たら、光明、帰っとったんやなあ」
「ああ、ばあさん。久しぶりやな」
柔らかな笑みを浮かべる白髪の女性は、どことなく光明さんに似ている気がした。
まじまじと女性を眺めていると、隣にいたタマくんが耳打ちしてくる。
「あの人が安倍さんのおばあちゃんみたいだね」
「うん、美形は代々引き継がれてるんだね」
コソコソと話していたら、安倍さんのおばあちゃんがこちらを向いた。
「そちらさんが、今回の案件を一緒に受けてくれはる……」
「猫井美鈴です」
「魚谷玉貴です」
自己紹介をした私たちを、光明さんのばあちゃんは品定めするようにじっと観察してきた。なにかを見透かそうとする目に、 全身に嫌な汗をかく。
「私は安倍雪路(ゆきじ)です。なんだか、けったいな気配のするおふた方やなぁ」
「……!」
私たちが猫憑きだって、お見抜きになってる!?
穏やかそうな雰囲気に反して、鋭い眼光に真っ向から射抜かれる。思わず圧倒された私は、ごくりと息を呑んだ。
「ばあさんは、元陰陽師なんやで」
「ふふ、とっくに引退してるけどなあ」
頬に手を当てて、雪路さんは可愛らしく小首を傾げる。
「ばあさん、こいつらはあやかし憑きだ」
「どうりで……やけど、人にしては妖気強すぎる気もするわねえ」
「そっちの男のほうはわからへんが、女のほうは安倍晴明の妻の生まれ変わりだ」
それを聞いた雪路さんは両手をパンと合わせて、花が咲いたように笑う。
「そうやってん! 前世の奥さんを見つけて呪いが解けたって話は聞いとったけど、そう、あなたが……」
なんでだろう、光明さんとはかりそめ夫婦なのに、 結婚の挨拶に来たみたいな緊張感があって、胃が痛い。
「立ち話もなんどすさかい、中へどうぞ」
雪路さんに案内されて門の中に入ると、屋敷の中は思った以上に広かった。広大な庭には松の木が植えられ、池には鯉が泳いでいる。
石畳の道を歩いて屋敷の玄関まで来たところで、ふと光明さんが「じいさんは元気か?」と尋ねた。その瞬間、雪路さんの顔が強張る。
「そら……直接会うて、確かめてもろうたほうがええ」
どこか歯切れの悪い物言いに、胸には一抹の不安がよぎった。
「 これは……」
光明さんは寝所の布団で横になっているおじいさんを見下ろし、言葉を失っている様子だった。
それもそのはず、初めてお会いした光明さんのおじいさんは生気を感じられないほど青白い顔をしており、食事が食べられないのか頬もこけ、熱のせいでうんうんとうなされていた。
「あのときと……親父とお袋のときと一緒や」
耳に入ってきた呟きに、私は「え……」と光明さんの横顔を見上げた。
「俺が十歳の頃、陰陽寮の仕事から帰ってきた親父とお袋が原因不明の熱病に倒れたんや。退治したあやかしのせいや思う。何日も身体の中から焦がされるみたいな灼熱感と激痛に苦しんで、最後は……」
その先を聞くのが怖くて、 息もつけずに光明さんの言葉を待つ。
「身体から火ぃが上がって、骨も残らへんかった」
呼吸が止まってしまいそうなほどの衝撃だった。どんな言葉をかければいいのかわからなくて、 代わりに光明さんの手を握った。
震えてる……これが光明さんの中にある傷と闇なんだ。
私にもある、どんなに平気なふりをして偽っても、忘れたふりをしても、ふとした瞬間に痛み、心を真っ黒に覆いつくそうとしてくる過去……。
「おじいさんね、あなたの屋敷の庭を掃除してるときに、土蜘蛛の塚に近づいてもうたみたいやで」
雪路さんは言いにくそうに切り出した。
「じいさんが結界張っとったはずやろ? それ破って侵入できるあやかしは、一匹しか思い当たらへん」
「それって……光明さんのお父さんとお母さんを殺した……」
「そうや、あいつは十年前に言うたんや。俺の血筋の末代まで呪い殺すってな。そやさかい、じいさんも狙うたんやろ」
実際にあやかしの恨みを買ったのは光明さんじゃなく、ご両親だ。それなのに、どうして光明さんが苦しまなきゃいけないの?
この間の湯佐さんのときもそう、無関係の娘さんや奥さんが復讐の標的になった。
「あやかしだって、理由なく殺したりはしない。きみの両親は、土蜘蛛になにをしたんだ?」
タマくんは露骨に眉間にしわを寄せる。
「なにをしたって、仲間の土蜘蛛を滅したんやろ。それで安倍家の陰陽師を恨んで、うちまで押しかけてきたとしか考えられへん」
「それはありえないですポン!」
突然、どこからかポン助の声がした。みんなで「ポン?」と声を揃えて首を捻ったとき、私のキャリーバッグが暴れだす。
「嘘っ、まさか……!」
慌ててキャリーバッグのチャックを開けると、中から茶色い物体が飛び出してきた。
「ポン助だポーンっ」
「ポーンじゃないよ! ここ、陰陽師の住んでる屋敷なんだよ? 危ないからお留守番しててって言ったのに、荷物に紛れ込んでくるなんて……」
全然気づかなかった。ちょっと重いなとは思ってたけど、ここまで気配消せるって、ある意味ポン助は最強かもしれない。
「あ、あやかしですか?」
「ばあさん悪いけど、ツッコミ間に合わへんさかい、見ーひんかったことにして」
疲れ切った顔で、光明さんは手で額を押さえている。あとで、しばかれるかもしれない……。
これからのことを思うと胃がキリキリするが、とりあえずポン助の前にしゃがみ込む。
「ポン助、この際、ここに来た理由はもうどうでもいいよ。さっき言ってた『それはありえない』っていうのは、どういう意味?」
「土蜘蛛は毒なんてものを扱ってはいるポンが、温厚なあやかしで有名ですポン。これまで陰陽師に仲間を殺されることは何度もあったと思いますポンが、一度たりとも反撃したりはしてないんですポン」
両腰に手を当てて、得意げに胸を張って話すポン助。
「なんでお前が、そんなこと知ってるんや」
「土蜘蛛は、あやかし七衆に組してたあやかしですポン。オラみたいな下級のあやかしたちを導いてくれたあやかし七衆の方々は、あやかし界の中で有名なんですポン」
また、あやかし七衆……。
「そのあやかし七衆に、前世の私も入ってたんだよね?」
「そうですポン! あやかし七衆の中でも、猫又と土蜘蛛は人間と和解して共存することを望んだ和平派、鬼や大蛇、そして犬神は人間を討つべきだとお考えになっていた過激派、妖狐と烏天狗は中立派だったとお聞きしてますポン」
「だから温厚派の土蜘蛛が光明さんの家族を殺すことは、ありえないってこと?」
ポン助は「そうですポン」と自信満々に頷いているが、タマくんは険しい顔つきのままで腑に落ちていなさそうだ。
「そう決めつけるのは早いんじゃないか? どんなに温厚なあやかしでも、我慢の限界を超えたら、なにをするかわからない」
「そう、だよね……」
もし自分の大事な人の命を奪われたりしたら、私だってなにをするかわからない。恨みを持たない人間なんて、あやかしなんて、いないのだから。
「お前らは親父とお袋が恨みを買うようなことしたさかい、殺されたんちゃうかって言いたいんか?」
「そういう可能性もあるって話だよ。むしろ、その可能性を除外している時点で、人間中心の考え方だとは思わないのか? 人間は都合が悪いことがあると、すぐにあやかしのせいにする。傲慢にもほどがあるな」
光明さんとタマくんの間に、ピリピリとした空気が流れる。
「ふたりとも、落ち着いて。光明さんの話が本当なら、このままだとおじいさんの身も危険ってことだよね? だったら、言い争ってる場合じゃないよ。あやかしを見つけて、毒の消し方を教えてもらわないと……」
「毒の消し方を教えてもらう? そないな必要はあらへん。滅したら、済む話や」
「そうやって滅した土蜘蛛の仲間に、今度は安倍さんが恨まれるつもり?」
復讐には終わりがない。延々と永遠と殺し殺され、 ただ悲しいだけ、ただ苦しいだけ。
どこかで断ち切らなくちゃ、また新たな悲しみが生まれてしまう。
「自分じゃなくて、自分の大切な人たちが、その憎しみの犠牲になるかもしれないんですよ?」
どちらから始めたのか、どちらの方がひどいことをしたのか、 もうそれを比べる段階にもない。
手をかけてしまった時点で、罪の重さは同じになってしまうのだから。
光明さんは目を伏せ、口を噤み、俯いていた。
「光明、美鈴さんの言うてることは正しい」
沈黙を破ったのは、雪路さんだった。
「私たちは知らなあかんのかもしれへんね……十年前になにがあったのか。ここで憎しみを精算できな、おじいさんも、それから光明の奥さんも子供も、そのまた孫も、苦しむことになる」
雪路さんも元陰陽師だと聞いていたけれど、 頭ごなしにあやかしを敵視しているわけではなさそうだ。
「俺はそないなふうに割り切れへん。親父やお袋だけでのうて、じいさんもこないなふうになって、 憎しみを精算する? そんなん、できるわけあらへんやろ」
わかってる。私の意見は部外者だから口にできる綺麗事であって、当事者からしたら簡単に言うなって思うだろう。
だけど部外者だからこそ、物事の全体像が見える。
前世はあやかしで、今は人間。その狭間にいる私の目には、人間もあやかしも、どちらも善で悪に映るのだ。
「俺は刺し違えてでも、俺の大事な家族をこんな目に合わせた土蜘蛛を殺す。たとえ刺し違えてもな」
意思は変わらないとばかりに二度言い、光明さんは行き場のない怒りを表すかのように大きな足音を立てて寝所を出て行ってしまった。
お昼になり、雪路さんが昼食を作ってくれたのだが、居間に光明さんは現れなかった。
ポン助曰く、屋敷内に光明さんの気配があるので、外へは出ていないらしい。
「光明さん、どこへ行っちゃったんでしょうか……」
ほやほやと湯気が立つお味噌汁を見つめて、私は箸を取れずにいた。
今、光明さんはひとりでいるのかな? ひとりで思い詰めてないといいけど……。
孤独は人を惨めにさせる。
物置小屋に閉じ込められたときも、『どうせ誰も、私を迎えになんて来ない』『私は化け物だから、誰からも必要とされてない』って、自分の存在がひどくちっぽけに思えた。
そうやって、光明さんも自分を傷つけていないといいんだけど……。
光明さんのことばかり考えていたら、タマくんが顔を覗き込んできた。
「美鈴、食べないの?」
「あ……なんか、食欲……わかなくて……」
苦い笑みを微かに頰に含ませて下を向けば、ポン助が「ならオラが~」と私の前にある煮物の皿に手を伸ばし、しいたけをつまんで、それはもう美味しそうに頬張っていた。
「ご飯大好きな美鈴が、お腹空いてないなんて……重症だね」
「私は食いしん坊キャラですか」
キレのないツッコミをして、私は静かにため息をつく。すると、見かねた様子で雪路さんが箸を置いた。
「……光明は、あそこにおるのかもしれまへん。息子たち……あの子の両親が亡くなったあと、光明をうちで引き取ってから、よう登ってましたさかい」
「登る?」
どこへ?と首を傾ければ、雪路さんは光明さんの居場所を教えてくれた。
私は昼食に手をつけずに席を立った。
雪路さんの説明を思い出しながら、屋根裏に行き、天井の小窓を開ける。そこから屋根に登ると、会いたかった人を見つけた。
光明さんは屋根に片膝を立てて座りながら、遠くを眺めている。その瞳は寂しそうで、胸がキュッとなった。
今、なにを考えてるんだろう?
背が高くて身体もがっしりしていて、私よりも大きいはずの光明さんの背中が、今は頼りなさげに丸まって小さく見える。
声をかけるのを躊躇っていたが、意を決して、わざとおどけるように「光明さん、見っけ!」と叫んだ。
この距離で、しかもこの声量で私に気づかないはずがない。……のだが、光明さんはこちらを見ない。
まさかの無視かとしゅんとしていたら、光明さんは鬱陶しそうにため息をついた。
「……ご近所迷惑や、なんの用や」
最近は世間話にも付き合ってくれるようになっていたのに、親密度がゼロに戻ったみたいにつれない態度。ちょっと心が折れそうだ。
そっちに……行ってもいい? そんなこと聞いても、今の光明さんはスルーするだろうな。
どうせ空気みたいに扱われるなら、勝手にさせてもらおうと、許可も取らずに光明さんのそばに寄る。
案の定、光明さんは私が近づいても我関せずで景色を見ていた。
私たちの間に会話はなく、 木々のざわめきだけが聞こえてくる。遮るものがないせいか、風が強く感じられて、昼間だというのに少しだけ肌寒い。
光明さんの心も、こんなふうに寒がっているかもしれない。
そう思って、光明さんにぴったりとくっついた。そこで初めて光明さんは、「お前は、ほんまに猫みたいやな」と呆れ気味に言葉を発した。
「ばあさんに聞いたのか?」
自分がここにいることを誰に聞いたのか、と尋ねているのだろう。
「うん、勝手に聞いちゃって、ごめんなさい」
でも、どうしてここなんだろう?
光明さんはこの家に引き取られてから、よく屋根に登るんだって雪路さんが言っていた。
その理由を知りたくて、私は光明さんの見ている世界を見つめる。
すると、視線の先にその答えを見つけた。見つけた途端、胸が押し潰されそうになり、涙が勝手に目尻からこぼれる。
「……そっか、光明さんは……帰りたいんだね。幸せだったあの頃に、思い出の詰まったあのおうちに」
遠くに、焼け焦げて黒くなった屋敷が見える。あれはきっと、光明さんがお父さんとお母さんと一緒に住んでいた家なんだろう。
「大事な居場所を奪われて、大好きだった場所が悲しくて苦しい場所に変わってしまって……。どう向き合っていいのか、わからなくなっちゃったんだね」
「……っ、お前……なんで……」
なんでわかるのかと、 そう問われているのがわかった。私はゆっくりと隣に視線を移して、光明さんに苦い笑みを返す。
「私も同じだから……。猫に化ける前は、両親も普通に私に接してくれてて、なにも知らずに、ちゃんと家族でいられた頃は……幸せだった」
話すのがつらくて、声が震えたのが情けなくて、私の目線はどんどん下がっていく。
「あの幸せな日々に帰りたい、でももう戻らない日々なんだって思うと、絶望して……。そんなことの繰り返しで、早く抜け出したいと思うのに、どう過去に決着をつければいいのかわからない……」
光明さんは静かに耳を傾けてくれていて、それが私を受け入れてくれている証のように思えた。
「……お前の言う通りだ。陰陽師としての力は、もう十分すぎるくらいある。すぐに親父とお袋を殺した土蜘蛛を探し出して、敵を打つことだってできたはずだ。やけど、俺はそうしいひんかった」
ぽつりぽつりと、光明さんは心の内を曝け出していく。
「怖かってん。俺の生きる目的は、土蜘蛛への憎しみだ。敵を討ってもうたら、俺はなにを生きる糧にしたらええ?」
迷子のように心細そうな面持ちで尋ねられ、喉になにかがつかえたみたいに苦しくなった。
光明さんが無表情なのも、口調が冷たくてきついのも、きっと……自分を惨めにさせる感情を隠したいからだ。
私はそうだった。化け物と嫌われて傷ついているのを知られてしまったら、自分が惨めになるから……それを悟られないように、つらいときこそ笑うのが癖になった。
「あの家を立て直さへんのも、黒う焼けた柱を見れば、焦げ臭い匂いを嗅げば、忘れへんでいられたさかい。生きる意味やった憎しみを……」
生きる意味が憎しみなんて……光明さんは暗いトンネルを歩き続けるみたいな気持ちで、生きてきたんだろうな。
終わりもない、出口もない、光も見えない道を、ただ復讐するという目的のためだけに進み続けてきたんだ。
「そやさかい俺は、その憎しみの対象であるあやかしを認めることができひんかったんや。やけど、お前と会うてから……」
じっと見つめられ、わずかに心臓が跳ねる。
「お前があやかしを人と同じように扱うのを見とったら、あやかしも悪いやつばっかりちゃうかもしれへんって、そう思うようになって……」
「光明さん……」
「そないな自分を認めてもうたら、あやかしを憎めへんくなる。俺はなにを糧に生きていったらええのか、わからへんくなる……」
苦悶の表情で俯く光明さんの手を、そっと握った。少しだけ冷たくなっているその手を、私の体温で温めてあげられたらいい。
「生きる糧なんて、生きていればいくらでも湧いてくるものなんじゃないかな」
「お前な、軽う言いなや」
「光明さんが難しく考えすぎなんです。ほら、家の前を歩いてるあのスーツの人とか、びわの木を見上げてるあの子供たちとか、見てみて」
私は屋根から少しだけ身を乗り出して、地上を歩く人たちを指差す。
「あの人はきっと、これから仕事に行くんだよね。それであの子供たちは、あのびわ美味しそうだなあって、お腹を空かせてる」
「それがなんやって言うんや」
「みんな、自分の生きる糧がなんなのかなんて考えて、生きてないんだよ。だって人間は、生きるために働いて、生きるために食べて……つまり、生きるために生きてるんだから、生きることこそが、生きる目的でしょう?」
光明さんは「お前は……」と目を丸くしたあと、なにがツボに入ったのか、ぷっと吹き出した。
「ぷっくく……能天気すぎるやろ。俺が悩んでるのが、アホらしなってくる」
「もう、ここ笑うところじゃないからね? でも、光明さんが笑ってくれたから、いいや」
つられて笑えば、光明さんは眩しそうに目を細めた。
「……不思議なやっちゃな。お前だって、しんどい人生を送ってきたんやろ? そやのにやさぐれへんで、なんで悲観せずにいられるんや?」
「うーん……私だって、心の中はそれはもう真っ黒でドロドロで、荒野のように荒れてるよ。だけど、無理してでも前を向いていたいんだ。私も幸せになれるって、希望を捨てたくないから」
「……強いやっちゃな」
「雑草の如くね」
「調子に乗るんやない」
ピシッとおでこを指で弾かれたが、私はそんなやり取りすらも光明さんに近づけた気がして、へへっとうれしさに笑ってしまう。
「光明さん、これは傷に向き合うチャンスなんだよ。ちゃんと傷に向き合って手当てすれば、完全には塞がらなくても、思い返して血が流れることはない。かさぶたになる」
見たくない傷から目を逸らし続ければ続けるほど、傷は膿んで悪化する。悪化した傷は心を蝕んで、人を信じたり、生きる活力を奪っていく。
「だから、真実から目を逸らさないで、これからどうすればいいのか考えよう? 私も一緒に答えを探すから」
「……ありがとう。さっきは感情的になって、なにが正しいのかを見失うとったけど、今ならちゃんとわかる。これからどないすんかを決めるためには、まず十年前の真実を知らなあかん」
「そうだね、陰陽師側だけじゃなくて、あやかし側の話も聞いてみよう? お互いにわかり合える部分があるかもしれない」
「ああ、憎しみを断ち切れるかはわからへんけど、俺の子供や孫……その先の命が幸せに生きていけるような選択、できる思うんや」
光明さんの言葉に、もう迷いはなかった。
過去に囚われて憎しみに縋るんではなく、これからの未来を見据えて、幸せを思い描いていくために、まず知ることから始めよう。
「そうと決まれば、土蜘蛛に会いに行かないと。おじいさんも心配だし……」
「そうだな、あまり時間がない。親父とお袋のときは子供でなにもできなかったけど、今は違う。じいさんを助けてみせる、必ず」
繋いでいた手を、お互いに強く握り合う。
向き合うのが怖くて、崩れ落ちそうになりながらも自分の足で踏ん張っている光明さんを支えたい。
そんな強い感情が、胸の奥から突き上げてくるのを感じていた。