◇

 結局、胡桃は色々と大学の資料を取り寄せたりはしたものの、受験はしなかった。
 莉桜は第一志望の医学部に一発合格。拓実は第一希望の私立大学に、そして僕も同じ大学への入学切符を手に入れた。今度はお前と腐れ縁かよ、なんて言われたけれど顔が笑っていたのがなによりの真実だ。

「なんか、あっという間だったよなぁ」

 コンビニのカウンターで横並びになり、拓実がそう口にした。店内にいる客は、若い男性がひとりと、スーツ姿の女性ひとりだ。

「卒業式まで、あと一週間か」

 時間が過ぎるのは、本当にはやい。ついこの間、みんなで夏祭りに行ったと思っていたのに、気付けば寒い冬も終わりを告げようとしている。

「石倉くーん、休憩入って~」

 裏から店長に声をかけられ、僕は「はーい」と返事をする。と、目の前にコトンと缶コーヒーがふたつ置かれた。
 この会計を終えたら、休憩に入ればいい。

「もしかして、〝葉くん〟かな?」

 突然見知らぬ声に呼ばれた僕が顔をあげれば、そこには物腰のやわらかそうな男性が立っていた。出で立ちを見るに、僕らより三、四歳年上だろうか。ベージュのジャケットを着たその人は、首から下げた写真付きの身分証をこちらに見せた。

 〝川口昌(かわぐちあきら)“と書かれたそれは、狭間病院のスタッフが常に身に着けているものだった。そこで僕は、この人は胡桃と関わりのある人だろうと悟ったのだ。

「少し、話せるかな?」

 休憩時間に入る、ということはさきほどの店長の声でばれてしまっている。戸惑いながらも、僕はその言葉にうなずくしかなかった。


 数分後、川口さんと僕は、コンビニの裏側に回った。ここは従業員用の喫煙スペースになっていて、灰皿とパイプ椅子がふたつ置かれている。僕はそのうちのひとつを川口さんに勧め、自分も腰を下ろした。

「改めて自己紹介させてもらうね。大学院に通う傍ら、狭間病院でカウンセラー見習いとしてボランティアをしている、川口です」

 ブラウンのニットに黒いズボン姿の川口さんは、人の良さそうな笑顔を向けた。そして先ほど購入した缶コーヒーをひとつ、こちらに差し出す。

「胡桃ちゃんと色々話すことも多くて。その中で、葉くんの話がよく出てきてたんだ。それで、一度話してみたいなと思って」

 胡桃が僕の話をしていた。そのことは、こんな状況でもやはり嬉しく感じてしまう。彼女にとって自分が、それなりに意味がある存在であると感じられたからだ。
 僕はお礼を言って缶コーヒーを受け取った。ぷしゅりとプルタブを引くと、苦い香りが鼻先をかすめていく。

「胡桃ちゃんのこと、石倉くんもショックだったと思う。だけど彼女は本当に強くてね……。葛藤しながらも、比較的すんなりと状況を受け入れたから、僕らも驚いたよ」

 病院で過ごしていれば、様々な状況の患者さんと出会うだろう。自分の病と様々な方法で闘い、乗り越えてきた人々を見ることも、少なくはなかったはずだ。
 そんな川口さんの目から見ても、やはり胡桃は〝本当に強い“女の子なのだ。

「普通は病気であることを受け入れられないことがほとんどなんだ。なにかの間違いじゃないかとか、自暴自棄になったり無気力になったり。そういう段階を経て、少しずつ病と向き合うということができるようになっていく」

 僕の父親なんて、そこまでに一年以上かかったと、川口さんはわざと呆れたように笑った。

「あまりにも聞き分けがいいというか、そういうところが心配に思えることもあって……」

 僕は、胡桃の日記を思い返していた。

 あそこには、彼女の悲しみや絶望、嘆きが綴られていた。胡桃は決して、最初からすんなりと病を受け入れたわけじゃない。苦しみ、もがき、だけど自分を見失うことだけはしたくなかったのかもしれない。「仕方がない」と何度も言い聞かせることで、どうにか自分の中で折り合いをつけたのだ。
 だからこそあの日記の言葉には、常に諦めの色が滲んでいたのだ。

「胡桃は胡桃のやり方で、病気と向き合っているんだと思います」

 うん、と川口さんは、自分を納得させるように頷いた。それから缶コーヒーをぐいっと煽る。

「胡桃は絶対、大丈夫ですよ。川口さんのような相談相手もいるし。なによりも、僕たちがいますから」

 ──このときの僕は、本気でそう思っていた。思い込んでいたのだ。

 だから気付くことができなかった。小さな体で受け止めきれないほどの運命を背負った彼女が、ギリギリのところでどうにか立っていたことに。

 卒業式をあと二日後に控えた日、胡桃は入院することになった。