縁側の柱に寄りかかるようにして座り、夜の庭を眺める。

陰陽寮から屋敷に帰ってきてからというもの、身体中の空気が抜けたみたいに気力がわかなかった。

『俺たちは協力関係にあったんだよ』

頭の中を堂々巡りするのは、タマくんの声。

『俺も、所長さんとは面識があった。なんせ、美鈴の屋敷に結界を張って、美鈴と安倍さんを会わせないようにしていたのは……所長さんだからね』

 私を見つけなければ、【呪約書】のせいで光明さんは死んでしまう。

その光明さんの事情を知っていて、所長さんは私と会わせないようにした。

所長さんは優秀な陰陽師は失いたくないと前に言っていたから、冷静に考えてみると、光明さんが死んでも構わないとは思っていなかったはず。

 ……じゃあ、私に理由がある? 私を光明さんに会わせたくなかったとか……?

 私のせいで、光明さんは呪いを解けずにいたのだろうか。

『俺も利害の一致で、結界のことは黙っていた。俺たちは協力関係にあったんだよ』

 タマくんは私に秘密で、所長さんとなにかを企んでいた。なんでも話せる相手だと思っていたのは、私だけだったのだろうか。

 また、頭が重たくなってくる。

『美鈴、人間を信じすぎるな』

 ずっとそばにいたのに、なにも気づけなかった。タマくんがあやかしだったことも、タマくんの考えも、なにひとつ……。

 私の能天気さが、タマくんをひとりで行かせたのかな……。

 抱えた膝の間に顔を埋めていると、隣に誰かが座る音がした。少しだけ面を上げれば、光明さんが澄ました表情で庭のほうを向いている。

 光明さんは私を陰陽寮から連れ帰ったせいで、仕事に行けていない。

それどころか、所長さんたちが私を封印しに来るかもしれないからと、屋敷にも結界を張って守ってくれていて、迷惑をかけっぱなしだ。

 暴走して人を傷つけてしまうくらいなら、封印されたほうがいいのかもしれない。

眠るだけだから死ぬわけじゃないし、光明さんのそばに置いてもらえれば呪約書の項目を破ったことにはならない。

『私は陰陽寮の所長だ。危険は未然に防ぐ必要があるんだよ。私たちの選択ひとつで、大勢の人間が死ぬことになる。言い方は悪いけど、ひとりの犠牲で済むのなら、こうする他ないんだ』

 光明さんが呪いに苦しまないのなら、私ひとりの犠牲で済むのなら、他に迷う理由なんてあるのかな。

迷惑をかける規模が違う、私の望みを押し通していいことじゃない。

 ここはもう私の家だって光明さんは言ってくれたけど、私……本当ここにいていいのかな?

 光明さんの纏う空気は夜のそれに似て静かで、心地がいい。波立っていた心が落ち着いてくる。

「……なにをあれこれ悩んでんねん」

 長い長い沈黙のあと、光明さんはぽつりと問いかけてきた。

素直に心の内を曝け出してしまえたなら、どんなに楽か。でもそんなことをしたら、光明さんを困らせる。

 答えに窮していると、光明さんはため息をついた。

「魚谷がいーひんようになったのは、お前のせいじゃない。それに俺は、お前がここにおること、迷惑やなんて思てもいーひん」

 心を見透かされているみたいだ。

「どうして……」と、呟きが勝手に唇の隙間からこぼれ出る。

 光明さんは首筋に手を当て、私から目を逸らした。

「アホか、そないな捨て猫みたいな顔しとったら誰でも気づくわ」

 ぶっきらぼうな言い方だけれど、私を心配してくれているのだ。

誰でもじゃない、私の考えがわかるのはきっと光明さんだけだ。

「いつもと逆やな」

 光明さんが笑い交じりに言うものだから、私はなにがだろう?と首を傾げた。すると、光明さんの唇が寂しげな弧を描く。

「いつもはお前のほうがわーわーやかましいのに、今は俺がひとりでぺらぺら喋ってる。……最近はめっきり静かやな、どないしたんや」

「光明さんは……そのほうがいいでしょう?」

「……やかましいんは好かん」

 やっぱりと落胆しかけたとき、「けど……」と光明さんは続ける。

「最近は、そうでもあらへん思うんや。お前の声聞こえな……調子狂う」

「え……」

 ゆっくり瞬きをすれば、光明さんはようやくこっちを見る。

視線が絡み合い、まるで時間が止まったかのように、木の葉を揺らしていた風音が遠くなる。

世界が透明になったみたいに、光明さんしか瞳に映らない。

「……耳と尻尾、出てるし垂れてんで」

 光明さんの手が私の耳をふにふにと軽く触りながら撫でてくる。

 最近では興奮したり驚いたりしなくても、意識していないと耳や尻尾が出てきてしまう。

これも私があやかしになりかけている証拠なのだろう。

再び気分が沈みそうになったとき、光明さんが「こら便利やな」と至極真面目な面持ちでやんわりと私の両耳を引っ張る。

「お前が地蔵みたいに黙っとっても、この耳と尻尾を見とったら、落ち込んでるのかそうちゃうんか教えてくれるさかい」

 ほんと、今日は光明さんがよく喋る。それも私のためだと思うと、胸がじんわりと温かくなった。

「まあ、俺が見落としても、ここにはお前のこと心配してるやつらが他にもおるさかいな」

 光明さんの視線が居間のほうに移る。つられて振り返れば、そこにはおにぎりが載ったお盆を持つ水珠と、ふんっと鼻を鳴らしつつそっぽを向く赤珠、それから心配そうに目をウルウルさせているポン助がいた。

「……お嫁様、その……夕飯……あまり、手をつけていなかったみたいなので……」

 近寄ってきた水珠が、そそそっと私にお盆を近づける。

平皿の上にはテカテカの真っ白いおにぎりがふたつに、たくあんやきゅうりの香の物が添えられていた。

「これ……塩おにぎり……?」

 でも、ふたつのうちひとつは三角ではなくまん丸だ。それも表面はボコボコ。

「兄さんは……おにぎりを握ったり、盛り付けをするのが……苦手なんです」

「うるせえ! 食えれば形なんてどうでもいいんだよ!」

 腕を組んで、ぷいっと顔を背ける赤珠。

 苦手なのにおにぎりを握ってくれた理由なんて、考えなくてもわかる。

「……ありがとう、ふたりとも」

 食欲はなかったけれど、その気持ちを受け取りたくて、私は歪なおにぎりを手に取る。

かぷっと噛りつけば、お米そのものの甘い味と、ほんのりちょうどいい塩っ気が口内に広がった。

「おいしい……、おいしい……っ」

 込み上げてくる涙。私は嗚咽ごと、優しい味がするおにぎりを飲み込む。

お腹が膨れていくと、自然と胃のあたりにくすぶっていた不安が押し出されていく。代わりに安心感で満たされていった。

「泣きながらおにぎり食べるなんて、器用なやっちゃな」

「姫様、今日はオラが添い寝して、温めてあげますポン!」

 ポン助が「変化!」と空中で一回転すると、私の前にはベージュのメッシュが入った焦げ茶色の布団一式が。枕に耳と目がついており、ぱちぱちと瞬きをしている。

「これは……ぷっ、使いにくいよ……」

 つい吹き出すと、やったな!という表情でみんなが顔を見合わせる。

 ここへ来てから、私はいろんな真実を知って、そして幼馴染を失った。だけど、逆に得たものもある。それが彼らのいる、私の新しい居場所だ。

 私は手元のおにぎりに視線を落とす。

 今までそばにいてくれた人と今そばにいてくれる人、あやかしと人間……どちらが大切かなんて天秤にはかけられない。

 私は失いかけていた気力を養うようにぱくっと、おにぎりを食べる。

 どちらも大切だから、タマくんとももう一度話がしたい。隠していること、抱えているもの、私にも分けてほしいから──。