彼女のスマホは繋がらなくて、どこにいるのかもわからない。それでも僕はひたすらに走った。帰り道に寄った商店や、小さな公園。バス停周辺から、学校まで戻ったりもした。それでも彼女は見つからない。

「胡桃……」

 上がる息を吐き出して吸い込むと、じめっとした鈍い匂いが鼻先から舞い込んだ。海の向こうを見れば、重たいグレーの中でゴロゴロと雷が蠢くのがわかる。

「まずいな……」

 雨が降る前に、胡桃のことを見つけ出さないと。
 そう思ったときには、ポツポツとアスファルトに水玉模様が現れ始めた。そしてゴオッという強い風が吹いた瞬間、痛いほどの大粒の雨が降り出したのだ。

 ──いつだったかも、こんなことがあった。

 その瞬間、耳の奥でキィンと高い音が鳴った。
 そうだ。一度目の夏のことだ。あの、大雨の日。
 あの日もバケツをひっくり返したような雨と強風で、僕は猫を探しに──。

「──胡桃だ」

 フラッシュバックするいくつかの場面。グレーに支配された海と、幾十もの雨の矢たち。もぬけの殻となった海の広場。差し込んだ光。

 海沿いの広場で、僕は確かに見たのだ。意識を手放す直前のことだ。あの得も言われぬ美しい光の中、制服に羽織ったパーカーの中に猫をかくまっていた胡桃と、僕の視線が重なったのを。

 あのとき、胡桃もあの場所にいた。

 ──やっぱり彼女も僕と同じように、共に時間を遡ったのだ。
 ──彼女は自分の運命を、全部知っていた。

 電話をかけても、彼女のスマホには繋がらない。胡桃が今どこにいるかを、知っているわけでもない。
 それでも僕は確信していた。
 彼女はきっと、あそこにいる。僕たちが時間を遡るきっかけとなった、あの場所に。

 ぱしゃんと水たまりが、僕のスニーカーで四方に散る。制服の裾に泥水がかかるのも気にせず、僕は走った。

 ──あの広場まで、あと少し。

 雨で白く霞む視界の中、まるでそこだけ切り取られたように、彼女の姿が鮮やかに僕の目に映りこんだ。

「胡桃!」

 堤防に続く、ちょっとした海辺の広場。植えられた大きな樫の木の下で膝を抱えていた胡桃は、弾かれたように顔を上げた。

「怪我はしてない⁉ びしょ濡れになってない⁉ 痛いところとかはない⁉」

 彼女の正面に座り込み、まずは胡桃の無事を確かめる。僕の質問に、ふるふると首を振ることで否定した胡桃に、僕は「はあーっ」と大きな安堵の息を吐き出した。

「無事で、よかった……」

 胡桃は学校の制服をまとっていた。肩や足先は濡れていたけれど、この樫の木がちょうどいい傘となっていてくれたようだ。
 胡桃は唇が白くなるほどに強くそれを噛みしめ、じっと下を見つめていた。
僕が来たことは、胡桃にとって良いことだったのだろうか。
 そんな疑問がふと浮かび、僕はふっとその疑念の炎を吹き消す。

 そうじゃないだろ。僕は僕のしたいことをするために、ここに来たんだ。

「胡桃、ごめん」

 深呼吸をしてからそう告げると、彼女の肩がピクリと動いた。

「僕、胡桃の言った〝大丈夫〟を、そのまま受け取ってた。本当は大丈夫なわけないのに、そんな簡単に受け止めきれるはずがないのに、胡桃は強いから乗り越えられてるんだと思ってたんだ」

 胡桃が入院していた病棟はほとんどが個室だったが、そのどの部屋にも入院しているのは高齢の患者さんばかりだった。
 彼女が抱える病気は、高齢者ほど患いやすい。自分よりも幾周りも上の患者の中で病衣を纏っていた胡桃は、どんな気持ちだったのだろう。

「胡桃は本当に優しいから、家族や僕たちのために、必死につらい気持ちを押し込めてきたんだよな。だけど本当は、僕たちの顔を見るのもつらかったんだろう?」

 川口さんの言葉を思い出しながら、僕はゆっくりと胡桃の手を握った。ひんやりと冷え切った胡桃の小さな手。この手で必死に、自分ではなく周りのことを守ろうとしていたのだ。

「……そうだよ」

 そこでやっと、彼女の震える声が揺れた。
 胡桃は俯いたままだ。だけど必死に声が震えないように、体中に力を入れて言葉を発しようとしている。