タマくんは商店街を突き抜けた先、山の中腹あたりにある古びた鳥居の前に降り立った。

中は錆びれた神社がぽつんと立っているだけで、参拝客が来るような雰囲気ではない。

 人型に戻ったタマくんは灰色の着物を身に着けていた。そして、猫又の耳や尻尾を隠さずに歩き出す。

「ここは?」

「中に入ればわかる」

 私の知るタマくんの口調はいつも柔らかくゆっくりで、聞いていてほっとする声だった。

 だけど……こんなに抑揚のない話し方もするんだ。

 ううん、本当はときどき感じてた。そう、光明さんと出会ってから、少しずつだけど、その片鱗を見せていた気がする。

 日和りそうになる心を叱咤して、彼の背を追い、鳥居を潜ると……。

「「「「「「「姫様」」」」」」」

 桜吹雪く境内で、一斉にひれ伏す老若男女。ざっと三十名ほどだろうか、着物姿の彼らは皆、猫耳や尻尾を持っている。

 しかも昼間の青空はどこへやら、頭上にはオーロラのようなものがかかった濃紺の星空。こじんまりとして古びていた神社は、朱色の立派な神宮へと姿を変えていた。

「嘘……どういう仕掛けなの? それに、ここにいるのって……」

「ここは猫又が生き延びるために作った隠れ里みたいなものだよ。不本意だけど、安倍晴明が僕に託した幻術の札のおかげで、人間の目には誰も立ち寄りたがらない古びた神社に映る」

「じゃあ、これが本当の神社の姿……」

 周りを見回せば、境内も鳥居を潜る前に見たものより、うんと広い。

「そして……ここにいるのは全員、猫又だよ。美琴は全滅したと思ってたみたいだけどね、僕が逃がした猫又たちが所帯を持って、ここまで数を増やしたんだ。って言っても、八百年経ってもこの数だけどね」

「それだけ、助けられた猫又の数が少なかったってことだよね。……タマくん、私をここに連れてきたのは……なんで?」

 少し前に立っていたタマくんは、意味ありげに沈黙する。

やがて、ゆっくり私のほうに身体を向けると、そうするのが当然のように跪いた。

「姫様、あなたに私たちを導いてほしいからです」

 ぐらぐらと、視界が揺れる。

「今こそ、私たちからあなたを奪い、多くの同胞を手にかけた陰陽師や人間への復讐を果たす時。生き残ったあやかし七衆を見つけ出すのです」

 タマくんに賛同するように、雄叫びを上げる猫又たち。

復讐に燃えるみんなの声が遠くなり、まるで水の中にいるみたいにぼわぼわと聞こえる。

 深い……深すぎる、みんなの怒りが、憎悪が──。

 でも、憎悪に任せて人を傷つければ、憎み憎まれ、狩り狩られるをまた繰り返すことになる。

「復讐ってなにをするの? 妖刀をばら撒いたこととなにか関係がある?」

「狂って同族同士で殺し合ってくれれるのが、いちばん手っ取り早いですからね」

「そんなの……っ、すぐに陰陽師たちに嗅ぎつけられる! 現に、もうバレて妖刀を回収して回ってるんだよ? みんな、退治されちゃうかもしれないっ」

「嗅ぎつけられていいんですよ。これは布石です、戦いの火蓋を切って落とすための」

「え……?」

 少しの焦りも見せず、それどころか待ち望んでいるとばかりに口端を上げるタマくん。彼から漂う不穏な気配に、手には汗が滲む。

「私が陰陽寮の所長と手を組んでいた理由を知りたがっていましたね。それがこれなんですよ。あやかしと人間を敵対させる、その目的が一致したからです」

「なっ……なんで所長さんはそんなことを……」

「さあ? 向こうの事情は知りませんが、陰陽寮の所長はあやかしと人が敵対するためには、前世で夫婦だったあなたたちを会わせるのは危険だと踏んでいたようです」

 だから所長さんは、私の家に結界を張ったんだ。

「ですが私は、あなたが晴明の生まれ変わりと会おうが会うまいが、どちらでもよかった。むしろあいつのそばにいれば、あなたはあやかしに心を寄せ、魔性の瞳を使わずにはいられなくなる。そうすれば、あなたを猫又として覚醒させることができますからね」

 なら私は、まんまとタマくんの術中にはまったというわけだ。魔性の瞳をコントロールできなくなるほど、あやかしになりかけているのだから。

「姫様、どうか我らを鼓舞してくださいませ」

「この身を懸けて、人間どもを殺し尽くしてみせます!」

 次々とかけられる言葉の意味を理解したくないと、頭が拒否しているのだろう。ズキズキと眉間の辺りが痛みだす。

「私は……人間だよ? 前世が、この魂があやかしなのかもしれなくても、二十三年間、人間として生きてきたんだよ。それなのに、私に人間が殺せるわけがない」

「なにを言います、あなたは猫又の姫です。あなただって憎んでいるでしょう、人間を」

 タマくんの他人行儀な口調や態度に、これまで築いてきた関係がガラガラと崩れ落ちていくような錯覚に陥る。

「私が人間を憎んでる? そんなこと、一度も思ったことないよ。……ねえ、タマくん。それは……」

 唇が震えた。口に出してしまったら、認めざるを得なくなる。でも、もううやむやにもできないのだ。タマくんが、私を見ていないことを。

「タマくんが言うあなたって、美琴のことでしょう? 美鈴じゃない」

「同じ魂を持っているのですから、どちらもあなたです」

「──っ、違う! 私は……っ」

 「美鈴だ」と紡いだ声が、ドゴオオオンッというけたたましい音と地響きに掻き消える。景色がぐにゃりと歪み、そして──。

「歴代最高の陰陽師と謳われた安倍晴明の札も、八百年も使えばガタが来るってことかな。とはいえ、探すのに手間取ったよ」

 この声……!

 鳥居を振り返れば、数十人の陰陽師を率いる所長さんの姿があった。猫又たちは獣に化けると毛を逆立てる。

「こちらの準備は待ってくれない、というわけですか」

 タマくんは私を庇うように前に出た。

「あやかし七衆と手を組まれては面倒だからね」

 やれ、と所長さんが手を挙げると、一斉に陰陽師たちが術を唱え始める。

だが、タマくんも腕をすっと横に伸ばし、「唱えさせるな」と猫又たちに指示を飛ばす。

彼らは迷いなくシャーッと威嚇しながら陰陽師に噛みつき、術を食い止めていった。

「発動する前に叩けば、お前たちは脅威にすらならない」

 不敵に口端を上げるタマくんだったが、所長さんも余裕の笑みを浮かべている。

爆風や悲鳴がこだまする中、その変わらない態度に不安が胸の内で渦巻く。

「悪いね、こちらも優秀な陰陽師を失うわけにはいかないんだ」

 パチンッと指を鳴らす所長さん。その足元に現れた五芒星が青白い光を放ち、所長さんの背後から頭と尾が八つずつある巨大な蛇が現れた。

「あ……ああ……なんなの、あれ……」

 膝頭がガクガクと震える。奥歯が鳴り、私は息をするのすら恐ろしくて両手で口を塞いだ。金のぎょろっとした目が、射殺さんとばかりにこちらに向けられている。

「八岐大蛇(やまたのおろち)、私の悪業罰示式神(あくぎょうばっししきがみ)だよ」

「そんな上位式神を使うなんて、本気で僕たちを殺しに来たってわけか」

 たぶん、ずっと一緒にいた私にしかわからないほどの些細な変化だけれど、タマくんの声にも少しの動揺が滲んだ。間違いなく、この状況は分が悪いのだろう。

 八岐大蛇とか、神話に詳しくない私でも知っている。

確か大酒を好み、毎年ひとりずつ娘を食ったとか。そうやって、今度は猫又たちを喰らうつもりだろうか。

「……っ、タマくん」

 私は彼の着物の裾を引いた。

「みんなを……逃がさないと……でないと、殺されちゃう……やっと会えたのに……」

 なんでか、涙が頬を伝う。これは仲間を奪われたくないという、美琴の思いでもあるのかもしれない。

「美鈴……」

 私の名を呼んでくれた。美琴じゃなくて美鈴と向き合ってくれている今なら、タマくんを止められるかもしれない。

 そんな希望が見えた矢先、ぎゃああああっという悲鳴が聞こえた。

声のほうへ目をやれば、八岐大蛇は八つの牙で次々と猫又の腹に噛みつき、貪り食っていた。

それを目の当たりにした瞬間、うっと吐き気がしてその場に蹲る。

「おえっ……はあっ……はあっ……なんて、ことを……っ」

 涙なのか、唾液なのか、俯いた先にある地面を濡らしていく。

「吞気に話している場合かな、あっという間に全滅するよ」

 穏やかな口調で、残酷なことを述べる所長さんを恐る恐る見上げる。

その口元には笑みが浮かんでいるのに、瞳は虫けらでも見るように冷酷だった。

「姫、ここを離れましょう。立て直しを図るのです」

 タマくんが私の両脇に腕を差し込んで立ち上がらせようとするが、足に力が入らない。それに、ここから動く気にもなれなかった。

「みんな……逃げ、て……逃げて……」

「ここは彼らに任せるしかありません。あなたさえ生きていれば、いつでも立て直せる」

「……なに言ってるの? いつでもっていつ? また何百年も経ったあと? こんなこと、何度繰り返すつもりなの!」

「姫……」

「私は姫じゃない! 猫井美鈴だよ!」

 どんっとタマくんを突き飛ばし、腹の底で煮えたぎる怒りを糧に立ち上がる。

「私だけじゃダメだんだよ、みんながいなきゃ!」

 陰陽師も猫又も仲間を殺され、怒りに敵(かたき)を取ろうと殺し合っている。ここには怒りしかなかった、殺意しかなかった。

「なんのために言葉があるの、なんのために考える頭があるの、なんのために悲しみ喜ぶ心があると思ってるの? 分かり合えない相手とも、分かり合うためだよ!」

 怒鳴れば、所長さんは鼻で笑った。

「美鈴さんはまだ二十三だったね、まだ子供だ。世間に出たばかりで、理想だけじゃどうにもならないことがあるって、わからないんだろう」

「なにが言いたいんですか」

「どれだけ心を尽くしても恩を仇で返す連中はいる、それがあやかしだ。あいつらは馬鹿のひとつ覚えみたいに人間を喰らう。それ以外の知能など持ち合わせていない獣だよ」

 無機質に響く所長さんの口上、それはいつもの穏やかさがないからこそ本心から出た言葉だとわかった。

こっちのほうが、いつもの飄々とした態度よりずっと信用できる。

「なにが……所長さんをそんなふうに偏った考え方にさせたんですか?」

「偏った考え方ではないよ、これが世の心理なんだ。犠牲失くしては目的は達成できない、甘さや優しさなどでは大事な者は守れない。非道だろうと、確実な方法を取る責任が私にはある」

 所長さんの中に、その考えを曲げられない確固たる理由があるのが伝わってくる。

 でも、『はい、そうですか』と容認はできない。私は所長さんが経験したものを知らないし、私の心は私だけのものだから、自分で信じたものしか選べない。

「所長さんはきっと、その甘さや優しさのせいで、とても大切なものを失くしたんですね」

 所長さんが息を詰まらせるのがかわかり、やっぱりそうなんだと小さく苦笑いする。

「それがどうしてなのかはわかりません。だけど……甘さや優しさがなくたって、私たち……こうして傷つけ合ってるじゃないですか。憎しみや復讐心に駆られてたって、大事な者は守れないのでは?」

 はっとしたのは、所長さんだけでなくタマくんもだった。

 よかった、まだ私の言葉は届く。魔性の瞳で命令しなくても、ちゃんと。

「もし、それでも怒りが収まらないのなら、私を煮るなり焼くなりしてください」

 両手を広げて無抵抗だと意思表示すれば、タマくんが私の肩を掴んで自分のほうへ振り向かせる。

「僕がそんなこと、許すわけないだろ!」

 怒りと悲痛が滲んだ彼の顔が間近に迫り、胸が痛む。

 ごめんね、と心の中で謝りながら、私は魔性の瞳を発動させた。

「──私の意思を縛りつけることはできない。たとえ、タマくんであっても」

 うっとタマくんが小さく声を漏らし、私からぎこちなく手を離す。

タマくんの思惑のおかげで、随分と力が身体に馴染んできている。

彼を制御下におけているという確かな手応えがあった。

「その代わり、ここにいる猫又たちは傷つけないでください。猫又たちにも、あなたたちを傷つけさせないから」

「口約束は信じない質なんだ」

「口約束なんかじゃない」

 ぶわっと私の髪が浮き、身体中を熱が駆け巡る。ドクン、ドクンッと脈打つ力の波動を少しずつ大きくしていき、私は息を大きく吸う。

「──この場にいる全員、私の許可なく傷つけ合うことを禁じる」

 ピキンッと空気が張りつめる音がして、陰陽師や猫又たちは一斉に動きを止めた。

 ね?とばかりに所長さんに向き直れば、その喉がゴクリと上下に動いた。