早朝の病院内へ入ることは、思っていたよりも簡単だった。タイミングに恵まれたというのもある。ちょうど五時になったとき、救急車が病院内へと入ってきたのだ。緊急搬送されてきた患者さんがいたらしい。ばたばたと騒がしくなる中、僕と拓実は隙を見て病院内へと入ったのだ。

「なんか、ちょっと拍子抜けしたな」

 薄暗くて広い廊下を、僕らはそっと足早に進む。ときおり、きょろきょろと周りを見回すのを忘れない。

 夜の病院というのは、なんだか不気味だ。狭間病院は歴史ある病院だが、少しずつ内装を新しくしているようで今いるこのあたりはまるで新しい病院のようだ。綺麗に清掃もされているし、病院特有のツンとした薬品の匂いなんかもそこまでしない。
 それにも関わらず、思わず振り返って背後を確認してしまうような空気が漂っているのだ。時折聞こえる話し声にびくっとすれば、看護師さんたちの談笑だと気付いてほっと胸を撫で下ろす。そんな僕を、拓実はおもしろそうに観察していた。悔しいことに、この男には恐怖心みたいなものがないみたいだ。

 ブブッと震えるスマホに目をやれば『準備完了!』という莉桜からのメッセージが入っていた。誰にも見つからず、脱出ルートとなる非常階段の鍵をあらかじめ開けておくという莉桜のミッションは、無事成功したらしい。

「よし。三階まで階段でいこう」

 胡桃の病室のある三階は、エレベーターホールの正面にカウンターが設けられたナースセンターがある。エレベーターが到着したら、その場で看護師とご対面となる可能性が極めて高いということだ。
 僕たちは用心深く周りを見回しながら三階まで上がり、まるで映画のように、ナースステーションのカウンターの下を腰を屈めて通過した。そしてついに、一番奥の部屋へと到着することができたのだ。

「俺がここで見張ってるから、お前は胡桃を連れ出して」

 拓実の言葉に僕は頷き、静かにひとつ、深呼吸をした。
 いつもはノックする扉を叩かず、静かに扉をスライドさせる。

「──葉?」

 するりと病室に忍び込むと、制服姿の胡桃がベッドの前に立っていた。
 彼女は小走りにこちらへとやって来ると、心配そうに眉を下げる。

「まさかとは思って、一応着替えてはいたけど……」
「迎えに行くって、言っただろ」

 僕の言葉に、胡桃は顔を上げた。
 薄茶色の胡桃の瞳。そこに浮かぶのは、複雑な色合いだ。期待と戸惑い、好奇心と自制心。

 僕は掛け布団をばさりと剥ぐと、そこに鈴のぬいぐるみを横たわらせた。

「これ、鈴ちゃんの?」
「そう。これくらいの大きさあれば、胡桃の代役にもなれるだろ」

 剥いだ布団を元に戻せば、こんもりと山ができる。

「でもこれだけじゃ……」

 不安がる胡桃に、僕は拓実から預かったリュックのチャックを開いた。

「ヒャッ……」

 思わず出たのであろう短い悲鳴に、彼女は自らの口を押さえる。
 胡桃の反応も無理はない。リュックからはごろりと頭が──もちろん人形のだけど──、ふたつも出てきたのだから。

「あー……、こっちでいっか」

 ショートカットとロングヘアの頭がひとつずつ。僕はロングの方を掴むと、こんもりとできた布団の枕の上へ、倒して置いた。そこからちょっと調整すれば、なるほどたしかに。ぱっと見、女性がこちらに背を向けて眠っているように、きちんと見えるではないか。
 やっぱりこの、頭が特に重要だ。

「よし」

 僕は頷くと、扉の方へ一歩向かう。そして振り返り、胡桃へと手を差し出した。

「どうする? 胡桃が決めていい」

 胡桃の顔からは、まだ戸惑いは消えていない。いつでも周りを思いやる胡桃のことだ。彼女が迷うのは当然だと、僕らは初めから思っていた。
 この計画は、僕たち三人が考えて実行したものだ。だけどやみくもに、彼女を連れ去るためのものではない。
 病院を抜け出すか抜け出さないか。決断は、すべて胡桃に委ねることにしていたのだ。

「検査、朝一なの……」
「うん、聞いた」
「朝起きたら、検査のための注射をしないといけない」
「そうみたいだね」
「朝日を見にいったら、病院に迷惑がかかるよね?」
「予定通りにはいかなくなるだろうからね」

 僕は、彼女の問いに正直に答えた。気休めを言ったって、嘘をついたって仕方がない。

「だけどさ、胡桃。僕たちの〝今〟は、この瞬間しかないんだ」

 胡桃の瞳に光が宿るのを、僕の目がはっきり捉える。
 そこで僕は、あの質問を彼女に投げたのだ。

「〝過去と未来に行けるとしたら、胡桃はどっちに行きたい?〟」

 彼女の表情から、ネガティブなものが剥がれていく。

 心配、杞憂、心苦しさに恐怖心。

 こういうものはきっと、生きていくのに必要なものだ。特に大人になればなるほどに、手放せなくなるものなのかもしれない。
 だけど今の僕たちは、大人でもなく子供でもない。

 自分たちのことだけを考えて、自由に動けるギリギリの世界を生きている。

「わたしの答えは──」

 答えと共に軽やかな一歩を踏み出した胡桃は、僕の手を握った。