決して枕が変わったから眠れなかったわけではない。呪約書のせいで安倍さんと同じ部屋で寝なくてはならず、私は寝不足のまま居間で朝食をとっていた。

 もちろん同じ布団では寝ていない。ただ、隣から聞こえる布擦れの音や寝息が気になって頭が冴えてしまい、ようやく寝付けたのが朝だった。

 昨日、タマくんと一緒に安倍さんの屋敷に居候することに決まり、着替えと仕事に必要な荷物だけを持って再びここへ戻った。

 安部さんの家はありがたいことに私の住んでいる場所から近く、電車で一時間ほどの距離にある。

都内だけれど、静かな田舎を思わせる環境は同じだったので、居心地はいい。

 ただ……と、お味噌汁を啜りながら目線だけを上げる。

食卓を囲むのは、ちらちらとこちらの様子を窺いながら、目が合うたびにびくびくする水珠と……。

その隣で見張るように私とタマくんを睨み、完全に敵視している赤珠。そして……。

 ドバドバと、コーヒーに角砂糖を投入している安倍さん。入れすぎて受け皿に中身がこぼれているが、式神の双子たちはいつもの光景なのか少しも驚いた様子を見せない。

私とタマくんだけが、その異様な光景に食欲を奪われていた。

「「…………」」

 私とタマくんが食器を座卓に置いたのは、ほぼ同時。

「そろそろ、やめたほうがいいんじゃないか?」

 ついにタマくんが切り出した。ひやひやしながらその光景を見守っていると、絶対零度の瞳がタマくんに向けられる。

「なにを」

「それだよ」

 タマくんの視線を辿るように、カップに目を落とした安部さん。

「術には糖分が必要なんや」

 言っている傍から、朝食中だというのにカップの横にある銀の包み紙を開けている。中から出てきたのは、なんとチョコレートだった。

 安部さんは見せつけるように肉じゃがを口に運んだあとで、チョコレートを口に放り込むと、コーヒーで流し込んだ。

「うげっ……病気的なまでの偏食……」

 私が両手で口を覆っていると、ふいに水珠がすくっと立ち上がり、部屋を出て行く。

しばらくして、なにやら香ばしい匂いがしてきた。戻ってきた水珠の手には……。

「アジの塩焼き!」

 ぼんっと耳と尻尾が出てしまう。猫憑きだからなのか、昔から魚料理が大好物だった。

「お口直し……という名の、匂い直しです」

 水珠が私とタマくんの前にアジの塩焼きが載った平皿を置く。

「水珠~っ、ありがとう!」

 満面の笑みでお礼を言うと、水珠は頬を赤らめながら、そそそっと自分の席に戻っていった。

「タマくん、ぜひぜひ頂こう!」

 隣を見れば、タマくんの頭とお尻にも猫の耳と尻尾が。なんというか、イケメンの猫耳は目の保養になる。

 じっと眺めていたら、視線に気づいたタマくんが苦笑いしつつ肩を竦める。

「もう隠す必要もないだろ?」

「確かに。今まで魚料理が出たときは、どうしてたの?」

「死ぬ気で我慢してた。あと、あんまし家でも作らないようにしてたかな。美鈴と家族にせがまれたとき以外は」

 タマくんの家は、ご両親ともに弁護士で多忙。子供の頃から、家事はほとんどタマくんがしていたのだと本人から聞いた。だから、家事スキルが女顔負けのレベルなのだ。

「今まで全然気づかなかったなあ……。じゃあこれからは、思う存分食べて! そして、私にも魚料理たくさん作って!」

「ははっ、美鈴、最後のが本音だろ」

 アジの塩焼きが載った皿をタマくんのほうに押すと、赤珠が「かっ」と不満げな声を出した。

「水珠、お前どっちの味方なんだよ。こいつらは呪い解き終わったら、ただの他人に戻るんだぞ。もてなす必要ないだろ!」

「でも……呪いの解き方……まだ見つかってない……し……」

 それに全員の箸を持つ手が止まり、空気が重たくなる。

「あ、あのう……呪いを解く方法は、まだ見つかってないとのことでしたが、手がかり……みたいなものってあるのでしょうか……」

 手を上げ、ためらいがちに安倍さんを窺い見ると、不機嫌そうにチョコレートをバクバク食べ始める。

 え……聞いちゃいけないことだった? 

けど、呪いが解ける可能性が少しでもあるのと全くないのとじゃ、心持ちが違うし……。

「東京の陰陽寮(おんみょうりょう)なら、ありとあらゆる呪い絡みの案件が舞い込んでくる。そこに在籍してるうちは、手がかりは向こうから勝手に舞い込んでくるやろ」

「おん、みょう……りょう……って?」

「陰陽寮は飛鳥時代、天武天皇によって設置された中務省……陰陽師たちが属しとった機関のこっちゃ」

「飛鳥時代……そんな前から……」

 驚く私に、今度は水珠が静かに口を開く。

「……かつて朝廷の命を受け……陰陽師たちは、占いや呪い払い……あやかし退治……人の手に負えない事件を……解決してきた……のです」

「もぐもぐ……それは今の時代にも……んぐっ、密かに引き継がれてるってことだ。はむっ……もぐもぐ……」

 食べ物を口に入れながら話すものだから、赤珠の前のテーブルには、ご飯粒が飛んでいる。それをさりげなく拭き取る水珠のほうが、お姉さんのようだ。

「つまり、現代の陰陽師は祭儀の日取りや年号決めで政府から助言を求められたり、主にあやかし絡みの問題事を解決する役目を担うてる」

「政府……陰陽師は、お国公認の職業なんですね……」

 そこで赤珠が、「それだけじゃないぞ!」と、箸で私を指した。

「陰陽寮は現在、各都道府県に設置されてる。その中でも陰陽師のエリートが集まる東京本部に、光明様は所属してるんだからな!」

「ん? でも安倍さん、ご出身は京都だって言ってましたよね?」

 私の問いの意味をいち早く理解したタマくんが、『なるほど』という顔をする。

「京都にも陰陽寮があるのに、わざわざ東京に来たのはなんでなんだ? 出世?」

「それもあるけどな、俺はこの呪いを解くために、そこの猫又女を探さなならへんかった」

 猫又女……言い方!

 相変わらずの口の悪さに、内心ツッコミを入れてしまう。

「東京におることはわかっとったさかい、二十歳のときに東京の陰陽寮に転勤したんや。それから七年、こっちにおる」

 じゃあ、安倍さんは今二十七歳?
 ご両親も友達もいる京都から、私を探すためにひとりで東京へ……?

 この家広いし、故郷から離れて暮らすなんて、寂しいだろうな……。

「ちゅうわけで、俺はこれから出社しいひんとならへん。ただ、お前と離れると呪いが発動する可能性があるさかい、今日から俺と同行してもらう」

「……いや、私も仕事があるので……」

「なら辞めろ。人の命と仕事、どっちが大事なんや」

 そんな、横暴な……。

 絶句していると、隣にいたタマくんが呆れ交じりのため息をついた。

「彼女は社会人なんだ、急に仕事を辞められるわけがないだろ」

「手がかりはある言うたけど、呪いが解けるまでに長い時間がかかる可能性もある。やったら、ちゃっちゃと辞めてもうたほうが、会社に迷惑がかからへんやろ。その間の生活は俺が保証する」

「なら、呪いが解けたあとは? 彼女は元の生活に戻らないといけないんだぞ? 彼女の職探しまで面倒を見てくれるのか?」

「面倒を見るのは、呪いが解けるまでだ。そのあとは自分でなんとかしろ」

 タマくんは、もうため息すらつくのがバカバカしいのか、困ったように私を見る。

「美鈴、こんなやつ、見捨てていいんじゃないか?」

「タマくんが毒を吐いた……」

「冗談言ってる場合じゃないよ。あいつ、自分が生き延びるために、きみの人生を滅茶苦茶にする気満々だ」

 まあ、聞いてて、そんな自己中な考えがまかり通るのかと思わなくもないけれど……。

「私の失業と人の命、天秤にかけるまでもないよ。私が見捨てて、安倍さんが死んだりしたら嫌だし」

「そうと決まれば、このあと陰陽寮に行く」

 淡々と述べた安倍さんに、タマくんはまたこめかみを押さえていた。

 そして私は、かりそめとはいえ安倍さんと夫婦になったため、迷惑極まりない寿退社をすることとなった。

 もちろん上司からは『ふざけんな!』と罵倒されたが、全くその通りなので頭が上がらない。

 『人の命がかかってるんです!』と弁解したところで信じてもらえるはずもないし、ただただ平謝り。

 タマくんまで付き合うことなかったのだが、私が心配だからと、一緒になって仕事を辞めてしまった。

『貯蓄はあるから』

 ……なんて言っていたけれど、そんなことは心配していない。タマくんは堅実家なので、その辺はしっかりしているだろう。

 ただ、タマくんは営業部で成績トップだったので、優秀な彼の出世街道を私が潰してしまったのだとしたら、申し訳なさすぎる。

 そんなこんなで、いろいろ心苦しいまま、朝食後に陰陽寮へと向かうこととなった。