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「なんかいいことでもあった?」

 ぴーろーぴろぴろーん、ぴろりーろりー。
 店内にひとりだけいた客が自動ドアをくぐり抜けると、後ろでタバコを補充していた拓実が作業を続けたままそんなことを言った。彼は僕の友人で、一緒にコンビニのアルバイトをしている。

「拓実って、僕のことなんでもわかるんだな……。もしかして、愛のパワーとか?」

 ふざけて肩に手を乗せれば、拓実は「バーカ」とその手をうざったそうにこちらへ押し返す。

「そんなでっかい声で鼻歌歌ってたら、嫌でも察するわ」

 そっか、僕鼻歌なんか歌っちゃってたんだ。今気付いた。

 拓実と僕は高校三年生になって初めて同じクラスになった。僕たちが最初に出会ったのは去年の春、このバイト先でのこと。そのときにはお互い同じ高校に通っているなどとは知らなかった。
 一学年六クラスある我が校は、マンモス校ではないものの、限られた高校生活の中で同級生全員とまともに関わり合う機会はそうそうない。しかも去年、僕たちは一組と六組という端同士だったため、学校で顔を合わせることがほとんどなかったのだ。

「まあ、鼻歌が自然と出ちゃうくらいのことがあったんだよね」

 再び鼻歌を歌えば、拓実は「ハイハイ」と片手であしらった。
 もうちょっと深く聞いてくれてもよさそうなものなのに。
 しかしそこで、客の来店を知らせるチャイムが鳴り響き、そのまま話題は次のものへと流れていった。

「そういや、明日の数学のテスト、三十点以下だと補講らしいぞ」
「マジで? 僕、数学めちゃくちゃ苦手なのに」
「葉は理数、本当弱いもんな」
「バイト終わってからちょっとでいいから教えてよ。拓実、数学得意じゃん」
「俺、女の子にしか勉強教えないことにしてるんだわ」

 なんて冗談まじりに返されたが、実際のところ、拓実はモテる。
 人望という意味で言うならば僕だって負けてはいないつもりだけど、それが恋愛感情という意味を含めるならば完敗だ。

 整った顔立ちに高身長。明るい髪色とちょうどいいくらいの軟派感。スポーツ万能で成績はそこそこ。男女関係なく誰とでもそつなく接することができる器用を絵に描いたような男。それがこの高橋拓実という男だ。

「そろそろ、本命ひとりに絞ったら?」
「誰だよ、本命って」
「……まさか、僕?」

 ふざけて両手で自分の肩を抱くと、拓実はまた「バーカ」と笑った。その笑顔は、僕から見てもかっこいいのだから、やっぱりずるい。

「でもさぁ、なんであんなにたくさんの女の子とデートしてるのに、誰とも付き合わないわけ?」

 拓実の周りには、常に女の子の影がある。それでも拓実は、誰ともきちんとした恋人関係を結んではいないし、トラブルになることもないのだから不思議なものだ。

「俺は利害の一致した相手と楽しく過ごしてるだけ。気楽でいいじゃん」

 こういうことを言っても、嫌味に聞こえないのも拓実のすごいところだった。

 確かに拓実はチャラい。だけどそれだけじゃない。優しくて、強くて、それでいてきちんと踏み込まない線、踏み込ませない部分を決めているのだ。
 と、そこで僕は、さきほどから浮かんでは消えない疑問を拓実にぶつけることにした。

「……ちなみに、中田胡桃ともデートしたことある?」

 クラスの男子の中で話題にのぼることの多かった胡桃だが、拓実の口から彼女の名前が出たことはない。女の子の扱いもうまい拓実のことだ。まさかもう、すでにデートをしていたら──。

「ない。胡桃に手出したらぶっ飛ばす、って莉桜(りお)に言われてるし」

 作業の手を止めず、淡々と話す拓実に僕は安堵の息をひとつつく。それからすぐに、もうひとりの女子の顔を思い浮かべた。
「莉桜って……同じクラスの井岡莉桜(いおかりお)?」

 明朗快活、さっぱりとした性格の彼女は学級委員を任されている。しっかりしていて誰にも媚びることのない彼女は、生徒だけではなく先生からの信頼も厚い。
 たしか彼女と胡桃は席も近いから、正義感の強い井岡さんが胡桃を守ろうとするのも理解できる。
 しかし、普段女子の名前を苗字でしか呼ばない拓実が、『莉桜』と呼んだことに僕は大きな違和感を覚えたのだ。あの井岡さんが、拓実がデートしてきた女の子たちの中にいるとは考えにくい。いや……人は見かけによらないとか……?

「同じ中学なんだよ。家も近いし、腐れ縁みたいなもん」

 僕の考察が顔に出ていたのかもしれない。
 拓実は僕をちらりと見ると、ため息とともにそう言った。

 なんだって……腐れ縁だと? 美男美女で腐れ縁? そんなのドラマや漫画の中だけのことかと思っていたのに、こんな近くにあったなんて!

「違うからな?」

 しかし僕の妄想は、拓実のぴしゃりとした一言で散り散りになる。呆れ顔の拓実が「やっぱりな」とため息をつく。

「恋愛感情とかないから。莉桜と俺は、本当にただの腐れ縁」
「その通り。っていうか、いらっしゃいませもないわけ?」

 ゴンッとレジカウンターに置かれたコーラのペットボトルふたつとミントガム、筒に入ったカラフルなチョコレート。
 店内に思い切り背中を向けていた僕たちは、思わずびくっと体を揺らしてしまう。
 恐る恐る振り返れば、そこには、今まさに話題に出ていた井岡さんが立っていたのだ。

「もう! ドア開いたときにチャイム鳴るじゃん! なんで気付かないかなぁ!」
「井岡さん?」
「そうだよ。私服だとイメージ違う?」

 ふふ、と笑う井岡さんに、拓実が大袈裟にため息をつく。
 ぴたりとしたTシャツにミニスカートという出で立ちの彼女は、確かに学級委員をしている制服姿の井岡さんとは別人のようだ。ほんのりと化粧もしているように見える。

「またコーラとチョコかよ、ダイエットはやめたわけ?」
「彼氏がそのままでいいって言ってくれたんで、やめました〜」

 べー、と舌を出す彼女に、僕は内心がっくりとしてしまう。どうやら〝ただの腐れ縁〟は、紛れもない事実のようだ。

 ピッ、ピッ。嫌と言うほど聞き飽きたバーコードをスキャンする音がやたらと響く。窓から駐車場をそっと見れば、黒い車が一台停まっているのが見えた。

「俺、もうすぐあがるけど」

 ピッ、ピッ。最後のひとつをスキャンさせると、彼女は手に持っていた千円札をレジに置いた。時刻は九時ちょっと前。

「平気。彼氏、車で待ってるから」
「じゃあ平気だな」
「うん」

 五百十六円、と短く告げる拓実と、無言でお釣りを受け取る井岡さん。ほんの三十秒ほどのやりとりだが、これまでのふたりの信頼関係のようなものが垣間見えた気がした。

「じゃあね」

 商品を両手に抱えた井岡さんはそう言うと、扉に向かって歩いていく。そして自動ドアが開いたときに、足を止めて振り返った。

「今日、胡桃と話したんだってね。〝葉と一緒に帰った〟って連絡きたよ」

 ぴーろーぴろぴろーん、ぴろりーろりー。閉じた自動ドアの向こう、黒い車の助手席のドアが開閉し、ヘッドライトが遠ざかっていった。

「……なあ、拓実……」
「なに」
「今の、聞いた……?」
「なにが」
「胡桃が僕と帰ったことを、友達に報告したってことだよな……?」
「は……?」
「うぉっしゃあ!」
「声でけーって、葉」

 ぴーろーぴろぴろーん、ぴろりーろりー。

「いらっしゃいあせえー!」

 次いで入店してきたお兄さんが、僕のどでかい歓迎の挨拶にびくりと肩を揺らしていたのは、言うまでもない。