「……みんなといると、苦しいの」
「うん」
「なんでわたしだけとか、将来があるくせにとか……、思っちゃうの」
「うん」
「葉たちがそばにいてくれて嬉しいのに、それと同時にすごく苦しい。みんなのことが妬ましくて、ずるいって思って、みんなわたしと同じになっちゃえばいいって思うの!」
それは、胡桃の心の叫びだった。優しさや強さ、思いやりや理性。そういったものの奥深くに生まれた、人間の本能の部分。
「大地震が起きて、みんな死んじゃえばいいって思うこともある。巨大隕石が落ちてきて、地球が滅びちゃえばいいって思う日だってある。……ねえ葉、わたしこんな人間なんだよ。こんなに最低なことを望んでしまう人間なんだよ! 本当のわたしなんて、こんなんだったんだよ!」
ぼたぼたと、僕らの足元には大きな水滴が落ちては滲む。
「──どんな胡桃も、愛おしいよ」
なあ胡桃。本当のことを言ってしまえば、僕だってつらいし苦しいんだ。
心の底から大事に思っているきみが、こんなにこんなに苦しんでいる。それなのに僕は未来からやって来た名医でもなんでもなくて、ただの無力なひとりの高校生だ。
それでもさ、きみのそばにいたいんだ。
彼女の顔に狼狽が走ったのを、僕は見逃さなかった。
「わたし、本当に忘れちゃうんだよ……?」
先ほどまでの勢いは姿を消し、今度は怯える小動物のように胡桃は肩を震わせた。
「思い出やみんなの名前だけじゃない。どこの誰なのかもわからなくなって、自分のこともわからなくなるの……」
その事実は胡桃の声を伴うと、これから彼女の身に起きうる出来事なのだと、途端に現実味を伴った。改めて、彼女が対峙している病の残酷さを目の当たりにする。
もしかしたら彼女自身、これから起きる現実を覚悟として受け入れるためにあえて言葉にしているのかもしれない。
「洋服の着方や手の洗い方、ちゃんとしたご飯の食べ方もわからなくなって。そのうち、呼吸もうまくできなくなって……」
目をそらしちゃいけない。耳をふさいじゃいけない。この現実と向き合っている胡桃が、目の前にいるのだ。
「わたしのそばにいたら、たくさん傷つけちゃうよ……。葉のことを、不幸にしちゃうよ……」
そこで彼女は、僕の手を振りほどこうとした。だけどそれを許さない。ここで放しちゃいけないんだ。絶対に放したくない。もう彼女を、ひとりきりの闇の中に置き去りにしたりしない。
この先、愛情だけではどうにもできないことだって絶対に起こるだろう。綺麗事だけでは乗り越えられないこともある。それでも愛情でしかできないことだって、きっときっとあるはずなんだ。
「そんなの、誰だって同じだよ」
やがて抵抗をやめた彼女から、ぱらぱらといくつもの光が落ちる。
「僕だって明日突然、なにもできなくなるかもしれない。事故に遭うかもしれないし、病気になるかもしれない。大事なことを忘れてしまうかもしれない。そんなのは、誰にもわからないんだ」
なにもない毎日が、ただただ笑ってダラダラと過ごせる毎日が、本当はどれだけ平和で守られたものだったのか。人々はそれを、失ってから気付くのだろう。
僕にとっては平穏な世界でも、この世の中には厳しい現実と向き合っている人たちもいる。だけど彼らが不幸かなんて、そんなことは他人が決めることじゃないんだ。
「僕は、不幸になんかならないよ」
胡桃が病気になって、悲しいよ。つらいよ。苦しいよ。
だけどさ、胡桃を好きになって、嬉しいよ。楽しいよ。ときどき切なくて、だけどやっぱり幸せなんだよ。
「そんな風に、優しく笑わないで」
子供みたいに、胡桃は顔をくしゃりと歪める。その表情が愛おしくて、僕は彼女の頬を流れる涙の粒を、ひとつずつ掬っていった。
冷えた指先に感じるやわらかな頬のぬくもりは、彼女がここにいることを証明してくれるようだ。
「たしかに、運命は変えられないのかもしれない」
一度目の秋も、二度目の冬も。きっかけや度合いは違えど、彼女の記憶にはなんらかの弊害が起きた。それが胡桃の持つ運命なのだとすれば、たとえ僕が何度過去をやり直そうともどうあがこうとも、それは訪れてしまうのだろう。
それでも僕たちは、運命に支配されて生きているわけではない。僕たちを生きることができるのは、他でもない僕たちだけなのだ。
「それでも──。運命は変えられなくても、どう生きるかは自分で決められると思わないか?」
まっすぐに彼女の瞳を見つめよう。言葉がきちんと伝わるように、想いがまっすぐ届くように。
「好きだよ、胡桃」
奇跡なんだ。こうして、胡桃と僕が一緒に過ごせている〝今〟。お互いの目を見て、想いを伝えられるこの時こそが、僕たちだけの奇跡なんだ。
だから僕は、伝えよう。この想いが、この奇跡が、きちんときみに届くまで。今この瞬間に、何度だって何度だって、言葉にしてきみに見せよう。
なにも答えることが出来ない胡桃の腕を、僕はそっと引き上げた。お互いに向かい合って立ち上がり、彼女を腕の中へと閉じ込める。壊れないように、優しく。きちんと伝わるように、しっかりと。
「葉……」
甘いシトラスが、春風と共に僕を包む。すう、と深呼吸した僕は、ぎゅうと一度だけ腕に力を込めた、
そのときだった。モノクロになっていた海と空を裂くように、まぶしい光が僕らを照らす。それはチカチカと何度か瞬き繰り返し、やがて深い群青色の光となった。
「あのときみたい……」
光が照らし出すのは、鮮やかに輝く海の水面。その色は、黄色やオレンジ、エメラルドグリーンや淡いピンクをも含む、美しいブルーだ。
「胡桃、やっぱりあの約束、果たそうよ」
「え……?」
ぼうっとした様子でこちらを見上げた胡桃の耳元に、僕は顔を近づけた。
「夜明け前、迎えに行く」
僕の胸元に遠慮がちに置かれていた華奢な指先は、僕のシャツをきゅっと掴んだ。