今宵の月は、青白い氷のようだった。
 冷かな光を浴びた桜の花びらは、今まさに散らんとする私の命のよう。

『うっ……』

 身体中に突き刺さった矢は、呼吸をするだけで激痛をもたらした。身体からはとめどなく血が流れている。地面に広がった自分の紅い髪が、一瞬それに見えたほどに。

 朝廷の敷地内にある陰陽寮。その広場には何十人と陰陽師たちがおり、私を取り囲んで矢を構えている。

這いつくばっている私の腹の下には、結界の術が発動していることを表す五芒星の印。身動きが取れなかった私は、あやかしにとっては毒である陰陽師の破魔矢をもろに受けてしまった。

痛い、寒い、苦しい、憎い……。
生き残った仲間はいるだろうか? 山の中に築いた隠れ里も見つかり、女も子供も皆殺しだった。きっと、もう誰も──。

『あやかしなど、知性のない獣と同じ。生かす価値もないわ』

 陰陽師の言葉に、私はギリッと奥歯を噛む。

『あの耳と尾を見よ。まさに獣』

 猫又(ねこまた)である私には人間とは違って、頭の高い場所に尖った猫耳があり、お尻には二股に分かれた尻尾が生えている。それを目にした陰陽師たちが、蔑むように笑った。

 私たちあやかしが獣なら、お前たち人間は慈悲の欠片もない化け物だ。

 でも、人間を憎みきれない。人にも、あやかしに理解を示す者がいると知ってしまったから。

 私は土を握りしめ、最後の力を振り絞って顔を上げる。

『……なぜ、なぜ逃げなかった、美琴(みこと)』

 愛しき男は、泣き出しそうな顔をしていた。

 いつ目にしても、その美しい顔貌には心乱れたものだが、今日はどうも胸が苦しくなるばかり。

 あの後ろで束ねられた、夜空を彷彿とさせる濃紺の長髪を梳いてやりたい。静かな深海を思わせる青の瞳も、ずっと眺めていたい。

 でも、これで見納めかと思うと、無性に胸が締めつけられる。

 なぜ逃げなかったのか、利口なお前なら気づいているだろうに。

 逃げるわけにはいかなかった。婚姻の契りを交わしておいて、愛した夫を置いていく妻は非情だろう。

 だが、朝廷からあやかしの討伐命令が出た以上、陰陽師である夫は私を殺さねばなるまい。

特に私は、あやかしを守る立場にいる。

 それなのに、人間の……それも陰陽師を夫に迎えた時点で、仲間を裏切ったも同然の私が、人間を憎みきれないこと。これ以上、散っていった仲間に顔向けできない真似はするべきじゃない。

 全てを敵に回して、夫と生きていきたいなどと、言えるはずもない。許されない。

 そして、守るべき仲間たちがもうこの世にいないのなら、果たすべき責任は死地への旅に付き添うことの他にはないだろう。

 それで夫も私を匿ったとして、罪に問われることもあるまい。

 だから自ら陰陽師に捕まり、葬られる。それが最善の策だった。

『あやかしと陰陽師……私とお前は、そもそも相容れない存在だったのだ……』

 言い聞かすように語れば、夫は眉をいっそう寄せ、涙に目を濡らす。

『そんなこと、初めからわかっていたはずた。それでも俺は、お前を愛した』

 ──愛した。
 その言葉を聞いた途端、頬をつううっと涙が伝っていく。

 私も、愛したからこの運命を選んだ。

 お互いの立場を考えれば、いつかこうなることはわかっていた。

 それでも、限られた時間を共に生きることこそ、私の幸せだと、そう信じて……。

 ただ、それは強がりだったかもしれないと、夫を前にしたら気づいてしまった。

 この涙がなによりの証。私は、本当は、もっとずっとお前と生きて生きたかったのだ。

 包み隠さずこの気持ちを口にしようものなら、お前は泣くだろう。だから言わぬ。この想いを胸の奥深くにしまい、蓋をして逝こう。

『……晴明(せいめい)。なにも遺してやれず、すまない』

 陰陽師たちが呪文と共に指で印をきる。眩い光が私を包み、愛する者の姿を霞ませていく。今度こそ、私は絶命させられるだろう。

『やめろ……!! 美琴がなにをした!? あやかしにも、善良な者はいる! なぜそれがわからない!』

 悲痛な晴明の叫びが、物悲しく響いている。

 ああ、今宵の月が悲しげな色を放っているのも、桜が天の涙のように見えるのも、お前の心が泣いているからか──。

 景色は見る者の心を映す。私とお前はふたりでひとり。お前の心を感じたから、私の目に映る景色もまた、泣いているのだ。

『美琴──!!』

 鼓膜をつんざくような爆発音とともに、視界が一気に白に染まる。

 身体の感覚という感覚が消えていき、痛みも寒さも感じない。

 薄れゆく意識の中で、無情な世界に残された夫を想う。



 ──来世で……また会おう。再び巡り逢えたら、私たちは間違いなく……惹かれ合うだろうから。