「わたし、医者になりたいって思ったことなかったんだよね」

 ぽつりと莉桜が口を開いた。

「だけど今、本気で〝いい医者〟になりたいって思ってる。そしていつか、胡桃の病気を治したい。病気で苦しんでいる人たちを、救いたい」

 莉桜の言葉はまっすぐだった。親の敷いたレールの上を意志とは関係なく歩いてきたと言っていた莉桜は、その中で自分の光を見つけたのだ。

「わたしは絶対、医者になる‼」

 海に向かって、莉桜は強く宣言した。
 その流れを引き継いだ拓実が、今度はすうっと息を吸った。

「俺も、目指したいことができた」

 拓実はまっすぐに、海を見つめている。

「薬を作る仕事を、目指したい」

 それからゆっくりと、胡桃の方を向いた。

「昔は不治の病と言われたものも、薬やワクチンによって状況は変わった。不治の病が存在しない未来だって、きっといつか作ることができる。俺も、その作り手のひとりになりたいんだ」

 幼少期の経験から、全力で何かを追い求めることを避けてきた拓実。
 胡桃を通し、訪れるようになった病院での光景を目にし、拓実の中に芽生えた想いは、彼に再び大きな力を与えたのだろう。

 広がる空の割合は、どんどんと明るさの方が多くなっていく。夜の暗がりで隠れていた僕たちの本心が、素直な気持ちが、照らされていくように。

 右手に繋がれていた拓実の手が、僕のそれをぎゅっと握った。今度はお前だ、という合図のように。

「僕は」

 そこで一旦、細く長い息を吐き出す。きちんと自分の気持ちを、本当の想いを、声に乗せることが出来るように。

「僕は、ずっと自分のことを不幸だと思ってきた」

 自分の中に押し込めていた劣等感や不幸感。人生というのは幸か不幸かのふたつにわけられていて、それは与えられてしまった運命で、自分ではどうしようもない。
 それでも他人から不幸だと思われることはプライドが許さなくて、自分で不幸だと思っている事実も認められなくて、ひらすらに明るい道化師の仮面をつけてごまかしてきた。

「だけど今は、そう思わないんだ」

 僕はそこで、左手に繋いでいる胡桃の手を柔く握りしめた。
 胡桃が僕に教えてくれた。拓実と莉桜がそばにいてくれた。

 ──誰がなんと言おうとも、僕が幸せだと思えば、やっぱりそれが事実なんだ。

「ちゃんと自分のことを認めてあげたい。今そこにある奇跡に、ちゃんと気付ける自分でいたい。当たり前のこの日々を、きちんと〝生きて〟いきたい」

 莉桜や拓実のように、目指すべきものがなにかはわかっていない。だけどそれでいい。きっといつか、それは見つかる。

 ──僕がきちんと、僕の人生を生きていれば。

「後悔がないように、毎日をめいっぱい使い果たす! 拓実と莉桜と、胡桃と一緒に!」

 ザザン、とまた、波が僕らの前で小さな白いしぶきをあげた。
 全部全部、胡桃が気付かせてくれたんだ。胡桃の存在が、僕たちの未来を変えてくれたんだ。

「わたし……わたしは……」

 最後は、僕ときつく手を繋いでいた胡桃の番だった。

 順番に、今の気持ちを言葉にしてきた僕たち。水平線が、ぼんやりとオレンジ色に染められていく。夜明けはもう、すぐそこだ。

「わたしは……みんなのことを、忘れてしまいます。大事な思い出も、大好きな家族のことも、一生そばにいてほしい仲間のことも、全部全部忘れてしまう日が来ます。……だけどやっぱり、わたしはわたしを生きていきたい! 大学にだって、進学したい! みんなのことを傷つけちゃうけど、迷惑もたくさんかけちゃうけど、それでもやっぱり──」
 そこで胡桃は言葉を切った。涙が溢れてしまったからだと、大きく鼻をすすった彼女の仕草で僕らはわかった。ぎゅっと強く、小さなその手を握りしめる。

 いいんだよ胡桃。思っていることを言っていいんだ。素直になっていい、もっともっと、わがままになっていいんだよ。

「みんなに、そばにいてほしい! みんなと一緒に、生きていきたい!」

 震えた彼女がそう叫んだとき、眩い光が僕らを照らした。それは黄色のような、オレンジのような、白のような、紫のような、──そして群青のような。
 その夜明けの美しさに、僕らは言葉を呑み込んだ。

 肌寒さを感じていた体の表面は、その光でふんわりとぬくもりを取り戻す。灰色だった砂浜に転がる貝殻やシーグラスは、キラキラと様々な色彩を放ちだす。青く広がる海たちは、まさに生命そのものといった輝きをまとっていた。
 ツウっと頬を、あたたかな滴が滑り落ちる。

 この世界はこんなにも、こんなにも美しい。

「──葉」

 ゆっくりと顔を向ければ、三人が優しく僕のことを見つめていた。それぞれの目に、光の粒が輝いているように見えるのは、気のせいではないはずだ。

「泣いてるの?」

 隣の胡桃が、優しく笑う。

 ああ、このやりとりも二度目だね。きみと僕だけが知る、あの光の中。この場所で、僕らは同じやりとりをした。
 あのとききみは教えてくれたね。なんでもかんでも、この青のせいにしちゃえばいいんだよって。
 空いている右手で鼻先をこすった僕は、肺に酸素をたくさん吸い込んでから口を開いた。


 僕らが生きるこの世界には、目を背けたくなる現実がある。逃げられない運命も、起こすことのできない奇跡もある。人間は忘れゆく生き物で、今日というこの瞬間だって、僕はいつか忘れてしまうのかもしれない。

記憶は永遠ではない。
命だって永遠ではない。

 それでも僕らが作り出したかけがえのない青い日々は、懸命に生きている毎日は、空へ放たれ海に溶け、地球の歴史の一部になる。誰が忘れてしまっても、僕らがここにいたという事実だけは、消えることはずっとないのだ。

 毎日を大事に生きる。毎日を後悔なく生きる。シンプルに見えるこんなことが、実は結構難しい。
 僕たちは与えられたこの日々を、〝使い果たす〟ことができるのだろうか。

 今日も僕らは、めいっぱいに〝生きて〟いく。もしかするとそのことは、青く光る一瞬のきらめきになり、巡り巡って誰かを照らすかもしれない。空に放たれ海に溶け、幾重に重なる群青となり、なにかを守るかもしれない。

 目の前に広がる、〝ラズライト・ブルー“のように。

 迷ったっていい、悩んだってふらふらしたっていい。躓いたときには、涙を流してしまったときには、この世に溢れる美しいもののせいにしてしまえばいい。

「あまりにも綺麗だったからさ」

 ──そう言ってさ。

END