旦那様は陰陽師〜猫憑きOLですが、危うく封印されかけてます〜

 誰かの指がそっと目尻を拭う感覚で、目が覚めた。

「嫌な夢でも見た?」

 縁側に寝そべっていた私の顔を、幼馴染のタマくんこと、七歳年上の魚谷玉貴(うおたに たまき)が覗き込んでいる。

 柔らかな焦げ茶色の短髪、真ん中で分けられた前髪から覗く金の瞳。顔が整っているので、黒のハイネックセーターにジーパンというラフな格好ながらも妙に大人の色気がある。これまでタマくん以上のイケメンには出会ったことがない。

「んー……嫌な夢だったような、懐かしかったような?」

 ゆっくり上半身を起こして頬に触れると、涙の跡がある。

 二十三年生きてきて、夢を見て泣いたのは初めてかもしれない。

 濡れた自分の指先を見つめていたら、ぽんぽんと優しく肩を叩かれた。

「とりあえず、昼ご飯でも食べよう。あったかいし、縁側で」

「それは妙案ですな! 賛成賛成、大賛成!」

 両手を上げてはしゃいでいると、タマくんが苦笑いする。

 だが、わかってほしい。タマくんは巷で有名な料理男子なのだ。縁側に運ばれてくるレモンが添えられた唐揚げは見るからにカリカリしていて、よだれが溢れそう。しいたけと花の形にカットされたにんじん、そして鶏肉が入った炊き込みご飯のおにぎりなんて、ひと手間どころかふた手間も三手間もかかっている。

 ぷかぷか浮いているお麩(ふ)と三つ葉のお吸い物も炊き込みご飯に絶対に合うし、小皿に盛られたぬか漬けなんてタマくんお手製のものだ。ぬか床から自分で作れる男は、そういない。というか、私も作れない。

「いただきまーすっ」

 タマくんと縁側に並んで座り、倍速で手を合わせた私は大口でおにぎりにかぶりつく。

「んん~っ、しあわへ~」

 野菜やしいたけ、鶏肉の旨味をたっぷり吸い込んだご飯に感激していたら、ぴょこんっと頭から猫の耳が、お尻から二股に分かれた尻尾が飛び出した。それらは紅みがかった、私の長い髪と同じ毛色をしている。

「美鈴(みすず)、耳と尻尾が出てるよ。家だからいいものの、会社だったらまずいからな?」

 困ったように笑うタマくんは、決して驚いていない。

 それはタマくんが私と同じで、人ならざる者──彼らが言うにはあやかしと呼ぶらしいのだが、そういう類のものが見えるから。それに加え、私──猫井(ねこい)美鈴の〝体質〟を知っているからだ。

 おばあちゃんが私を霊能者的な人に見せたとき、私は生まれたときから猫憑き=猫又という尾がふたつに分かれたあやかしに憑かれているのだと言われたらしい。

 本当かはわからないけれど、実際問題、驚いたりドキドキしたり、興奮するとこうして耳や尻尾が出たり、ひどいときは猫そのものに変化してしまうこともある。それにプラスして、もうひとつ長年の悩みがあるのだが、考えると憂鬱になるだけなので、今はご飯に集中しよう。

「それにしても、悪いね、タマくん。休みの日まで、うちでご飯作ってもらっちゃって」

 私とタマくんは全国展開しているペット用品専門店、『スマイルペット』の本社で働いている。

 タマくんは営業部、私は商品企画部なので部署は違うけれど、家がお隣さんなので行き帰りも一緒。ついでだからと朝晩のご飯だけでなく、お昼のお弁当までお世話になっている。

「だって美鈴、ほっておくとコンビニ弁当かカップ麺ばっかり食べるし、栄養偏るぞ。いつまでも高カロリーなものをサクサク消化できると思ったら、大間違いだからな」

「それ、経験談?」

 ちょうど三十歳のタマくんがしみじみ言うものだから、唐揚げに伸ばしかけた箸をぴたりと止めてしまう。

 高カロリーよ、お前さんは敵なのかい……?

 唐揚げを睨みつけていると、縁側の下からひょこっと一つ目小僧が顔を出した。大きな瞳をキラキラさせ、唐揚げを見つめている。

「なにが悲しいかな、一つ目小僧くん。私の摂取カロリーを減らすため、タマくんの絶品唐揚げを一緒に食べてくれるかい?」

 私は取り皿に唐揚げをいくつか載せ、一つ目小僧にお裾分けした。一つ目小僧はペコリとお辞儀をして、姿を消す。

見える人間が珍しいのか、タマくんの料理が目当てなのか、こうやってうちの庭にはときどきあやかしが入ってくるのだ。

 タマくんも見慣れた光景だからか、平然としている。

「俺のは植物油で揚げたヘルシー唐揚げだから、たんと食べなよ」

「一家に一台、万能幼馴染」

「人を家政婦ロボットみたいに……。そうだ、そろそろばあちゃんの命日だろ? お墓参り、〝おばさんたち〟とはずらして行くか?」

 タマくんは気遣わしげな視線を私に注ぐ。
 〝おばさんたち〟というのは、私の両親のことだ。

「そっか、もうおばあちゃんの命日なんだ……」

 例の体質のせいで両親から気味悪がられ、おばあちゃんに育てられた私。愛されるというのがどれだけ心を満たしてくれることなのか、他人の体温がどれだけ不安を和らげてくれるものなのか、教えてくれたのはおばあちゃんだった。

 私が二十歳のときに亡くなってしまったけれど、この立派な日本家屋を、帰る場所を残してくれた人。

 この家に引っ越してきたからこそ、タマくんとも出会えた。ひとりぼっちの私が、こうして笑っていられるのも幼馴染であるタマくんのおかげ。

 タマくんとは十年以上の付き合いになるので、兄のような存在だ。逆にタマくんも私を妹のように思っているからこそ、こうして半ば同棲状態でうちにいるのだろう。

「親とうっかり会っちゃったら気まずいし、早めに行っとこうかな」

 両親のことを思い出すと、決まって蘇ってくる記憶がある。

 猫に変化する娘を恐れ、『この、【化け物】が』『【気味が悪い】のよ!』と罵倒し、私を物置小屋に閉じ込めたふたりのこと。物置小屋は真っ暗で埃臭くて寒くて、私は家族がいるのに世界にひとりぼっちなのだと絶望した。

 何度扉を叩いても助けなんて来なくて、初めて『いっそ消えてしまいたい』と、そう思って……。

「……美鈴、大丈夫か?」

 心配そうに眉を下げるタマくんにハッとした私は、すぐ笑顔を作った。

「ごめん、なんかお腹いっぱいになってきたら、眠くなっちゃって。ほんと、子供みたいだよね」

 タマくんはなにか言いたげだったけれど、私が突っ込まれたくないのを悟ってくれる。

「……それならいいんだけど。そうだ、お墓参りの話。今年も一緒にいくよ、俺にとってもばあちゃんは本当のばあちゃんみたいな存在だし」

 話題をさりげなく変えてくれるタマくんの優しさが、胸に染みるようだった。 

「じゃ、おばあちゃんが好きだった豆大福持ってかないと!」

「なら、俺作ろうかな」

「豆大福まで作れるの!?」

 私たちがあれやこれや話していたときだった。

『──ここにいたか、愛しい妻よ』

 頭の中で聞いたことがない男の声が響き、「うわっ」と耳を押さえながら立ち上がる。

『──このような小細工を……どうりでなかなか見つからなかいはずだ』

「誰なの!?」

 辺りを見回すも、私たち以外に人影はない。猫耳が出ている状態の私は、遠くの音を拾うことができるし、動物の本能なのか気配にも敏感だ。

 でも、なにも感じられないなんて……今日は調子が悪いとか? いや、それが人間としては普通なんだろうけど。

「美鈴、急にどうしたんだ」

 タマくんは何事だとばかりに目を瞬かせて、私を見上げている。

「タマくんには聞こえてないの?」

 私だけに聞こえる声なのだと理解したとき、パリッとなにかが割れるような音がした。家の周りの景色がぐわんっと歪み、私は草履を足に引っかけながら縁側に出る。

「なにあれ……」

 上を見れば、家を透明なドームのようなものが覆っている。そのてっぺんにひびが入り、亀裂が広がっていくと──パリンッと砕け散って、ドームは完全に消えた。

「ねえ、タマくん! 今の見た!?」

 縁側に座ったままのタマくんを見れば、鋭い眼差しを空に向けていた。

 タマくん……?

 こんなに険しい顔をするタマくんを初めて見た。そのせいか声をかけられずにいると、私の視線に気づいたタマくんがパッといつもの爽やかな笑みを浮かべる。

「ごめん、黙り込んで。最近、難しいクライアントが多くて、ときどき偏頭痛がするんだ」

「ああ、だから怖い顔してたんだ」

 大袈裟なくらい眉を寄せ、指で目尻を引っ張り、つり目にして見せれば、タマくんが「そんなにひどくはないだろう?」と笑う。

 タマくん、さっきの透明なドームみたいなの、見えてなかったっぽいな。私も仕事で疲れてたのかも。疲れ目に幻聴だと、そう思おう。

「ううん、結構いかつい顔だっ──」

『さあ、こっちへおいで』

 まただ、と私は口を閉じた。なんでなのか、胸がざわざわと騒ぎだす。

 得体の知れない声の誘いに乗るなんて、正気とは思えないけど……気になってしょうがない。行かなきゃいけないような、そんな感情に駆り立てられていた。

「……ごめん、タマくん。ご飯、帰ってきたら完食するから!」

 それだけ言って、目的地もわからないままに駆け出した。後ろで「美鈴!?」とタマくんが驚いていたけれど、私は耳と尻尾をしまって家を飛び出す。

 ここは東京の郊外。どこかに引き寄せられるように、畑や山に囲まれた田舎の道を走る。

 すると後ろから、ニャーッ、ニャーッと猫の大合唱が。振り向けば、猫が行列になってあとをついてくる。私が猫憑きだからなのか、昔からよく猫を引き寄せてしまい、こうして目立ってしまうのも悩みのひとつだ。

「あれ、美鈴ちゃん、そんなに急いでどうしたんだい?」

 近所のおばさんが手を振ってくれたので、「ちょっと野暮用です!」と手を振り返した。続けて畑仕事をしていたおじいさんが「これ持ってけー」と、にんじんをどっさり渡してくれる。

「おじさーん、いつもおいしい野菜をありがとう~っ」

 足は止めずにお礼を言えば、おじいさんはそばにいた奥さんと顔を見合わせ、「なんや嵐みたいだのう」とびっくりしていた。

 たぶん、こっちのほうから呼ばれてる気がする。

 ほとんど勘だった。小山を見上げ、私は足をそちらに向ける。
 さほど高くないので、みんなのお散歩コースでもある山の斜面を上りきると──。
 町を一望できる頂上に着いた。その中央には、大きな桜の木がひとつ立っている。

「はあっ、はあっ……」

 この桜の元に行け、と言われているような気がしていた。自然と立ち止まった私は、息を整える。

 そこでふと、桜の木の下に今どき珍しい着物姿の男が蹲っているのに気づいた。

「大丈夫ですか!?」

 慌てて駆け寄ると、紺の着物の衿から見えた男のうなじや手の甲に黒い染みのようなものが浮かんでいるのに気づいた。目を凝らすと、墨で書かれたような【呪】という文字が身体中に浮き出ていて、私は思わずひいっと悲鳴をあげる。

 すると男はゆっくりとこちらを振り向いた。その頬や喉元も【呪】の文字でびっしりと埋め尽くされている。

「……っく、はあ……」

 男は目を伏せながら、苦しげに荒い息をこぼした。

「具合が……悪いんですか?」

 本当に聞きたいのは肌に浮き出ている染みのことだったが、もしまた私にしか見えていないものだったとしたら? さすがに突っ込む勇気はない。

「……っ、誰だ、お前……は……」

 視線を上げた彼と、ようやく目が合う。その瞬間、心臓がドクンッと大きな音を立て、早足で鼓動を刻み始めた。

 な、に……この感覚。懐かしくて、切なくて、悲しくて、悔しくて、そして──愛しくて……。

 ぶわっと、両目から涙が溢れた。同時に彼の深い青の瞳からも涙がこぼれ、その頬を伝っていく。

 時が止まったみたいに、私たちは見つめ合っていた。

 彼の夜空色の髪に、勝手に手が伸びる。さらさらとした毛の一本一本を感じるように、指先で優しく梳いた。どうしてか、そうしたくてたまらなかったのだ。

 いつまでも彼の瞳を眺めていたい。初めて会ったばかりなのに、こんな感情になるなんて、私はどうしちゃったんだろう。

 ややあって、先に我に返った彼がパシッと私の手を払う。

「お前か」

 イントネーションが関西っぽいな……なんて、呑気な感想を抱いてすぐ、彼の冷ややかな双眼から絶対零度の視線が放たれているのに気づき戦慄した。美形だからなおさら、その無表情が醸し出す威圧感が末恐ろしい。

「やっと見つけた。逃がさへんから覚悟しろよ」

「……え、なんの覚悟ですか?」

 彼につられて、私まで訛ってしまった。 

「私、大阪に知り合いなんていないはずなんだけどな……」

 年齢はたぶん、私より年上。こんな高身長なイケメン、タマくん以外に存在したんだ……。

「大阪じゃあらへん、京都出身や。いや、そないなことどないやていい」

 謎の京都弁の男は、私の腕をガシッと掴む。それも言葉通り逃がすまいと、強い力で。

「──悪業罰示式神(あくぎょうばっししきがみ)、喰迷門(くめいもん)、急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!」

 二本の指で空を切り、男は呪文を唱える。

 すると、地面に血色の悪い大きな唇が現れ、ぐわっと口を開けた。ギザギザとした細く尖った歯が顔を覗かせ、身の危険を感じた私は後ずさる。

「なんなの、これ……!」

「来い」

 私の腕を掴み、男は少しのためらいもなく口の中に飛び込む。

「へ──ぎゃあああああああっ!?」
 底なしの穴へと吸い込まれていく。ジェットコースターでもこんなに長くは落ちないだろう。

 胃が浮き、涙と鼻水を垂らしながら失神しかけたとき、徐々に落下速度が落ちていく。そして気づいたときには、バッシャンッと水の中に背中から落ちていた。

 ──溺れ死ぬ!

 ぶはっと慌てて起き上がると、地面にお尻がついている。

「池……?」

 私の周りを泳ぐのは、赤や金のまだら模様が美しい錦鯉。ぽかんとしながら、鯉たちを眺めていたら……。

「帰ったぞ」

 ひとりだけ安全地帯──池の外にいる誘拐犯……じゃなくて京都弁の男が立派な屋敷に向かって声をかける。

「「おかえりなさいませ」」

 中から出てきたのは、十歳くらいの子供がふたり。私と同じで切り揃えられたぱっつん前髪におかっぱ頭、着物までお揃いで、髪色が違わなければ見分けがつかなかっただろう双子。

 着物は……確か、狩衣衣装。前にあやかしから教えてもらったことがある。

 この子たちも雰囲気が少し人とは違う気が……でも、あやかしとも違うような……。

 首を捻りながら双子を観察していると、ガクンッと男が片膝をついた。

「「光明(こうめい)様!」」

 駆け寄る双子を手で制し、胸を押さえながら男は私に目をやる。

「……っ、俺のことはええ。それよりも……あそこでダシみたいに池に浸かってる女を着替えさせろ」

「ダシで悪かったですね! というか、ここどこですか! あの変な口みたいなのも、あやかし!? もう、わけわからない~っ」

 頭を両手でガシガシ掻いていると、男が地を這うような声で言う。

「静かにせえ、頭に響くやろうが」

「すっ……スミマセン」

 ……極道の人? 目つきが完全にそっち系の人だった。

 即座に唇を引き結べば、双子たちはちらりと私を見たあと、「あの方が例の……?」と男を見上げた。

寸分違わないその動きには、思わず『おお~っ』と心の中で感動してしまう。

「俺は中で休んでる。終わったら、居間に連れてこい」

 怠そうに屋敷に入っていく京都弁男を、お辞儀をしながら見送った双子がこちらにやってくる。

「お嫁様……私は、水珠(すいじゅ)と……申します」

 先に口を開いたのは、青い髪に瞳をした子のほうだった。声を聞くまでわからなかったが、女の子のようだ。

 引っ込み思案っぽい彼女──水珠は自己紹介しながら徐々に後ずさっていき、赤い髪と瞳をした双子の片割れの背に隠れる。

 そんな水珠にため息をつき、今度は赤い髪の子が私を見たのだが、その目がすっと鋭く細められた。

「俺は水珠の双子の兄貴、赤珠(せきじゅ)。どこの馬の骨ともわからねえ女が光明様の嫁だなんて、俺は認めねえからな!」

 話が、いろいろ飛翔している。さて、どこから突っ込むべきかと悩んでいたら、ふとふたりの額にある蓮の花の文様が気になった。

「その額の……」

 私がじっと蓮の花の文様を凝視していると、赤珠がふんっと鼻を鳴らしながら、得意げにふんぞり返る。

「これはなあ、あの伝説の陰陽師と謳われる安倍(あべの)晴明様の子孫、安倍(あべ)光明様の〝最高傑作〟にして、〝最強〟の式神である証なんだぞ!」

「安倍晴明…………嘘!?」

 その名前を知らない人間は、この日本にはいないのでは? 

映画やドラマ、アニメや小説でも、よく題材にされてるし……。

でも、子孫がいたなんて初耳だ。

「嘘じゃねえ。お前だって、光明様の力を見ただろ。ここまで最速で飛んでこれたのは、光明様が使役してる悪業罰示式神(あくぎょうばっししきがみ)の力なんだぞ」

「そういえば……なんかあの人、ここに来る前によくわからない呪文唱えてた気が……。そしたら、人間の口みたいなのが地面に出てきたんだよね……」

 思い出すだけで落下の恐怖が蘇ってきて、身震いする。それにあの口、夢に出てきそうだ。

「それが悪業罰示式神(あくぎょうばっししきがみ)のひとり、喰迷門。どんなに遠い場所でも、その口を通ればどこへでも行ける。ただ、心に迷いがあると、喰迷門の中で彷徨って、いつかは消化液で溶かされちまうぞ」

 そんな危険なあやかしの口の中に入ったんだ、私……。
 サーッと、今さらながら血の気が引く。

「悪業罰示式神(あくぎょうばっししきがみ)は過去に悪行をおこなったあやかしを打ち負かして、自分の使役神とした式神のことだからな。そういうやつらは力が強い。陰陽師の能力と心根しだいでは飲み込まれる可能性もある」

 自分のことのように自慢する赤珠の後ろから、水珠がひょこっと顔を出した。

「でも……安倍晴明様同様、光明様も類い稀なる才能の持ち主。多くの悪業罰示式神(あくぎょうばっししきがみ)を使役している……すごいお方なんです」

 遠慮気味に話す水珠に対して、赤珠はややガキ大将のよう。双子の式神だけど、こんなに違うものなんだ。

「じゃあ、あなたたちも悪さをしたあやかし……その、悪行なんちゃらって式神なの?」

「一緒にするなよ! 俺たちは思業(しぎょう)式神。悪業罰示式神(あくぎょうばっししきがみ)と同じで上位式神だけどな、光明様の『思念』から作り出されてるから、式神は本来は人間には見えないけど、姿を現せるくらい力が強いんだぞ」

 赤珠は、ムッとした顔でそう訂正した。

「私たちは、光明様の身の回りのお世話をしたり……情報収集、術の手伝いもします」

 兄をひやひやした様子で見つつ、捕捉する水珠。なんでそんなことになったかはわからないが、私が主の嫁だと思っているらしい彼女は、ズケズケものを言う兄の態度が気が気でないようだ。

「あの、教えてほしいんだけど、私が嫁っていうのは……くしゅんっ」

 大事な質問の途中で、くしゃみをしてしまった。

 今の今まで忘れてたけど、私……池でダシ取られてるんだった。いくら春だからって、水浴びにはまだ早すぎる。

「……兄さん、話はあとにして、お嫁様を中に」

「そうだな。おら、さっさと立て!」

 その前にこの状況を説明してほしいところだれど、このままでは風邪をひきそう。明日は仕事だし、身体は資本だ。ひとまず、お言葉に甘えて着替えさせてもらおう。

***

「やっと来たか……」

 浴衣を借りて、水珠と赤珠に案内されるまま居間にやってくると、横になっていた男──安倍光明さんが上半身を起こす。

身体の【呪】という文字と関係があるのか、顔色も悪いし、呼吸も苦しそうで、まだ体調はよくないみたいだ。

「あの……横になっていたほうがいいのでは?」

 見ていられず、私は彼に近づいて、その肩を押す。すると、安倍さんは力なく畳の上に倒れ、恨めしそうに私を見上げた。

「……これ見てわかる思うが、俺は呪われとる」

「そう……でしょうね」

 【呪】って、身体中に書いてあるし。逆に呪いじゃなくて、なんなの?と問いたい。

「俺を呪ったんは、先祖の安倍晴明や」

「……子孫を? それまた、どうして……」

「安倍晴明は相当な変わりもんやったらしゅうてな、猫又……あやかしの女と結婚したんや」

 猫又……? 偶然か必然か、私も猫憑きなので心臓がトクンッと音を立てる。

「そやさかい、生まれ変わってもまた結ばれたい思たんやろうが、三十までにその妻の生まれ変わりと結婚せな、死ぬちゅう呪いをかけてきたんや。まったくもって、はた迷惑な話や」

 さっきから、胸騒ぎが止まらない。信じられないが、ここに連れてこられたワケを掴みかけている自分がいた。

「なぜ、そんな話を私に……?」

「察しの悪いやっちゃな。俺の前世が安倍晴明で、お前がその妻の生まれ変わりやからに決まっとるやろう」

 私が……安倍晴明さんの妻の……生まれ変わり?

 さらっと、とんでもない単語が耳に入ってきて、私は慌てて安倍さんを制止する。

「ちょ、ちょっと待ってください! ということは、ということはっ」

 私が騒ぐと、頭に響いたのか、安倍さんは青い顔で眉間を押さえた。

「やかましいやっちゃな……俺たちは前世で夫婦やったんや」

 【夫】【婦】の二文字が、脳天にガンッガンッと落ちてきたような衝撃だった。

「信じられない……私が猫憑きなのも、それが関係してるとか……?」

「そうやろうな。お前からはあやかし特有の気配──妖気を感じる。ほんまなら、呪いがこないに身体に回る前に、そん気配を辿ってお前を見つけられたはずやったんやけど……くっ」

 話すのもつらいのか、小さくうめいて顔をしかめる安倍さん。こんな呪いをかけるなんて、安倍晴明さん、変わり者どころかひどすぎる。

「光明様の術をもってすれば……お嫁様を見つけるのは容易いはずなのですが……」

 主を気遣って代わりに説明する水珠の言葉を、今度は赤珠が引き継いだ。

「お前が東京にいるってことはわかってたんだ。でも、いざ東京に来てみると、妖気が散漫して、どこにいるのかまではわからなかったんだよ」

「陰陽師は、あやかしを退治してきた側の人間やさかい。どっからか俺の呪いのこと聞きつけたあやかしが、お前と合わせへんように術を使い、俺が呪いに蝕まれて死ぬのを待っとったのか、それとも別の理由があるんか……。わからへんけど、あてもなくお前を探しとったら、今日急に気配がはっきりしたんや」

 なんで、急に? 思い当たるとしたら、家を覆っていたあの謎の透明なドームが消えたことと、私にしか聞こえない男の人の声のことだ。

私と安倍さんを引き合わせたあの声は、誰のものだったのだろう。

「そやさかい、こうしてお前をここに連れてきたんや。俺の呪いを解くため、【呪約書(じゅやくしょ)】に指印をしろ」

「なんですか、その【呪約書】って……。変な宗教の案内とか、詐欺とか、そういうんじゃないですよね?」

「呪いを解くため、言うたやろ。赤珠、実物を持ってこい」

 赤珠は頼まれ事をされたのがうれしかったのか、「はい!」と声を張り、走りだす。

少しして、お札の貼られた木箱を手に戻ってきたのだが、箱の外からでもわかる。禍々しい紫の炎のようなものが、赤珠の持っているものから出ていた。

 安倍さんは右手の人差し指と中指を立て、横と縦に切っていく。

「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)。解封(かいふう)、急急如律令」

 呪文を唱え終わると、箱の札がすっと消えた。ゆっくりと宙に浮きながら蓋が開き、中から黒い巻物が出てくる。それは勝手にしゅるしゅると開いていく。

「これは自分たちの生まれ変わりが結ばれるために、安倍晴明が作った呪いの契約書だ。中にはこう書いてある」

 そう言って、安倍さんは達筆すぎて私には読めない 【呪約書】の内容を読み上げていく。
 
【呪約書】
 一、俺、安倍晴明の生まれ変わりは猫又である妻の生まれ変わりを守らねばならない
 二、俺の生まれ変わりは、三十歳までに妻の生まれ変わりと夫婦にならなければならない
 三、破れば死ぬから覚えとけよ。
 四、あ、毎日一緒の布団で眠ること。

「……三項目目からの内容おかしくないですか? 『覚えとけよ』とか、『あ、』って……もう項目じゃなくて、セリフみたいになってますし。さすがは変わり者、キャラがなかなか強烈ですね」

「頭が沸いてるんがわかるやろ。前世なんて過ぎ去った過去や。俺には関係あらへん。そやさかい、お前を守ったる義理もあらへんし、他人と……しかも猫憑きの女とおんなじ布団で寝るなんて不愉快極まりあらへんが、こっちは命がかかっとる」

 安倍さんは三十歳までに私と夫婦にならなければ、死んでしまう。迷うまでもない、でも……。

「いきなり夫婦になれとか……無茶苦茶すぎるよ、清明さん」

「安心しろ」

 安倍さんは手を前に出す。すると、宙に浮いていた【呪約書】が下りてきて、その手のひらに載った。

「ずっと夫婦でいる気はあらへん。こっちも願い下げやからな。必ず解呪法(かいじゅほう)を見つけて、夫婦契約を解消する。そやけど、この身体ではまともに動けへん。そやさかい、それまでお前には俺の妻でいてもらう」

 随分な言い方だけど、私もよく知らない人と添い遂げなきゃいけないのはちょっと……いや、かなり困る。だからといって、死にかけてる人を放置できるほど、神経図太くもない。

「わかりました。契約しましょう」

「えらい物分かりがええな」

「だって、人の命がかかってますし。悩むことでもないかなと」

 肩をすくめて笑って見せれば、安倍さんは目を見張っていたが、すぐに咳ばらいをして【呪約書】を畳の上に広げる。

「朱肉をここに」

 すでに用意していたのか、水珠がすっと私と安倍さんの間に朱肉を置いた。私は安倍さんを真似て親指を朱肉スポンジに押しつけると、【呪約書】の最後列の項目の下に指印する。

 すると【呪約書】がパアアアッと光り、あの禍々しい炎が消えていく。それと同時に、安倍さんの身体から【呪】の文字がなくなった。

「安倍さん! 呪いの文字が消えてます! 少しは身体、楽になりましたか?」

「少しどころちゃう、元通りや。これで動きやすなった」

 安倍さんの表情が少しだけ緩み、威圧感が柔らいだ、そのときだった。

 ドカーンッと隕石でも落下したかのような大きな音がして、屋敷がグラグラと揺れる。

「きゃあああっ」

 とっさに頭を抱えれば、安倍さんが覆い被さるように私を引き寄せた。それに場違いにも、ドキッとしてしまう。

「どうやら、命知らずの来客みたいやな」

 来客って?と問おうとしたら、ニャオオーンッと鳴き声がした。

居間の縁側の向こうにある庭に目を向けると、そこには焦げ茶色の猫がいる。それもオオカミかと見間違えるほど大きく、目尻には朱い刺青のようなものが入っている。二股に分かれた尻尾は、あやかしの猫又である証。

毛を逆立てて、鋭い牙を見せているのに、少しも怖いと感じないのは、私もまた猫又に憑かれているからだろうか。

『……その子をどうするつもりだ、陰陽師』

 喋った猫。私にはその声に聞き覚えがあった。
「この声……タマくん?」

 信じられない思いで、私は猫又を見つめる。そこへ赤珠と水珠が駆け寄ってきて、安倍さんを守るように前に立つ。

「光明様、あいつ片付けますか?」

 猫又を睨みつけながら、ぼわっと赤い炎を身に纏う赤珠。それに対し、

「光明様のお嫁様は……私が守ります」

 と、いくつもの水の球体を周囲に浮かせる水珠。

 ──なにこれっ、式神の術!?

 一瞬、驚きに思考を断ち切られるも、すぐに庭にいる猫又に目を戻す。

 見たこともない獣の目は、私のよく知る柔らかな光を宿している。やっぱり、彼で間違いない。

 安倍さんの腕の中から出ると、「おいっ」と呼び止められた。けれど、どうしても確かめたかったのだ。

 振り返らずに裸足のまま縁側に出て、大きな猫又の前に立つ。

「……タマくん、なんでしょう?」

 そう尋ねれば、猫又は項垂れた。そして、ボンッと白い煙を立てながら、人の姿を象る。

「黙っててごめん」

 俯きながら謝る彼は、紛れもなくタマくんだった。

「タマくんも、猫憑きだったんだ……」

「……うん」

「なんで、今まで話してくれなかったの?」

「……美鈴、一時期……猫憑きの自分のこと、すごく嫌ってただろ? だから、言い出しにくくて……」

 あ……それはたぶん、私がおばあちゃんの家に越してきてすぐの頃のことだ。

両親に物置小屋に閉じ込められたのも、化け物だと罵倒されたのも、愛されなかったのも、全部……猫憑きのせいだって、そう思ってたから……。

「同じ境遇の人がいたってわかったら、私、もっと安心したのに」

「そうだよな……ごめん。けど、お前に嫌われたくなかったんだよ」

 切なげに笑うタマくんに、胸がきゅっと締め付けられる。思わずその手を握れば、タマくんは目を見開いた。

「美鈴……?」

「私、人と違うからって理由だけで、誰かを否定したりしないよ。それが大事な幼馴染なら、なおさらね。タマくんが悪人だって、どうしてそんなことをしたのか、理解したいって思う。だから、もっと私を信じて、頼ってよ。ひとりで私のことを守ろうとしないで」

「……っ、うん。ありがとう」

 手を握り返してくれたタマくんは、眉尻を下げながら微笑み、頷いた。

「話は終わったか?」

 縁側で腕を組み、威圧的な眼差しでこちらを見ている安倍さん。すかさず、タマくんが私を庇うように立つ。

「悪いけど、きみへの追及はこれからだよ。なんで美鈴を攫った?」

「そっちこそ、まっ先に俺を陰陽師と見破ったな。それに、猫憑き……な。それにしては、妖気強すぎやしいひんか」

 すっと、安倍さんの目が細まる。さながら、尋問官のようだ。

「あの、ようき……っていうのは?」

 耳馴染みのない単語だった。それが強いとなにがいけないのか、大事な幼なじみのことだ、気にもなる。

 安倍さんはタマくんから視線をそらさずに、

「あやかしの気配のこっちゃ。それが異様に濃い。何者なんや?」

 と言い、警戒心を隠しもしない。

 あやかしの気配が濃いのは、猫憑きのせいだからだと思うけど……安倍さんが陰陽師だってわかったのは、なんでだろう?

 疑問に思う私の心を見透かしてか、タマくんは私を振り返る。

「ばあちゃんが、猫憑きのお前を霊能者に見せたことがあっただろ?」

「ああ……うん、私が生まれたときから猫憑きだって言った人だよね」

 と言っても、私は霊能者の顔は見ていない。人と違う自分を嫌っている私が気にしないようにと、おばあちゃんはわざわざ夜にその霊能者を呼んだらしいから。寝ているときに私の霊視をしてもらったのだと、高校生になってから告げられた。

「その霊能者、実は陰陽師だったんだよ。けど、陰陽師とか……なんか胡散臭いだろ?」

「胡散臭くて悪かったな」

 不愉快そうに口を挟んだ安倍さんを無視して、タマくんは続ける。

「その陰陽師の言葉が真実かどうかは別として、猫に憑かれてるだけで人間だってわかれば、お前も安心するかと思って、ばあちゃんと相談したんだ。まだ霊能者のほうが実際にいそうな気がするし、お前が信じられるように濁そうって……」

 霊能者も十分に胡散臭いけど、陰陽師だって言われてたら、その人のこと中二病だと思っただろうな。

「その霊能者……じゃなくて陰陽師と、そこの男の気配が似てるから……だから、陰陽師かもしれないって思ったんだよ。なんで俺にわかったのかはわからないけど、俺の猫憑きの力なのかなって」

 私には気配があやかしのものなのか、人のものなのかを判別することはできない。

でも、タマくんは憑いてる猫又の妖気が強すぎるゆえに、感じ取ることができるとか……?

 じっとタマくんを見つめていると、タマくんは肩を竦めながら私に笑いかけ、視線を安倍さんに戻す。

「……これでいいだろ、今度はそっちが質問に答える番だ」

 そう言われた安倍さんは、面倒くさそうな顔をした。

 いろいろ事情が複雑なだけに、説明が手間なのはわかるが、無愛想すぎやしないだろうか。

 安倍さんはため息をつくと、私を指差した。

「俺とあいつ、前世で夫婦。……で、今世でも結ばれへんと、俺が呪いで死ぬ。そやさかい、とりあえず呪いが解けるまで、俺らかりそめ夫婦になった。以上」

「──いや、語彙力!」

 と、間髪入れずに突っ込んでしまった。端折るにもほどがある。

 タマくんも唖然として固まっており、今度は私がため息をつく羽目になった。

「タマくん、実はね……」

 夫婦になったいきさつをかいつまんで伝えると、タマくんはこめかみを押さえていた。

「……つまり、その【呪約書】とかいう契約書のせいで、夫婦にならないと、あそこの陰陽師が死んじゃうわけか……」

「さっきから、そう言うてるやろ」

「言ってないよ」

 タマくんにしては珍しく、語気を強めて言い返す。

「毎日一緒の布団で寝ろだなんて、あいつも男だし、危ないって」

「安心しろ、猫憑きの女襲うほど、女に困ってへん」

「そうか、きみの目が節穴で安心したよ。でも、そうなると、美鈴はこの屋敷で暮らさないといけなくなるよね」

 あ、タマくんに言われるまで気づかなかった。ここってどこなんだろ、寝に通える距離なの? 会社から遠かったら困るなあ……。

 呑気にそんなことを考えている間にも、ふたりの会話は続いている。

「美鈴は俺にとって、妹みたいな存在なんだ。どこの馬の骨とも知れない男の家に、ひとり置いていくことはできない」

「大袈裟なやつやな」

「きみが無神経すぎるんだ。彼女がこの家で暮らすなら、俺もここで暮らす。でなければ、美鈴は連れて帰る」

「猫又のなりそこないが、この俺から逃げられる思てるんか?」

 またバチバチしだすふたりの間に、私は「ちょっと待った!」と割って入る。

 安倍さんならまだしも、温厚の申し子みたいなタマくんまでイライラしてるなんて、このふたり相当相性悪いかも。

「夫婦生活をするにあたって、私から条件があります! タマくんも同居させてあげてください!」

「寝言は寝て言え」

「私のお目目、ぱっちり開いてるじゃないですか! タマくんは、私の大事な家族で幼馴染なんです。できるだけ心配かけたくないので、お願いします」

 背後で「美鈴……」とタマくんの声がする。振り返ると、いつもの優しい笑顔に戻っていた。普段怒らない人が怒ると、百割増しで怖いので、ほっとする。

「光明様……」

 ふと、水珠が安倍さんの着物の袖をついついと引く。

「断ったら、お嫁様に逃げられてしまうかもしれません……」

「ぐぬぬっ……俺は認めてないけどなっ。光明様の呪いが解けるまでは、あの女をそばに置いとかないとですよね……」

 赤珠も苦い顔をする。

 安倍さんは「うっ」とうめき、諦めたように息を吐くと、背を向けた。

「勝手にせえ」

 それだけ言って、中に入っていってしまう。残された私はタマくんと顔を見合わせて、苦い笑みを交わした。

 こうして……猫憑きと陰陽師、そして式神の奇妙な同居生活が幕を開けたのだった。

 決して枕が変わったから眠れなかったわけではない。呪約書のせいで安倍さんと同じ部屋で寝なくてはならず、私は寝不足のまま居間で朝食をとっていた。

 もちろん同じ布団では寝ていない。ただ、隣から聞こえる布擦れの音や寝息が気になって頭が冴えてしまい、ようやく寝付けたのが朝だった。

 昨日、タマくんと一緒に安倍さんの屋敷に居候することに決まり、着替えと仕事に必要な荷物だけを持って再びここへ戻った。

 安部さんの家はありがたいことに私の住んでいる場所から近く、電車で一時間ほどの距離にある。

都内だけれど、静かな田舎を思わせる環境は同じだったので、居心地はいい。

 ただ……と、お味噌汁を啜りながら目線だけを上げる。

食卓を囲むのは、ちらちらとこちらの様子を窺いながら、目が合うたびにびくびくする水珠と……。

その隣で見張るように私とタマくんを睨み、完全に敵視している赤珠。そして……。

 ドバドバと、コーヒーに角砂糖を投入している安倍さん。入れすぎて受け皿に中身がこぼれているが、式神の双子たちはいつもの光景なのか少しも驚いた様子を見せない。

私とタマくんだけが、その異様な光景に食欲を奪われていた。

「「…………」」

 私とタマくんが食器を座卓に置いたのは、ほぼ同時。

「そろそろ、やめたほうがいいんじゃないか?」

 ついにタマくんが切り出した。ひやひやしながらその光景を見守っていると、絶対零度の瞳がタマくんに向けられる。

「なにを」

「それだよ」

 タマくんの視線を辿るように、カップに目を落とした安部さん。

「術には糖分が必要なんや」

 言っている傍から、朝食中だというのにカップの横にある銀の包み紙を開けている。中から出てきたのは、なんとチョコレートだった。

 安部さんは見せつけるように肉じゃがを口に運んだあとで、チョコレートを口に放り込むと、コーヒーで流し込んだ。

「うげっ……病気的なまでの偏食……」

 私が両手で口を覆っていると、ふいに水珠がすくっと立ち上がり、部屋を出て行く。

しばらくして、なにやら香ばしい匂いがしてきた。戻ってきた水珠の手には……。

「アジの塩焼き!」

 ぼんっと耳と尻尾が出てしまう。猫憑きだからなのか、昔から魚料理が大好物だった。

「お口直し……という名の、匂い直しです」

 水珠が私とタマくんの前にアジの塩焼きが載った平皿を置く。

「水珠~っ、ありがとう!」

 満面の笑みでお礼を言うと、水珠は頬を赤らめながら、そそそっと自分の席に戻っていった。

「タマくん、ぜひぜひ頂こう!」

 隣を見れば、タマくんの頭とお尻にも猫の耳と尻尾が。なんというか、イケメンの猫耳は目の保養になる。

 じっと眺めていたら、視線に気づいたタマくんが苦笑いしつつ肩を竦める。

「もう隠す必要もないだろ?」

「確かに。今まで魚料理が出たときは、どうしてたの?」

「死ぬ気で我慢してた。あと、あんまし家でも作らないようにしてたかな。美鈴と家族にせがまれたとき以外は」

 タマくんの家は、ご両親ともに弁護士で多忙。子供の頃から、家事はほとんどタマくんがしていたのだと本人から聞いた。だから、家事スキルが女顔負けのレベルなのだ。

「今まで全然気づかなかったなあ……。じゃあこれからは、思う存分食べて! そして、私にも魚料理たくさん作って!」

「ははっ、美鈴、最後のが本音だろ」

 アジの塩焼きが載った皿をタマくんのほうに押すと、赤珠が「かっ」と不満げな声を出した。

「水珠、お前どっちの味方なんだよ。こいつらは呪い解き終わったら、ただの他人に戻るんだぞ。もてなす必要ないだろ!」

「でも……呪いの解き方……まだ見つかってない……し……」

 それに全員の箸を持つ手が止まり、空気が重たくなる。

「あ、あのう……呪いを解く方法は、まだ見つかってないとのことでしたが、手がかり……みたいなものってあるのでしょうか……」

 手を上げ、ためらいがちに安倍さんを窺い見ると、不機嫌そうにチョコレートをバクバク食べ始める。

 え……聞いちゃいけないことだった? 

けど、呪いが解ける可能性が少しでもあるのと全くないのとじゃ、心持ちが違うし……。

「東京の陰陽寮(おんみょうりょう)なら、ありとあらゆる呪い絡みの案件が舞い込んでくる。そこに在籍してるうちは、手がかりは向こうから勝手に舞い込んでくるやろ」

「おん、みょう……りょう……って?」

「陰陽寮は飛鳥時代、天武天皇によって設置された中務省……陰陽師たちが属しとった機関のこっちゃ」

「飛鳥時代……そんな前から……」

 驚く私に、今度は水珠が静かに口を開く。

「……かつて朝廷の命を受け……陰陽師たちは、占いや呪い払い……あやかし退治……人の手に負えない事件を……解決してきた……のです」

「もぐもぐ……それは今の時代にも……んぐっ、密かに引き継がれてるってことだ。はむっ……もぐもぐ……」

 食べ物を口に入れながら話すものだから、赤珠の前のテーブルには、ご飯粒が飛んでいる。それをさりげなく拭き取る水珠のほうが、お姉さんのようだ。

「つまり、現代の陰陽師は祭儀の日取りや年号決めで政府から助言を求められたり、主にあやかし絡みの問題事を解決する役目を担うてる」

「政府……陰陽師は、お国公認の職業なんですね……」

 そこで赤珠が、「それだけじゃないぞ!」と、箸で私を指した。

「陰陽寮は現在、各都道府県に設置されてる。その中でも陰陽師のエリートが集まる東京本部に、光明様は所属してるんだからな!」

「ん? でも安倍さん、ご出身は京都だって言ってましたよね?」

 私の問いの意味をいち早く理解したタマくんが、『なるほど』という顔をする。

「京都にも陰陽寮があるのに、わざわざ東京に来たのはなんでなんだ? 出世?」

「それもあるけどな、俺はこの呪いを解くために、そこの猫又女を探さなならへんかった」

 猫又女……言い方!

 相変わらずの口の悪さに、内心ツッコミを入れてしまう。

「東京におることはわかっとったさかい、二十歳のときに東京の陰陽寮に転勤したんや。それから七年、こっちにおる」

 じゃあ、安倍さんは今二十七歳?
 ご両親も友達もいる京都から、私を探すためにひとりで東京へ……?

 この家広いし、故郷から離れて暮らすなんて、寂しいだろうな……。

「ちゅうわけで、俺はこれから出社しいひんとならへん。ただ、お前と離れると呪いが発動する可能性があるさかい、今日から俺と同行してもらう」

「……いや、私も仕事があるので……」

「なら辞めろ。人の命と仕事、どっちが大事なんや」

 そんな、横暴な……。

 絶句していると、隣にいたタマくんが呆れ交じりのため息をついた。

「彼女は社会人なんだ、急に仕事を辞められるわけがないだろ」

「手がかりはある言うたけど、呪いが解けるまでに長い時間がかかる可能性もある。やったら、ちゃっちゃと辞めてもうたほうが、会社に迷惑がかからへんやろ。その間の生活は俺が保証する」

「なら、呪いが解けたあとは? 彼女は元の生活に戻らないといけないんだぞ? 彼女の職探しまで面倒を見てくれるのか?」

「面倒を見るのは、呪いが解けるまでだ。そのあとは自分でなんとかしろ」

 タマくんは、もうため息すらつくのがバカバカしいのか、困ったように私を見る。

「美鈴、こんなやつ、見捨てていいんじゃないか?」

「タマくんが毒を吐いた……」

「冗談言ってる場合じゃないよ。あいつ、自分が生き延びるために、きみの人生を滅茶苦茶にする気満々だ」

 まあ、聞いてて、そんな自己中な考えがまかり通るのかと思わなくもないけれど……。

「私の失業と人の命、天秤にかけるまでもないよ。私が見捨てて、安倍さんが死んだりしたら嫌だし」

「そうと決まれば、このあと陰陽寮に行く」

 淡々と述べた安倍さんに、タマくんはまたこめかみを押さえていた。

 そして私は、かりそめとはいえ安倍さんと夫婦になったため、迷惑極まりない寿退社をすることとなった。

 もちろん上司からは『ふざけんな!』と罵倒されたが、全くその通りなので頭が上がらない。

 『人の命がかかってるんです!』と弁解したところで信じてもらえるはずもないし、ただただ平謝り。

 タマくんまで付き合うことなかったのだが、私が心配だからと、一緒になって仕事を辞めてしまった。

『貯蓄はあるから』

 ……なんて言っていたけれど、そんなことは心配していない。タマくんは堅実家なので、その辺はしっかりしているだろう。

 ただ、タマくんは営業部で成績トップだったので、優秀な彼の出世街道を私が潰してしまったのだとしたら、申し訳なさすぎる。

 そんなこんなで、いろいろ心苦しいまま、朝食後に陰陽寮へと向かうこととなった。
「……うん、想像と違った」

 私は都内にある立派な七階建てのビルを見上げる。

 水珠と赤珠を屋敷に置いて、私たちがやってきたのは陰陽寮。

例の喰迷門を使っての移動は心身ともによくないので、安倍さんにお願いして電車通勤をしてもらった。

呪約書のせいで私から離れられない安倍さんは「喰迷門なら一瞬やのに」と、ものすごぉぉーく嫌そうな顔をしていたけれど。

 にしても、てっきり神宮みたいな和風でだだっ広い建物を想像していたのだが、目の前にあるのはいかにもエリート社員が通っていそうな高層ビル。

予想外の外観に圧倒されていると、着物ではなく黒のスーツに着替えた安倍さんがスタスタと中に入っていく。

 中は本当に普通の会社と変わらず受付があるのだが、そこに座っている受付嬢は額にお札が貼られたのっぺらぼうの式神。

他にも入館証の代わりに指で印を切って五芒星を見せると入館ゲートを通過できるとか、物珍しいものばかりできょろきょろしていると、安倍さんにギロリと睨まれた。

「口開けて歩くな。上京したての田舎者か。お前を連れて歩く俺までけったいな目で見られるやろ」

「これをポカンとせずに傍観できる、強靭な精神の女の子がいるのなら、連れてきてくださいよ……」

 私の抗議を無視して、エレベーターに向かってずんずんと歩いていく安倍さん。私たちも続いて乗り込むと、タマくんは棘のあるため息をついた。

「女性に対して、きみは心が狭すぎるんじゃないか。器量のなさが言動と態度でバレるから、その口縫い付けたほうがいいと思うね」

「女性ねぇ……猫又憑きなんて、あやかしみたいなもんやろ。人ちゃう」

 人じゃない……。

 両親から『この、【化け物】が』『【気味が悪い】のよ!』と罵倒されたときのことが蘇り、自分の表情が固まるのがわかる。

 私はまだ、あの過去に囚われてるの……?

 ズキリと胸が痛み、いつまで私は弱いままなんだと俯く。つい自嘲的な笑みが浮かんでしまったとき──。

「口を慎め、彼女の耳を穢すな」

 タマくんの空気がガラリと変わり、私は息を呑む。敵意を向けられた安倍さんは動じることなく、ふんっと鼻を鳴らした。

「過保護やな、あやかし同士仲良しなことで」

 ピリピリとしだす空気。

 このままじゃよくない、これから一緒に暮らすっていうのに……。

 私は「そこまで!」と睨み合うふたりの間に入り、その胸を押して離した。

するとタマくんからは困惑の目が、安倍さんからは殺傷力抜群の鋭い目を向けられる。

 逃げたい、もう息が詰まりそうだ。今後、この三人で密室には入りたくない。

 そんな願いが通じたのか、チーンと開くエレベーターのドア。神様の起こした奇跡かと振り返ると、そこに広がるはごくごく普通のオフィスフロア。

テレアポみたいにヘッドフォンとマイクをつけて、パソコンに一心不乱に向かっているスーツ姿の男性がたくさんいる。

「これは……皆様、陰陽師で?」

 目を瞬かせていると、脳天に安倍さんの拳が落ちてきた。

「あたっ、暴力反対!」

 地味に痛む頭を両手で押さえる。

「こないに陰陽師がおるわけあらへんやろうが。陰陽師ってのは、天然記念物級に貴重なんやで。あいつらは陰陽師を補佐する式神や。東京都内であやかし絡みの問題発生したとき、通報を受けるスタッフや」

「式神……受付にいた式神と違って、人間との違いがわかりませんね」

「こらうちの所長が作った式神やさかいな。あの人は人間からかけ離れた式神は好んで作らへんねん」

「じゃあ、陰陽師はどこに?」

 首を傾げながらエレベーターを出ると、棚の影に隠れるようにしゃがんでいる男性に遭遇する。

銀の長髪と瞳をした彼は黒のスーツの上から白い羽織りをはおっていて、私たちの存在に気づくと「あ、やっほー」となんともマイペースに片手を上げた。

「なにしてはるんですか、所長」

「その虫けらを見るような目がたまらないね、光明」

 自分の身体を抱きしめてモジモジする大の大人を前に、まったく表情を変えない安倍さんのハートは鋼だ。

「またサボりですか。江永(えなが)さんに絞められますえ」

「江永さんって?」

 つい会話に入ってしまった私に、「所長のお守……補佐役や」と言い直す安倍さん。

すると、所長さんは安倍さんの後ろにいた私とタマくんを見て、目を丸くする。

「おや、珍しい。光明がお客さんを連れてきた」

「お客ちゃいます。気づいてるんやろう、こいつらがただの人ちゃうって」

「そうだね、獣の匂い……失礼。妖気を感じるね」

 所長さんは、すっと目を細めた。品定めするような視線に緊張していると、目の前にタマくんが立つ。

「おやおや、美しい忠誠心だね」

 タマくんは無言で所長さんを見据えていた。気まずい空気が流れ、私はタマくんの隣に並ぶ。

「えっと……タマくんは幼馴染なので、忠誠とかそんなんじゃないですよ」

 というか、忠誠って家来みたい。幼馴染の私たちを見て、そんな感想が出てくるって……所長さん、かなりの変わり者かも。

「幼馴染……そう、幼馴染ね」

 所長さんはタマくんの肩をポンポンと叩き、私たちの横をすり抜けてどこかへと歩いていく。そして数歩先で足を止め、妖艶な笑みを浮かべながら振り返った。

「立ち話もなんだから、お茶でもどう?」





 応接室に案内され、ソファーに腰を落とした私たちは簡単に自己紹介を済ませた。

向かいにいる所長さん──源英城(みなもと えいじ)さんは、三十四にして陰陽寮東京本部(おんみょうりょうとうきょうほんぶ)の所長を務めているすごい人らしい。

「じゃあ、美鈴ちゃんとの夫婦契約のおかげで、光明の呪いはひとまず解けたんだ?」

 所長さんは懐から【TABASCO】と書かれたラベルが貼られている細長い瓶を取り出して、お茶にドボドボ投入した。

 ──え、今ナチュラルになに入れた? 

 自分の目を疑いながら、所長さんのお茶に投入されていく赤い液体──タバスコを凝視する。

「はい、ひとまずは……ですけど。ずっと夫婦やなんて、かんにんですさかいね。根本的にあの呪約書を無効にする術を探さな」

 所長さんの隣に座っている安倍さんも、ポケットから小さなケースを取りだした。中から出てきたのは、朝食でも散々頬張っていたチョコレートだ。

 ……なんで常備してるの?

 緑茶の中にチョコレートを入れて飲む安倍さんと、タバスコを入れて飲む所長さんを愕然としながら見守る。

 私の隣にいるタマくんは、ボソリと……。

「陰陽師は味覚がおかしいのしか、いないのか?」

 気分悪そうに、ふたりから目を逸らしていた。

「ああ、悪いね。私は辛党なんだよ、刺激物が好きなんだ。痛みは生を実感できるからね」

「唐辛子もそのままかじってますよね。尋常じゃない」

「うーん、光明も人のこと言えないけどね」

 どっちもどっちだよ……。
 と、タマくんと心の声が重なる。

「で、初めて陰陽寮に来た感想は?」

 ニコニコしながら、所長さんが尋ねてくる。なんというか、掴みどころのない人だ。

「普通の会社みたいに見えます」

「ふふ、でしょ。でもここは、あやかし退治の専門課でもある。猫憑きのきみたちには、居心地悪くないかい?」

 ……なんだろう。所長さんは笑ってるのに、なにかを探られているような気になるのは。 それに、あやかし退治って……穏やかじゃないな。

 返答に困っていると、タマくんが私の手を握ってくれた。隣を見ると、タマくんは所長さんに厳しい眼差しを向けている。

「人とあやかしは相容れないですからね」

 タマくん……? 

 私もタマくんも、ただ猫又に憑かれてるだけの人間だ。

だけど所長さんの言い方は、私たちがあやかし扱いされているようにも取れて……不快な思いをしたのかも。

「遥か昔から敵対してきたからね。まあ、協力的なあやかしも増えてきたし、裏切られないことを祈るばかりだよ」

 タバスコ入りのお茶をすする所長さんに、タマくんはなにも答えなかった。

「裏切るもなんも、協力関係にすらあらへんやろう。あやかしは駆除すべきもんです」

 キッパリと言い切った安倍さんの瞳が翳る。心の奥にある深い闇の片鱗を見てしまったような気がして、背筋がひやりとした。

「光明、その意見に異論はないけどね。美鈴さんたちはそのあやかしに憑かれてるんだから、もっと気を使わないと」

 気遣うように私を見る所長さんに、「気にしてませんから」と苦笑いで嘘を吐いた。

 安倍さんにとって、あやかしに憑かれた私は駆除対象に近いんだろうな。一緒に暮らすのに害虫扱いなのは寂しい。

縁あって同じ屋根の下で生活するんだから、どうせなら家族みたいに打ち解けたい。そうなるまでに、かなりの時間がかかりそうだけど……。

「人にどうこう言える立場ですか」

 バンッと開け放たれた扉の向こうに、極悪面の黒いスーツを着た男性が仁王立ちしている。

背後から黒いオーラを放ち、メガネを指で押し上げた彼を見て、所長さんの笑顔が凍りついた。

「あ……あー……比呂、これはね、ちょっと休憩してただけなんだよ。ははは、お茶でも飲む?」

 所長さんが自分のタバスコ入り緑茶の入った湯吞みを差し出すと、男性の額にピキリと青筋が浮かぶ。

「いりませんよ。隙あらばサボろうとして、仕事をしてください」

 静かに咎める男性は、私とタマくんに気づき、やや目を見張ると、すぐに「失礼いたしました」とお辞儀をする。

「来客ですか。お見苦しいところをお見せしました」

「あ、いえ……えっと……」

 どなただろう? あと、タマくんで目が肥えているせいで気づくのが遅れたけど……この陰陽寮、イケメン率高くないだろうか。

イケメン陰陽師オフィス、ここに毎朝出勤できるなんて、世の女性の憧れシチュエーションだろうな。

「申し遅れました。俺は江永比呂、所長の補佐役を務めています」

 折り目正しく腰を折る江永さんは、見かけの強面ぶりからは想像つかないほど礼儀正しい人だった。

 この人が、さっき話題に出ていた所長さんのお守をしている江永さんらしい。

「補佐役って、つれない響きだよね。俺たち、中学からの親友でしょ」

「ここは職場です。プライベートな話題をペラペラ喋る場所ではありません」

「ふたりきりのときは英城って呼んでくれるのにぃ……英城、寂しい」

「三十四にもなるいい歳した男が寂しいなんて、所長の威厳に関わるのでやめてください」

 かまいたがりの所長さんをさらりとかわすドライな江永さん。素っ気なくあしらわれても、めげない所長さんをいっそ尊敬する。

「そんなことより所長、京都本部の阿澄(あすみ)所長から電話ですよ。すぐに戻ってください」

「はぁ……あそこの所長、口悪いから苦手なんだよね」

「……所長がふざけるからでしょう」

 江永さんに首根っこを掴まれ、引きずられるようにして応接室を出て行く所長さん。どんな気持ちで見送ればいいのか複雑だ。

「俺たちも仕事に出るで」

 お茶を飲み切り、立ち上がる安倍さんを驚きながら見上げる。

「俺たちもって、私たちも!?」

「呪約書のせいで、お前を守らなあかんやろ。つーことは四六時中、一緒にいーひんとならへんってこっちゃ。こうやって俺の仕事についていくこともあるやろうし、使えるものは使わせてもらう」

 本当に無茶苦茶だ、この人! 

 清々しいまでの冷徹王様ぶりに言葉が出ないでいると、タマくんが静かにご立腹している。

「俺たちをこき使う気でいるわけか。先に言っておくけど、その仕事は危険はないのか? 美鈴にもしものことがあったら、俺はきみを許さない」

「あやかしを相手にするんや、危険に決まってるやろ。ただ、忘れてるみたいだが、もしもそこの女になんかあれば、俺も呪いで死ぬやろ。そうならへんように手は打つ」

 静かに口論するふたりの後ろについて部屋を出ると、デスクに座っている式神が「安倍様」と呼び止めた。

「化け狸が商店街で窃盗をしているようでして……」

「迷惑なやつらやな。駆除しに行くで」

 駆除……あやかしって、そこまで邪険にしなきゃいけないような生き物なのかな。

私もそこまであやかしと親しいわけじゃない。そもそも、そう頻繁に遭遇するものでもないし。

 けど、ときどきうちの庭に迷い込んでくるあやかしたちは、いきなり攻撃してくることはないし、タマくんのから揚げを貰いに来たり、庭の花を見物しに来たり、人間とそう変わりない。

「なにか……盗みを働く理由があるんじゃないでしょうか?」

「理由やと?」

 安倍さんの片眉が怪訝そうに上がる。

「理由も聞かないで駆除なんて、可哀そうです」

「やっぱし、お前はあやかし側に立つんやな。可哀そうなんかちゃう、話し合う必要もあらへん」

 歩き出した安倍さんの背には、近づく者を拒絶するような雰囲気があった。

「話し合いの機会も与えずに殺すのか……。俺には一方的に狩る陰陽師のほうが、知能の低い獣のように思える」

 私の隣に立ったタマくんの目には険がある。第一印象が最悪だっただけに、タマくんは完全に安倍さんを敵視している。

 でも、今回ばかりは私も安倍さんを庇えない。

所長さんもあやかしを退治することに肯定的だったし、陰陽師は話し合いもせずにあやかしを駆除するのが当たり前なのだろうか。

「光明のあやかし嫌いは重症なんだ」

 急に私とタマくんの間に、ぬんっと顔を出したのは所長さんだ。

「わっ」と叫びながら、タマくんと後ろに飛び退くと、所長さんは「驚いた?」といたずらっ子の笑みを向けてくる。

 子供というか、なんというか……。知り合って間もないので、所長さんのキャラがなかなかに掴みづらい。

お茶目とも言えるし、変人ともとれる所長さんを前に困惑しながら、タマくんは「ええと」と頬を掻く。

「そのあやかし嫌いの理由って?」

 タマくんの質問に、所長さんは唇で弧を描く。そばに控えていた江永さんは、ふうっと息を吐いた。

「勝手に話していいんですか? 光明の許可もとらないで……」

「美鈴さんと光明は、一応夫婦だからね。〝あやかし〟が〝人間〟の彼になにをしたのか、歩み寄ろうとした結果、なにが起こるのか……一緒にいるリスクを知ってもらったほうがいいんだよ」

 所長さんの貫くような視線に、気圧される。その唇がやけにゆっくりと開いたように見え、息遣いまで聞こえてきそうなほど周りの音が遠ざかる。

そして、放たれた言葉は──。

「光明は十歳のとき、両親をあやかしに殺されてる」



 盗みを働いているという化け狸を探しに、商店街へとやってきたのはいいものの……。

『光明は十歳のとき、両親をあやかしに殺されてる』

 所長さんのひと言が胸に突き刺さってすっきりしないまま、八百屋や【SAIL】の看板を掲げて客を呼び込んでいる婦人服店など、賑わっているこの界隈をパトロールする。

「安倍さん……化け狸を見つけたらどうするんですか?」

 駆除とは具体的になにをするのか、聞くのが怖い。だが、知らずにいるのも落ち着かないので尋ねると、少し前を歩いていた安倍さんが振り返る。

「術で滅する」

「滅するって……」

 殺すってこと? なにもそこまでしなくても……。

 安倍さんが駆除にこだわるのは、両親を殺されたからなんだろう。それはわかるけど、やっぱり私は話し合いの余地があってもいいと思うのだ。

「納得いってへんって顔やな」

 安倍さんの冷ややかな視線に晒され、ごくりと唾を飲み込む。

「そう、ですね……。私はあやかしに酷い目に遭わされたことはありませんから……。でも、安倍さんの立場からすれば、そう思うのも仕方ないですし……」

「俺の立場から?」

「あ……」

 しまった、と口を閉じたけれど、時すでに遅し。安倍さんははあっとため息をついて、舌打ちをした。

「あの所長、勝手に人の過去をペラペラと……。お前もお前だ、わかったような口を利くな。あやかし憑きのお前には、俺の考えなんて理解できひん」

 また、拒絶。こうも突き放されると、さすがに傷つく。かける言葉を探していると、肩にタマくんの手が載った。

「そうだよ、俺たちはは理解し合えない。彼があんなふうに、聞く耳を持たないうちはね」

「タマくん……でも、知ることを諦めたら、本当にそこで終わっちゃう気がするの。いがみ合って、誰が幸せになれるの?」

 言葉が通じなくても、価値観が違っても、すべてをわかり合えなくても、寄り添うことはできる。

そうやってお互いを受け入れていって、いつかは理解し合える。そう信じる心はどこから来ているのか、自分でもわからない。

 でも、前世の私と安倍さんは、敵対する立場にありながら結ばれた。

種族を超えて惹かれ合い、恋をして、夫婦になれたのだから……人とあやかしは駆除対象と狩人ではなく、共存する関係に変わっていけるはずだ。

「美鈴は、まだ諦めてないの? 人間とあやかしが同じ世界に存在している限り、平穏は訪れないんだよ」

「その通りや、どちらかが消えるしかあらへん。そら、無論あやかしのほうやけどな……と、見つけた」

 安倍さんが視線を向けた先は、焼き鳥屋の屋台の前。そこには耳ともっこりとした尻尾がある男の子がいた。

ベージュのメッシュが入った焦げ茶色の髪をしていて、体格からするに十歳くらい。

 まるで動物のように地面に四つん這いになり、男の子はこちらを振り向いた。その真っ黒でくりくりとした目の周りは、まさに狸のように焦げ茶色だ。

 男の子は焼き鳥串を数本咥えて安倍さんを見るや、『しまった!』という顔をして一目散に逃げ出す。

「あ、泥棒!」

 焼き鳥屋の店主のおじさんが叫んだ。

「あの狸少年、あやかしでしょう? どうして見えてるの?」

「あやかしは人に化けられる。そうして人間社会に溶け込み、姿をくらましてるんや。あの狸も化けたつもりなんやろうが、なんやあの中途半端な術は。そら、すぐに見つかるわけや」

 術が苦手だったのかな。

 化け狸を追うように歩き出した安倍さんは、静かに右手の人差し指と中指を立て、十字に切っていく。

「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)……結界(けっかい)、急急如律令──」

 安倍さんが呪文を唱えると、商店街一帯に透明なドームが現れる。

「これで商店街の外には逃げられへん」

「このドーム……私の家の周りを囲んでた……」

「なんやと? お前の家に結界張られとったのか?」

「は、はい。結界かはわかりませんけど、昨日、安倍さんに会う少し前に、うちの周りを覆ってたこのドームみたいなものが割れたんです」

 あれが結界だったなら、どうしてうちに張られていたんだろう。

「そういえば、あのドームってタマくんには見えてなかったよね?」

 隣を見れば、タマくんは困ったように笑って肩を竦める。そんな彼を見て、安倍さんは眉をひそめた。

「……どないなこっちゃ? お前は陰陽師の気配を感じられる。そやのに結界見えへんなんてことはあらへん。今かて、お前は俺の張った結界見えてるやろ」 

「昨日まで、猫又にならないように注意して生きてきたんだ。勘が鈍って、結界が見えてなかったのかもしれない」

 その返答に安倍さんはまだ納得がいかなそうだったけれど、「まあええ」と前を向く。

「結界は陰陽師にしか張れへん。俺とお前を会わせたない陰陽師がおるってことがわかっただけでも収穫や」

 安倍さんは難しい顔で、迷わず路地を曲がる。すると、そこは薄暗い路地裏だった。

「まずは、この化け狸を片付けるのが先や」

 路地裏は行き止まり。ゴミ箱の影に隠れてプルプルと震えていたのは、口の周りにたっぷり焼き鳥のタレをつけた化け狸だ。

「お前やな、金払わへんで商店街の店ちゅう店から食べ物を盗んどったあやかしっちゅうのは」

「お、陰陽師ポン!? ご、ごごご、ごめんなさいポンっ、お腹が減って仕方なかったんだポンっ」

 だポンって……狸だけに? ちょっと可愛いかも。

 緩んだ頬は、安倍さんの「謝って済む問題ちゃう」という冷淡な一声に引き締まる。

「今は窃盗だけで満足しとっても、いずれ人を襲うかもわからへんさかいな」

「そ、そんなことしないポンっ。おら、うまく変化ができなくて、人間に混じって仕事ができなかったんだポン。それで何日もご飯を食べられなくて……盗むしかなかったんだポン~っ」

 涙目で訴える化け狸を冷たい目で見下ろした安倍さんは、はっと吐き捨てるように笑った。

「どうだか、あやかしの言葉なんか信じられへん」

「あ、安倍さん、そう言わず……化け狸さんは生きるために仕方なく盗ったわけですし、厳重注意くらいでいいんじゃないですか?」

 怖がっている化け狸が不憫で間に入ると、安倍さんは睨み潰す勢いで私を見る。

放たれた威圧感に竦み上がりそうになった。

視線のナイフを喉元に突きつけられているようで、生きた心地がしない。

 両親を殺されたことで、安倍さんの脳裏には『あやかしは人間に害なす存在だ』と深く刻まれてしまっているのだ、きっと。

 タマくんの言った通り、もうどんな言葉をかけても届かないのだろうか?

「あやかしは知性のあらへん獣と同じや」

 どくりと、心臓の奥でどす黒いなにかが疼いた気がした。

「生かす価値もあらへん。これ以上の被害が出る前に駆除させてもらう」

 頭の中で警鐘がけたたましく鳴り、頭痛がしてくる。激流のように胸に押し寄せてくるのは、『痛い』『苦しい』『憎い』という感情。

これは誰のものなのか、そんなふうに自分に問いかけている間にも、血の気が失せて四肢の末端が冷たくなっていく。

『また、皆殺しにするのか』

 そんな声が頭の中でこだまする。

『一方的に、奪うのか』

 心の中に黒い染みが広がっていくような感覚に襲われながら、私は下を向いた。

「許せない……」

 そんな言葉が勝手に口をつき、隣にいたタマくんが「美鈴?」と顔を覗き込んでくる。

 ああ、これはいけない。また、私の〝あの力〟が目覚めてしまう──。

 抑えなければと、そう自分に言い聞かせても、もうコントロールが利かない。身の内で膨れ上がる力の放流を止められない。

「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)……」

 ──やめて、殺さないで。

 願いに応えるように、ドクンッと心臓が跳ねた。鼓動は次第に早くなり、冷え切った身体が今度は熱を持ち始める。

「助けてぇ……助けてぇ……死にたくないぽん……っ」

 あやかしが助けを求めている。私が救わなくては、守らなくては……。そんな使命感に思考が塗り替えられていく。

「滅せよ、急急如律──」

 最後のトリガーを引いたのは、安倍さんだった。私はすうっと静かに息を吸い、言い放つ。

「──動くな」

 声が、マイクのエコーのように辺りに響き渡った。その瞬間、振り返ろうとした安倍さんの身体が硬直する。

「なっ……くっ……お前、なにをした……。それに、その目……妖気も強なってるし……」

 この瞳は、今は紫色に変わっているのだろう。こうなったとき、私は目が合った者を従わせることができる。

これが耳や尻尾が出てしまうことの他に抱えていた、長年の悩みの正体。

私が化け物である証のようなこの力を、ずっと嫌ってきたはずなのに、また人前で使ってしまった。

「そ、それは……猫又の姫にだけあるとされる、魔性の瞳ぽん!? 見た者を魅了し、従わせる力……」

「魔性の……瞳……?」

 初めて聞く力の名前。どうして、その姫の力が私に……?

「そうだポン! あなた様は鬼(おに)、妖狐(ようこ)、烏天狗(からすてんぐ)、大蛇(だいじゃ)、猫又(ねこまた)、土蜘蛛(つちぐも)、犬神(いぬがみ)……あやかし七衆(ななしゅう)の頭首のひとりであらせられる猫又の姫様にございますポン!」

 信じられないといった顔で、一歩、また一歩と近づいてきた化け狸は、私の前にひれ伏す。

「うう、今世でお会い出来るなんて、光栄の極みですポン……。オラを姫様の家来にして欲しいですポン」

 家来にだなんて、私はただ化け狸が殺されなければそれでよかった。仕えてほしいとも思っていない。けれど、私の口は勝手に動いて──。

「よかろう、私の配下となることを許す」

 そう返事をしていた。 

 なんで……。

 自分じゃない誰かに身体を乗っ取られているようで、怖くなる。

「ふざけるな。なら俺の前世やらいう安倍晴明は、人間のくせにあやかしの姫と結婚したっちゅうんか?」

「なんと! では、あなた様がかの有名な安倍晴明様の生まれ変わりで? 安倍晴明様は、あやかしに寛容とお聞きしてましたが……」

 化け狸は私の背後に隠れ、ひょこっと顔を出すや安倍さんを怖々と見上げた。

「今の晴明様は……ちょっと噂と違いますポン」

「俺は晴明ちゃう、安倍光明や。昔はどうやったか知らへんが、今はあやかしの敵かてこと覚えとけ」

 安倍さんは聞き取れないほど小声で、ブツブツとなにやら唱え始める。

 そして、最後にふっと息を吐くと──私の拘束を解いてしまった。

「美鈴の力を解くなんて、希代の陰陽師っていうのもあながち嘘じゃなさそうだ」

 タマくんの声がすぐ後ろで聞こえ、両肩に手が載る。タマくんは私の力のことを知っているので、魔性の瞳の力を目の当たりにしても至って冷静だった。

「ここでやり合ったら、商店街に被害が出る。ここは穏便に済ませられるなら、それに越したことはないと思わないか」

「……穏便やと? それでそこのあやかしを見過ごせば、今度はおっきな事件を起こすかもしれへんのやぞ」

「冷静になりなよ。化け狸に敵意はない」

「俺は冷静や。そっちこそ、死人出る前に滅するしかあらへんってこと、なんでわからへんねん」

 滅するなんて……どうして、この子は誰も傷つけてないのに……。

 怒りが込み上げてきて、自分の中の力が……おそらく、安倍さんの言った妖気が暴れそうになるのがわかる。

 それに気づいたのか、タマくんが「落ち着いて」と、私の耳元で宥めるように囁いた。

 そのおかげで少しだけ気が静まり、力が弱まる。

「きみの力は、まだ覚醒しきってないから不安定なんだ。安倍さんを完全に縛れなかったのも、そのせいだと思う」

 どうして、タマくんがそんなことを知ってるの?

 そんな疑問がわくが、タマくんの前で力を使ってしまうことはたくさんあった。頭のいい彼のことだから、タマくんなりに推測を立てたのかもしれない。

「安倍さん、美鈴はあなたが引くまで魔性の瞳の力を解けない。もとはあやかしの力だ、人間の身で使い続ければ、命に関わる」

「──っ」

「なにが言いたいか、わかるだろ? 美鈴になにかあれば、きみも無事では済まない」

 ぐうの音が出ないのか、安倍さんは悔しそうに私たちから顔を背けた。

「それは、化け狸がもう盗みをしなければ、この場は見逃してくれる……そう解釈しても?」

「見逃すんは、今回だけや」

 安倍さんは不本意そうだが、ひとまず化け狸が殺されないとわかり、ほっとする。

「美鈴、この化け狸に『なにがあっても、うまく人間に化けられる』って言うんだ」

「あ……そっか、暗示をかけるんだね」

「そういうこと。できるね?」

 タマくんはすごい。嫌でたまらなかったこの力の、正しい使い方を示してくれたんだから。

「化け狸くん、きみはなにがあっても、うまく変化できる」

「姫様……」

「私を信じて」

 最後のはお願いだ。化け狸はこくこくと頷き、「変化!」と空中で一回転する。すると、今度はきちんと人間に化けることができていた。

「お前は……あやかしを従わせられる。人間にとって、脅威や」

 ああ、この安倍さんの視線には覚えがある。化け物を見るような眼差し、私はよく両親に向けられていた。

「……っ、私は人間の敵になんてなりません。だって、今は人なんですから」

 安倍さんとの関係がますます冷え切るのを感じて、切なくなる。

 これが、当然の反応だ。私を受け入れてくれたタマくんやおばあちゃんが珍しいだけ。 

 安倍さんが私を嫌うのは当然だから責められず、ぎこちない笑みを返すことしかできなかった。

「お前、なんで笑うて……」

 痛みを堪えるような表情で、安倍さんは私を見つめていた。

 どうして安倍さんが、そんな顔をするの?

 その問いが言葉になることはなく、身体がさらに熱を持ったと思ったら──。

 ボンッと、完全なる猫の姿になってしまった。身体が縮んだせいで、着ていた服に埋もれてしまう。

 苦しい……けど、身体が怠くて動けない。

 ぐったりと倒れていると、タマくんが私を抱き上げてくれる。

「魔性の瞳を使った反動だ」

「おい、そいつは無事なのか」

 安倍さんの声が心なしか頼りなさげで……心配してくれたのかもしれないなんて、そんな幻想を抱いてしまった。

「命に別状はないけど、数日は寝込むだろうね。きみがもっと早く引いてくれてれば、彼女はここまで消耗することはなかったのに」
 
「…………」

 ぼやける視界、薄れゆく意識の中で見えたのは、安倍さんの傷ついた表情だった。
***

 その夜、俺の部屋には猫又女の幼馴染──魚谷がおった。

「くれぐれも、美鈴に手を出すなよ」

「それだけはあらへんさかい、安心しろ。ええさかい、お前は早う出ていけ。いつまで経っても、俺が寝れへんやろ」

 あやかしに欲情するわけがあらへんやろ。この幼馴染は過保護すぎるんや。

 立ち上がって襖へと歩いていく魚谷を鬱陶しく思いながら、隣の布団に視線を移す。そこには丸くなって眠っている赤毛の猫がいる。

 この仕事をしてると、あやかし憑きの人間に出会うことは少のうない。

そやけど、憑かれてるあやかしそのものに変われる人間に出会うたのは、この女と魚谷が初めてやった。

「お前らの妖気は普通ちゃう。特にこの女が魔性の瞳を使うたとき、高位のあやかし以上の妖気を放っとった。あの力を使い続ければ、この女はどないなる?」

 部屋の扉に手をかけた魚谷の動きが止まる。

「力の動力源は妖気だ。人間が鍛えて肺活量や筋力を上げるように、彼女も力を使えば使うほど、その源である妖気を強めることができる。いずれ、彼女は覚醒するってことだ」

 こちらを振り返らずに、淡々と答えた魚谷。表情が見えないせいか、底知れないものを感じた。

「つまり、あやかしに近づくってことやな? それがわかっとって魔性の瞳を使わせたのか?」

「使わせた? あれは彼女が自分の意思で使ったんだ」

「しらばっくれる気か? せやったら、質問を変える。お前はこの女があやかしになるかもしれへんとわかっとって、なんで魔性の瞳を使うのを止めへんかった」

 この女が大事なら、あやかしにならへんように止めるはずだ。やけど、そうしいひんかった。その真意はどこにあるんや。

 目的を探っていると、魚谷が振り返った。

「……あのときは、そうするしかなかっただろ?」

 全てを覆い隠すような笑みだった。食えへん男や。

「お前は、この女をあやかしにしたいのか?」

 その質問には答えず、魚谷は襖を開ける。

「俺はいつでも美鈴のために動いてる」

 それだけ言い残して、部屋を出て行った。

「やっぱし食えへんやっちゃな」

 俺はどっと疲れてため息をこぼす。そのとき、猫又女が苦し気にニャーと鳴いた。

どいつもこいつも鬱陶しいと、猫に背を向けて布団に横になるが、後ろでニャーニャー鳴くものだから気になって仕方ない。

「だぁーっ、もう、やかましい!」 

 俺は自分の布団をバサッと剥ぎ、猫又女の布団へ入ると、その小さな身体を包み込むように抱きしめた。

「熱いな……いけ好かへんあの幼馴染は、力を使うた反動や言うとったが、こらきついやろ」

 あやかしは俺の大事な者を奪うた。そやさかい、この世界からいーひんようになったほうがええ。その考えは変わらへん。

 そやけど、あやかしが皆、人間に危害を加えてくるわけちゃう。この猫又女からしたら、俺が一方的にあやかしを嫌うてる悪者に映るんやろうな。

 こいつの非難の眼差しが、どうも胸をチクチクと刺してくるさかい嫌になる。

「……こうしてみると、ただの猫なんやな。尻尾も二又に分かれてへんし……」

 やけど、あの幼馴染は尻尾分かれとったな。あら完全に猫又の姿や。この猫又女も、妖気強なれば、あやかし本来の姿に変わっていくんやろうが……。

 そこではっとする。

 なんで、あの幼馴染はあやかし本来の姿になれる……?

 ますます怪しいやつやな、と内心で呟いたときだった。腕の中の赤猫がふーっと苦し気な息を吐き、身じろいだ。

「手のかかるやつや……臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)。封ぜよ、急急如律令」

 静かに呪文を唱え、妖気を鎮めていく。

 あやかしにとって妖気は生きる源。それを清めたり、無理に封じたりすれば命に関わる。

 こいつはあやかしちゃうが、限りのうあやかしに近い、あやかし憑きだ。

 やさかいゆっくりと、一晩かけてこの女の身体に満ちてる妖気を封じていく。

「安心しろ、すぐに楽になる」

 こら猫や、ただの猫……。弱った動物に優しゅうするのは、人間として当たり前の行動やさかいな。

 自分に言い聞かせるように赤猫の背を撫でてやれば、呼吸が落ち着いてくる。それに気づいた途端、胸に込み上げてきたのは……。

「ほんまに、しゃあないな」

 どうしようもなくか弱い者を守りたいという、保護欲だった。

 なんか、スース―する。

 眉を寄せて身じろげば、すぐそばに温もりを見つけたので、すり寄る。

「んなっ──」という誰かの言葉にならない悲鳴が聞こえたような気がしたが、私はあったかいので満足だ。

 でも、身体が軽いような……いや、心もとない……?

 奇妙な感覚で意識がはっきりしてきた私は、ゆっくりと瞼を持ち上げる。

眩しい朝日が視界を白いフィルターで覆っているみたいで、はっきり輪郭を掴めないけど……。

 たぶん、タマくんだろう。私を起こしに来てくれるのなんて、幼馴染の彼くらいだ。

「おはよう……タマくん……」

 へらっと笑えば、目の前の彼が息を呑んだのがわかった。

首を傾げると、私がしがみついているものが人だと気づく。

 ああ、私……タマくんを抱き枕にした?

 だが、どうも頭がはっきりしない。朝は苦手なのだ。

 私にしがみつかれているタマくんの身体は、カチコチにして固まっている。

「タマくん、あったかい……」

 ぬくぬくしながらも、少しずつ光に目が慣れてきた。

 あれ、タマくんの髪が黒い。目も金じゃなくて青いし……。

 そこでようやく、自分がとんでもない勘違いをしていたことを知る。

「あ、れ……タマくんじゃ……ない?」

 私がしがみついていたのは、表情を凍りつかせている安倍さんだった。サーッと血の気が失せ、私は勢いよく飛び起きる。

「アホ! その格好で起き上がったら……」

 ふぁさりと掛け布団が肩から滑り落ち、外気を肌に直接感じた。自分の身体を見下ろせば、まさかの素っ裸。

「な、なな……」

 なんでこんなことに? 
そういえば昨日、猫になったんだっけ。それで服も着られなかったから……ってことは一晩中、裸で安倍さんと眠ってたってこと?

「いやあああああああーっ」

 両手で胸を隠しながら絶叫すると、誰かが走ってくる音がして──。

「美鈴!」

 シュタンッと開いた襖の向こうに息を切らしたタマくんが立っていた。

 タマくんは私と安倍さんを交互に見るや、じわじわと黒いオーラを漂わせ始める。

「くれぐれも、美鈴に手を出すなよって……俺、言ったよな」

「俺はなんもしてへん。起きたら、こいつが裸で横に寝とったんや」

「この際、経緯なんてどうでもいいよ。美鈴のあられもない姿を見たことに変わりはないんだからな」

 裸の乙女をそっちのけに口喧嘩する、無神経な男二名。

私は布団を引き寄せ、身体を隠しながら息を吸い込むと……。

「もう、いいからふたりとも……出ていってーっ」




 居候生活二日目の朝食の席は、それはもう葬式かのように重たい空気に満ちていた。

 原因は今朝の一件なのだが、さすがにこうも沈黙が続くとご飯がまずくなる。

「このカレイの煮つけ、美味ですポン」

 沈黙を破ったのは、昨日助けた化け狸だった。

「化け狸くん、なぜここに?」

 虫の居所は悪いままだが、さらっと食卓に混じってカレイを食べる狸。この絵面に突っ込まずにいるほうが難しい。

「そんなぁ、姫様忘れたポン? オラが姫様の家来になるのを許すって、言ってくれたポンに……」

「そういえば……」

 言ったような……『よかろう、私の配下となることを許す』って。時代劇か!

「でも、よく安倍さんが許してくれたね。あやかしなんぞ!って感じで、めちゃくちゃ毛嫌いしてるのに」

 今朝、あれだけ怒っていたのに、自然と安倍さんの話題を出してしまった。

おずおずと向かいの席を見れば、安倍さんはそっぽを向いたまま……。

「それ、俺の真似か。まったく似てへん」

 と、珍しいことに雑談に混じってきた。

「真似、とかじゃないんですけど……なんで化け狸くんが家に?」

 意外で話を続けると、安倍さんは綺麗な所作で五目豆煮の豆を箸で摘まみ、口に運びながら言う。

「化け狸を追い出したら、お前がまた力を使う可能性があったさかい、しゃあないやろ」

 しゃあないって……じゃあ、化け狸くんも居候にしてくれたってこと? 

私が寝込んでる間に術で無理やり追い出すこともできたはずなのに……安倍さんはそうしなかったんだ。

「ありがとうございます、安倍さん」

「礼を言われるようなことはしてへん」

 素っ気ないけど、いつもみたいに冷たく突き放されない。

それに胸がじんわりとして、私はその場に勢いよく立ち上がる。

「そんなことないです! 裸を見られたこと、化け狸くんを居候にしてくれたことで帳消しにしてもいいやってなりましたし!」

 訪れる静けさに、襲ってくるのは後悔の波だ。

 ああ、なんで気まずい話題をまたぶっ込んじゃったんだろう! 自分で墓穴を掘ったっ。

「あ、あー……よかったね、化け狸くん……って、なんか呼びづらいし、名前は?」

 笑顔を引きつらせながら、私はその場に座り直す。

「名前……みんなはオラのこと、化け狸って呼びますポン」

「それは名前っていうより、名称じゃないかな? 私たちでいう人間、的な……。呼びにくいし、名前をつけてあげる!」

「なんとっ、姫様に名前をつけていただけるなんて、光栄至極ですポンっ」

 両手を握り合わせて、瞳をキラキラさせている化け狸くんのためにも、可愛い名前を付けてあげないと。

「責任重大だなあ……た、太貫(たぬき)とか?」

「漢字変えただけかよ!」

 すかさず、赤珠のツッコミが飛んでくる。

「それなら、みんなの知恵も貸してよ。なにか、案ない?」

「んー、怪盗ポン太でどうだ!」

 自信満々に化け狸を指を差す赤珠。もしかしなくても、商店街で盗みを働いていたからなのだろうけれど……。

「通り名、みたいだね」

 苦い笑みを浮かべるタマくんに、赤珠はムッと頬を膨らませる。

「そう言う魚谷は、いい案があるんだろうな!」

「俺は……名前とか付けるの苦手だから。ここは女の子たちの意見を取り入れたほうがいいんじゃないかな?」

 タマくんが肩を竦めたとき、ふとあくびをしている安倍さんが目に入る。

「安倍さん、寝不足ですか?」

「朝弱いだけや」

 でも、昨日は朝から言葉の切れもよかったし、テキパキしていたような……。

 なんとなく誤魔化されているような気がして首を傾げていると、水珠がそろりと安倍さんの顔を見上げた。

それから手元のお味噌汁に視線を落とし、意を決したように私を見る。

「……光明様は……お嫁様のために一晩かけて、身体に満ちている妖気を……封じていたのです」

「え……」

 寝耳に水だ。どういうことですか?と安倍さんに視線で訴えれば、すぐに目を逸らされた。

話してくれそうにもないので、私は水珠に「どういうこと?」と説明を求める。

「あやかしにとって妖気は命の源……。お嫁様はあやかしではありませんが、お嫁様の妖気もそれに近いだろうと光明様は考えられて……。一気に妖気を封じれば、お嫁様のお身体に障りますから、負担がないようゆっくりと……一晩かけて封じていたのです」

「そうだったんだ……」

 だから、いつもなら力を使ったあとは何日も寝込むのに、たった一日眠っただけでこんなに身体が軽いんだ。

 そんなこと、安倍さんはひと言も話してくれなかったから……。助けてもらったのに、朝は裸を見られたからって酷い態度をとっちゃった。 

 同じ布団で寝ていたのも、私の妖気を封じ込めるためだったんだよね、きっと。

「ありがとうございます、安倍さん。化け狸くんのことも、いろいろと」

 あふれてくる温かい感情を大切にしまい込むように両手で胸を押さえながら、私は笑みを返した。

 安倍さんは後頭部に手を当てながら、やっぱり顔を背けて「……調子狂う」と呟く。

「ほら、そこの盗人狸の名前決めてるとこやろ」

「ああ、そうでした! えっと、じゃあ……」

 悩みながら視線を彷徨わせたとき、座卓にあるポン酢の瓶に目が留まった。

「ポン酢……ポンず……ポン助? あ、ポン助よくない?」

 我ながらナイスネーミング!と人差し指を立てると、タマくんは眉を下げつつ笑う。

「ポン助……案を出してない俺が言うのもなんだけど、ちょっと平凡過ぎないか?」

「平凡だけど、周り回って、その平凡さが可愛いと言うか!」

 パンッと両手を叩けば、化け狸もといポン助が「可愛いポンっ」と私の手を握った。

ふたりで「可愛いねーっ」と声を揃えてはしゃぐ。居候がひとり増えたので、安倍家の朝は一段と賑やかになった。

「本人の同意が得られたので、化け狸くんは正式にポン助と名付けることにいたします」

 私に合わせて拍手してくれたのは、ポン助とタマくんと水珠だけだった。

「そうだ、水珠と赤珠の名前の由来ってなんなんですか?」

「なんや、急に」

「式神を生み出すのは陰陽師なんでしょう? なら、水珠と赤珠に名前をつけたのも安倍さんなんですよね?」

「そうやけど、んなもん聞いてどないすん?」

「なんとなく、気になって」

 面倒くさそうな顔をした安倍さんだったけれど、式神双子からも〝聞きたい〟と言わんばかりの熱視線を受け、諦めたように深く息をついた。

「水と赤は火と水からもじったんや」

「火じゃなくて、赤?」

「そら、俺が火ぃ……いや、火といえば赤やさかいな」

 歯切れの悪い安倍さんは、言葉を挟めないようにするためか間髪入れずに続ける。

「正反対やけど違うよさや強さがあって、お互いに補い合える双子であってほしい……そないな意味や」

 理由を知った水珠と赤珠は、くすぐったそうに下を向き、モジモジしている。そんなふたりを見つめる安倍さんの眼差しは優しい。

 ふたりのこと、大事に思ってるんだな。

「そういえば、お前らが生まれて明日で十七年やな」

「え……水珠と赤珠、明日誕生日なんですか!? そんなの聞いてない!」

「話してへんしな」

 もう、そんなあっさりと……。プレゼントを用意してる暇もないし、せめておいしいケーキくらいは作ってあげたいな。

 大根おろしの乗った和風の卵焼きを頬張りながら、密かに誕生日会の計画を練るのだった。




 朝食後、私は安倍さんの仕事に付き添って古民家の集まる田舎道を歩いていた。

 タマくんは急遽、ご両親が揃って実家に帰ってくることになり、家事のできないふたりのために今日だけ家に帰ることになった。

 私と安倍さんだけで仕事に行くのがよっぽ心配だったのか、さっきからスマホが数分おきに鳴っている。

もちろん全部、タマくんから届いたメッセージの受信音だ。

「それ、どないかしろ。やかましい」

「たまに過保護なんです」

「過保護どころちゃう、ストーカーか」

 迷惑げな表情を浮かべる安倍さんに苦笑いしながら、その前に回り込む。

「安倍さん、安倍さん」

「なんや、その顔。なにを企んでる」

 不審がってか、安倍さんは眉を寄せた。

「人聞き悪いですよ。私はただ、手作りケーキとか、チキンとか用意して、水珠と赤珠の誕生日会をやりましょうよーって提案をしようと思っただけで……」

「ええ歳して、なにが誕生日会や」

「年齢なんて関係ないですって! 安倍さんは、ふたりが大切でしょう?」

 ふたりの誕生日を覚えていたし、名前の由来を語るときの彼はとても優しい顔をしていた。

それだけで、どれだけ安倍さんが水珠と赤珠を大切に思っているのかがわかる。

「大切な人がいつまでも、そばにいてくれるとは限らないんですよ。明日お別れが来てもいいように、愛してるも好きも、ありがとうもおめでとうも、伝えておかないと」

 なんでか昔から、命はとても儚いことを知っていた。

嵐が来れば吹き飛び、水がなければ枯れ、太陽がなければ萎れ、パッと咲いては散りゆく花のようだと。

 黙り込んだ安倍さんは、ややあって私から顔を背ける。

「仕事のあとなら、買い物に付き合うてもええ」

「本当ですか! ありがとうございます! なにケーキにしようかなー、やっぱりイチゴと生クリームのケーキが定番ですよね。水珠と赤珠、喜んでくれると嬉しいですね!」

「他人のことなのに、けったいなやつや」

 けったいって、『変な』って意味? 他人だなんて、つれないな。

「もう他人じゃないです。ひとつ屋根の下、一緒に暮らしてるんですから」

 笑いかければ、安倍さんは面食らったように目を瞬かせ──。

「やっぱし、けったいなやつや」

 訝しげな顔つきをする。攻撃的ではない安倍さんは新鮮で、少しのむずがゆさを感じながら、私は彼の隣に並んだ。

「そういえば、今回の仕事ってなんなんですか?」

「廃業したはずの元陰陽師が、式神を使うて女児を誘拐してるって疑惑があってな。実際、その子らは行方不明になってる。それが事実かどうか、探りに行くんや」

「ええっ、それが本当なら、それは警察の仕事なんじゃ……」

「警察じゃ手に負えへんさかい、俺ら陰陽寮の人間が動いてるんやろうが。向こうが術を使うてきたとき、生身の人間が対抗できる思うんか?」

「思わないです……」

 陰陽寮って、結構危険な仕事なんだな。それも、ナイフや銃を使うのとはわけが違う。

私の魔性の瞳や陰陽術のように、人の手には余る力を持つ者を相手にしているのだから。

 陰陽寮から小一時間ほどで、例の誘拐疑惑のある陰陽師の屋敷に着いた。

「あなたの噂はかねがね……まさか陰陽寮から、あの安倍晴明の子孫であらせられる安倍光明様がいらっしゃるとは。力が弱まり廃業した私に、一体なんの御用でしょう?」

 案内された居間で向かい合っているのは、七十代くらいの白髪の男性。

湯佐茂(ゆさ しげる)さんというらしく、垂れた目尻や笑みを絶やさない口元は、とても朗らかなおじいさんという印象だった。

「最近、この近辺で十歳前後の女児が行方不明になっているのは知ってますか」

 安倍さんの眼光が鋭くなるが、湯佐さんは動じることなく「ええ」と笑みを浮かべたまま相槌を打つ。

「不安にさせへんように、住民に聞き回るより先に、湯佐さんからなんか気づいたことはあらへんか情報を聞ければと思たんや。廃業しとっても、陰陽師やったあなたの視点や勘はそう簡単に鈍らへんやろ」

 湯佐さんはそれを聞くと、困ったように笑った。

「どうでしょう? 私も現場を離れて、かれこれ五年近く経っておりますから……」

 探り合うような問答に緊張が走り、さっきから背筋が勝手に伸びる。

お腹がぐるぐると音を立てて下り始め、耐えきれなくなった私は……申し訳なく思いながらも、挙手をした。

「すみません、お手洗いをお借りしてもいいですか?」




「ああ、生きた心地がしない……」

 お腹をさすりながら、お手洗いを出る。

「にしても、広い家だなー」

 先ほどいた居間からお手洗いまで、何度廊下の角を曲がったかわからない。むしろ、ちゃんとあの部屋に戻れるのかが怪しい。

 出迎えてくれたのは湯佐さんだけだったけど、奥さんやお子さんはいないのだろうか。

式神の姿も見かけないし、こんなに広い家でひとり暮らし?

「寂しいだろな……」

 私もおばあちゃんが死んじゃってからは、ひとりで家にいると嫌でも静けさを感じてしまって、寂しくてたまらなかったっけ。

 タマくんはほとんど毎日家に来てくれたけど、今日みたいにご両親が揃って家に帰ってくるときは家族と過ごしていた。

それは当然のことだし、むしろうちに入り浸っていることのほうがおかしいのだけれど、家が広ければ広いほど自分がひとりぼっちなのだと思い知らされて、私はこのままずっと孤独で生きる運命なのかな?とか、悪い妄想ばかり膨らんで……。

「って、ひとんちで考え事してる場合じゃない! 早く安倍さんのところに戻らないと……」

 そう思って居間の扉を開けた……つもりだったのだが、そこは薄暗かった。

部屋の奥には仏壇があり、遺影にはランドセルを背負った女の子と年老いた女性が映っている。

 そして、その仏壇の前には──。

「んーっ、んーっ」

 口に布を咥えさせられ、手足を後ろで縛られた女の子が三人も転がっている。

彼女たちは私を見上げながら、涙があふれそうになっている目で『助けて!』と訴えていた。

「こ、これって……え、どういう……」

 頭には、安倍さんの声がこだまする。

『廃業したはずの元陰陽師が、式神を使うて女児を誘拐してるって疑惑があってな』

 まさか、湯佐さんは本当に女の子を誘拐してた?

 その結論に至ったとき、ゴンッと頭の後ろに強い衝撃を受けた。受け身を取ることもできず地面に倒れ込むと、頭に鈍い痛みが襲ってくる。

 床に頬をつけながら、必死に私を殴った犯人を見上げた。

「だ、誰……?」

 先に視界に捉えたのは三つ編みに結われた長い灰色の髪。次に、無機質に私を見下ろす……着物姿の男だった。

 でも、その濡れ羽色の黒い瞳はどこか悲しげで、意識を失う寸前まで目を離せなかった。




「いっ……」

 ズキズキとした痛みで、意識が浮上してくる。

 私、どうしたんだっけ。部屋で女の子を見つけて、そのあと男の人に後ろから殴られて……そうだ、安倍さんにこのことを知らせないと!

 そう思って瞼を持ち上げれば、私を待っていたのは闇だった。

「え……なんで、なに……ここ……」

 震えが止まらない。昔から、ううん……お父さんとお母さんに物置小屋に閉じ込められた日から、暗闇は苦手だった。

 少しして、薄っすらとホウキやちりとりなどの掃除道具が壁に立てかけられているのが見えた。私がいるのは、物置小屋のようだ。

 早く、ここから出なきゃっ。

 慌てて起き上がると、頭に鋭い痛みが走る。

悲鳴が喉まで出かかったが、そんなことよりもここから出るほうが大事だ。

 構わず立ち上がった私は、両手を伸ばして出口を探した。

 しかし、なにも見えないせいで、先ほどからいろんなものにぶつかってしまう。

「あっ……」

 なにかに躓いて、思いっきり転んだ。

肘と膝を擦りむいたのか、ヒリヒリする。地面を這うように前に進むと、ようやく扉に辿り着いた。

「誰かっ、誰かーっ、ここから出して!」

 どんどんと扉を叩いても、叫んでも助けはこない。

真っ暗で埃臭くて寒くて……私は世界にひとりぼっちなのだと、そう思わせるこの場所から一刻も早く逃げ出したかった。

「誰かっ、助けてーっ」

 外から鍵をかけられているのか、扉は押しても横にスライドさせようとしても、びくともしなかった。

 何度も何度も扉を叩きながら、どこかで失望している自分がいた。

 どんなに足掻いても、私を助けに来る人なんていない。わかってた……だって、あのときもそうだった。

 私を【化け物】と呼び、【気味が悪い】と恐れ罵倒したふたりが、私を助けになんてくるはずがなかったのだ。

 今回も同じだ。安倍さんはあやかしを従わせられる私を、人間にとっての脅威だと、そう言っていた。

もし【呪約書】のことがなければ、ご両親の敵であるあやかしに憑かれた私なんて、死んだほうがいいと思っているかもしれない。

 ああ、やっぱり暗闇は、私の心に絶望しか連れてこない。

 がっくりと、崩れ落ちるように地べたに座り込む。膝を抱えて、その間に顔を埋めた。

 どれくらい、ここにいたんだろう、あとどれくらい、ここにいなきゃいけないんだろう。

 窓がひとつもないので、時間も確かめられない。本当の本当に、世界から切り離されたみたいだ。

「助けて……」

 願ったって無駄だと、諦めたような私の声がする。

「助けて……」

 散々、化け物だと罵られてきたのに、それでもまだ信じてる。

私をこの暗闇から救い出してくれる誰かが現れるって。それは、きっと──。 

「助けて、安倍さん!」

 声が届いたのだろうか。バタンッと勢いよく開いた扉から、光が差し込む。

「無事か! 美鈴!」

 初めて名前を呼ばれた。私は眩しさに目を細める間もなく、彼へと抱きつく。

「安倍さん!」

 ひしっとしがみつけば、安倍さんは突き放すことなく抱き留めてくれた。

「安倍さんっ、安倍さんっ、安倍さんっ……ううっ、ふうっ……」

 人間って、ほっとしたらこんなに涙が出るんだ。

 助けにきてくれたことが、自分で思うよりもずっとうれしかった。

「落ち着け、もう大丈夫や。俺がおるやろ」

「怖……くてっ……暗いの、ダメなんです……」

 安倍さんのジャケットを握る手が震える。それに気づいたのか、安倍さんはぎこちない手つきで頭を撫でてくれた。

「なんで、暗いのがあかんのや?」

「昔……閉じ込められた、から……。お父さんとお母さんが猫憑きの私を気味悪がって、物置小屋に……」

 私を抱きしめる安倍さんの腕に、力が込もった気がした。

「また……」

 ぽつりと安倍さんがこぼした言葉に、私は「え?」とか細い声を返しながら、顔を上げる。

「また、お前が暗闇に閉じ込められたときは、俺が見つけたるさかい、もう泣きやめ。見とって鬱陶しい」

 つっけんどんな物言いなのに、どうして労わってくれているように聞こえるのだろう。

 本気で心配してくれている安倍さんに、私はようやく笑みを浮かべた。

「さすが、光明さん」

「んなっ──、なんや、急に名前で呼んだりして」

「光と明……名前の漢字、どっちも明るいから……私を照らしてくれそうだなって。私を見つけてくれた、今の光明さんみたいに」

 甘えるように、安倍さんの胸に頬を擦り寄せる。

 安倍さんは一瞬、身を固くしたけれど、

「なんか、猫に懐かれたみたいや」

 と言い、脱力していた。

 するとそこへ、足音が近づいてくる。

安倍さんと一緒に振り向けば、湯佐さんともうひとり、私を後ろから殴って気絶させた男の人がいた。

「長い御手洗ですね、おふたりとも」

 底知れない笑みを浮かべている湯佐さんに、ぶるりと震えてしまう。そんな私を、安倍さんはそっと抱き寄せた。

「わかってるやろ。俺が席を立ったのは、御手洗目的ちゃう。帰ってきいひん連れを探すためや」

 そこまで言って、安倍さんは物置小屋をちらりと見やり、鼻で笑う。

「まさか、物置小屋に閉じ込められてるとは思わへんかったけどな」

「あ、安倍さん。私、湯佐さんの後ろにいる人に殴られて、それで気絶しちゃったんです。それで気づいたら物置小屋に……」

 安倍さんは、湯佐さんの後ろに控えている男性を一瞥した。

「あら式神や。あんた、式神になにをさせてる」

 なにも言わない湯佐さんに、安倍さんはため息をつく。

「おんなじ年齢、性別の子供を誘拐してるんは、亡くなった娘さんのためですか」

 亡くなった娘さん……?

 それは初耳だった。じゃあもしかして、女の子たちがいたあの部屋の仏壇に映ってた女の子が亡くなった娘さんだったのだろうか。 

「はは、あなたがここに来たときから、もう隠し通せないと思っておりました。私の式神も撒いてしまわれましたし」

 湯佐さんの笑みが自嘲的なものへと変わる。その表情は、初めて湯佐さんが見せた本心のような気がした。

「……もう、三十年も前になります。妻と娘をあやかしに殺されたのは」

 あやかし……それにどきりと心臓が跳ねた。あやかし憑きだからだろうか、私も他人事ではないように思えたのだ。

「あやかしを滅する立場にいる陰陽師を継いだときから、あやかしに討たれる未来は常に想像していました。ですが……あやかしは私を殺すのではなく、私の大事な者を奪うことで復讐を果たしたのです」

「そら……自分が殺されるよりもしんどかったやろうな」

 感傷のこもった響きが、安倍さんの呟きにはあった。

 安倍さんはご両親をあやかしに殺されたときのことを思い出しているんだろうな。

湯佐さんの気持ちがわかるだけに、今回の依頼はつらいはず。

 だけど、あやかし憑きの私が慰めたところで、安倍さんを励ませるとは思えない。

むしろ、お前にはわからないと、また怒らせてしまうかも……。

 それでもなにかせずにはいられなくて、私は安倍さんの腕に手を添えた。

こんな私の手でも、安倍さんの心を温めてあげられたらいいと、そう願って。

 安倍さんは私をちらりと見て、

「お前が気にすることやない」

と、小声で言った。

 お前に関係ないと突き放されたようにもとれるけれど、柔らかい声音がそうではないのだと教えてくれる。

「私の家族を殺したあやかしは、私が仕事で滅したあやかしの仲間だったのでしょう。それから定年まで、あの子と妻を生き返らせる術を探して、ようやく見つけたのです」

「死者蘇生の禁術に手ぇ出すつもりやったんやな。正確には別の肉体に死者の魂を入れる術やけど、それには生き返らせたい人間に近い器が必要や。そやさかい、娘さんとおんなじ年齢、性別の子供を誘拐して、娘さんの魂を入れる器にしようとしとった」

「そうです。いずれ、妻の魂を入れる肉体も探すつもりです」

「探すつもり……そらまだ、諦めてへんってことやな」

「諦めるわけにはいかないんです。──風切(カザキリ)」

 風切は湯佐さんの式神の名前だったらしい。彼は前に出てくると、すっと大きな鎌を出して構える。

 やっぱり、その眼差しには悲壮がこもっていた。

「やれ」

 湯佐さんに命令された風切は、一瞬だけ躊躇うようにぐっと鎌の取っ手を握った。それでも命には逆らえないのか、強く地面を蹴って襲いかかってくる。

「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)。結界、急急如律令!」

 安倍さんは素早く印を切り、結界を張って攻撃を弾いた。

後ろに飛ばされた風切は、宙で一回転して着地すると、すぐに鎌を振り上げながら結界を壊しにかかる。

「式神の力は主に比例する。俺の力はお前の主の何倍も上や。つまり、俺の結界はお前には壊せへん。……まあ、そう言うたところで主の命には逆らえへんか。酷い命令をするもんだな」

 壊せない結界に鎌を振り下ろす風切を、安倍さんは憐れむように見つめている。

「本当は……従いたくないの?」

 そう問えば、風切の肩がピクリと跳ねた。

 風切は私を気絶させたときも、悲しげな目をしていた。今だって、苦しみを押し殺すみたいに無表情を貫いて攻撃してくる。

「言いにくい?」

「いや、発言すらも許されてへんのや」

「そんな……」

 娘さんと奥さんを亡くした湯佐さんには同情できる。だけど、自分の目的のために式神に罪を背負わせるのは理解できない。

「安倍さんは、自分の式神を我が子みたいに大切に見つめてた。式神って、陰陽師にとって子供みたいなものじゃないの?」

「子供……そう思っていた時期もありましたがね、でも……あの子の代わりにはならないのですよ。本当の娘の代わりには」

 湯佐さんの言葉に、風切が傷ついた表情を浮かべた。その瞬間、私の中のなにかが勢いよくぶち切れた。

「式神は親を……主を選べないでしょう? それを利用して縛り付けるなんて、ダメだよ」

「同感や。式神は道具ちゃうんやで。心がある」

「風切、あなたはどうしたいの? 教えて」

 私が、あなたを自由にしてあげるから。

 その思いに反応するように、ドクンッと心臓が音を立て、熱が全身を巡る。

今までは勝手に発動していた魔性の瞳の力が、初めて自分の意志で呼び覚まされていく。

「お前、またあの力を使う気か? 昨日の今日で無茶するな!」

「安倍さん、でも……こういうときのために、私の力ってあるんじゃないかなって。誰かを従わせるんじゃなくて、勇気をあげるんです」

 私は結界の外に出て、風切に向かって歩き出す。

「なにしてんねん、危ないやろうが! 早う戻れ!」

 安倍さんの呼び止める声が聞こえるけれど、たぶん大丈夫だ。だって、風切が私を傷つけようとしても──。

「──動けない」