「そんなにがっかりするな。上手だから居心地がいいわけじゃない。少なくとも俺にとってはな」
「慰められても嬉しくないなぁ」
 上手くなりたいのに。師匠に師事するべきだろうか。独学では限界を感じる。
「慰めているわけじゃないんだが。例えば踊りの上手い人を見ても、上手いとは思うが、大抵はそれだけだ」
「ふうん?」
「心に染み入る芸能というものは、上手下手の問題じゃない。魂が込められていなくては、伝わらないだろう」
 先ほど兵営から戻ってきたときは無口だったのに、どういうわけか機嫌が直ったらしい黒狼は饒舌に語る。
「つまり、私の琵琶は、魂の込められている虫の断末魔なのね」
「……そういうことになるな。俺は好きだぞ。琵琶の音色のことだが」
 褒められるほど下手だとけなされている気分になるのは、どうしてだろう。
 悔しいので拙いながらも、ふたたび奏で始める。
 ほろほろと音を紡ぎながら、結蘭はそれとなく訊ねた。
「さっき、黒狼はどうして怒っていたの?」
「……」
 ほら、都合が悪いとまた無口に戻る。
 黒狼はいつもそうだ。自分のこととなると、貝のように口を閉ざしてしまう。もっと話してほしいのに。
「兵営に公主が来るなんて礼節に欠ける、っていうこと?」
「そういうわけじゃない」
「じゃあなに?」
「教えない」
「ええ……」
 そんなに頑なにされたら、余計に気になってしまう。結蘭は一計を講じた。
「じゃあ、私が出す謎解きに答えてみて。間違えたら教えてよ。正解したら、もう聞かないわ」
「いいだろう」
「子どもの頃は、葉を食べて、頭には二本の角。大人になれば高く飛べる。これはなあに?」
「蝶」
 即答して呆れた視線を投げられる。結蘭は満面の笑みを浮かべた。
「不正解よ。さあ、教えてちょうだい」
「……なんだと? 草食で成虫になれば飛べるなら蝶だろう。それ以外になにがある」
 黒狼は眉根を寄せて食らいついてきた。
「違うわ」
「正解を教えろ」
「教えない」
「なんだと……」
 してやられたと気づいた黒狼は、がしがしと頭を掻く。
 やがて腰に手を当て、項垂れると降参した。
「わかった。言おう。新月が髪に触れていただろう。あれが不愉快だったんだ」
「あれは……柱に歩揺を引っかけたのよ。新月さまはそれを直してくれたの」
「わかっている。もう少し見るのが早ければ、新月の手を叩き落としていたところだ」
「そんなことしたら降格されちゃうわ!」
「かまわない。誰にも、さわらせるな。次は剣を抜く」
 どうしてそんなことで黒狼は不愉快になるのかよくわからないが、城内で抜刀したら大変なことになる。今後は誰にも髪に触らせないよう気をつけようと、結蘭はそっと心に誓う。
 悋気を帯びていた双眸を瞬かせると、黒狼は今の会話を恥じるかのように、うっすらと頬を染めた。
「さあ、言ったぞ。教えてくれ。答えはなんだ?」
 詰め寄られ、壁に背をつけた結蘭は言いづらそうに答えた。
「えっとね、鹿」
「なんだと……?」
 まさかの動物に、黒狼は衝撃を受けたようだ。
 高く飛べるとは言ったが、空までとは言っていない。鹿の跳躍力は侮れないものだ。
 深い溜息を吐いた黒狼は、額に手を当てている。
「虫だと思うだろう。……やられたな」
 結蘭は笑顔を咲かせながら、琵琶を抱えた。
「もう誰にも髪をさわらせないよう、気をつけるわね」
「蒸し返すな……」
 照れたように黒狼は顔を背ける。
 夕餉を告げる朱里が訪れるまで、房室からは辿々しくも穏やかな琵琶の音色が鳴り響いていた。