「骨の髄まで従者だね」
所長さんが執務机に頬杖をつき、唇の端を上げた。この部屋に入ってから、一貫して余裕を崩さない姿に威圧される。
「従者……そういえば、土蜘蛛の紫苑もお前を美鈴の従者や言うとったな。どういうこっちゃ?」
はたから見ると、私たちがそういう関係に映るのかもしれない。
そう考えていたけれど、出会って間もないのに、私たちの関係性をまず『主従関係』だと表するほうが稀だ。
ここ最近のタマくんらしくない言動や態度も合わさって、彼はなにかを隠している。そう思わざるを得なかった。
「タマくん……」
その内になにを秘めているのだろう。私相手でも、話せないことなの?
そんな私の疑心をタマくんは見抜いたのか、ため息をつく。
「……ここで俺がなにも話さなかったら、美鈴はどんどんお前たちに懐柔されるからな。今言える真実だけは、きみに伝えるよ」
「真実……?」
「そう、俺は猫又の姫に仕えていた猫又。ついでに言うと猫憑きじゃなくて正真正銘、猫又のあやかしだ」
タマくんが……人間じゃなくて、あやかし……?
まだ、冗談だと思おうとしている自分がいる。だって、子供の頃からそばにいて、同じ小学校、中学、高校に通った。
大人になってからもずっと仲がよくて、職場まで同じにした幼馴染だ。それが人間じゃなくてあやかしだったと聞かされて、誰が信じられるというのか。
「タマくんは私と一緒に育ったでしょ? 子供の頃のタマくんも、大人になったタマくんも見てきた! なのに、あやかしだなんて……突拍子もなさすぎるっていうか……」
「俺は子供にも大人にも化けられる。きみの成長に合わせて、俺も化けていただけだ。きみのそばにいるためには、そうするしかなかったから」
「そ、それじゃあ本当にタマくんはあやかしなんだ……」
タマくんとは長い付き合いだ。彼が冗談を言っているのか、そうじゃないのかくらい見抜けるくらいには。
思い返してみれば、タマくんはあやかしを擁護することが多かった。
陰陽師である光明さんに対して、初めから当たりも強かったし、本当は私が気づかないふりをしていただけで、タマくんの変化に疾っくの疾うに感づいていたのだ。
「俺は姫が……きみが生まれ変わる時をずっと待っていたんだ。何年もの間、きみの魂を探し続けて、ついに猫憑きがいるっていう猫井家に辿り着いた。そこできみを見つけて、ずっと見守ってきた」
タマくんは縋るような目をして、私に手を差し伸べる。
「今度こそ、きみを守りきるって決めたんだ。人間なんかに封印させられて、たまるものか」
前世の私が死んでから、ずっと待ち続けてくれていた。それも途方もない時間をだ。
「美鈴、俺と一緒に来て」
「……っ、タマくん……」
タマくんなら、きっと私をひとりにしない。
だけど、この手を取ったら私はどこへ連れていかれるの?
タマくんと一緒に向かった先に待つ未来に、希望を見出せないのはなぜなのか。
「きみは人間社会の中では生きられない。俺たちと、あやかしの中で暮らすんだ」
「それは……できないよ。私がいなくなったら、光明さんの呪いはどうなるの?」
「そんな陰陽師のことなんて、どうでもいい!」
大声をあげたタマくんに、私はびくっと肩を震わせる。タマくんがこんなに感情を露わにするのは、初めてのことだった。
「またきみは、その男に翻弄されて破滅する気なのか!?」
「またって……ねえ、タマくん。タマくんはまだ、私になにかを隠してる? 私は……隠し事をされたまま、タマくんと一緒には行けないよ」
光明さんのことも、どうでもいなんて思えない。私の好きな人の、命に関わることなのだから。
「……わかった。きみの心の準備ができていないのなら、無理強いはしない。けど、すぐに思い知るはずだ。きみは完全なあやかしになりかけている。ここにいる陰陽師からも狙われる。そして気づくんだ、きみの居場所はここにはないんだってことを」
その言葉は、私の心に影を落とす。タマくんは私に背を向け、部屋を出ていこうとした。
「タマくん、どこへ行くの?」
遠くなる背中に声をかければ、タマくんは足を止めて、少しだけこちらに顔を向ける。
「ひとつだけ忠告しておく。そこの所長は俺が美鈴の従者だって、出会ったときから知ってたよ」
「え……」
でも、陰陽寮で初対面したときは、面識なさそうだったのに……。自己紹介だって、していたはずだ。
「俺も、所長さんとは面識があった。なんせ、美鈴の屋敷に結界を張って、美鈴と安倍さんを会わせないようにしていたのは……所長さんだからね」
「なんやと?」
光明さんと私は、所長さんを振り返った。
当の本人は飄々とした微笑を浮かべたままで、その真意を図るのは難しい。
光明さんの事情を知っていて、私と会わせなかったのだとしたら……。所長さんは、光明さんが死んでも構わないと思っていたってこと?
「ばあちゃんが呼んだ陰陽師っていうのが所長さんなんだ。美鈴が猫憑きだって言ったあの日、所長さんは屋敷に結界を張った。俺も利害の一致で、結界のことは黙っていた。俺たちは協力関係にあったんだよ」
次々と聞きたくない事実を聞かされて、頭が重たくなってくる。脳が考えるのを拒否しているみたいに、ぐわんぐわんとめまいがしてきた。
「その話が本当なら……私にまで黙って、所長さんとなにを企んでたの?」
「それを知りたいなら、俺のところに来るか、所長さんに直接聞くといい。とにかく美鈴、人間を信じすぎるな」
そう言って、去っていこうとするタマくんを「行かないで!」と呼び止める。
けれどもタマくんは、ボンッと大きな猫又へと姿を変える。
そして、取り押さえようとしてくる陰陽師たちを突き飛ばしながら、オフィスの窓を突き破って空へと飛んでいってしまった。
「タマくん……そんな……もう、なにがどうなってるの……?」
封印のこと、いなくなった幼馴染み……一度に抱えるには重すぎる真実。
タマくんが去ったあと、この場に残ったのは疑念という息苦しい空気だけだった。
「俺も、美鈴の屋敷に張られとった結界のことは気になってました。所長、魚谷が言うとったこと、説明してもらえますか」
釈然としないという態度を隠しもせず、光明さんは上司に真っ向から対峙する。
江永さんは事情を知っているのかいないのか、どちらともとれない憂わしげな表情でふたりを見守っていた。
「光明、あれはあやかしの虚言だよ。それとも、上司ではなく彼を信じるの?」
「……魚谷は食えへんやつに変わりはあらしまへんが、美鈴のことに関しては誠実です。それに、美鈴が信じとった相手の言葉が、すべて嘘やと決定づける根拠もあらへん」
強く言い返す光明さんは、私の腰に腕を回し、引き寄せた。
そして、小声で「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)……」と唱え、素早く印を切る。
「──喰迷門、急急如律令!」
私たちの足元に喰迷門が現れ、ゆっくりと口を開く。所長さんの顔から、さっと笑みが消えた。
「光明、なんのつもりだ」
「……所長の目的も、魚谷の目的も見えへん状況で、美鈴が封印されるかもしれへん。俺にはなにが正しいんかわからへんさかい、自分がしたいことをします」
私を抱き寄せている光明さんの腕に、力がこもった。
「美鈴は俺に未来をくれた。その恩は、命を守るだけでは返しきれへん。おつりがくるくらいだ」
「……っ、なんで……」
なんで光明さんは、私が欲しい安心感をこんなにもくれるのだろう。
封印されなければいけないほど、私はこの世界にいてはならないのだと悲しかった。
ずっと一緒にいた幼馴染みは、何十年も大きな秘密を打ち明けてくれないまま、最後には私の前からいなくなった。
惨めで拠り所もなくて、やっぱりひとりになった私に残ったのは……光明さんだった。
「帰るぞ、みんなが待ってる」
「帰る……」
「そうや、あそこはもうお前の家やろ。お前が拾うてきた狸のペットもおるし、ちゃんと面倒を見ろ。世話放り出して、勝手に封印なんかされたら許さへんで」
私に気を使わせないための毒舌。光明さんの優しさに触れて心が晴れ渡るのを感じ、今度は熱い涙が込み上げてきた。
ずっと鼻を啜りながら、私は光明さんにしがみつく。
「帰りたい……光明さんと、みんなのところに……っ」
「ああ、連れ帰ったる」
後頭部を撫でられ、私は目を閉じる。その瞬間、私たちの身体は喰迷門に吸い込まれるようにして、落ちていった。
縁側の柱に寄りかかるようにして座り、夜の庭を眺める。
陰陽寮から屋敷に帰ってきてからというもの、身体中の空気が抜けたみたいに気力がわかなかった。
『俺たちは協力関係にあったんだよ』
頭の中を堂々巡りするのは、タマくんの声。
『俺も、所長さんとは面識があった。なんせ、美鈴の屋敷に結界を張って、美鈴と安倍さんを会わせないようにしていたのは……所長さんだからね』
私を見つけなければ、【呪約書】のせいで光明さんは死んでしまう。
その光明さんの事情を知っていて、所長さんは私と会わせないようにした。
所長さんは優秀な陰陽師は失いたくないと前に言っていたから、冷静に考えてみると、光明さんが死んでも構わないとは思っていなかったはず。
……じゃあ、私に理由がある? 私を光明さんに会わせたくなかったとか……?
私のせいで、光明さんは呪いを解けずにいたのだろうか。
『俺も利害の一致で、結界のことは黙っていた。俺たちは協力関係にあったんだよ』
タマくんは私に秘密で、所長さんとなにかを企んでいた。なんでも話せる相手だと思っていたのは、私だけだったのだろうか。
また、頭が重たくなってくる。
『美鈴、人間を信じすぎるな』
ずっとそばにいたのに、なにも気づけなかった。タマくんがあやかしだったことも、タマくんの考えも、なにひとつ……。
私の能天気さが、タマくんをひとりで行かせたのかな……。
抱えた膝の間に顔を埋めていると、隣に誰かが座る音がした。少しだけ面を上げれば、光明さんが澄ました表情で庭のほうを向いている。
光明さんは私を陰陽寮から連れ帰ったせいで、仕事に行けていない。
それどころか、所長さんたちが私を封印しに来るかもしれないからと、屋敷にも結界を張って守ってくれていて、迷惑をかけっぱなしだ。
暴走して人を傷つけてしまうくらいなら、封印されたほうがいいのかもしれない。
眠るだけだから死ぬわけじゃないし、光明さんのそばに置いてもらえれば呪約書の項目を破ったことにはならない。
『私は陰陽寮の所長だ。危険は未然に防ぐ必要があるんだよ。私たちの選択ひとつで、大勢の人間が死ぬことになる。言い方は悪いけど、ひとりの犠牲で済むのなら、こうする他ないんだ』
光明さんが呪いに苦しまないのなら、私ひとりの犠牲で済むのなら、他に迷う理由なんてあるのかな。
迷惑をかける規模が違う、私の望みを押し通していいことじゃない。
ここはもう私の家だって光明さんは言ってくれたけど、私……本当ここにいていいのかな?
光明さんの纏う空気は夜のそれに似て静かで、心地がいい。波立っていた心が落ち着いてくる。
「……なにをあれこれ悩んでんねん」
長い長い沈黙のあと、光明さんはぽつりと問いかけてきた。
素直に心の内を曝け出してしまえたなら、どんなに楽か。でもそんなことをしたら、光明さんを困らせる。
答えに窮していると、光明さんはため息をついた。
「魚谷がいーひんようになったのは、お前のせいじゃない。それに俺は、お前がここにおること、迷惑やなんて思てもいーひん」
心を見透かされているみたいだ。
「どうして……」と、呟きが勝手に唇の隙間からこぼれ出る。
光明さんは首筋に手を当て、私から目を逸らした。
「アホか、そないな捨て猫みたいな顔しとったら誰でも気づくわ」
ぶっきらぼうな言い方だけれど、私を心配してくれているのだ。
誰でもじゃない、私の考えがわかるのはきっと光明さんだけだ。
「いつもと逆やな」
光明さんが笑い交じりに言うものだから、私はなにがだろう?と首を傾げた。すると、光明さんの唇が寂しげな弧を描く。
「いつもはお前のほうがわーわーやかましいのに、今は俺がひとりでぺらぺら喋ってる。……最近はめっきり静かやな、どないしたんや」
「光明さんは……そのほうがいいでしょう?」
「……やかましいんは好かん」
やっぱりと落胆しかけたとき、「けど……」と光明さんは続ける。
「最近は、そうでもあらへん思うんや。お前の声聞こえな……調子狂う」
「え……」
ゆっくり瞬きをすれば、光明さんはようやくこっちを見る。
視線が絡み合い、まるで時間が止まったかのように、木の葉を揺らしていた風音が遠くなる。
世界が透明になったみたいに、光明さんしか瞳に映らない。
「……耳と尻尾、出てるし垂れてんで」
光明さんの手が私の耳をふにふにと軽く触りながら撫でてくる。
最近では興奮したり驚いたりしなくても、意識していないと耳や尻尾が出てきてしまう。
これも私があやかしになりかけている証拠なのだろう。
再び気分が沈みそうになったとき、光明さんが「こら便利やな」と至極真面目な面持ちでやんわりと私の両耳を引っ張る。
「お前が地蔵みたいに黙っとっても、この耳と尻尾を見とったら、落ち込んでるのかそうちゃうんか教えてくれるさかい」
ほんと、今日は光明さんがよく喋る。それも私のためだと思うと、胸がじんわりと温かくなった。
「まあ、俺が見落としても、ここにはお前のこと心配してるやつらが他にもおるさかいな」
光明さんの視線が居間のほうに移る。つられて振り返れば、そこにはおにぎりが載ったお盆を持つ水珠と、ふんっと鼻を鳴らしつつそっぽを向く赤珠、それから心配そうに目をウルウルさせているポン助がいた。
「……お嫁様、その……夕飯……あまり、手をつけていなかったみたいなので……」
近寄ってきた水珠が、そそそっと私にお盆を近づける。
平皿の上にはテカテカの真っ白いおにぎりがふたつに、たくあんやきゅうりの香の物が添えられていた。
「これ……塩おにぎり……?」
でも、ふたつのうちひとつは三角ではなくまん丸だ。それも表面はボコボコ。
「兄さんは……おにぎりを握ったり、盛り付けをするのが……苦手なんです」
「うるせえ! 食えれば形なんてどうでもいいんだよ!」
腕を組んで、ぷいっと顔を背ける赤珠。
苦手なのにおにぎりを握ってくれた理由なんて、考えなくてもわかる。
「……ありがとう、ふたりとも」
食欲はなかったけれど、その気持ちを受け取りたくて、私は歪なおにぎりを手に取る。
かぷっと噛りつけば、お米そのものの甘い味と、ほんのりちょうどいい塩っ気が口内に広がった。
「おいしい……、おいしい……っ」
込み上げてくる涙。私は嗚咽ごと、優しい味がするおにぎりを飲み込む。
お腹が膨れていくと、自然と胃のあたりにくすぶっていた不安が押し出されていく。代わりに安心感で満たされていった。
「泣きながらおにぎり食べるなんて、器用なやっちゃな」
「姫様、今日はオラが添い寝して、温めてあげますポン!」
ポン助が「変化!」と空中で一回転すると、私の前にはベージュのメッシュが入った焦げ茶色の布団一式が。枕に耳と目がついており、ぱちぱちと瞬きをしている。
「これは……ぷっ、使いにくいよ……」
つい吹き出すと、やったな!という表情でみんなが顔を見合わせる。
ここへ来てから、私はいろんな真実を知って、そして幼馴染を失った。だけど、逆に得たものもある。それが彼らのいる、私の新しい居場所だ。
私は手元のおにぎりに視線を落とす。
今までそばにいてくれた人と今そばにいてくれる人、あやかしと人間……どちらが大切かなんて天秤にはかけられない。
私は失いかけていた気力を養うようにぱくっと、おにぎりを食べる。
どちらも大切だから、タマくんとももう一度話がしたい。隠していること、抱えているもの、私にも分けてほしいから──。
──ゴツンッ。
翌朝、庭を歩いていると、変な音がした。
ガサガサと茂みを掻き分けて、音を頼りに屋敷の竹の塀沿いを歩く。
やがて門に辿り着き、外へ出ようとすると、後ろから腕を引かれた。
「出たらあかん。結界の外に出た瞬間、他の陰陽師に捕えられるかもしれへんのやぞ」
「光明さん……?」
額に汗をかき、肩で息をしている光明さんに呆気にとられる。
「寝室にいーひんさかい、どこ行ったかと思うたやろ。出ていくとか、けったいなこと考えてへんやろうな?」
私が出ていくかもしれないと思って、そんなに焦って追いかけてきてくれたの?
掴まれた腕が熱い、鼓動が驚きとは別の意味で騒いでいる。
まただ……また、光明さんと見つめ合うと、時が止まったみたいに世界の音が遠ざかって──。
「……! なんや、あやかしの気配──!?」
さらに強く腕を引かれ、光明さんの胸に鼻をぶつける。強引に抱き寄せられて顔を上げれば、厳しい目付きで私の背後を睨んでいた。
ごくりと唾を飲み、怖々と後ろを向いてみると……。
「……え、どうしてここに?」
よく、私の住んでいた屋敷に来ては、タマくんのご飯を摘んでいた一つ目小僧がいる。
一つ目小僧は中に入ろうとして、ゴツンッと頭を透明な壁にぶつける。結界だ、先程の変な音は一つ目小僧が結界にぶつかる音だったようだ。
突然現れた一つ目小僧に目を瞬かせていると、光明さんが印を切ろうと指を構えた。
「ま、待って!」
私は慌てて光明さんの手を掴み、下ろさせる。
「なんで邪魔するんや」
「し、知り合いです!」
「……あやかしの知り合いがおるんか」
「うちの屋敷によく来てたんです。タマくんの──」
彼の名前を口にしただけで、息が出来ないほど胸が詰まった。
ふう、と息を吐けば、光明さんは「もうええ」と私の背に手を添える。おかげで少しだけ、胸の重りが軽くなった気がした。
「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)。結界解除、急急如律令!」
素早く指で印を切り、光明さんは結界を解く。そして一つ目小僧に向かって「ん」と言い、中に入れと顔を動かした。
一つ目小僧は下駄を鳴らしながら、無言でそばにやってくる。
光明さんが再び結界を張り直している間に、一つ目小僧がずいっと私に顔を近づけてきた。その大きな瞳に波紋が広がり、まるで水面のようになにかを映し出す。
「これは……」
「商店街やな。前に俺とお前とポン助で行った」
そういえば、三人で夕飯の買い出しに行ったな。そこで光明さんの同僚の陰陽師に会って、魔性の瞳を使ってしまった……。
あの出来事がなければ、光明さんが陰陽寮に行けなくなることも、タマくんが離れることも、私が封印されることもなかったのだろうか。
胸に罪悪感がわく中、私は一つ目小僧の瞳に映し出される映像を見つめる。
商店街の骨董品店に虱潰しに入っていく陰陽師たちの姿、それになぜか記憶の奥底を揺すぶられた。
「これ……」
「前、同僚の陰陽師が言うとったな。商店街の骨董品店で、曰く付きの日本刀が出たって」
私は返事の代わりに頷く。
『お前らがいるってことは、ここでなにかあったのか?』
『ええ、この商店街の骨董品店で曰く付きの日本刀が出たとかで。妖刀の可能性もあるので、私たちが出向くことになったんです』
あの妖刀騒ぎの……。でも、なんでこれを一つ目小僧が見せてくるのか。
募る疑問を飲み込んで、私は映像に集中する。
刀のようなものを数本、手に持った陰陽師が骨董品店から出てくる。立ち去る彼らの背を鋭い眼差しで見送る猫が五匹いるのが気になった。
猫たちはくるりと身を翻し、陰陽師たちとは反対方向に歩いていく。
一つ目小僧は自分が見たものを私たちに見せているのだろうか。
猫のあとをつけていき路地に入るや、しゅるしゅると猫たちが大きくなり……。
キジトラやサバトラ、三毛猫やハチワレといったいろんな柄の猫耳や二股に分かれた尻尾がついた人間へと化けた。
「嘘……猫又……?」
私やタマくんの他にも存在したの? でも、土蜘蛛の紫苑と美琴の話では……。
『もう陰陽師たちに利用されるのはたくさんだ。残った仲間も数少ない。美琴姫、お前に至っては……』
『……そうだな。 猫又の一族は、もう……』
猫又の一族はもういない、というような口ぶりだった。だからてっきり、もうこの世に猫又は存在しないのだと思っていた。
だけど……いたんだ、仲間。
胸が弾み出したとき、猫又たちは顔を突き合わせ『陰陽師の連中が嗅ぎ回ってるな』と小声で話し始める。
『妖刀で人間たちを狂わせる。暴走した人間が、同族の人間を襲う。滑稽だな』
『これも我らが姫を奪い、多くの仲間を奪った人間たちへの復讐。玉貴様の言う通りにすれば、うまくいくはずだ』
玉貴……様……?
こんなところで、彼の名前を聞くことになるとは思っていなかった。
「どうして、タマくんが……」
どうしてと言いながら、答えはちゃんと頭に浮かんでいる。人間たちへの復讐のために、タマくんが妖刀をばら撒いているのだ。
なんでこんなことを……?
ほら、またそんなわかりきった問いかけをして、自分で絶望する。
憎んでいるんだ。前世の私を、今の私を奪った人間を……タマくんは。
映像は終わりだとばかりに、一つ目小僧が目を瞑る。
「人間と全面的に戦うつもりか」
「そのことを、知らせに来てくれたんだね」
私は一つ目小僧の頭を撫でた。一つ目小僧はタマくんのご飯を気に入っていたし、心配して私のところまで来てくれたんだろう。
「──光明さん」
行かなきゃ。なにができるかわからないけど、猫又が妖刀をばら撒いているのなら、それを止めてタマくんに会わないと。
タマくんたちが陰陽師に先に見つかってしまったら、殺されてしまう……!
「陰陽寮のやつらよりも早う妖刀を回収するで。話がしたいんやろ、あいつと……猫又と」
「──っ、うん!」
私の意図を汲んでくれた。あやかしを恨んでいた彼が、あやかしを守ろうとしてくれている。
こうして関わり合っていけば、すぐにとはいかなくても、わかり合えるはずなのだ。だからタマくん、猫又のみんな、諦めないで──。
妖刀回収のために私は光明さんと商店街の東側を、赤珠と水珠、ポン助は西側にある骨董品店を訪ね歩いていた。
暖簾を避けて店の外に出ると、光明さんと同時にはあっと肩を落とす。
「妖刀は陰陽師たちが全部回収したあとやったな」
前に商店街で光明さんの同僚さんたちに会ったときには、すでに妖刀の件は陰陽寮側に知られていた。
一つ目小僧が見せてくれた映像は、つい数時間前のものだろう。何日も前のものなら、もっと早くに見せに来ているはずだ。つまり……。
「回収されては妖刀をばら撒いてる猫又をなにがなんでも捕まえるべく、陰陽師たちは躍起になってるんやろうな」
「今もこの商店街を探し回ってるかも……」
なおさら早く、猫又たちを見つけないと。
焦りに駆り立てられていると、光明さんが「……っ」とうめき、手の甲を押さえた。
「光明さん?」
その手元を覗き込めば、つうっと血が流れている。
「これ……どうしたの!? いつ怪我を?」
「放った式神、誰かに消されると……こうして傷で返ってくるんや」
「そんな危険があるって知ってたら、止めたのに!」
「だから言わなかったんや」
「もうっ、開き直らないで! とにかく手当て!」
私はハンカチを鞄から取り出そうとして、「あ……」と固まる。
「ハンカチ……持ってない」
「女やろ、そこは持っとき」
「こういうの、タマくん担当……だったから……」
ああ、また……タマくんの名前を呼んだら、胸がちくりとした。
「女子力、昔から高かったんだ……タマくん。でも、タマくんは……私が美琴の生まれ変わりだから世話を焼いてくれてただけ……」
もし、私のことを美琴だと思って接していたのだとしたら、私とタマくんが一緒に過ごした時間はなんだったのだろう。
どんな姿も見せられた、どんな感情も曝け出せた。そんな相手に、私は今……これからどんな顔で会えばいいのかわからないでいる。
「そんなん考えてもしゃあないやろ。本人にしかわからへんことは、直接聞け」
光明さんはズボンのポケットから、紺色のハンカチを取り出した。
「正論な上に女子力高い……」
私はわざとらしく唇を突き出して、光明さんからハンカチを奪い、その手に巻いていく。
そうだよね、本人に聞いてみないとわからないよね。だけど……。
「怖いな……」
「怖いならやめるか? 傷つきたないなら逃げるか?」
「に、逃げない! それだけは、絶対にしない」
怖いけど、傷つくかもしれないけど、傷ついてもいいから、知りたい。
光明さんのおかげで、はっきり自分の心が固まっていくのがわかる。私の顔を見た光明さんは、なぜか満足そうにふっと笑みをこぼした。
「心決まったみたいやな。ええ顔してる」
「ふふっ、光明さんのおかげ。本当にありが──」
言いかけたとき、身体がぐんっと宙へと上がる。
「きゃああああっ」
視界を過ぎる二股の尻尾。私は見覚えのある焦げ茶色の大きな猫又の口に咥えられていた。
「美鈴!」
地上が遠ざかり、私を追いかけて走る光明さんの姿が豆粒みたいに小さくなっていく。
振り返って自分を連れ去ろうとしている張本人の姿を確かめると、心臓がドクンッと跳ねた。
「……タマくん……」
「迎えに来た。きみが……探してるみたいだったから」
それが好意的なものなのかは別として、なにか目的があってのことなのかもしれないけれど、私もタマくんに会いたかった。
「……うん、探してた」
タマくんはなにも言わなかった。静かに目線を前に戻し、私を攫う。
こんなにも近くにいるのに、誰よりも信じていた人なのに、その心はなにひとつ汲み取れない。だからこそ、私は抵抗せずに身を委ねた。大切な人の気持ちを知るために。
タマくんは商店街を突き抜けた先、山の中腹あたりにある古びた鳥居の前に降り立った。
中は錆びれた神社がぽつんと立っているだけで、参拝客が来るような雰囲気ではない。
人型に戻ったタマくんは灰色の着物を身に着けていた。そして、猫又の耳や尻尾を隠さずに歩き出す。
「ここは?」
「中に入ればわかる」
私の知るタマくんの口調はいつも柔らかくゆっくりで、聞いていてほっとする声だった。
だけど……こんなに抑揚のない話し方もするんだ。
ううん、本当はときどき感じてた。そう、光明さんと出会ってから、少しずつだけど、その片鱗を見せていた気がする。
日和りそうになる心を叱咤して、彼の背を追い、鳥居を潜ると……。
「「「「「「「姫様」」」」」」」
桜吹雪く境内で、一斉にひれ伏す老若男女。ざっと三十名ほどだろうか、着物姿の彼らは皆、猫耳や尻尾を持っている。
しかも昼間の青空はどこへやら、頭上にはオーロラのようなものがかかった濃紺の星空。こじんまりとして古びていた神社は、朱色の立派な神宮へと姿を変えていた。
「嘘……どういう仕掛けなの? それに、ここにいるのって……」
「ここは猫又が生き延びるために作った隠れ里みたいなものだよ。不本意だけど、安倍晴明が僕に託した幻術の札のおかげで、人間の目には誰も立ち寄りたがらない古びた神社に映る」
「じゃあ、これが本当の神社の姿……」
周りを見回せば、境内も鳥居を潜る前に見たものより、うんと広い。
「そして……ここにいるのは全員、猫又だよ。美琴は全滅したと思ってたみたいだけどね、僕が逃がした猫又たちが所帯を持って、ここまで数を増やしたんだ。って言っても、八百年経ってもこの数だけどね」
「それだけ、助けられた猫又の数が少なかったってことだよね。……タマくん、私をここに連れてきたのは……なんで?」
少し前に立っていたタマくんは、意味ありげに沈黙する。
やがて、ゆっくり私のほうに身体を向けると、そうするのが当然のように跪いた。
「姫様、あなたに私たちを導いてほしいからです」
ぐらぐらと、視界が揺れる。
「今こそ、私たちからあなたを奪い、多くの同胞を手にかけた陰陽師や人間への復讐を果たす時。生き残ったあやかし七衆を見つけ出すのです」
タマくんに賛同するように、雄叫びを上げる猫又たち。
復讐に燃えるみんなの声が遠くなり、まるで水の中にいるみたいにぼわぼわと聞こえる。
深い……深すぎる、みんなの怒りが、憎悪が──。
でも、憎悪に任せて人を傷つければ、憎み憎まれ、狩り狩られるをまた繰り返すことになる。
「復讐ってなにをするの? 妖刀をばら撒いたこととなにか関係がある?」
「狂って同族同士で殺し合ってくれれるのが、いちばん手っ取り早いですからね」
「そんなの……っ、すぐに陰陽師たちに嗅ぎつけられる! 現に、もうバレて妖刀を回収して回ってるんだよ? みんな、退治されちゃうかもしれないっ」
「嗅ぎつけられていいんですよ。これは布石です、戦いの火蓋を切って落とすための」
「え……?」
少しの焦りも見せず、それどころか待ち望んでいるとばかりに口端を上げるタマくん。彼から漂う不穏な気配に、手には汗が滲む。
「私が陰陽寮の所長と手を組んでいた理由を知りたがっていましたね。それがこれなんですよ。あやかしと人間を敵対させる、その目的が一致したからです」
「なっ……なんで所長さんはそんなことを……」
「さあ? 向こうの事情は知りませんが、陰陽寮の所長はあやかしと人が敵対するためには、前世で夫婦だったあなたたちを会わせるのは危険だと踏んでいたようです」
だから所長さんは、私の家に結界を張ったんだ。
「ですが私は、あなたが晴明の生まれ変わりと会おうが会うまいが、どちらでもよかった。むしろあいつのそばにいれば、あなたはあやかしに心を寄せ、魔性の瞳を使わずにはいられなくなる。そうすれば、あなたを猫又として覚醒させることができますからね」
なら私は、まんまとタマくんの術中にはまったというわけだ。魔性の瞳をコントロールできなくなるほど、あやかしになりかけているのだから。
「姫様、どうか我らを鼓舞してくださいませ」
「この身を懸けて、人間どもを殺し尽くしてみせます!」
次々とかけられる言葉の意味を理解したくないと、頭が拒否しているのだろう。ズキズキと眉間の辺りが痛みだす。
「私は……人間だよ? 前世が、この魂があやかしなのかもしれなくても、二十三年間、人間として生きてきたんだよ。それなのに、私に人間が殺せるわけがない」
「なにを言います、あなたは猫又の姫です。あなただって憎んでいるでしょう、人間を」
タマくんの他人行儀な口調や態度に、これまで築いてきた関係がガラガラと崩れ落ちていくような錯覚に陥る。
「私が人間を憎んでる? そんなこと、一度も思ったことないよ。……ねえ、タマくん。それは……」
唇が震えた。口に出してしまったら、認めざるを得なくなる。でも、もううやむやにもできないのだ。タマくんが、私を見ていないことを。
「タマくんが言うあなたって、美琴のことでしょう? 美鈴じゃない」
「同じ魂を持っているのですから、どちらもあなたです」
「──っ、違う! 私は……っ」
「美鈴だ」と紡いだ声が、ドゴオオオンッというけたたましい音と地響きに掻き消える。景色がぐにゃりと歪み、そして──。
「歴代最高の陰陽師と謳われた安倍晴明の札も、八百年も使えばガタが来るってことかな。とはいえ、探すのに手間取ったよ」
この声……!
鳥居を振り返れば、数十人の陰陽師を率いる所長さんの姿があった。猫又たちは獣に化けると毛を逆立てる。
「こちらの準備は待ってくれない、というわけですか」
タマくんは私を庇うように前に出た。
「あやかし七衆と手を組まれては面倒だからね」
やれ、と所長さんが手を挙げると、一斉に陰陽師たちが術を唱え始める。
だが、タマくんも腕をすっと横に伸ばし、「唱えさせるな」と猫又たちに指示を飛ばす。
彼らは迷いなくシャーッと威嚇しながら陰陽師に噛みつき、術を食い止めていった。
「発動する前に叩けば、お前たちは脅威にすらならない」
不敵に口端を上げるタマくんだったが、所長さんも余裕の笑みを浮かべている。
爆風や悲鳴がこだまする中、その変わらない態度に不安が胸の内で渦巻く。
「悪いね、こちらも優秀な陰陽師を失うわけにはいかないんだ」
パチンッと指を鳴らす所長さん。その足元に現れた五芒星が青白い光を放ち、所長さんの背後から頭と尾が八つずつある巨大な蛇が現れた。
「あ……ああ……なんなの、あれ……」
膝頭がガクガクと震える。奥歯が鳴り、私は息をするのすら恐ろしくて両手で口を塞いだ。金のぎょろっとした目が、射殺さんとばかりにこちらに向けられている。
「八岐大蛇(やまたのおろち)、私の悪業罰示式神(あくぎょうばっししきがみ)だよ」
「そんな上位式神を使うなんて、本気で僕たちを殺しに来たってわけか」
たぶん、ずっと一緒にいた私にしかわからないほどの些細な変化だけれど、タマくんの声にも少しの動揺が滲んだ。間違いなく、この状況は分が悪いのだろう。
八岐大蛇とか、神話に詳しくない私でも知っている。
確か大酒を好み、毎年ひとりずつ娘を食ったとか。そうやって、今度は猫又たちを喰らうつもりだろうか。
「……っ、タマくん」
私は彼の着物の裾を引いた。
「みんなを……逃がさないと……でないと、殺されちゃう……やっと会えたのに……」
なんでか、涙が頬を伝う。これは仲間を奪われたくないという、美琴の思いでもあるのかもしれない。
「美鈴……」
私の名を呼んでくれた。美琴じゃなくて美鈴と向き合ってくれている今なら、タマくんを止められるかもしれない。
そんな希望が見えた矢先、ぎゃああああっという悲鳴が聞こえた。
声のほうへ目をやれば、八岐大蛇は八つの牙で次々と猫又の腹に噛みつき、貪り食っていた。
それを目の当たりにした瞬間、うっと吐き気がしてその場に蹲る。
「おえっ……はあっ……はあっ……なんて、ことを……っ」
涙なのか、唾液なのか、俯いた先にある地面を濡らしていく。
「吞気に話している場合かな、あっという間に全滅するよ」
穏やかな口調で、残酷なことを述べる所長さんを恐る恐る見上げる。
その口元には笑みが浮かんでいるのに、瞳は虫けらでも見るように冷酷だった。
「姫、ここを離れましょう。立て直しを図るのです」
タマくんが私の両脇に腕を差し込んで立ち上がらせようとするが、足に力が入らない。それに、ここから動く気にもなれなかった。
「みんな……逃げ、て……逃げて……」
「ここは彼らに任せるしかありません。あなたさえ生きていれば、いつでも立て直せる」
「……なに言ってるの? いつでもっていつ? また何百年も経ったあと? こんなこと、何度繰り返すつもりなの!」
「姫……」
「私は姫じゃない! 猫井美鈴だよ!」
どんっとタマくんを突き飛ばし、腹の底で煮えたぎる怒りを糧に立ち上がる。
「私だけじゃダメだんだよ、みんながいなきゃ!」
陰陽師も猫又も仲間を殺され、怒りに敵(かたき)を取ろうと殺し合っている。ここには怒りしかなかった、殺意しかなかった。
「なんのために言葉があるの、なんのために考える頭があるの、なんのために悲しみ喜ぶ心があると思ってるの? 分かり合えない相手とも、分かり合うためだよ!」
怒鳴れば、所長さんは鼻で笑った。
「美鈴さんはまだ二十三だったね、まだ子供だ。世間に出たばかりで、理想だけじゃどうにもならないことがあるって、わからないんだろう」
「なにが言いたいんですか」
「どれだけ心を尽くしても恩を仇で返す連中はいる、それがあやかしだ。あいつらは馬鹿のひとつ覚えみたいに人間を喰らう。それ以外の知能など持ち合わせていない獣だよ」
無機質に響く所長さんの口上、それはいつもの穏やかさがないからこそ本心から出た言葉だとわかった。
こっちのほうが、いつもの飄々とした態度よりずっと信用できる。
「なにが……所長さんをそんなふうに偏った考え方にさせたんですか?」
「偏った考え方ではないよ、これが世の心理なんだ。犠牲失くしては目的は達成できない、甘さや優しさなどでは大事な者は守れない。非道だろうと、確実な方法を取る責任が私にはある」
所長さんの中に、その考えを曲げられない確固たる理由があるのが伝わってくる。
でも、『はい、そうですか』と容認はできない。私は所長さんが経験したものを知らないし、私の心は私だけのものだから、自分で信じたものしか選べない。
「所長さんはきっと、その甘さや優しさのせいで、とても大切なものを失くしたんですね」
所長さんが息を詰まらせるのがかわかり、やっぱりそうなんだと小さく苦笑いする。
「それがどうしてなのかはわかりません。だけど……甘さや優しさがなくたって、私たち……こうして傷つけ合ってるじゃないですか。憎しみや復讐心に駆られてたって、大事な者は守れないのでは?」
はっとしたのは、所長さんだけでなくタマくんもだった。
よかった、まだ私の言葉は届く。魔性の瞳で命令しなくても、ちゃんと。
「もし、それでも怒りが収まらないのなら、私を煮るなり焼くなりしてください」
両手を広げて無抵抗だと意思表示すれば、タマくんが私の肩を掴んで自分のほうへ振り向かせる。
「僕がそんなこと、許すわけないだろ!」
怒りと悲痛が滲んだ彼の顔が間近に迫り、胸が痛む。
ごめんね、と心の中で謝りながら、私は魔性の瞳を発動させた。
「──私の意思を縛りつけることはできない。たとえ、タマくんであっても」
うっとタマくんが小さく声を漏らし、私からぎこちなく手を離す。
タマくんの思惑のおかげで、随分と力が身体に馴染んできている。
彼を制御下におけているという確かな手応えがあった。
「その代わり、ここにいる猫又たちは傷つけないでください。猫又たちにも、あなたたちを傷つけさせないから」
「口約束は信じない質なんだ」
「口約束なんかじゃない」
ぶわっと私の髪が浮き、身体中を熱が駆け巡る。ドクン、ドクンッと脈打つ力の波動を少しずつ大きくしていき、私は息を大きく吸う。
「──この場にいる全員、私の許可なく傷つけ合うことを禁じる」
ピキンッと空気が張りつめる音がして、陰陽師や猫又たちは一斉に動きを止めた。
ね?とばかりに所長さんに向き直れば、その喉がゴクリと上下に動いた。
「ここまで広範囲に術をかけられるまでになっていたとはね。脱帽するよ」
「これで、私の提案を聞き入れてくれますか?」
「……ああ、いいだろう。ひとまずこれで、あやかし七衆の猫又の一族は陰陽師に害成すことはできないからね。人間に手を出されたそのときは、他の陰陽寮の陰陽師を派遣するとしよう」
陰陽師と猫又たちが見守る中、所長さんが私のほうへ歩いてくる。
「美鈴に近づくな! ふざけるなっ、勝手に決めるなよ!」
タマくんが慟哭にも似た叫びをあげる。
でも、魔性の瞳の力が働いているせいで、タマくんは私の意思に反した行動をとることはできない。
私の拘束から逃れようと前のめりになり暴れているが、こちらに足を踏み出せないでいる。
「従者として、幼馴染として、僕はずっと美鈴のそばにいたんだぞ! ずっとあなたを見守ってきた……っ、なのに、また失うのか!」
私は八百年なんて途方もない時間を生きたことがないからわからないけど、大事な人に置いて行かれて、それでも待ち続けるのは……寂しかっただろうな。
「タマくん、私が生まれ変わるのをずっと待ち続けてくれて、ありがとう。私、タマくんのおかげで……家族に捨てられても、おばあちゃんが死んじゃったあとも、寂しくなかった」
「美鈴……」
「だから、タマくんが孤独だった時間も埋められるくらい、一緒にいてあげたかったけど……ごめんね。できそうにない……っ」
笑いたかったのに、涙で声が震える。
悲しいのは、ただ封印されるからではない。またタマくんを、大好きな人たちを置いていかなきゃいけないから。
「誰よりも、ひとりぼっちが寂しくて、悲しくて……つらいこと、知ってるのに……」
タマくん、水珠、赤珠、ポン助、それから……光明さん。
「本当に……ごめんなさい」
後ろから回った所長さんの手が、私の顔を覆う。
「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)──」
所長さんの声が真後ろでして、青白い光が私を包み込んだ。徐々に思考が奪われ、強い眠気に襲われる。
「──封印、急急如律令」
「静紀!」
所長さんの指の隙間から見えたタマくんの泣き出しそうな顔。それが眩い光に薄れていき……重力に逆らえず、私は瞼を閉じた。
***
『──美琴、聞いておるのか』
……え?
瞼を持ち上げると、目の前には絶世の美女がいた。
薄紫の長髪や紫水晶の瞳は気怠げで美しく、アヤメの花が刺繍された藤色の着物は彼女のためにあつらえたよう。
あれ、待って……この人、見たことがある。
この妖艶な彼は女性ではなく男性、そして人間ではなくあやかし──土蜘蛛の紫苑だ。
『紫苑、茶の席でくらいは物騒な話はやめないか』
私の意思に関わらず声が出た。
なぜか私は紫苑とお茶を飲んでいる。
これは夢? そうしようと思っていないのに、この身体は勝手に湯吞みを口に運ぶ。
私がいるのは柱だけで壁がほとんどなく、御簾(みす)や几帳(きちょう)、屏風(びょうぶ)や衝立(ついたて)で生活空間が仕切られた寝殿造の屋敷。
さっきまで猫又が隠れ住んでいる神宮にいたはずなのだが、これはどういう状況だろう。
夢にしてはお茶の苦さ、空気の温かさをリアルに感じる。
先ほど紫苑に美琴と呼ばれたことといい、これはまさか……美琴だった頃の記憶?
『帝は高額な納税を強いたことで、民からの信を失いつつある。それを挽回するための策として、大々的なあやかし討伐を行うらしい』
帝……ということは、ここは平安時代?
建物の雰囲気や着ているものからするに、きっとそうだろう。
紫苑が人差し指を動かすと、糸がピンッと音を鳴らしながら太陽の光を受けて輝く。
糸は青空のほうへ伸びていて、その先がどこへ繋がっているのかはわからない。
『お前の糸は便利だな。遠くの声も拾えるのか』
美琴がちらりと糸を見やると、紫苑は意味深な笑みを唇のほとりに浮かべた。
『気をつけるのだな、私には美琴と晴明の密事も筒抜けだ』
くだらんと言いたげなため息とともに、美琴は欄干に寄り掛かり、屋敷を囲うようにある池を覗き込んだ。
そこに映ったのは、憂い顔の紅い髪の女性。私と瓜二つだけど、私は彼女ほど凛然としていない。
儚げに見えて、その瞳には芯の強さが宿っている。これが、前世の私……。
『悪趣味だな、紫苑』
耳心地のいい低音がして、美琴がゆっくり声の主を仰ぐ。
後ろで束ねられた夜空を彷彿とさせる濃紺の長髪、静かな深海を思わせる青の瞳。
見る者を惹きつけるその美しい顔貌は、澄んだ水のように清潔感があり、あれは間違いなく……。
『──晴明』
美琴は口元を緩ませながら、愛しい男の名を呼んだ。
『人間を喰らうガマガエルとやらは退治できたのか?』
『いや、あいつは噂ほど悪いやつではなかったからな、話をつけてきた』
美琴と紫苑の頭上に『話を……つけてきた?』という疑問が浮かんでいるのが見える。
『あいつは、正確には人間は喰らっていない。口の中で転がして、味を楽しんでいたらしい。あれだ、水飴みたいなものなんだろう』
呆気にとられているふたりを他所に、晴明さんは至極真面目に報告を続ける。
『だから、ガマガエルの水飴になる仕事を作った。貧困に喘ぐ町民には割のいい仕事みたいでな、今では町いちばんの人気職だ』
晴明さんは至って真顔で言い、美琴の隣に片膝を立てて座った。そこでふたりは限界だったようで、ぶはっと吹き出す。
『美琴、お前の夫はやはり変わり者だな』
紫苑が目に涙をためながら、美琴を指差してからかう。
『私を嫁にする時点で、普通の人間でないことは確かだろうな』
向けられた指を下げさせ、美琴がにやりとしたとき、晴明さんは『なぜだ』と首を傾げる。
『俺が美琴を嫁にしたら、おかしいのか』
『おかしくはないが、強いて言うならば、そういうことを平然と尋ねてくるあたりが異常だな』
夫相手に随分な物言いをして、美琴は晴明さんの長い髪の束を引っ張る。
『俺は美琴を愛している』
『くっ、くっ、くっ……話が嚙み合っておらんな』
ツボに入ってしまったのか、紫苑はお腹を抱えて笑っていた。
晴明さん、ちょっと天然なのかな。毒舌で、氷点下並みにクールな光明さんの前世とは到底思えない。
でも、当たり前だ。私たちは生まれ変わりかもしれないけれど、別の個人なのだから。
『この男は出会った頃から、いろいろと嚙み合ってなかったぞ。あれは冬の日だったか、空腹で倒れていたかと思えば図々しく飯をねだってきてな。うっかり、そう不憫に思って、持ち合わせの握り飯をやったら、こうして懐かれた』
『そうやって食べ物を人間に与えてしまう美琴も、相当だぞ。晴明の気づいたら懐に入り込んでいるところに絆されたというわけか』
『否定はできんな』
苦笑いする美琴に、紫苑は『付き合いきれん』とわざとらしく首を振ってみせ、立ち上がった。
『そろそろ帰ることにしよう、熱に当てられそうだ』
『そうか、今度来るときは土蜘蛛の里名物、蜘蛛糸饅頭を差し入れてくれ』
『あやかしの食べ物を好んで口にするか、やはり晴明は面白い。いいだろう、茶飲み友達の頼みだからな』
ひらひらと手を振りながら歩いていく紫苑だったが、ふいに足を止める。
『……美琴、帝は特にあやかし七衆の首を狙っておる。死ぬなよ、いちばん気の合うお前を失うのは……堪えるからな』
こちらを見ずに去っていく紫苑。美琴が『ああ、わかっている……』とか細く答え目を伏せると、その肩を晴明さんが抱き寄せた。
『朝廷から、あやかしの討伐命令が出るかもしれん』
『民からの心証をよくするため、あやかしを狩る……体のいい必要悪だな。ただ……一族の中には戦えない者もいる』
『美琴』
『討伐命令が出る前に、対策を講じなければ……』
『美琴、案ずるな』
晴明さんは不安に飲まれそうになっていた美琴の顔を両手で包み込んだ。
『ふたりで考えるぞ、人間もあやかしも共に生きられる方法を』
晴明さんの真っ直ぐな瞳は、本気でそんな世が来ると信じて疑っていない。
不思議と信じたいと思わせる力が、晴明さんにはあった。
吸い寄せられるように顔が近づき、美琴が目を瞑る。視界が閉ざされ、吐息を感じ、口付けを交わす刹那──。
どこかで炎が爆ぜる音がした。再び瞼を持ち挙げれば、私は……美琴は、どこかの村にいた。それも家々が燃えて、夜なのに辺りが明るい。
『なんと惨いことを……』
地面にごろごろと転がっている猫又の女子供の骸から、美琴はすぐに目を背けた。
『姫様! 晴明の話では、討伐命令はまだ出ていないはずでは?』
刀を持った男を鋭い爪で倒し、駆け寄ってきたのは……タマくんだった。
美琴は彼と背をくっつけるようにして、周囲を取り囲む追っ手と睨み合っている。
『あやかしに好意的な晴明に、我らは討てん。初めから晴明には朝廷からの命令はまだ出ていないと伝え、それをあえて私たちの耳に入るようにし、油断しているところを叩くつもりだったのだろう』
『だとしても、こちらには紫苑殿の糸があります。そのような策略も筒抜けだったはずでは?』
『紫苑とは茶会のあとから連絡が取れておらぬ。もしかしたら、すでに討たれたやも……』
美琴は苦しげに眉を寄せ、すぐに息を吐いて顔を上げる。悲しんでいる暇も、彼女にはなかったのだ。
『とにかく生き残っている仲間を見つけ出し、避難させるのだ。玉貴、頼めるか』
『姫様はどうなさるおつもりですか?』
『私はここでできるだけ、敵を足止めする』
『なりません! それは私が……っ』
振り返ったタマくんに、美琴は語気を強めて言う。
『聞き分けろ、玉貴。帝は特にあやかし七衆の首を欲している。自身で悪を退治したと見せびらかすまで、すぐにこの首は取らん。その隙になにがなんでも逃げ出す。だが、それ以外のあやかしはそうはいかない。わかるだろう?』
『……っ、はい……あやかしの頭だからこそ、討てば功績も大きいですが、私たち下っ端では影響力はさほどありません。ですから、すぐに殺されてしまう』
『そうだ。私も死ぬ気はない、そしてお前たちを死なせる気もない。だから、そのための最善策だ』
『承知……いたしました』
悔しさを堪えるように唇を噛んで俯くタマくんの手に、美琴は手を添える。
『お前は、私の最も信頼している剣……。お前にしか頼めぬ、どうか一族の皆を守ってくれ』
『くっ……御意に』
頷いたタマくんの頬には涙が伝っている。美琴は弟に向けるような優しい眼差しを彼に注いだあと、静かに敵を見据えた。
『──全員、動くな』
魔性の瞳で人間たちの動きを封じ、『今のうちに行け』とタマくんの背を押す。
タマくんは泣きながら、大きな猫又に化けて里の猫又たちを助けるべく飛んでいった。
『さて……』
拘束した人間たちを見回しながら、美琴は自嘲的に笑う。そのときだった、美琴の想いが、私にも伝わってくる。
──奇襲を受けたこの里に、生き残った猫又はどれほどいるのだろうか。ろくな対策もできぬまま、一方的に狩られるだけだった。望みは薄いが、玉貴を信じるしかない。
──そして、晴明は私たちを助けられぬよう、朝廷に拘束されているだろう。それどころか、朝廷からあやかしの討伐命令が出た以上、陰陽師である晴明は私を殺さねばなるまい。そうしなければ、死罪になる可能性すらある。
『すまないな、玉貴。私は……夫を助けなければならん』
──いや、違うな。
『助けたいのだ、私が……』
──夫が私を匿ったとして、罪に問われることがないように……。
美琴は魔性の瞳の力を解く。自由になった兵たちは戸惑っていたが、美琴は『私を連れていけ』と両手を広げた。
『お前たちに捕まろう』
──そして陰陽師に葬られる。それが夫を救う最善の策だ。
そこへビュンッ、ビュンッと無数の光る矢が飛んできて、美琴の背を射抜く。
『ぐうっ』とうめいて地面に倒れ込んだ美琴を、容赦なく兵たちは刀で斬りつけた。
そのときの痛みは私にも伝わってきて、言葉にならない、息もできないほどの激痛だった。
痛いっ、痛いっ、痛い……! こんなの人間のすることじゃない……っ。人間のほうが、よっぽど恐ろしい化け物だ!
光の矢が刺さったところから、力が抜けていく。
ぐったりとした美琴は荷物のように馬に乗せられ、やがて立派な屋敷の広場に乱暴に転がされた。
私はここを知っている、朝廷の敷地内にある陰陽寮だ。何十人といる矢を構えた陰陽師たちに囲まれ、刺すような空気が漂っている。
ここに、美琴の味方はどこにもいなかった。なにがあっても美しく降り注ぐ桜の雨、それすらも美琴の心を冷たくしているのがわかる。
結界に囚われ、うつ伏せに倒れている美琴の身体の下には血だまりができている。
桜が咲いているので春だとは思うが、寒くて仕方なかった。
【死】という文字が頭を過ぎったとき、また美琴の心が流れ込んでくる。
──痛い、寒い、苦しい、憎い……。生き残った仲間はいるだろうか? 山の中に築いた隠れ里も見つかり、女も子供も皆殺しだった。きっと、もう誰も──。
『あやかしなど、知性のない獣と同じ。生かす価値もないわ』
陰陽師の言葉に、美琴はギリッと奥歯を噛む。そんな彼女を陰陽師たちは蔑むように笑った。
『あの耳と尾を見よ。まさに獣』
──私たちあやかしが獣なら、お前たち人間は慈悲の欠片もない化け物だ。
また、美琴の心が聞こえてくる。でも、美琴は人間を憎みきれないのだろう。人にも、あやかしに理解を示す者がいると知ってしまったから……そう、晴明さんのように。
そこへ仲間の陰陽師に引きずられるようにして、ひとりの男が連れてこられた。美琴は土を握りしめ、力を振り絞るように顔を上げる。
『……なぜ、なぜ逃げなかった、美琴(みこと)』
後ろ手に縛られ、美琴の前へと突き出されたのは晴明さんだ。
泣き出しそうな顔をしている晴明さんを目にした瞬間、美琴の心が震えたのがわかった。
──あの後ろで束ねられた、夜空を彷彿とさせる濃紺の長髪を梳いてやりたい。静かな深海を思わせる青の瞳も、ずっと眺めていたい。でも、これで見納めか……。
美琴の心を知って、私は光明さんと出会ったときに彼に触れたくてたまらなくなった理由が腑に落ちた。
懐かしくて、切なくて、悲しくて、悔しくて、そして──愛しい。
涙とともに溢れた、たくさんの感情。あれは美琴の、晴明さんへの想いだったのだ。
あのとき、手が勝手に光明さんの髪に伸びた。どうしてか、優しく梳いてあげたくてたまらなかった。いつまでも彼の瞳を眺めていたい、そう思った。
あれは全部、美琴が晴明さんにしてあげたかったことだったのだ。
美琴は自嘲的な笑みを口元に浮かべる。
──なぜ逃げなかったのか、利口なお前なら気づいているだろうに。
そうだよ、愛した夫を置いていける妻なんているわけがない。
陰陽寮に属している以上、晴明さんは朝廷の者。朝廷に、帝に逆らえば、晴明さんは反逆者として殺されてしまうのに、ひとりで逃げられるわけがない。
『その者を殺せ、晴明』
御簾の向こうから、しゃがれた声で非情な命令を下すのは、恐らく帝だ。
『できませぬ! たとえ、帝の命だろうと!』
『なんと……我の命が聞けぬと言うか! 陰陽寮きっての陰陽師だからと、図に乗るでない! その首、跳ねてもよいのだぞ……!』
『その御心の済むようになさればいい。妻を見殺しにするくらいなら、死んだほうがマシです』
怒りに震える帝に、なお食ってかかろうとする晴明さん。美琴は『やめろ……晴明……』と声を絞り出す。
あやかしを守る立場にいる美琴と、人間を守る側にいる晴明さん。
正反対の立場にいるふたりの仲を『イカレた男だ』『あやかしを娶るとは』と侮辱する者はいても、理解できる者はいなかった。
──私は、あやかしを守る立場にいる。それなのに、人間の……それも陰陽師を夫に迎えた時点で、仲間を裏切ったも同然の私が、人間を憎みきれないこと。これ以上、散っていった仲間に顔向けできない真似はするべきじゃない。
──全てを敵に回しても夫と生きていきたいなどと、言えるはずもない。許されない。
──そして、守るべき仲間たちがもうこの世にいないのなら、果たすべき責任は死地への旅に付き添うことの他にはないだろう。それで夫も、私を匿ったとして罪に問われることもあるまい。
『あやかしと陰陽師……私とお前は、そもそも相容れない存在だったのだ……』
どこか言い聞かせるような語り口に、晴明さんは眉をいっそう寄せ、涙で目を濡らす。
『そんなこと、初めからわかっていたはずた。それでも俺は、お前を愛した』
その言葉を聞いた途端、美琴の頬に……私の頬にも、つううっと涙が伝っていく。
──私も、愛したからこの運命を選んだ。
──お互いの立場を考えれば、いつかこうなることはわかっていた。それでも、限られた時間を共に生きることこそ私の幸せだと、そう信じて……。
ただ、それは強がりだったかもしれないと、美琴は晴明さんを前にして気づいてしまったのだ。
この涙がなによりの証。美琴は本当は、もっとずっと晴明さんと生きていきたかったのだ。
でも、包み隠さずその気持ちを口にしようものなら、晴明さんが泣くから……だから、美琴は言わない。
その想いを胸の奥深くにしまい、蓋をして逝こうとしている。
わかってしまう、私が美琴ならそうするだろうから。
『……晴明。なにも遺してやれず、すまない』
陰陽師たちが呪文を唱えると共に指で印を切る。眩い光が美琴を包み、愛する夫の姿を霞ませていく。
絶命させられそうになっているというのに、美琴は自分の死よりも晴明さんが悲しむことを恐れていた。
『やめろ……!! 美琴がなにをした!? あやかしにも、善良な者はいる! なぜそれがわからない!』
悲痛な晴明さんの叫びだけが響いている。
──ああ、今宵の月が悲しげな色を放っているのも、桜が天の涙のように見えるのも、お前の心が泣いているからか──。
『美琴──!!』
鼓膜をつんざくような爆発音とともに、視界が一気に白に染まる。
身体の感覚という感覚が消えていき、痛みも寒さも感じない。
薄れゆく意識の中で、無情な世界に残された夫を想う美琴の心の声が聞こえる。
──来世で……また会おう。再び巡り逢えたら、私たちは間違いなく……惹かれ合うだろうから。
***
「はあっ、はっ……っ、美鈴!」
俺は目の前で猫又──魚住に攫われていく美鈴を追いかけていた。
美鈴のいる宙を仰ぎ、通行人にぶつかりながら全力で走るも、その姿は見えなくなる。
「くそっ」
そばにおったのに、あないに簡単に奪われて、自分が情けのうてしゃあない。
無力感に苛まれる俺に追い打ちをかけるように、メガネをかけた黒いスーツの男が行く手を阻んでくる。
「……比呂さん」
ここに所長の補佐役である比呂さんがおるってことは、所長がなんか企んでるのか?
魚住と関係あるのかはわからへんが、あまりええ状況とは言えへんな。
「邪魔する気なら、こっちも本気で相手させてもらうさかい」
「お前は陰陽師だろう、戻ってくる気はないのか。人生、棒に振る気か」
「陰陽師だからや!」
声を張る俺に、比呂さんはわずかに目を見開いた。
「人を傷つけるさかい殺すって言うんなら、犯罪者も熊もイノシシも人を襲うたら殺してええってことになる。このご時世、罪人にだって生きる権利があるんですよ。そやのに、俺らのやってきたことは人殺しと変わらへんと違いますか」
陰陽師やさかい、あやかしの肩を持つんはおかしい。その固定概念が、どれだけ視野を狭めているのか、人としての善悪を捻じ曲げているのかに陰陽師たちは気づいていない。
「非道なのは、理由も聞かへんであやかしを滅してきた陰陽師のほうや。人間同士の揉め事には法律があるけど、人とあやかしの問題にはそれがあらへん。そやさかい、こないな殺戮がまかり通るんや。いつか、あやかしに報復されてもおかしない」
そして繰り返すんや、憎み憎まれ、殺し殺され……悲劇を何度も。
「そやさかい、俺は戻りません。美鈴が封印される理由も納得いきませんから」
「あの子が好きなのか」
「……は?」
堅物で極悪面の比呂さんの口から、愛だの恋だのという類の話が飛び出すとは思っておらず、間抜けな返しをしてしまう。
でも、ああ……そうか。あいつが心細そうにしてると、ほっとけへん思うんは……俺が美鈴のこと、好きやったからか。
こないな大事なこと、あいつがいーひんようになってから自覚するなんて……俺、アホすぎるやろ。
「そうですね、俺はあいつが好きです。そやさかい、あやかしの味方をするってわけちゃう。あやかしも人も対等に見つめる美鈴を見て、俺もそうするのが正しいって自分で考えてそう思ただけや」
「……そうか。なら、お前は大事な人を失わないように足掻け」
愚かだと、俺の考えを突っぱねられると思っていた。でも、予想に反した答えが返ってきて、俺は自分の耳を疑いながら尋ねる。
「比呂さん……俺を止めないんですか」
「……立場的には止めるべきだろうな。だが……これは個人的な事情だ」
比呂さんの個人的な事情ってなんや?
眉を寄せる俺に、比呂さんは苦笑をこぼす。
「英城は……所長は、あやかしに婚約者を殺されている。歳は猫井さんと同じくらいだったはずだ。雪奈(ゆきな)といってな、俺の妹でもあった」
「なっ……」
殺されている。それを聞いて驚いたが、ときどき所長から底知れない闇を感じていたのはこのことだったのかと納得もする。
俺も奪われ、憎んだことがあるからわかるのだ。どれだけ明るく振る舞っていても、普通のふりをしてきても、憎悪の影は隠しきれない。
「俺たちの家は代々陰陽師の家系だったんだが、雪奈の力はさほど強くはなく、俺や英城のようにあやかしを滅する陰陽師として育てられなかった。ただ、あやかしを見ることはできた雪奈は、あやかしに対しても分け隔てなく優しかったんだ」
「所長は、あやかしは滅するべきものや思てるやろ。雪奈さんと意見がぶつかったんちゃいますか」
「納得はしていなかったが、今のお前のように雪奈の考え方を理解しようとしていた。だが、そのせいで英城は雪奈を失った」
「どういうことです?」
「雪奈のところに遊びに来ていた子供のあやかしに食われたんだ。英城も何度も会っていたからな、安心しきっていたんだろう。ふたりを残して家を出て、仕事から帰ったときには……骨ひとつ残っていなかった」
骨ひとつ……そら、無念なんて言葉じゃ足らへんほど、許せへんかったやろうな。
亡骸に縋りつくことも、弔う機会も奪われたんや。それじゃ、いつまでも進めへん。
「なんでや……そのあやかしは、なんで雪奈さんを?」
「腹を空かせていたらしい。それで陰陽師ほどとはいかないが、霊力のある雪奈に近づいた。英城は雪奈の考えを尊重したことを後悔していた」
たった一回の情が、親切が、迷いが、大事な者の命を一瞬にして奪うかもしれないのだ。
それを誰よりも知ってるからこそ、所長は奪われる前に手を打つと言ったのだろう。
「しばらくは抜け殻のようになっていたが、それから数週間ほどして、英城はいつも通り出社してきた」
「復讐するため……ですね」
原動力にするには手っ取り早い起爆剤や。
あやかしの考えなんてどうでもいい、俺の大事な者を奪った、その事実さえあれば十分なのだ。自分を正当化しながら、悲しみを紛らわせることができる。
「……ああ。いつも通りに見えるが、あの日あいつの心も死んだんだろう。茶にタバスコや唐辛子を入れるのも、その痛みで生きていることを実感し、なんのために生きているのかを再確認するためだと気づいたとき、俺は自分の無力さに腹が立った」
所長と比呂さんが旧知の仲なのは知っていたが、それ以上に踏み込めない絆のようなものを感じていた。
友人であり、仲間であり、家族であり、上司と部下でもあり、大事な者を奪われた者同士でもあり……。こんなにも複雑な繋がりだったとは、思いもしなかった。
「子供の頃から付き合いがあったからな、英城と雪奈が惹かれ合うのは自然なことで、俺もふたりが幸せでいられるように尽くそうと思っていた。だが……叶わなかった」
「比呂さん……」
「だから光明、お前の心が死んでしまわぬように彼女を守り切れ。もっと早くこの言葉をかけてやりたかったんだが……」
「比呂さんは、所長の願いを叶えたったかったんやろう? そやさかい、俺の肩を持てへんかった」
「……それが俺にできる唯一のことだと思っていたからな。だが、引き裂かれそうになっているお前たちを見ていて、違うと気づいた。愛し合っているふたりが引き裂かれていいはずがない」
比呂さんもつらかったやろうな。守りたかったふたりを守れなかったと、今も自分を責めている。それでいて俺と美鈴のことを思い、味方になってくれたんや。
「英城は魚住さんと協力関係にあったときから、魚住さんの動向を探っていた。猫又の一族は、生き残ったあやかし七衆とともに人間や陰陽師を襲う気でいる。だから所長は、陰陽師を率いて猫又の隠れ家に向かった」
「猫又の隠れ家……そこに魚住がおるかもしれへん。ちゅうことは、魚住が攫った美鈴も危険やちゅうこっちゃ。すぐに行かな──ぐあっ……」
全身に電撃が走ったような痛みに襲われ、俺はその場に崩れ落ちた。
「……! 光明、どうした!」
比呂さんが駆け寄ってきてくれるが、返事をする余裕がない。
久々やな、この感覚……。
地面についた両手の甲に【呪】の文字がびっしりと浮かんでいる。これが出ているということは、【呪約書】の内容を破ったという証。
【一、俺、安倍晴明の生まれ変わりは猫又である妻の生まれ変わりを守らねばならない】
「美鈴になにかあったんや……」
商店街の向こうにある見える山から、青白い光の柱が上がる。一般人には目視出来ないだろうが、あれは間違いなく……。
「英城の術だ」
「美鈴、待っとき。すぐに助けたる」
呪いが回り、動くたびにビリビリと痺れて痛む身体を無理やり起こし、俺は立ち上がった。
喰迷門は知っている場所でなければ使えない。美鈴がどこにいるかわからない以上、自分の足が頼りだ。
「俺も行こう」
隣に並ぶ比呂さんを、俺は横目で鋭く見据える。
「俺の敵になるんやったら、比呂さんやろうとここで倒すで」
「俺には親友を……妹の大事なやつを守る義務がある。雪奈はあやかしを傷つけることを望まない、それを踏みにじるあいつを止めるんだ。あいつの心を守るために」
「なら、俺らは同士ですね」
「生意気なやつだ」
小さく笑い、俺たちは山へと目を向ける。そして走った、そばにいてやりたい人のもとへと。
「美鈴!」
都会では珍しい山の中腹、オーロラがかかった星空の下に浮世離れした神宮があった。
猫又や陰陽師が倒れている中、青い光の柱の中で眠る美鈴を見つける。
その姿が誰かと被る。そう、着物を纏った、今よりももっと大人びた女の姿と……。
「くっ……」
呪いの影響なのか、そうじゃないかは定かではないが、視界がぐらりと揺れた。
頭痛がして額を押さえた俺は、封印されている美鈴を強く見つめた。
ダブって見えているのは、前世の記憶だろうか。
「……こら俺の人生や」
決して前世の妻を助けたいわけちゃう、俺が……美鈴を助けたいだけや。
呪いに痛む身体を無理やり動かして、俺は立ち尽くしている魚住のもとへ行き、その胸倉を掴む。
「それで? お前はそこでなに突っ立ってるんや」
「美鈴が……魔性の瞳を使ったんだ。ここにいるあやかしは陰陽師を、陰陽師はあやかしを襲えない。そして僕の動きを……封じた。美鈴はあやかしと人が争わないようにするために、自分で望んだんだ……封印されることを」
諦めを滲んだ目を伏せ、投げやりに言う魚住に苛立ちが込み上げた。
「それで、お前はそうして腑抜けてるんか! 攫うといて、簡単にあいつを諦めるんやな」
「覚醒間近の美鈴の力には抗えない! 仕方ないだろ!」
声を荒げた魚住の目から、透明な粒の水滴が瞬きと一緒に弾き出される。
「あいつに魔性の瞳を使わしたお前が悪いんやろう。力を使いたがらへんあいつを追い詰めな、あいつが封印される事態にはならへんかったはずや!」
魚住は「……っ」と息を詰まらせる。
俺の言葉を否定しきれへん時点で、俺の言葉を認めてるのとおんなじなんやぞ、魚住。
「あいつは誰よりも、お前に自分の考えを理解してほしかったはずや。敵対するのも、力で無理やり従わしてお前を止めるのも、しんどかったはずや。そんなこと、お前が誰よりも知ってるやろう!」
黙ってしまう魚住の肩を、乱暴に掴む。
魚住にかけられた魔性の瞳の束縛が解けるのは、俺だけだろう。だから魚住の返答次第では、解放するつもりだった。
「お前は、誰のためになにをしたい」
「それは……姫のために……」
「そら美鈴のことか? それとも美琴のことか?」
「僕に……選べというのか? 美琴への忠誠を貫き、復讐をとるのか……。あやかしの僕にとっては、瞬きと同じくらい短い間しか一緒にいなかった美鈴との穏やかな日々を守るのか……」
「そら、そないにややこしいことか。あいつが封印されたとき、なんもできひんかった。そやさかい、後悔して泣いてるんちゃうんか」
はっと夢から覚めたような顔で、魚住が息を呑んだ。やがて、その瞳から迷いが消え、引き締まった面構えになる。
「自分がなにを本当に望んでいるのか……この涙に教えられるとはね」
魚住は自分の下瞼を人差し指で掬うように撫で、そこに載った涙の粒を見つめると、弱々しく笑った。
「そうだよ、僕は美琴様に仕えた数百年よりも、美琴と過ごした数十年を大事に思っている。僕に……安らぎをくれた彼女が……大事なんだ」
心の奥底にある想いを引きずり出すように言い、魚住は俺に真っ向から相対する。
やっと、ええ顔になったやんか。
「僕は美鈴のために、そして自分のために美鈴を取り戻す」
「よう言うた。臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)──。解術(かいじゅつ)、急急如律令」
俺の手から放たれた青白い光が、魚住の肩に触れている手から広がる。光は魚住の身体を包み込み、固まっていた腕や足に自由を取り戻していく。