カララララ、と軽やかな音が風に揺れる。下り坂で、自転車の車輪が回る音だ。
「夜明け前に着けるよね?」
ハンドルを握る僕のすぐ後ろから、胡桃の弾んだ声が聞こえる。
夜明け前の海沿いの道を、好きな子を後ろに乗せて自転車を走らせる。
こんなのまるでドラマみたいだと、僕はそう思った。
「余裕余裕。自転車で来て正解だったな」
並んで自転車を漕ぐ拓実の声。
「自転車の後ろに乗るなんて、いつぶりだろーっ」
気持ち良さそうに空を見上げる莉桜は、拓実の後ろで声を出した。
病院を抜け出すことに、僕たちは成功した。ただし、ひとつだけ誤算が起きた。それは病院内を見回っていた警備員に見つかったことだ。
僕たちは当初予定していた北側の非常階段を利用することを諦め、莉桜に導かれるまま、ダンボールがたくさん積み上げられた部屋の窓から外へと逃げた。チカチカと懐中電灯が追ってくる中、自転車に跨って勢いよく門の外へと飛び出したのだ。
「あー……気持ちいい」
胡桃の楽しそうな声が、僕の襟足をやさしく揺らす。
ここはいつもの通い慣れた海沿いの道。僕らのよく知っている場所だ。それなのに、今はこの世界すべてが自由な世界に感じられる。色々なしがらみや圧力や悩みから解き放たれたように感じたのだ。
拓実と莉桜はスピードを上げ、蛇行しては悲鳴と笑い声を交互に出している。なんだか青春っぽいなぁと、僕はこの時間を噛みしめた。そして胡桃に、ひとつ打ち明け話をすることにしたのだ。
「今年の夏を二度経験したのは、僕だけじゃないんだよな?」
あの日にさせてもらえなかった答え合わせを、今ここでしようと思う。
「あの雨がすごく降った日、わたしもあの場所にいたの──」
胡桃の声が、えりあしの斜め下で揺れる。
──やっぱり、そうだったんだ。
胡桃の病気のことを知ってから繰り返し見ていた僕の夢。あれは、僕が時間を遡る直前に見た光景だ。
大雨が突然止み、空から光が差し込んだ。あの瞬間、胡桃も僕と同じ場所にいた。
「クラスの子たちと出かけたあとの、病院からの帰り道だった。すごい雨の中、一匹の猫が、足元に駆け寄ってきたの」
そのとき、胡桃の記憶の中にミイ子の存在はなかった。それでも助けを求めるようにやって来た小さな存在を、彼女は咄嗟に抱きかかえたのだ。
「そしたら雨が止んで、急に光が差し込んだ。その瞬間、すべての記憶が戻ってきたの。不思議な感覚だった。太陽の光が、わたしに記憶を注ぎ込むみたいに」
きっとその瞬間に、僕と胡桃は時間を遡っていたのかもしれない。
「それで、倒れてる僕を見つけた──、ということ?」
こくんと彼女が頷いたのが、背中から微動となって伝わってくる。
「熱の下がった葉がわたしに、『思い出したのか?』って聞いたでしょ? あれで、葉もわたしと同じように、時間を遡ったんだってわかった」
意識を失った僕が目覚めたとき、三人が会いに来てくれたことを思い出す。
「どうして何も……」
言ってくれなかったんだ。という言葉は、すんでのところで飲み込んだ。
僕がみんなを傷つけた事実を、知らないふりをしてくれた。その後悔を抱え、もう一度みんなと向き合おうとする僕を、そばで見守ってくれていた。
「わたしの記憶を守るために、葉は時間を遡ったわけじゃない。葉は葉の人生と、そして後悔と向き合うために、時間を遡ったんだよ」
そんな風に思ってくれていたなんて──。
胡桃はこの二度目の時間を、僕自身のために使ってほしいと願っていたのだ。
「わたしもね、運命は変えられなかったけど、大切なことにたくさん気付けたの。時間を遡らなければ、気付かないまま失ってしまったものばかり」
そう言った胡桃は、ひょいと僕の身体の横から首を伸ばし、少し先を走る拓実と莉桜の後ろ姿を優しいまなざしで追いかけた。
「勉強会、楽しかったね。夏祭りの花火も、すっごく綺麗だった。拓実のことも莉桜のことも、それから葉のことも。前より、もっともっと大好きになった」
最初から、胡桃はきっと全部をわかっていたのだろう。
僕が彼女を事故から守ろうとしていたことも、僕らの友情が壊れないように慎重になっていたことも。
そして──。
事故に遭っても遭わなくても、いずれ自分の記憶が消える可能性があるということを、胡桃はきっとわかっていたのだ。
「葉が──」
少しだけ首を捻ると、風になびく髪の毛の隙間から、形のいい耳がちらりと見えた。
「葉が、わたしたちの奇跡を守ってくれたんだよ」
背中を通して伝わってくる、彼女の体温と言葉。
「この奇跡がここにあるのは、葉のおかげ。これが奇跡だって気付くことができたのは、葉のおかげ。本当に、ありがとう」
彼女が顔を上げ、僕のことを見上げているのがわかった。だけど、一瞬だとしても振り向くことなんてできなかったんだ。柄にもなく僕の目には、涙が滲んでしまっていたから。
僕が夏をやり直したことは、決して無駄なんかじゃなかった。僕らが四人で重ねてきたものも、ただの日常だけではなかった。
ふわりと香るシトラスと、体に回された彼女の手がぎゅっと僕の制服を掴む。その仕草に、僕のみぞおちのあたりがきゅうっと苦しく締められる。苦しくて、だけど全然嫌じゃなくて、どこかむず痒いような、甘酸っぱいような、そんな感覚。
「ねえ、葉」
「うん」
「こんな病気になったから、諦めなくちゃって思うことばかりだったの」
彼女は自分の中で、一体どれだけのことを諦めようと思ってきたのだろう。
僕らとの友情。
学校へ行くという日常。
大学進学に、卒業式。
言葉にしていないだけで、彼女はいくつもの可能性に蓋をしたのだろう。病気が発覚してからの、短い期間の中で。
「葉が、『誰だって同じ』って言ってくれたでしょ?」
自分といると僕が不幸になると言った胡桃に、確かに僕はそう言った。
病気になった胡桃が特別なわけじゃない。誰にだって、明日の自分がどうなっているかなんてわからない。
「わたしも、〝普通〟に幸せを求めてもいいのかな」
ゆっくりと、彼女の心の扉が開いているのを感じる。そこへ、すうっと優しい潮風が抜けていくように。
「こんなわたしでも……葉の彼女になっていいのかな」
ああ、と僕は天を仰いだ。
彼女は今、あのときの告白に、ひとつの答えを出そうとしてくれている。
返事なんて、一生聞けないと思っていた。これまでの胡桃ならば、自分の状況を考慮して僕の手を取ることはしなかっただろう。だけどなにかが、彼女の中で変わっていっているのだ。きっと今の、この瞬間も。
恋愛ってキラキラしていて楽しくて、ただただ眩しいものだと思ってた。だけどきっと、僕らを待ち受けているのはとても厳しい現実だろう。彼女も僕もこれから先、きっとたくさん涙を流す。それがわかっていても、それを経験するとしても、大事にしたい想いがある。大事にしたい人がいる。
僕は彼女がとても好きで、彼女も同じ気持ちでいる。そのふたつの想いを消すことなんて、運命にだってできやしない。
「──胡桃じゃなきゃ、だめなんだよ」
背中からトクトクと、彼女の鼓動が伝わってくる。コツン、と背骨にあたる胡桃の額。
お互いを大事に想えば想うほど、素直になれないこともある。愛おしく想えば想うほど、相手にとっての幸せがなになのかを考えてしまう。そうやって考えて、考えすぎて、本心は埋もれていってしまうものなのかもしれない。
だけど本当に大事なことは、根底にあるものは、揺らぐことのない〝愛情〟なんだ。そのことを見失わなければ、きっと僕らは大丈夫。
「そろそろ夜明けだ!」
拓実がそう言い、砂浜へと続く階段の前で自転車を停めた。夜はうっすらとその濃さを手放して、薄いオレンジが水平線を照らしている。
僕たちはそこに自転車を置き、誰からともなく砂浜へと向かった。
サク、サクとローファーの下で砂が鳴く。ザザン、ザザン、と静かな波が音を奏でる。トクリトクリと、自分の鼓動までもがリアルに耳に響いている。夜と朝が、触れ合う瞬間。
制服を着た僕ら四人は、静かに手を繋いで水平線を眺めていた。