リュックにペンケースを入れていると、体育館の方から合唱が聞こえてきた。明日の卒業式のため、在校生が最後の練習をしているのだろう。
 一年前は自分がそちら側だったのに、明日は送り出される側になる。なんだか不思議な気分だ。

「葉、先に胡桃のとこ行ってて。俺、ちょっと戸塚に呼ばれてて。あと、バイト先寄ってから行く」

 卒業式の前日、三年生である僕らが学校ですることなど特にない。それでも明日で離れ離れになるクラスメイトとの時間は特別で、午前中で学校が終わっても、教室には大勢の生徒たちが残っていた。
 莉桜は明日、卒業生代表の挨拶をする。その原稿チェックなどがあるらしく、病院で合流することになっていた。

 僕らは今日も、胡桃のお見舞いに行く。

 これは別に、誰かが言い出した約束ではない。だけど僕たちにとってそのことは、夜になれば眠るのと同じくらいに、ごく当たり前のことだった。

「来月のシフト出てたら、僕の分ももらってきて。戸塚ちゃんによろしく!」
「了解。じゃあな」

 拓実と戸塚ちゃんは、付き合ってはいない。しかし拓実の頑張りにより、戸塚ちゃんの気持ちにも変化が出てきているようだ。戸塚ちゃんが色々な男と歩いているところを、見なくなって久しかった。

 人間は、変わるものだ。だけどひとりきりで変わっていくわけじゃない。傷つけたり傷ついたりしながら、絡まった紐をほどきながら、想いをまっすぐ伝えながら、そうやって変わっていく。だから人は、ひとりでは生きていけないのかもしれない。

「お、石倉」

 ちょうど廊下の角を曲がったところで、高野さんと鉢合わせた。手には明日配布される、卒業アルバム。

「一足先に、石倉たちの青春を拝見させてもらいました。もうね、青春!って感じの写真で溢れてた」
「明日、高野さん泣いちゃうんじゃないの?」

 僕がそうからかえば、高野さんは真面目な顔をしたまま「ありえる」と頷く。それから表情を柔らかくして、僕の頭を一度だけぽんと叩いた。

「石倉さ、わたしと初めて会ったときのこと覚えてる?」

 ほんの少し、記憶の引き出しを開けてみる。高野さんと出会ったのは放課後の図書室だ。実際には高野さんとは二度、〝出会う〟という工程を踏んでいるが、高野さんには一度目の記憶はない。

「あのとき、わたしが石倉に質問したじゃない?」

 自分の身に何が起きたのかを知りたかった僕は、時間についての本をいくつも机に積み上げていた。そんな僕に高野さんは、こう聞いた。
『どの時代にも行けるって言われたらさ、未来と過去、どっちに行きたい?』と。

 あの日の僕はその質問に、『過去』と即答した。確かに僕は、後悔していた過去を変え、新たな今を送っている。しかし、胡桃の背負う運命を変えることはできなかった。

「今の石倉ならどうしたい? 未来と過去、どっちに行きたい?」

 僕の中を、たくさんの出来事がよぎっていく。
 一度目の六月、失敗したこと、すれ違ったこと、ただただ逃げたこと。バラバラの日々。僕らを忘れた胡桃がいたこと。
 二度目の夏、図書室でみんなで勉強したこと、拓実とぶつかって理解し合えたこと、四人で回った夏祭りと、花火の下で胡桃と手を繋いだこと。そして、僕らをいつか忘れる胡桃がいること。

「そんなの、決まってるよ」

 僕たちは、人生のどの部分を生きているのだろう。後悔しない人間なんて、きっと多分存在しなくて、明るい未来を願う人間は、きっと多分大勢いて。
 そんな中、僕はどこに行きたいか。どんな場面を、誰と一緒に見ていたいか。

「僕は、────」

 迷うことなく答えた僕を、高野さんは優しく目を細めて見つめた。

「中田も、同じこと言ってたよ」

 ころころと笑う胡桃。ぷんぷんと頬を膨らませる胡桃。涙もろい泣き虫胡桃に、幸せそうに微笑む胡桃。
 どんな胡桃も、愛おしくて大切だ。

「胡桃のところ行ってくる。じゃあね高野さん!」

 どうしようもなく会いたくなって、思わず僕は走り出した。
 胡桃がこの世界にいてくれることが、純粋に嬉しい。そばにいてくれることを、すごく幸せに思う。
 そのことを、ちゃんと彼女に伝えたいと。僕はそう思ったんだ。