僕らの奇跡が、君の心に届くまで。

「胡桃……」

 庭に植えられた松の木の先端に、傘の閉じた松ぼっくりがいくつもついている。その木の前、胡桃は立ち尽くすようにしてこちらを見ていた。
 たった二週間。それなのに僕の目の前にいる彼女は、一回り小さくなったように感じられる。

「ああ、それ見ちゃったんだね」

 しかし、彼女から発されたのはあまりにもあっさりとした、そんな一言だった。

「ごめんね、心配かけて」

 僕の手元に視線を落とした彼女は、申し訳なさそうに、だけど笑った。その表情自体は、僕の知る彼女のものと変わらなくて、そのことは僕を混乱させる。
 だって僕が今見た日記の中で、彼女は悲痛な心のうちを嘆き叫んでいた。笑うことなんて忘れてしまったように、ただただ悲しみと戸惑いが書かれていたのに。

 どうしてそんな風に、笑うことができるのか。

「読んだ通り、記憶障害の病気になっちゃったんだ。でもね、本当幸いなことに初期も初期で。今すぐにどうこうってわけじゃないから」
「だけど……」
「最初はすごく落ち込んだんだけどね、なんとなく、こんな日が来るんじゃないかなーって思ってたところもあって。だから今はもう、大丈夫」

 僕らが学校で普通の生活を送っていた間、彼女なひとりで苦しんでいたのだ。

「どうして何も、言ってくれなかったんだよ……」

 そんなの、本当はわかっている。きっと胡桃は、僕たちに心配をかけたくなかったんだ。気を遣わせるのが嫌で、周りの目が変わるのが怖くて、外の世界にいる僕たちに打ち明けることなんてできなかった。胡桃の優しさが、そうさせたのだ。
 それでも話してほしかったと思ってしまうのは、完全なる僕のエゴだ。

 頼ってほしかった、ひとりで苦しまないでほしかった。

「──これは、わたしが自分と向き合わないといけない問題だったから」

 だけど胡桃は、凛とした表情でそう言った。
 ころんと足元でミイ子が腹を出して寝転がる。胡桃はその場にしゃがむと、慈しむような表情でそのお腹を撫でてやった。
 つられるように、僕もその場にゆっくりと屈みこむ。

「ずっとね、不安要素としてわたしの中にあったことなの。昔から忘れ物が多かったり、うっかりすることが多くて。おばあちゃんの付き添いで病院に行くこともあったから、そこで物忘れ外来の看護師さんやボランティアのカウンセラーさんとも仲良くなってね。いろいろ相談したりしてたんだ」

 診察にしては遅い時間帯に、病院帰りだとコンビニに寄った胡桃を思い出す。なるほど、彼女はおばあちゃんの診察以外でも、狭間病院に足を運ぶ機会が多かったのかもしれない。

「もう何年も前から、いつ爆発するかわからない爆弾を抱えているような気持ちだった。だから心の準備もできていたし、本当に大丈夫。専門的に相談できる人たちもいるし。それに今の医療って進歩がすごくて、もしかしたらわたしが大人になる頃には、治療法が見つかっている可能性もあるんだよ」

 ゴロゴロと、ミイ子は気持ちよさそうに喉を鳴らす。

「それにね──。人に与えられた運命は、何度やり直したって変えることはできないの」

 〝何度やり直したって〟という言葉に、僕は反射的に顔を上げた。

 過去をやり直すことで、未来は変わった。過去をやり直すことで、僕らの夏は取り戻された。それを知っているのは、僕だけのはず。

「まさか──」

 胡桃も、僕と一緒に二度目の夏を生きていた?

 思い返してみれば、不自然なことがいくつもあった。
 まず、戸塚ちゃんと拓実のコンビニでのやりとりを、胡桃が知っていたこと。
 外から見えた、なんて言っていたけれど、拓実の表情までもが窓の外から見えていたとは考えにくい。

 胡桃の、『葉、変わったね』という言葉だってそうだ。過去の僕と、今の僕を見てきた彼女だからこそ、その変化に気付いてくれた。

 さらには僕が両親とぶつかり家を出たとき。
『前に葉が、自分の両親は本当の親じゃないって言ってたけど。そんなことはないんじゃないかな?』
 どうしてあのときに気付けなかったのか。
 僕が叔父夫婦と暮らしていると打ち明けたのは、一度目のときだけだ。〝二度目の夏を生きる胡桃〟は、そのことを知るはずがない。

 そして、今彼女から放たれた〝何度やり直したって〟という言葉。

「胡桃。もしかして、胡桃も僕と同じで──」
「わたしには葉たちがいてくれるから、大丈夫だよ」

 真意を尋ねようとした僕の言葉を、胡桃の明るい声が柔らかく遮った。

「葉がいつも笑っていてくれるから、わたしもちゃんと前を向こうと思えた。なんで、とか、どうして、とか。そういうことを考えるのはやめたの」

 胡桃は自分が、過去に記憶を失ったことを知っていた。もしかしたら夏祭りのあとだって、再び記憶を失うことを恐れながら過ごしてきたのかもしれない。
 僕が感じていた『胡桃の心配性』には、きちんとその理由があったのだ。
 それなのに僕は、何も気付けなかった。彼女が全てを知った上で、〝今〟を生きているということに。

「ねえ葉、笑ってよ」

 奥歯が擦れる鈍い音に、胡桃の穏やかな声が重なる。

「葉のおかげで、わたしはこんなに強くなれた。葉がわたしたちの手を離さずにいてくれたから、四人の絆だってこんなに確かなものになったの」

 胡桃の透き通った目はまっすぐに、僕のことを射抜いた。そこには、強い意志が込められている。

「だから絶対に、〝何もできなかった〟なんて、思ったりしないでね」

 胡桃には適わない。
 彼女はなんでも、お見通しだ。

 僕は、細く長い息を吐き出すと、胡桃の視線をまっすぐに受け止めた。
 こんな彼女を前に、僕がいつまでも下を向いているわけにはいかない。僕が励まされている場合ではないんだ。

 ──やっぱり、胡桃は強い。本当に強くて、誰よりも優しい女の子だ。だから僕も、強くなりたい。強くなろう。

「四人で一緒に、卒業しよう」

 声が震えぬようみぞおちに力を入れてそう言えば、彼女の顔には、満面の笑顔が咲いたのだった。

 バチバチと大粒の雨が僕の頬を打つ。かろうじて灰色を残した黒い空は、ごうごうとすごい音を立てながら無数の雨を降らせていた。うねりを上げる濃紺の海は、一度吞まれたら二度と海面へは戻さないという意志すら感じさせる。
 そんな豪雨の中、僕はひたすらに猫を探していた。どこかにいるはずの、小さな命。助けなければならない、大事なもの。しかしその姿はどこにもない。
 ふと雨があがり、濁った灰色から一筋の光が差し込む。照らされた海面は、闇と光の間を行き来するようにきらきらと光を放つ。ふと後ろを振り向くと、少し離れたところに誰かが立っているのが見えた。それは──。

 ハッと目を開けると、見慣れた天井が僕のことを見下ろしている。

「またこの夢……」

 手の甲で額を拭うと、じとりと汗が滲んでいる。胡桃と最後に会ってから、毎晩のようにこの夢を見ている。見覚えがあるような景色なのに、思い出そうとするとずきんずきんと頭が痛くなるのだ。

「……よしっ、起きよう! ただの夢ただの夢!」

 バシッと両手で頬を叩き、僕は勢いよく起き上がった。今日は、胡桃が久しぶりに登校する日なのだ。



「わ、みんな来てくれたの?」

 かちゃりと開いた玄関から現れた胡桃は、僕たち三人の姿を見ると目を丸くした。

「おはよー胡桃! 待ってたよ」
「おはよ、よく眠れた?」

 いつも通りに彼女を迎え入れる莉桜と拓実に、胡桃は嬉しそうな表情を見せる。とことこと小走りにこちらへやって来た胡桃は「みんなおはよう」とはにかんだ。

 今日という日を迎えるまでに、一週間弱がかかった。胡桃は莉桜と拓実を呼び出し病気のことを打ち明け、それからやはり学校へ向かうには心の準備が必要だったのか、数日の空白期間を経て、今日を再出発の日と決めた。

「胡桃、予備校やめたの?」
「うん。とりあえずは、きちんと卒業できることを目標にしようと思って。その先のことは、また考える」

 胡桃が休んでいる間にも、当然のことながら授業は進んでいた。この空白分は、僕と高野さんが放課後の図書室で埋めることになっている。

「そういえば、担任から保健室登校でもいいって電話きたんだって?」
「うん。いろいろと配慮してくれたみたいでね。だけどわたしは、みんなと一緒に教室で授業を受けたいって言ったんだ」

 胡桃の病気のことは、教職員と僕ら以外は知らされていない。それでも長く休んでいた胡桃が教室に入ることを決めたのは、勇気がいったことだろうと思う。

「僕たちだって同じ気持ちだよ。胡桃のいない教室は、なんだか変な感じがしたんだ。酸素が多すぎるっていうか」

 僕が軽口を叩いてみれば、胡桃が「そんなに酸素使ってませんー!」といつもの膨れ面を復活させ、僕らはみんなで笑った。


 穏やかな毎日が、戻ってきていた。胡桃の現在の病状は初期段階。何度も同じことを質問したり、財布がどこにあるかわからなくなり、もしかしたら盗まれたのかもしれないと不安がることもあった。今までの胡桃と同じように元気に登校するときもあれば、体調不良で学校に来られない日もある。
 それでも僕たちは、毎朝胡桃の家まで彼女を迎えに行き、休んだ日には放課後に顔を見に行く。登校した日の放課後は図書室で一緒に勉強し、自宅まで送り届ける。そんなルーティンができあがっていた。

「このまま行けば、卒業日数も大丈夫そうだな」

 放課後の図書室、スマホのカレンダーで数えながら僕が言えば、胡桃はやったーと両手を天井へと突き上げる。よかった、これで約束通り、四人揃って卒業することができそうだ。

 ちなみに放課後での図書室勉強会では、胡桃は授業の予習復習、僕は第一志望の大学の過去問題を解いている。疑問点があるときに答えてくれるのが、高野さんだ。驚くことに高野さんはどんな教科でも知識が深く、それでいて教えるのもうまかった。教師にならなかったのが惜しいくらいだ。

「四月からは、みんな大学生かぁ……」

 そんな胡桃の小さな独り言は、カキーンという野球部の音と共に、窓の向こうへと吸い込まれていく。
 こういう音を聞くことも、残り少なくなってきているのだろう。

「わたしも。こんな青春っぽい音とも、あと少しでお別れだわー」

 自分の心を読み上げられたのかと思った。しかし司書席の高野さんは、こちらなど見ずに窓の方へと顔を向けているだけだ

「お別れ……?」

 胡桃が首を傾げると、高野さんはこちらを向いて、コキコキと首を鳴らす。

「わたしも石倉たちと一緒。三月でここを卒業して、実家に戻るの」

 息をするように話された事実に、僕たちは驚きを隠せなかった。

 適当にやっているようで、高野さんは本をとても愛していたし、司書という仕事にも誇りを持ってやっていた。その仕事をやめ、嫌だと言っていた旅館の仕事をするというのだ。
 僕たちの顔を交互に見た高野さんは、「なあにその顔」と吹き出した。どうやら同じような表情をしていたみたいだ。

「自分がやりたいことと、大事にしなくちゃいけないもの。ずっと迷っててさ」

 それは今まで語られることのなかった、高野さんの本音の部分。今までの高野さんの言動から、やりたいことは司書の仕事で、大事にしなくちゃいけないものというのが家族や旅館だということはなんとなくわかった。

「自分の人生なんだから自分の思うように生きるんだー!って思ってたのよ、ずっと。だけど歳を重ねていくとさぁ、それはそれでいろいろなことが見えてきちゃうわけ」

 例えばお父さんの頭ってこんなに白かったっけ、とか。
 お母さんの背って、こんなに小さかったっけ、とか。
 お客さん全然いないけどやってけてるのかな、とか。
 お父さんとお母さんが引退したら、ここで働いてる人たちどうすんのかな、とか。

「ちょっと顔見るだけのつもりで帰ったら、他のものまで見えちゃって。やんなっちゃうよ」

 お盆期間中、高野さんは文句を言いながらも実家に帰省していた。手土産にと買ってきてくれた温泉まんじゅうはとてもおいしくて、胡桃がおかわりをしていたくらいだ。きっとその帰省の中、色々と感じる部分があったのかもしれない。

「いつだって自分のために生きていたい、わたしの人生だし。でもね、まあ色々、世の中には仕方がないことも多い」

 それでもその道を選んだのは、他でもない高野さん本人だ。

 どうして大人になると、仕事をひとつにしか絞れないのだろう。学校では数学や国語、化学に美術など、たくさんのことを学ばされるのに。
 学校の先生なら先生、旅館の女将なら女将、司書なら司書。それ以外の仕事は許しません。ひとつのことを極めてこそプロフェッショナルです!という風潮が、大人の世界にはある。

「とりあえずは旅館立て直して、黒字になったら速攻で図書室作る。そしたらみんなで勉強合宿しに来てもいいよ?っていうか、それいい。塾とか学校向けに勉強合宿プランも提案しようか。あれだな、富裕層の集まる学校とか塾をターゲットにして──」

 突然手元のノートに、カリカリとペンを走らせる高野さん。僕と胡桃は相変わらず、その思考回路と行動についていけず、ぽかんと見ているだけだ。

「高野さん、司書やめるんじゃないの……?」

 僕の言葉に、高野さんは「はい?」と眉をひそめた。

「旅館も大事だし、本に関わって生きてく人生も捨てらんない。女将なんだから司書はやっちゃいけないなんて、そんなのナンセンスでしょ」

 高野さんは立ち上がり、つかつかとこちら側へと歩み寄った。そして僕の向かいに座る胡桃の真横で立ち止まったのだ。

「だからね、中田。行きたいなら、大学に行けばいいんだよ」

 カシャンと、胡桃の手からシャープペンシルが落ちた。

「ちょっと、高野さんっ……」

 思わず口を挟んだ僕を、高野さんは「いいから」と制した。
 高野さんだって、胡桃の病気のことは知っている。進行を遅らせることはできても、完治するのが難しい病気だということも、物事を忘れていってしまう病気だということも。

「大学って、頭がいい人が行くところじゃない。学びたい人が行くところなんだから、中田に学びたいって意欲があるなら行けばいい。病気だから大学は行っちゃいけないなんて、そんなことありえないんだよ」

 高野さんの言葉は当然のことで、だけどそのことを忘れていた僕は、目から鱗が落ちるような心持だった。しかし当の胡桃としては、「それじゃあ行きます」だなんて簡単に思えないだろうことも容易に想像がついた。

「学んだところで忘れちゃうし……」
「わたしだって、大学で勉強したことなんてザルみたいに流れてっちゃったよ」
「でも……試験だってうまくできるかわからないし……」
「色々な大学があるし、受験のスタイルも様々でしょ。自己推薦とかもあるんだし、いいじゃん受けてみたら」
「それでもやっぱり、病気のこともあるし……。入学しても大学側に迷惑をかけちゃうかもしれないし……」
「誰にでも平等に、学ぶ権利がある。楽しむ権利も、遊ぶ権利も、今をめいっぱい生きる権利も」

 高野さんはピシャリと放った。

「いいじゃない。いつか忘れてしまう可能性がありますが、学びたい意欲は誰よりも強いです!って、胸を張ればいい。中田にしかできないことが、中田だからできることが、絶対にあるから」

 今年間に合わないなら、また来年チャレンジすればいい。とことん付き合うよと、高野さんはそう言った。

 純粋に、僕は心を打たれていた。

 僕は知らずのうちに、胡桃の状況を「病気だから仕方がない」と思ってしまっていた。そうすることが、彼女に寄り添うことだと勘違いしていた。胡桃が大学受験をやめたことも、やりたがっていた卒業式の合唱の演奏を諦めたことも、仕方がないことだと受け入れてしまっていた。だけど、本当はそうじゃない。

「高野さん……、ありがとう……」

 胡桃はそう言うと、きゅっと口元を結んで天井を見上げた。ふるふると瞳の表面で涙が揺れる。高野さんの言葉は、胡桃にもきちんと響いたのだ。
 やっぱり高野さんは、ちゃんと大人なんだ。物事を広い視野で見て、こうだからこう、という固定観念を外すことのできるひと。

「高野さんって、すごいな」

 僕がそう言うと、そこで高野さんはこちらをまっすぐに見つめ、顔を崩した。

「石倉たちが教えてくれたんだよ。今という瞬間を精一杯に生きて、楽しんで。泣いて笑って怒ってさ。石倉は、奇跡は〝起こす〟ものだって言ったけど、わたしはそう思わない。奇跡って、きっと本当はそこに〝ある〟ものなんだよ」

 ──奇跡は、〝起こす〟ものじゃない。
 ──奇跡は、〝気付けばそこにある〟もの。

「わたしにとっての奇跡は、石倉たちと出会えたこと」

 思わぬ言葉に、僕は大きく目を見開く。

 学校において、大人と生徒の関係というのは、基本的に教える側と教わる側に分けられる。高野さんは教師ではないけれど、それでも僕らに多くのことを教えてくれる。そんな高野さんが、僕たちとの出会いを奇跡だと言ってくれるなんて。
 僕もこんな大人になりたい。願わくば、胡桃と拓実と莉桜と一緒に──素敵な大人になっていきたい。そう思えることさえも、奇跡と呼んでもいいのだろうか。

 ◇

 結局、胡桃は色々と大学の資料を取り寄せたりはしたものの、受験はしなかった。
 莉桜は第一志望の医学部に一発合格。拓実は第一希望の私立大学に、そして僕も同じ大学への入学切符を手に入れた。今度はお前と腐れ縁かよ、なんて言われたけれど顔が笑っていたのがなによりの真実だ。

「なんか、あっという間だったよなぁ」

 コンビニのカウンターで横並びになり、拓実がそう口にした。店内にいる客は、若い男性がひとりと、スーツ姿の女性ひとりだ。

「卒業式まで、あと一週間か」

 時間が過ぎるのは、本当にはやい。ついこの間、みんなで夏祭りに行ったと思っていたのに、気付けば寒い冬も終わりを告げようとしている。

「石倉くーん、休憩入って~」

 裏から店長に声をかけられ、僕は「はーい」と返事をする。と、目の前にコトンと缶コーヒーがふたつ置かれた。
 この会計を終えたら、休憩に入ればいい。

「もしかして、〝葉くん〟かな?」

 突然見知らぬ声に呼ばれた僕が顔をあげれば、そこには物腰のやわらかそうな男性が立っていた。出で立ちを見るに、僕らより三、四歳年上だろうか。ベージュのジャケットを着たその人は、首から下げた写真付きの身分証をこちらに見せた。

 〝川口昌(かわぐちあきら)“と書かれたそれは、狭間病院のスタッフが常に身に着けているものだった。そこで僕は、この人は胡桃と関わりのある人だろうと悟ったのだ。

「少し、話せるかな?」

 休憩時間に入る、ということはさきほどの店長の声でばれてしまっている。戸惑いながらも、僕はその言葉にうなずくしかなかった。


 数分後、川口さんと僕は、コンビニの裏側に回った。ここは従業員用の喫煙スペースになっていて、灰皿とパイプ椅子がふたつ置かれている。僕はそのうちのひとつを川口さんに勧め、自分も腰を下ろした。

「改めて自己紹介させてもらうね。大学院に通う傍ら、狭間病院でカウンセラー見習いとしてボランティアをしている、川口です」

 ブラウンのニットに黒いズボン姿の川口さんは、人の良さそうな笑顔を向けた。そして先ほど購入した缶コーヒーをひとつ、こちらに差し出す。

「胡桃ちゃんと色々話すことも多くて。その中で、葉くんの話がよく出てきてたんだ。それで、一度話してみたいなと思って」

 胡桃が僕の話をしていた。そのことは、こんな状況でもやはり嬉しく感じてしまう。彼女にとって自分が、それなりに意味がある存在であると感じられたからだ。
 僕はお礼を言って缶コーヒーを受け取った。ぷしゅりとプルタブを引くと、苦い香りが鼻先をかすめていく。

「胡桃ちゃんのこと、石倉くんもショックだったと思う。だけど彼女は本当に強くてね……。葛藤しながらも、比較的すんなりと状況を受け入れたから、僕らも驚いたよ」

 病院で過ごしていれば、様々な状況の患者さんと出会うだろう。自分の病と様々な方法で闘い、乗り越えてきた人々を見ることも、少なくはなかったはずだ。
 そんな川口さんの目から見ても、やはり胡桃は〝本当に強い“女の子なのだ。

「普通は病気であることを受け入れられないことがほとんどなんだ。なにかの間違いじゃないかとか、自暴自棄になったり無気力になったり。そういう段階を経て、少しずつ病と向き合うということができるようになっていく」

 僕の父親なんて、そこまでに一年以上かかったと、川口さんはわざと呆れたように笑った。

「あまりにも聞き分けがいいというか、そういうところが心配に思えることもあって……」

 僕は、胡桃の日記を思い返していた。

 あそこには、彼女の悲しみや絶望、嘆きが綴られていた。胡桃は決して、最初からすんなりと病を受け入れたわけじゃない。苦しみ、もがき、だけど自分を見失うことだけはしたくなかったのかもしれない。「仕方がない」と何度も言い聞かせることで、どうにか自分の中で折り合いをつけたのだ。
 だからこそあの日記の言葉には、常に諦めの色が滲んでいたのだ。

「胡桃は胡桃のやり方で、病気と向き合っているんだと思います」

 うん、と川口さんは、自分を納得させるように頷いた。それから缶コーヒーをぐいっと煽る。

「胡桃は絶対、大丈夫ですよ。川口さんのような相談相手もいるし。なによりも、僕たちがいますから」

 ──このときの僕は、本気でそう思っていた。思い込んでいたのだ。

 だから気付くことができなかった。小さな体で受け止めきれないほどの運命を背負った彼女が、ギリギリのところでどうにか立っていたことに。

 卒業式をあと二日後に控えた日、胡桃は入院することになった。

「急遽入院なんて、びっくりさせちゃったよね。みんな、ごめんね」

 薄いピンクの病衣をまとった胡桃は、彼女が悪いわけではないのに、謝罪を口にした。
 狭間病院にある、脳神経外科病棟の一室。学校帰りの僕たち三人は、お見舞いに訪れていた。

「検査入院だって?」
「そうなの、急に決まっちゃって」

 ベッドの上にはいるものの、胡桃の様子はいつもとなんら変わらない。顔色もいいし、「病院にいると体がなまっちゃう」なんて、腕をぶんぶんと回している。その様子に、僕はちょっとだけ安堵の息を吐き出した。

 胡桃の入院は、一週間ほどらしい。ということは、二日後の卒業式はまだ入院中ということになる。

「あさってだけでも、どうにかならないのか?」

 拓実の言葉に、莉桜と僕は胡桃を見つめる。二日後は、卒業式だ。
 しかし彼女は困ったように、ゆるりと笑って首を振った。

「わたしからもお願いしてみたんだけどね。どうしてもその日に検査をしないといけないらしくて。わたしの身体のためのものだから、仕方ないよね……」

 学生である僕らから見れば、容態が悪いわけではない胡桃の検査をその日にしなければならない理由がわからない。だけどきっと、病院には病院の事情があるのだろう。

 ここに来るまでに、たくさんの入院患者とすれ違ってきた。ここにいるのは、胡桃だけではないのだ。それでもやっぱり、どうにかならないものかと考えずにはいられない。

「それより、拓実。卒業式の日、戸塚ちゃんに告白するんでしょ?」

 胡桃はいつものように明るい笑顔で、話題を変える。それは、彼女の優しさだ。

「そうだよ、わたしたちの応援を一心に受けて、バシッと勝負決めないとね!」

 莉桜は一瞬の間を開けてから、その話を明るく広げた。

「拓実の告白シーン、胡桃にも中継しないとな」

 僕が両手の人差し指と親指でカメラのファインダーを模し、拓実に向ける。

「おいお前ら……そういうのを盗撮って言うんだからな?」

 おもむろに眉を寄せた拓実がそう答え、それから僕らは声をあげて笑った。
誰もみな、本当におもしろかったわけじゃない。だけど笑うことしかできなかった。
 僕らはお互いのことが大好きだった。大切で、愛おしかった。だけど、まだまだ青い僕たちは、こうして表面的に笑うことくらいしか、胡桃の想いを受け止める方法を知らなかったのだ。
 はしゃぐふりをすることで、心の中にできてしまった空洞に蓋をして。看護師さんに注意されてもなお、僕たちはからっぽな笑い声で、真っ白な病室を、必死になって埋め尽くそうとしたのだった。



 リュックにペンケースを入れていると、体育館の方から合唱が聞こえてきた。明日の卒業式のため、在校生が最後の練習をしているのだろう。
 一年前は自分がそちら側だったのに、明日は送り出される側になる。なんだか不思議な気分だ。

「葉、先に胡桃のとこ行ってて。俺、ちょっと戸塚に呼ばれてて。あと、バイト先寄ってから行く」

 卒業式の前日、三年生である僕らが学校ですることなど特にない。それでも明日で離れ離れになるクラスメイトとの時間は特別で、午前中で学校が終わっても、教室には大勢の生徒たちが残っていた。
 莉桜は明日、卒業生代表の挨拶をする。その原稿チェックなどがあるらしく、病院で合流することになっていた。

 僕らは今日も、胡桃のお見舞いに行く。

 これは別に、誰かが言い出した約束ではない。だけど僕たちにとってそのことは、夜になれば眠るのと同じくらいに、ごく当たり前のことだった。

「来月のシフト出てたら、僕の分ももらってきて。戸塚ちゃんによろしく!」
「了解。じゃあな」

 拓実と戸塚ちゃんは、付き合ってはいない。しかし拓実の頑張りにより、戸塚ちゃんの気持ちにも変化が出てきているようだ。戸塚ちゃんが色々な男と歩いているところを、見なくなって久しかった。

 人間は、変わるものだ。だけどひとりきりで変わっていくわけじゃない。傷つけたり傷ついたりしながら、絡まった紐をほどきながら、想いをまっすぐ伝えながら、そうやって変わっていく。だから人は、ひとりでは生きていけないのかもしれない。

「お、石倉」

 ちょうど廊下の角を曲がったところで、高野さんと鉢合わせた。手には明日配布される、卒業アルバム。

「一足先に、石倉たちの青春を拝見させてもらいました。もうね、青春!って感じの写真で溢れてた」
「明日、高野さん泣いちゃうんじゃないの?」

 僕がそうからかえば、高野さんは真面目な顔をしたまま「ありえる」と頷く。それから表情を柔らかくして、僕の頭を一度だけぽんと叩いた。

「石倉さ、わたしと初めて会ったときのこと覚えてる?」

 ほんの少し、記憶の引き出しを開けてみる。高野さんと出会ったのは放課後の図書室だ。実際には高野さんとは二度、〝出会う〟という工程を踏んでいるが、高野さんには一度目の記憶はない。

「あのとき、わたしが石倉に質問したじゃない?」

 自分の身に何が起きたのかを知りたかった僕は、時間についての本をいくつも机に積み上げていた。そんな僕に高野さんは、こう聞いた。
『どの時代にも行けるって言われたらさ、未来と過去、どっちに行きたい?』と。

 あの日の僕はその質問に、『過去』と即答した。確かに僕は、後悔していた過去を変え、新たな今を送っている。しかし、胡桃の背負う運命を変えることはできなかった。

「今の石倉ならどうしたい? 未来と過去、どっちに行きたい?」

 僕の中を、たくさんの出来事がよぎっていく。
 一度目の六月、失敗したこと、すれ違ったこと、ただただ逃げたこと。バラバラの日々。僕らを忘れた胡桃がいたこと。
 二度目の夏、図書室でみんなで勉強したこと、拓実とぶつかって理解し合えたこと、四人で回った夏祭りと、花火の下で胡桃と手を繋いだこと。そして、僕らをいつか忘れる胡桃がいること。

「そんなの、決まってるよ」

 僕たちは、人生のどの部分を生きているのだろう。後悔しない人間なんて、きっと多分存在しなくて、明るい未来を願う人間は、きっと多分大勢いて。
 そんな中、僕はどこに行きたいか。どんな場面を、誰と一緒に見ていたいか。

「僕は、────」

 迷うことなく答えた僕を、高野さんは優しく目を細めて見つめた。

「中田も、同じこと言ってたよ」

 ころころと笑う胡桃。ぷんぷんと頬を膨らませる胡桃。涙もろい泣き虫胡桃に、幸せそうに微笑む胡桃。
 どんな胡桃も、愛おしくて大切だ。

「胡桃のところ行ってくる。じゃあね高野さん!」

 どうしようもなく会いたくなって、思わず僕は走り出した。
 胡桃がこの世界にいてくれることが、純粋に嬉しい。そばにいてくれることを、すごく幸せに思う。
 そのことを、ちゃんと彼女に伝えたいと。僕はそう思ったんだ。

 病院に到着すると、ナースステーションが慌ただしかった。ここは急患も受け入れているし、緊急オペなどがあったのかもしれない。

「葉くんっ‼」

 胡桃の病室へ向かう廊下で、背後から名前を呼ばれた。

「川口さん……」

 コンビニに来て以来、川口さんとは病院で顔を合わせることもあった。川口さんは本当に物腰がやわらかく、穏やかなひとだ。
 しかしそんな川口さんが、血相を変えている。それはつまり──。

「胡桃ちゃんがいなくなったんだ」

 その言葉に、頭の中が真っ白になる。

 ──胡桃が、いなくなった?

「午前の検温のときはいたんだけど、お昼ごはんを持ってきたら部屋にいなくって」

 ぼわん、ぼわん。川口さんの声は、幾重もの膜を張って僕の耳へと流れてくる。

「──中田胡桃が行方不明だと?」

 キィン。強い耳鳴りのあと、彼女の名前が輪郭を持ってクリアに聞こえた。反射的に振り向くと、白衣をまとった医師らしき男性が看護師に詰め寄っている。

「明日の検査は、研究機関のトップクラスが患者の状態を見てみたいと言ったから組んだんだぞ? 相手の都合に合わせて日程もねじこんだんだ。何があっても見つけ出さないと」

 十代での記憶障害を伴うこの病気の発症例は、世界的に見ても非常に稀。それは、以前川口さんが僕に話したことだ。それゆえ彼女は、データを取るためにも何度も検査を受けなければならないだろうということも。

「なんだよ……。それが、本当のところかよ……」

 腹の底が熱くなり、強い怒りがこみ上げる。
 胡桃がどれほどに、卒業することを心の支えとして過ごしてきたか。卒業式というひとつの節目が、彼女にとってどれほど重要な意味があることだったか。

「葉くん、少し落ち着いて。これを見てもらいたいんだ」

 医師が乗り込んだエレベーターの扉が閉まったことを確認した川口さんは、僕に一枚のメモ用紙を差し出した。


 みんなのことを忘れる前に
 このまま終わりにしたい
 わたしはわたしのままでいたい

 
「胡桃……」

 そこには、見慣れた彼女の文字。

 ──ああ、僕はなにもわかってなんかいなかったんだ。

「やっぱり胡桃ちゃんは、無理をしてたんだと思う。ひとつの支えとしていた卒業式を目前に入院したことで、その我慢の糸が切れてしまったんだ」

 川口さんは顔を歪めた。この人は、カウンセラー見習いという立場で、胡桃のことをずっと見てきた人だ。

「この病気は、葉くんが想像しているよりも、ずっとずっと残酷なものなんだ」

 身内に同じ病を抱えている立場として、言いたいことは色々あるのだろう。

「記憶をなくしていくということは、自我が崩壊していくことでもある。胡桃ちゃんはきっと、胡桃ちゃんではなくなってしまう。凶暴な別人になってしまうこともある。大きな愛情で乗り越えようと思ったって、そんな幻想を打ち壊してしまうだけの現実が待っているんだ」

 苦言を呈する、というのはこういうことを言うのだろう。川口さんは顔を歪めながらも、言葉を続けた。

「君たちが彼女を支えたいという気持ちはよく分かる。葉くん、きみが胡桃ちゃんのことをとても好きなんだということも。だけど忘れたくない人のそばにい続けるということは、果たして本当に彼女のためになるのかな」

 僕はゆっくりと、口を開く。気付かぬうちに、口の中がカラカラに乾いていた。

「胡桃が……そう言ったんですか……?」

 僕たちが一緒にいる。いつでも僕らがついている。

 それが最善だと思っていた。胡桃にとって、大きな支えになると思っていた。だけどそうではなかったのだろうか。僕らの存在が、彼女を苦しめていたのだろうか。

「葉くんたちと一緒にいると、幸せだけどつらいと言ってた……」

 カタカタと奥歯が鳴って、僕はぐっとそれを噛みしめた。

「こんな病気になってしまって、彼女の人生はこれからつらいことばかりだ。苦しくて悲しくて寂しくて……自分に降り掛かった不幸をずっと抱えながら生きていかなければならない。いつ自分のことすらわからなくなるのか怯えながら、息をしていかなきゃならない」

 ゴクリと、喉の奥で何かが擦れる音がする。

 川口さんの言っていることは、事実なのだろう。どうしたって胡桃が苦しむことは、避けられないことなのだとも思う。だけど──。

「胡桃ちゃんは、葉くんたちを忘れることを一番恐れていた。それは同時にきみたちのことをひどく傷つけるということも。この病気を抱えた人を支えていくというのは、そんな簡単にできることじゃないんだ。病気になってしまった胡桃ちゃんの意志を、尊重してあげてほしい。彼女は僕が見つけるから──」
「……じゃない」

 きつく噛み締めた歯の隙間から、低い声が漏れる。「え」という川口さんの声を待たず放たれた僕の声は、想像以上に大きく廊下に響き渡る。

「胡桃は、不幸なんかじゃない‼」

 病気になってしまったことは、確かに不運なことなのかもしれない。だからといって、胡桃が不幸かどうかなんて、そんなのはわからないじゃないか。

「不幸って、なんですか……? 世間がかわいそうだと思うことが、必ずしも不幸なんですか?」

 胡桃の笑顔、次々に大事なひとたちの顔が浮かぶ。

 記憶障害を伴う不治の病を抱えた胡桃。
 実力のある父親と結果を出す兄を持ち、からっぽだと言われた拓実。
 親の敷いたレールになんの疑問を持たない自分に、虚無感を抱いている莉桜。
 母親に捨てられた過去を持ち、自分の居場所なんてないと嘆いていた僕。

 なあ、僕。どうなんだよ、僕らはみんな、不幸なのか? 世間が不幸だと言えば、その通りなのか?
 僕らの人生を不幸にできるのは、幸せにできるのは──僕たち自身だけじゃないのか?

「胡桃が不幸かどうかなんて、あなたが決めることじゃない。胡桃の人生を決められるのは、胡桃だけだ!」

 それまでのぐちゃぐちゃに混ざっていた黒い気持ちが、少しずつ落ち着くところへ重なっていく。

 きっと人間はいつだって、あからさまな〝不幸〟で特定の人間を囲ってしまう。

 〝病気〟という不幸の枠で囲われた胡桃。
 〝からっぽ〟という不幸の枠で囲われた拓実。
 〝親の言いなり〟という不幸の枠で囲われた莉桜。
 〝母親がいない〟という不幸の枠で囲われた僕。

「枠なんて、ただの枠でしかないのに」

 不幸の枠で囲うことで、みんなと区別することで、『かわいそうだね』『自分はまだマシだね』なんて自分を慰めることを人間は無意識にしてしまう。だけど本当のことは、本人にしかわからないのだ。
 僕はゆっくりと呼吸を整えると、川口さんをまっすぐに見つめた。川口さんは圧倒されるように、そこに立ったままだ。

「周りが決めた〝不幸〟で僕らを切り離すことが正しいと、川口さんは本当にそう思いますか?」

 カウンセラーとしてではなく、ひとりの人間である川口さんに僕は尋ねた。彼は一度、黒い瞳をまるくすると、それからゆっくりとこうべを垂れた。

「胡桃のこと、真剣に考えてくれてありがとうございます」

 これは、本心だ。川口さんは本当に、胡桃のことを考えてくれている。きちんと寄り添おうとしてくれている。きっと彼は、多くの人を救うカウンセラーになるだろう。高校生の僕が言うのも変だけど。それでも本気でそう思う。

 僕は川口さんに向かって一礼すると、くるりと踵を返した。駆け出そうとしたところで、言い忘れたことを思い出す。

「川口さん」

 確かに僕は専門知識もなく、今持っているのは彼女への想いだけかもしれない。それでも僕は、彼女のそばにいたいと願う。

「僕は、彼女を〝支えたい〟わけじゃないんです。ただ一緒に、今を〝生きて〟いきたいんだ」

 それだけ告げ、僕は再び駆け出したのだった。

 彼女のスマホは繋がらなくて、どこにいるのかもわからない。それでも僕はひたすらに走った。帰り道に寄った商店や、小さな公園。バス停周辺から、学校まで戻ったりもした。それでも彼女は見つからない。

「胡桃……」

 上がる息を吐き出して吸い込むと、じめっとした鈍い匂いが鼻先から舞い込んだ。海の向こうを見れば、重たいグレーの中でゴロゴロと雷が蠢くのがわかる。

「まずいな……」

 雨が降る前に、胡桃のことを見つけ出さないと。
 そう思ったときには、ポツポツとアスファルトに水玉模様が現れ始めた。そしてゴオッという強い風が吹いた瞬間、痛いほどの大粒の雨が降り出したのだ。

 ──いつだったかも、こんなことがあった。

 その瞬間、耳の奥でキィンと高い音が鳴った。
 そうだ。一度目の夏のことだ。あの、大雨の日。
 あの日もバケツをひっくり返したような雨と強風で、僕は猫を探しに──。

「──胡桃だ」

 フラッシュバックするいくつかの場面。グレーに支配された海と、幾十もの雨の矢たち。もぬけの殻となった海の広場。差し込んだ光。

 海沿いの広場で、僕は確かに見たのだ。意識を手放す直前のことだ。あの得も言われぬ美しい光の中、制服に羽織ったパーカーの中に猫をかくまっていた胡桃と、僕の視線が重なったのを。

 あのとき、胡桃もあの場所にいた。

 ──やっぱり彼女も僕と同じように、共に時間を遡ったのだ。
 ──彼女は自分の運命を、全部知っていた。

 電話をかけても、彼女のスマホには繋がらない。胡桃が今どこにいるかを、知っているわけでもない。
 それでも僕は確信していた。
 彼女はきっと、あそこにいる。僕たちが時間を遡るきっかけとなった、あの場所に。

 ぱしゃんと水たまりが、僕のスニーカーで四方に散る。制服の裾に泥水がかかるのも気にせず、僕は走った。

 ──あの広場まで、あと少し。

 雨で白く霞む視界の中、まるでそこだけ切り取られたように、彼女の姿が鮮やかに僕の目に映りこんだ。

「胡桃!」

 堤防に続く、ちょっとした海辺の広場。植えられた大きな樫の木の下で膝を抱えていた胡桃は、弾かれたように顔を上げた。

「怪我はしてない⁉ びしょ濡れになってない⁉ 痛いところとかはない⁉」

 彼女の正面に座り込み、まずは胡桃の無事を確かめる。僕の質問に、ふるふると首を振ることで否定した胡桃に、僕は「はあーっ」と大きな安堵の息を吐き出した。

「無事で、よかった……」

 胡桃は学校の制服をまとっていた。肩や足先は濡れていたけれど、この樫の木がちょうどいい傘となっていてくれたようだ。
 胡桃は唇が白くなるほどに強くそれを噛みしめ、じっと下を見つめていた。
僕が来たことは、胡桃にとって良いことだったのだろうか。
 そんな疑問がふと浮かび、僕はふっとその疑念の炎を吹き消す。

 そうじゃないだろ。僕は僕のしたいことをするために、ここに来たんだ。

「胡桃、ごめん」

 深呼吸をしてからそう告げると、彼女の肩がピクリと動いた。

「僕、胡桃の言った〝大丈夫〟を、そのまま受け取ってた。本当は大丈夫なわけないのに、そんな簡単に受け止めきれるはずがないのに、胡桃は強いから乗り越えられてるんだと思ってたんだ」

 胡桃が入院していた病棟はほとんどが個室だったが、そのどの部屋にも入院しているのは高齢の患者さんばかりだった。
 彼女が抱える病気は、高齢者ほど患いやすい。自分よりも幾周りも上の患者の中で病衣を纏っていた胡桃は、どんな気持ちだったのだろう。

「胡桃は本当に優しいから、家族や僕たちのために、必死につらい気持ちを押し込めてきたんだよな。だけど本当は、僕たちの顔を見るのもつらかったんだろう?」

 川口さんの言葉を思い出しながら、僕はゆっくりと胡桃の手を握った。ひんやりと冷え切った胡桃の小さな手。この手で必死に、自分ではなく周りのことを守ろうとしていたのだ。

「……そうだよ」

 そこでやっと、彼女の震える声が揺れた。
 胡桃は俯いたままだ。だけど必死に声が震えないように、体中に力を入れて言葉を発しようとしている。

「……みんなといると、苦しいの」
「うん」
「なんでわたしだけとか、将来があるくせにとか……、思っちゃうの」
「うん」
「葉たちがそばにいてくれて嬉しいのに、それと同時にすごく苦しい。みんなのことが妬ましくて、ずるいって思って、みんなわたしと同じになっちゃえばいいって思うの!」

 それは、胡桃の心の叫びだった。優しさや強さ、思いやりや理性。そういったものの奥深くに生まれた、人間の本能の部分。

「大地震が起きて、みんな死んじゃえばいいって思うこともある。巨大隕石が落ちてきて、地球が滅びちゃえばいいって思う日だってある。……ねえ葉、わたしこんな人間なんだよ。こんなに最低なことを望んでしまう人間なんだよ! 本当のわたしなんて、こんなんだったんだよ!」

 ぼたぼたと、僕らの足元には大きな水滴が落ちては滲む。

「──どんな胡桃も、愛おしいよ」

 なあ胡桃。本当のことを言ってしまえば、僕だってつらいし苦しいんだ。
 心の底から大事に思っているきみが、こんなにこんなに苦しんでいる。それなのに僕は未来からやって来た名医でもなんでもなくて、ただの無力なひとりの高校生だ。

 それでもさ、きみのそばにいたいんだ。

 彼女の顔に狼狽が走ったのを、僕は見逃さなかった。

「わたし、本当に忘れちゃうんだよ……?」

 先ほどまでの勢いは姿を消し、今度は怯える小動物のように胡桃は肩を震わせた。

「思い出やみんなの名前だけじゃない。どこの誰なのかもわからなくなって、自分のこともわからなくなるの……」

 その事実は胡桃の声を伴うと、これから彼女の身に起きうる出来事なのだと、途端に現実味を伴った。改めて、彼女が対峙している病の残酷さを目の当たりにする。
 もしかしたら彼女自身、これから起きる現実を覚悟として受け入れるためにあえて言葉にしているのかもしれない。

「洋服の着方や手の洗い方、ちゃんとしたご飯の食べ方もわからなくなって。そのうち、呼吸もうまくできなくなって……」

 目をそらしちゃいけない。耳をふさいじゃいけない。この現実と向き合っている胡桃が、目の前にいるのだ。

「わたしのそばにいたら、たくさん傷つけちゃうよ……。葉のことを、不幸にしちゃうよ……」

 そこで彼女は、僕の手を振りほどこうとした。だけどそれを許さない。ここで放しちゃいけないんだ。絶対に放したくない。もう彼女を、ひとりきりの闇の中に置き去りにしたりしない。

 この先、愛情だけではどうにもできないことだって絶対に起こるだろう。綺麗事だけでは乗り越えられないこともある。それでも愛情でしかできないことだって、きっときっとあるはずなんだ。

「そんなの、誰だって同じだよ」

 やがて抵抗をやめた彼女から、ぱらぱらといくつもの光が落ちる。

「僕だって明日突然、なにもできなくなるかもしれない。事故に遭うかもしれないし、病気になるかもしれない。大事なことを忘れてしまうかもしれない。そんなのは、誰にもわからないんだ」

 なにもない毎日が、ただただ笑ってダラダラと過ごせる毎日が、本当はどれだけ平和で守られたものだったのか。人々はそれを、失ってから気付くのだろう。
 僕にとっては平穏な世界でも、この世の中には厳しい現実と向き合っている人たちもいる。だけど彼らが不幸かなんて、そんなことは他人が決めることじゃないんだ。

「僕は、不幸になんかならないよ」

 胡桃が病気になって、悲しいよ。つらいよ。苦しいよ。
 だけどさ、胡桃を好きになって、嬉しいよ。楽しいよ。ときどき切なくて、だけどやっぱり幸せなんだよ。

「そんな風に、優しく笑わないで」

 子供みたいに、胡桃は顔をくしゃりと歪める。その表情が愛おしくて、僕は彼女の頬を流れる涙の粒を、ひとつずつ掬っていった。
 冷えた指先に感じるやわらかな頬のぬくもりは、彼女がここにいることを証明してくれるようだ。

「たしかに、運命は変えられないのかもしれない」

 一度目の秋も、二度目の冬も。きっかけや度合いは違えど、彼女の記憶にはなんらかの弊害が起きた。それが胡桃の持つ運命なのだとすれば、たとえ僕が何度過去をやり直そうともどうあがこうとも、それは訪れてしまうのだろう。
それでも僕たちは、運命に支配されて生きているわけではない。僕たちを生きることができるのは、他でもない僕たちだけなのだ。

「それでも──。運命は変えられなくても、どう生きるかは自分で決められると思わないか?」

 まっすぐに彼女の瞳を見つめよう。言葉がきちんと伝わるように、想いがまっすぐ届くように。

「好きだよ、胡桃」

 奇跡なんだ。こうして、胡桃と僕が一緒に過ごせている〝今〟。お互いの目を見て、想いを伝えられるこの時こそが、僕たちだけの奇跡なんだ。
 だから僕は、伝えよう。この想いが、この奇跡が、きちんときみに届くまで。今この瞬間に、何度だって何度だって、言葉にしてきみに見せよう。

 なにも答えることが出来ない胡桃の腕を、僕はそっと引き上げた。お互いに向かい合って立ち上がり、彼女を腕の中へと閉じ込める。壊れないように、優しく。きちんと伝わるように、しっかりと。

「葉……」

 甘いシトラスが、春風と共に僕を包む。すう、と深呼吸した僕は、ぎゅうと一度だけ腕に力を込めた、

 そのときだった。モノクロになっていた海と空を裂くように、まぶしい光が僕らを照らす。それはチカチカと何度か瞬き繰り返し、やがて深い群青色の光となった。

「あのときみたい……」

 光が照らし出すのは、鮮やかに輝く海の水面。その色は、黄色やオレンジ、エメラルドグリーンや淡いピンクをも含む、美しいブルーだ。

「胡桃、やっぱりあの約束、果たそうよ」
「え……?」

 ぼうっとした様子でこちらを見上げた胡桃の耳元に、僕は顔を近づけた。

「夜明け前、迎えに行く」

 僕の胸元に遠慮がちに置かれていた華奢な指先は、僕のシャツをきゅっと掴んだ。

 あのあと、僕と胡桃は病院へと戻った。例の医者がなにか言ってきたら反撃してやろうと息巻いていたのだが、特に何も言われることはなかった。
 川口さんがフォローを入れてくれていたと、後に看護師さんが教えてくれた。

「一応確認なんだけど、莉桜は本当に大丈夫? 自分の両親が経営する病院なわけだし、無理には──」
「なに言ってんの? やるに決まってるでしょ。確かに大人には大人の都合があるのかもしれない。だけどわたしたちにだって、譲れないものがある」

 病院での出来事に、莉桜は激怒していた。大事な親友は見世物じゃない。データが重要なのはわかるけど、胡桃はそのための実験台なんかじゃないのだと。

「胡桃の体調が悪くて、っていう検査でもないしな」

 スウェット姿の拓実は、腕を組みながら莉桜の意見に同意する。

 夜明け前に、胡桃のことを迎えに行く。それは、僕ら四人の約束を果たすためのものだ。 
 胡桃と僕が戻った頃には、拓実と莉桜もちょうどそこに到着したところで、目を赤く腫らした胡桃とびしょ濡れの僕を見て、言葉を失くしていた。

「莉桜、本当に泊まり込みするわけ?」
「大丈夫。届けるものがあるとか言えば、守衛だって顔パスで通してくれるし。そのあと職員用の仮眠室に入っちゃえば朝まで誰にも会わずに済む。明け方に院長の娘が男二人と救急外来から入ってきた方が不自然でしょ」

 確かに、と拓実と僕は頷くしかなかった。

 夜の狭間病院は、意外とセキュリティが甘い。というのは、病院の一人娘である莉桜の言葉だ。
 救急搬送の受け入れも行っている狭間病院では、救急の出入り口は二十四時間開放されているとのこと。また、深夜から明け方の時間帯は、看護師の見回りに二時間に一度と決まっているので、そこさえ抑えれば看護師と鉢合わせする可能性も低いらしい。

「でもまさか、葉がこんな大胆な計画をたてるとはなぁ」

 一通り計画を練ると、拓実が肩を上下させながら感慨深そうにそう言った。

「葉っておちゃらけている陽キャラに見せかけて、実は結構思慮深い性格だもんね」

 莉桜の言葉に、僕は内心驚いていた。胡桃だけではなく、このふたりも、しっかりと僕のことを見ていてくれたのだと改めてわかったからだ。

「日の出時刻は六時八分。天気予報は、晴天だ」

 僕の言葉に、莉桜と拓実が力強く頷いた。