「勘違いかと……」


 ぽつりと溢れた言葉は大きくはなくて、枢には聞き取りづらかったよう。


「ん?」


 聞き返すその声は優しくて、瀬那の心をギュッと締めつける。


「勘違いかと思ってた」


 今度ははっきりと言葉にしながら、伏せていた視線を窺うように上げると、枢の瞳と重なった。


「目が合ってる気がしてただけで、他の誰かを見てたんだと思って……。そんな勘違いしてる自分が恥ずかしくて……」

「勘違いじゃない」

「……だって、私達話したこともなかったのに」

「そうだな。けど、見てた。ずっと……」

「っ……」


 ふわりと枢が微笑んだ。
 優しくて、そしてどこか甘さを含んだ初めての表情。
 瀬那はドキドキと心臓が跳ね、頬が熱を持つのが分かり、枢の眼差しから逃れるように顔を俯かせた。


 恥ずかしい。
 勘違いでなかったことが嬉しくて、けれど恥ずかしくて顔を上げられない。

 なにを返して良いかも分からなくて口をつぐんでいると、沈黙を破ったのは枢の方だった。


「いつも夕食は一人なのか?」


 まったく違う話題に、瀬那は一瞬頭が働かなかったが、すぐに我に返って言葉を返す。
 顔を上げた枢はいつもと変わらぬ表情だった。
 そのことにほっとすると同時にどこか残念に思った。


「うん。今日は珍しく早く帰ってくるかと思ったら仕事で帰れなくなったみたいだし。いつも仕事が忙しくて帰ってくるの遅いから、ほとんど夕食は一人で取るの。一人分の食事作って一人で食べるのって味気ないけど、お兄ちゃんが忙しいのは仕方がないしね」

「だったら、これからは俺の家に来い」

「へ?」

「一人分作るのも、二人分作るのもたいして変わらないだろう?」

「えっ、そりゃあまあ、そうだけど……」

「なら、明日から俺の家に来たらいい。作ってもらう代わりに食材はこっちで用意しておくから」

「へっ? えっ?」

「いつも弁当を作ってもらってるからな。食材も道具も何も用意してこなくていい。全てこちらで用意しておくから」


 瀬那を置き去りにしてドンドン話を進めていく枢に、瀬那は動揺して付いていけない。


「いや、あの」

「嫌か?」


 そう聞かれて、思わず首を横に振ると、枢が小さく笑った。


「なら、決まりだ」

「えっ、でも、いいの?」

「何がだ?」

「いや、色々と……」


 一緒にとは、枢の家にお邪魔することだ。
 そこで、料理して、一緒に食べるなんて、まるで恋人のようではないか。


「えーと、ほら、枢言ってたじゃない。好きな人がいるって。それなのに私なんか家に入れたら好きな人に勘違いされたりするだろうし……」


 言っていて何故か胸が痛んだ。
 そう、枢には好きな人がいると言っていたではないかと。
 それなのに出しゃばるべきではないと止めるもう一人の瀬那がいる。

 だが、そんな瀬那の葛藤は知らず、枢は言い切った。


「問題ない。そんなことを気にするな。いいな、瀬那」



 初めて呼ばれたその名前に、瀬那の鼓動が収まらない。

 瀬那は気付いた時にはこくりと頷いていた。