それまで彼は心の底から笑うこともなく、悲しむこともなかった。あるのは怒りと、人を騙す狡猾な精神、暴走する復讐心に身を任せた、殺人鬼の魂のみ。

 しかしこの瞬間、大家はようやく、大家みずきの愚かな弟に立ち戻ることが出来たのだった。

 そして刑事として、日々一般市民を守る正義感を持ち、悪を許さぬ精神を持って働いている園村、乃木、東条すら呆然と見つめるだけだった大家の慟哭を、真木ただ一人が無感動な瞳で眺めていた。そこには、自分の師が殺人鬼だった驚きも、悲しみも、目の前の男を憐れむ同情も、何一つ無い。無だ。やがて東条と乃木が静かに大家を連行していくのを見届けてもなお、真木の瞳は虚ろで、目の前の出来事に関心がないことが如実に現れている瞳をしていた。

 そんな真木を前に、彼を自分の娘の幼馴染としてよく知る園村が、声をかけた。

「もしかしてだけれど……貴方は、芽依菜にこの事件を解決させようとしていたの?」

「証拠は?」

「刑事の勘」

 園村の根拠のない発言を、真木は馬鹿にする素振りもなく一瞥した。その背筋はピンとしていて、普段彼が学校で見せる猫背とはかけ離れている。面立ちも気怠さは見えず、機械的な瞳だ。
 大家みずきが描いたパネルを持つ手つきも、きちんと重心を捕らえた持ち方で、気怠さも頼りなさも、微塵も感じさせない。

 普段の真木を見ている人間であったなら、萎縮してしまいそうなその佇まいに屈すること無く、園村は真木を見据えた。

「芽依菜が、事件に遭って様子がおかしくなった時から、精神的な治療法についてずっと調べているの。その中に、類似事件や類似した状況を前にして、自ら解決して乗り越えるというものがあった」

 園村の娘、芽依菜が小学校二年生に上がって間もない頃、芽依菜は小児性愛者である大学生にワゴン車で誘拐された。約三時間、連れ回された芽依菜は信号待ちの途中、命からがら車から抜け出し、近くの交番に駆け込み保護された。

 精密検査の末に、芽依菜から男に暴行された形跡は見られなかったが、三時間に及ぶ自分の命、尊厳を狂った男に脅かされながら監禁される状況は十歳にも満たない少女の精神を焼き尽くすには充分で、幼い芽依菜の心は完全に破壊されてしまった。

 目に見えるすべての人間が、誘拐犯に見え、怯えて泣き叫び、自分自身へ攻撃する。頭痛が止まないと自分の頭を自分で叩きつける。鏡が見られない。車の音がするだけで、吐いてしまう。閉所にいられず、どんなに寒い日であろうと扉が閉じた環境にはいられない。人の声、気配がするだけで、すべての症状が出てしまう。部屋から出ることも出来ず、食事すら満足に取れない。

 そんな芽依菜に対して、母親である園村はなんとか手を尽くそうとした。しかし、捜査一課の刑事である以上、自分の娘の為だけに身を粉にすることは許されない。夫も献身的に手を尽くしていたがそれでもなお、自分の産んだ娘が苦しんでいる時に、市民を守らなければいけないことに、どこへ向けていいか分からぬ憎悪すら抱いていた。