昨日は途中で、工房へ逃げられてしまった。
 続きを描かせてもらおうと、魔女がデッキへ出てくるのを待ちわびていた青年は、目を見開いた。

「彼」の腕にとまったカラスは、機械仕掛けのクチバシを開き、ガァと割れた声で鳴く。

「よい子だ。迷わずお還り」

 霧のなかへ差しのべられた腕から、カラスが大きく羽を広げて飛翔する。
 こどもがカラスに手をふって別れを告げている。

 森の上を旋回するカラスから目を下ろし、青年は唖然と、揺り椅子に腰かけた「彼」を凝視した。
 三日月の笑みを浮かべた男は、あの魔女、そのものの美貌。

 ――そうか、魔女は姿を変えるのか。
 青年は描きさしの紙を破り捨て、次の紙へ「彼」のスケッチを始めた。


 だが、筆が乗り始めると、魔女は工房へ引っこんでしまって出てこない。
 ドアの内側へ入れてもらえるのは、こどもだけだ。
 そして翌日現れると、今度は首だけカラスの異形の姿。
 その次の日は、歯の生えそろった不気味な赤ん坊の姿で現れた。

 彼は無駄にした紙を足で踏みにじる。

「あなたは、おれをからかっているんですね」
「そう見えるかい?」
 ヒキガエルが揺り椅子のうえで笑う。

「どれが本当の私だったか。何千年と生きていると、元の姿を忘れてしまう」

 ヒキガエルは濡れた足をぺたりと、引きかけの線にのせて滲ませた。

「絵描きのくせに、絵の一枚も仕上げられないとはね」

「魔女。いじめちゃだめだ。こどもが世話をしてるコだよ」
 口を尖らせて叱るこどもに、ヒキガエルは下品なほどの大きな笑い声をたてる。

「いじめちゃいないさ、こども。見てごらん、ほら、この男、笑っているじゃないか」

 青年は自分の頬に手をあてた。
「……おれは、笑っていますか?」
「こどもに訊いてみたらどうだい」

 青年が目を移すと、こどもはふしぎなものを見る目で、まじまじと青年の顔を観察している。


「――かわいそう。やっぱりあなた、壊れてたんだね」


 胸を突かれて、青年は顔をしかめた。

 その時だ。
 視界をかすめて、赤い光が降り落ちた。

 コツッとデッキの板に跳ね返ったのは、ルビーの偽物だ。

 さっき還っていったはずのカラスが、頭の上を横ぎっていく。
 カギ爪でつかまれたガラスの瓶から、ぱらぱらと赤い石がこぼれて落ちてくる。

「あっ、だめ! それは、こどもの宝もの!」

 こどもが森へ駆けこんでいく。
 白い霞の中へ消えていく小さな背中に、青年はヒキガエルを見返った。
「森は、危なくないのですか」
「獣も魔物もいる。道を失えば戻ってこられない」
「なら……!」
「おまえは、あの子に世話をしてもらった礼もできないのかい?」

 ヒキガエルは大あくびをして、目を閉じてしまった。