「話は終わったかな」

 声を発した所長は封印された美鈴の横で、いつもと変わらない笑みを浮かべている。ここが陰陽寮の所長室かと錯覚するほどに。

「……で、比呂。光明の足止めを頼んだはずなのに、一緒に連れて来ちゃってるのはどういうことかな」

 ……八岐大蛇を従えて、平然と話してるなんてな。所長の陰陽師としての能力は、安倍晴明でも手ぇ焼くやろう。

 おどろおどろしい八つの頭を持つ蛇を前に嫌な汗が背を伝ったとき、比呂さんが前に出た。

「英城、俺はなにが正しいのかをずっと考えていた。雪奈が大切にしたあやかしとの繋がりを壊してしまって、お前は後悔しないのかと」

「後悔などしないよ。全てを守ろうとするから、守り切れない。だから、いちばん大事なものを、この手からあぶれないものを、この目が届く範囲のものだけを守ると決めたんだ。そのためなら、手段は選ばない。もう二度と、失わないために」

「英城……」

 言葉を紡げなくなった比呂さんの代わりに、俺は一歩を踏み出す。

「二度と失わへんために? なに言うてるんや、失うやろ!」

「私は失わないよ」

「なんもわかってへんのやな。肉体を失うたら、残るんは想いだけや。そやのに雪奈さんが残した唯一の信念や心を裏切ったら、その想いを失うことになるんや! それがわからへんのか!」

 所長の目が見開かれていき、放心している隙を狙って俺は印を切る。

「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)──。思業(しぎょう)式神! 水珠、赤珠、急急如律令!」

 五芒星が目の前の空間に現れ、そこから水珠と赤珠が飛び出した。

「……っ、お嫁様……!」

「あんなのに掴まりやがって……叩き起こしてやるからな!」

 封印されている美鈴に気づき、顔をしかめているふたりに俺は命ずる。

「水珠、赤珠、美鈴を助け出すで。──道を切り開け!」

「「承知いたしました!」」

 ふたりが繰り出した炎と水が渦を巻きながらひとつになり、所長と八岐大蛇に容赦なく襲いかかる。しかし、所長が簡単に術を受けるはずがなかった。

「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)──。結界、急急如律令!」

 ピキンッと所長と八岐大蛇の周囲に透明な壁が現れる。

さすがは所長、それは他の陰陽師とは比べ物にならないほど早く形成され、頑丈だった。

だが、水珠と赤珠はそれよりも先に壁をぶち壊す。

 ──ドゴオオオンッ!

 所長は間一髪で飛び退き攻撃を避けたが、八岐大蛇は図体がでかいせいで素早くは動けないらしい。

『ニャオオオオンッ!』

 魚住は八岐大蛇の首に噛みつき、そのまま頭のいくつかを噛み千切った。

あれでは、しばらくは動けないだろう。その間に俺は光の柱まで走り、美鈴を見上げる。

「いつまで寝てるつもりや。誰が封印されてええって言うた」

 呼びかけても返事をしない美鈴に、込み上げてくるのは苛立ちでも悲しみでもない。

「俺、安倍晴明の生まれ変わりは、猫又である妻の生まれ変わりを守らねばならない」

【呪約書】の一説を読み上げ、俺は光の柱に手を突っ込む。ビリビリッと異物を拒むような電流が肌を焼くが、構わず美鈴の腕を掴んだ。

「……っ、く……俺は【呪約書】関係のうて、お前を諦める気はさらさらあらへん。俺の、安倍光明の妻を取り戻す、絶対に!」

 じゅうっと腕の皮膚や肉が焦げ、痛みに一瞬だけ意識が飛びそうになる。だが俺は美鈴の姿をしっかり瞳に捉え、倒れないよう踏ん張った。

「伝えたいこと、が……っ、あるんや!」

 気づくのが遅くなったせいで、俺は美鈴に伝えられなかった。

もしかしたら、自分から封印されることを望む美鈴を引き留められただろう想いを。

「そやさかい……っ、帰ってこい、美鈴!」 

***

『──帰ってこい、美鈴!』

 唐突に光明さんの声が聞こえた気がして、私の意識が目覚める。

気づいたときには、私は暗闇の中で自分そっくりの女性と向き合うように立っていた。

「今の声は……あなたは、誰?」

 私は問いかけておきながら、彼女を知っている。だって、今の今まで夢で見ていたのだ。彼女になって、前世を追体験してきた。

「ううん、美琴。あなたは……私の前世」

「そうだ。そしてお前は……私の未来。本来ならば会うことは叶わないが、私も晴明も未練があったのだろうな。晴明は【呪約書】なる呪で私と自分の魂を繋いだ。その影響か、私や晴明の意識が残ったまま転生してしまったようだ」

「じゃあ、晴明さんの意識も光明さんの中に?」

「お前も話したことがあるだろう、晴明と。屋敷の結界が解けたときに」

 屋敷の結界が解けたとき……。

『──ここにいたか、愛しい妻よ』

 あのとき、頭の中で聞いたことがない男の声が響いたのだ。

『──このような小細工を……どうりでなかなか見つからないはずだ』

 そっか、所長さんの結界を解いたのは、晴明さんだったんだ。だから私は、光明さんに会えた。

『──帰ってこい、美鈴!』

「まただ……」

 私は知っている。私を呼んだ彼が誰なのかを。晴明さんじゃない、あなたは……!

 呼びかけに応えるため、大きく深呼吸をする。

「光明さん! 光明さん、光明さん!」

 何度も名前を呼んだら、光明さんに会いたくてたまらなくなった。でも……。

「私は戻っちゃいけないっ」

 だって私が封印されないと、猫又のみんなも陰陽師も争うでしょう? それに私が暴走したら、傷つく人が出る。

 私の願いとみんなの安全、天秤にかけるまでもない。

「それでも望んでしまうのだろう?」

 美琴は残酷にも私の本音を突き付けてくる。 
「私もそうだった。猫又の一族を玉貴に任せ、私は晴明のために動いた。結局、どれだけ正しく在ろうとしても無駄なのだ。最後に自分を動かすのは、本当の願い……。ただそれだけなのだから」

 確かにそうかもしれない。迷いながらも、心にある願いなんてひとつしかない。

それを選び取ったことで犠牲になるものがわかっていたとしても、渇望してしまう。

「光明さんと……一緒にいたい。光明さんのところに帰りたい……っ」

「愛する男のもとへ行きたいのなら、お前がまず人間の脅威でなくならなければならない。自分の力を制御できるようにならなければ」

「でも、どうやって……」

「力に見合う器に……あやかしになることだ。制御できないのは、強すぎる力が人間の身体では抑えきれないからだ」

 選択肢は、思いもよらないものだった。あやかしにならないようにするのではなく、あやかしになれと美琴は言うのだ。さすがに戸惑う。

「私があやかしになったら、それこそ人間の脅威になってしまうんじゃ……」

「ならない。お前には光明がいるからな」

 意味深に笑った美琴に、私は目をパチクリさせてしまう。

「信じろ。お前が何者でも、光明は受け入れてくれると。だからお前は、自分にできることだけをすればいい」

「美琴……そうだね。私は信じてる、光明さんのこと。だから教えて、どうしたら私は……あやかしになれる?」

「ただ、内に宿る妖力に身を任せろ」

 言われてすぐにできることではないはずなのに、目を閉じれば身体の中を血液と一緒に巡っている妖力を感じられる。

 呼吸とともにその力を動かして、否定するのではなく身体に馴染ませていく。すると、耳や尻尾が出るのがわかった。

「私たちの未練を晴らせるのは、未来のお前たちだけだ。今度こそ……幸せに。そして願わくば、猫又たちのことも救ってくれ──」

 美琴の声が遠くなり、視界が真っ白に染まる。

「──帰ってこい、美鈴!」

 今度ははっきりと聞こえた。瞼越しに感じる光に向かって手を伸ばせば、パシッと腕を掴まれる。そして、闇の外へと引きずり出された。

「ただいま、光明さん」

 目を開けて真っ先に瞳に映ったのは、世界で誰よりも愛しい人。

そして彼は光の柱の中で浮いている私を見上げ……切なくも嬉しそうに微笑んだ。

「……遅いわ。おかえり、美鈴」

 私たちは手を取り、指を絡め、額を重ねた。すると、光明さんの肌を埋め尽くしていた【呪】の文字が消えていく。

「愛してる。【呪約書】がのうても、お前を守りたい思うほどに」

「私も同じ。前世とか関係なく、私は光明さんと夫婦になりたい」

 見つめ合って心を通わせると、揺るがない繋がりを光明さんとの間に感じる。

「光明さん、私の封印を解いたの?」

 息遣いも聞こえる距離で、私たちは囁き合うように会話する。

「そっちこそ、妖力強なってる。あやかしみたいに」

「みたい、じゃないよ。美琴が力をコントロールする方法を教えてくれて、それがあやかしになることだったから」

 身体が軽い、なんでもできそうな気さえする。姿こそ変わらないが、これがあやかしになるということなのだろうか。

 人でなくなったことに未練はない。だって、私は信じているのだ。光明さんを……。

「なら、あとは俺に任せろ。お前がどない強いあやかしになろうと、使役したる」

 光明さんの手が私の頬に添えられた。

「安倍晴明の名において、汝を悪業罰示式神(あくぎょうばっししきがみ)として使役せん。……名を、捧げよ」

 なぜか、神聖な儀式をしているような、結婚式の誓いの言葉でも述べるような緊張感があった。

 私は深呼吸をして、大切に、大事に、彼に応える。

「……美鈴……猫井美鈴。この名を……あなたに捧げます」

 名を告げた瞬間、どくんっと鼓動が跳ねた。熱くなる胸元に視線を落とせば、谷間の辺りに蓮の花の文様が浮かぶ。

「これって、赤珠と水珠の額にもある……」

「俺の式神になった印や。これで強い妖力のある猫又の姫は、俺の支配下に置かれた。暴走することも、もうあらへん。もっと早うこうしとったらよかったんやろうけどな。そうするには、お前があやかしであることが前提条件やったんや」

「光明さんは、私に人間でいて欲しかった?」

「いいや……お前が人だろうが、あやかしだろうが、どうでもええ。美鈴が美鈴であること、それだけが重要なんや」

 光明さんの腕の中に収まれば、もうなにも怖くない。私の帰る場所はここだと、迷わず言い切れる。

「もう、自分を犠牲にしたりしない。光明さんが、私を必要としてくれたから」

 光明さんの背に腕を回したら、それ以上に強い力で抱き締め返された。

「お嫁様、ご無事でなによりです」

「まったく! 心配かけさせやがって」

 いつの間にか水珠と赤珠がそばにいて、目を潤ませながら私と光明さんに寄り添う。

「ふたりとも、ごめんね。助けに来てくれてありがとう」

 私は何度、彼らに心配をかければ気が済むのだろう。

それでもなお、私を受け入れてくれるみんながどうしようもなく……そう、どうしようもなく大好きだ。

 涙が瞳の表面を覆っていく。歪む視界の中に、私のもうひとつの居場所である彼が現れる。