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「はあっ、はっ……っ、美鈴!」

 俺は目の前で猫又──魚住に攫われていく美鈴を追いかけていた。

 美鈴のいる宙を仰ぎ、通行人にぶつかりながら全力で走るも、その姿は見えなくなる。

「くそっ」

 そばにおったのに、あないに簡単に奪われて、自分が情けのうてしゃあない。

 無力感に苛まれる俺に追い打ちをかけるように、メガネをかけた黒いスーツの男が行く手を阻んでくる。

「……比呂さん」

 ここに所長の補佐役である比呂さんがおるってことは、所長がなんか企んでるのか?

 魚住と関係あるのかはわからへんが、あまりええ状況とは言えへんな。

「邪魔する気なら、こっちも本気で相手させてもらうさかい」

「お前は陰陽師だろう、戻ってくる気はないのか。人生、棒に振る気か」

「陰陽師だからや!」

 声を張る俺に、比呂さんはわずかに目を見開いた。

「人を傷つけるさかい殺すって言うんなら、犯罪者も熊もイノシシも人を襲うたら殺してええってことになる。このご時世、罪人にだって生きる権利があるんですよ。そやのに、俺らのやってきたことは人殺しと変わらへんと違いますか」

 陰陽師やさかい、あやかしの肩を持つんはおかしい。その固定概念が、どれだけ視野を狭めているのか、人としての善悪を捻じ曲げているのかに陰陽師たちは気づいていない。

「非道なのは、理由も聞かへんであやかしを滅してきた陰陽師のほうや。人間同士の揉め事には法律があるけど、人とあやかしの問題にはそれがあらへん。そやさかい、こないな殺戮がまかり通るんや。いつか、あやかしに報復されてもおかしない」

 そして繰り返すんや、憎み憎まれ、殺し殺され……悲劇を何度も。

「そやさかい、俺は戻りません。美鈴が封印される理由も納得いきませんから」

「あの子が好きなのか」

「……は?」

 堅物で極悪面の比呂さんの口から、愛だの恋だのという類の話が飛び出すとは思っておらず、間抜けな返しをしてしまう。

 でも、ああ……そうか。あいつが心細そうにしてると、ほっとけへん思うんは……俺が美鈴のこと、好きやったからか。

 こないな大事なこと、あいつがいーひんようになってから自覚するなんて……俺、アホすぎるやろ。

「そうですね、俺はあいつが好きです。そやさかい、あやかしの味方をするってわけちゃう。あやかしも人も対等に見つめる美鈴を見て、俺もそうするのが正しいって自分で考えてそう思ただけや」

「……そうか。なら、お前は大事な人を失わないように足掻け」

 愚かだと、俺の考えを突っぱねられると思っていた。でも、予想に反した答えが返ってきて、俺は自分の耳を疑いながら尋ねる。

「比呂さん……俺を止めないんですか」

「……立場的には止めるべきだろうな。だが……これは個人的な事情だ」

 比呂さんの個人的な事情ってなんや?

 眉を寄せる俺に、比呂さんは苦笑をこぼす。

「英城は……所長は、あやかしに婚約者を殺されている。歳は猫井さんと同じくらいだったはずだ。雪奈(ゆきな)といってな、俺の妹でもあった」

「なっ……」

 殺されている。それを聞いて驚いたが、ときどき所長から底知れない闇を感じていたのはこのことだったのかと納得もする。

 俺も奪われ、憎んだことがあるからわかるのだ。どれだけ明るく振る舞っていても、普通のふりをしてきても、憎悪の影は隠しきれない。

「俺たちの家は代々陰陽師の家系だったんだが、雪奈の力はさほど強くはなく、俺や英城のようにあやかしを滅する陰陽師として育てられなかった。ただ、あやかしを見ることはできた雪奈は、あやかしに対しても分け隔てなく優しかったんだ」

「所長は、あやかしは滅するべきものや思てるやろ。雪奈さんと意見がぶつかったんちゃいますか」

「納得はしていなかったが、今のお前のように雪奈の考え方を理解しようとしていた。だが、そのせいで英城は雪奈を失った」

「どういうことです?」

「雪奈のところに遊びに来ていた子供のあやかしに食われたんだ。英城も何度も会っていたからな、安心しきっていたんだろう。ふたりを残して家を出て、仕事から帰ったときには……骨ひとつ残っていなかった」

 骨ひとつ……そら、無念なんて言葉じゃ足らへんほど、許せへんかったやろうな。

亡骸に縋りつくことも、弔う機会も奪われたんや。それじゃ、いつまでも進めへん。

「なんでや……そのあやかしは、なんで雪奈さんを?」

「腹を空かせていたらしい。それで陰陽師ほどとはいかないが、霊力のある雪奈に近づいた。英城は雪奈の考えを尊重したことを後悔していた」

 たった一回の情が、親切が、迷いが、大事な者の命を一瞬にして奪うかもしれないのだ。

それを誰よりも知ってるからこそ、所長は奪われる前に手を打つと言ったのだろう。

「しばらくは抜け殻のようになっていたが、それから数週間ほどして、英城はいつも通り出社してきた」

「復讐するため……ですね」

 原動力にするには手っ取り早い起爆剤や。

 あやかしの考えなんてどうでもいい、俺の大事な者を奪った、その事実さえあれば十分なのだ。自分を正当化しながら、悲しみを紛らわせることができる。

「……ああ。いつも通りに見えるが、あの日あいつの心も死んだんだろう。茶にタバスコや唐辛子を入れるのも、その痛みで生きていることを実感し、なんのために生きているのかを再確認するためだと気づいたとき、俺は自分の無力さに腹が立った」

 所長と比呂さんが旧知の仲なのは知っていたが、それ以上に踏み込めない絆のようなものを感じていた。

友人であり、仲間であり、家族であり、上司と部下でもあり、大事な者を奪われた者同士でもあり……。こんなにも複雑な繋がりだったとは、思いもしなかった。

「子供の頃から付き合いがあったからな、英城と雪奈が惹かれ合うのは自然なことで、俺もふたりが幸せでいられるように尽くそうと思っていた。だが……叶わなかった」

「比呂さん……」

「だから光明、お前の心が死んでしまわぬように彼女を守り切れ。もっと早くこの言葉をかけてやりたかったんだが……」

「比呂さんは、所長の願いを叶えたったかったんやろう? そやさかい、俺の肩を持てへんかった」

「……それが俺にできる唯一のことだと思っていたからな。だが、引き裂かれそうになっているお前たちを見ていて、違うと気づいた。愛し合っているふたりが引き裂かれていいはずがない」

 比呂さんもつらかったやろうな。守りたかったふたりを守れなかったと、今も自分を責めている。それでいて俺と美鈴のことを思い、味方になってくれたんや。

「英城は魚住さんと協力関係にあったときから、魚住さんの動向を探っていた。猫又の一族は、生き残ったあやかし七衆とともに人間や陰陽師を襲う気でいる。だから所長は、陰陽師を率いて猫又の隠れ家に向かった」

「猫又の隠れ家……そこに魚住がおるかもしれへん。ちゅうことは、魚住が攫った美鈴も危険やちゅうこっちゃ。すぐに行かな──ぐあっ……」

 全身に電撃が走ったような痛みに襲われ、俺はその場に崩れ落ちた。

「……! 光明、どうした!」

 比呂さんが駆け寄ってきてくれるが、返事をする余裕がない。

 久々やな、この感覚……。

 地面についた両手の甲に【呪】の文字がびっしりと浮かんでいる。これが出ているということは、【呪約書】の内容を破ったという証。

【一、俺、安倍晴明の生まれ変わりは猫又である妻の生まれ変わりを守らねばならない】

「美鈴になにかあったんや……」

 商店街の向こうにある見える山から、青白い光の柱が上がる。一般人には目視出来ないだろうが、あれは間違いなく……。

「英城の術だ」

「美鈴、待っとき。すぐに助けたる」

 呪いが回り、動くたびにビリビリと痺れて痛む身体を無理やり起こし、俺は立ち上がった。

 喰迷門は知っている場所でなければ使えない。美鈴がどこにいるかわからない以上、自分の足が頼りだ。

「俺も行こう」

 隣に並ぶ比呂さんを、俺は横目で鋭く見据える。

「俺の敵になるんやったら、比呂さんやろうとここで倒すで」

「俺には親友を……妹の大事なやつを守る義務がある。雪奈はあやかしを傷つけることを望まない、それを踏みにじるあいつを止めるんだ。あいつの心を守るために」

「なら、俺らは同士ですね」

「生意気なやつだ」

 小さく笑い、俺たちは山へと目を向ける。そして走った、そばにいてやりたい人のもとへと。




「美鈴!」

 都会では珍しい山の中腹、オーロラがかかった星空の下に浮世離れした神宮があった。

猫又や陰陽師が倒れている中、青い光の柱の中で眠る美鈴を見つける。

その姿が誰かと被る。そう、着物を纏った、今よりももっと大人びた女の姿と……。

「くっ……」

 呪いの影響なのか、そうじゃないかは定かではないが、視界がぐらりと揺れた。

頭痛がして額を押さえた俺は、封印されている美鈴を強く見つめた。

 ダブって見えているのは、前世の記憶だろうか。

「……こら俺の人生や」

 決して前世の妻を助けたいわけちゃう、俺が……美鈴を助けたいだけや。

 呪いに痛む身体を無理やり動かして、俺は立ち尽くしている魚住のもとへ行き、その胸倉を掴む。

「それで? お前はそこでなに突っ立ってるんや」

「美鈴が……魔性の瞳を使ったんだ。ここにいるあやかしは陰陽師を、陰陽師はあやかしを襲えない。そして僕の動きを……封じた。美鈴はあやかしと人が争わないようにするために、自分で望んだんだ……封印されることを」

 諦めを滲んだ目を伏せ、投げやりに言う魚住に苛立ちが込み上げた。

「それで、お前はそうして腑抜けてるんか! 攫うといて、簡単にあいつを諦めるんやな」

「覚醒間近の美鈴の力には抗えない! 仕方ないだろ!」

 声を荒げた魚住の目から、透明な粒の水滴が瞬きと一緒に弾き出される。

「あいつに魔性の瞳を使わしたお前が悪いんやろう。力を使いたがらへんあいつを追い詰めな、あいつが封印される事態にはならへんかったはずや!」

 魚住は「……っ」と息を詰まらせる。

 俺の言葉を否定しきれへん時点で、俺の言葉を認めてるのとおんなじなんやぞ、魚住。

「あいつは誰よりも、お前に自分の考えを理解してほしかったはずや。敵対するのも、力で無理やり従わしてお前を止めるのも、しんどかったはずや。そんなこと、お前が誰よりも知ってるやろう!」

 黙ってしまう魚住の肩を、乱暴に掴む。

 魚住にかけられた魔性の瞳の束縛が解けるのは、俺だけだろう。だから魚住の返答次第では、解放するつもりだった。

「お前は、誰のためになにをしたい」

「それは……姫のために……」

「そら美鈴のことか? それとも美琴のことか?」

「僕に……選べというのか? 美琴への忠誠を貫き、復讐をとるのか……。あやかしの僕にとっては、瞬きと同じくらい短い間しか一緒にいなかった美鈴との穏やかな日々を守るのか……」

「そら、そないにややこしいことか。あいつが封印されたとき、なんもできひんかった。そやさかい、後悔して泣いてるんちゃうんか」

 はっと夢から覚めたような顔で、魚住が息を呑んだ。やがて、その瞳から迷いが消え、引き締まった面構えになる。

「自分がなにを本当に望んでいるのか……この涙に教えられるとはね」

 魚住は自分の下瞼を人差し指で掬うように撫で、そこに載った涙の粒を見つめると、弱々しく笑った。

「そうだよ、僕は美琴様に仕えた数百年よりも、美琴と過ごした数十年を大事に思っている。僕に……安らぎをくれた彼女が……大事なんだ」

 心の奥底にある想いを引きずり出すように言い、魚住は俺に真っ向から相対する。

 やっと、ええ顔になったやんか。

「僕は美鈴のために、そして自分のために美鈴を取り戻す」

「よう言うた。臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)──。解術(かいじゅつ)、急急如律令」

 俺の手から放たれた青白い光が、魚住の肩に触れている手から広がる。光は魚住の身体を包み込み、固まっていた腕や足に自由を取り戻していく。