素直になる、ということはどうしてこんなにも難しいのだろう。叔父さんの言葉を聞いて、嬉しくないわけがなかった。だけどそれをそのまま受け入れるほどの余裕と成熟さが、今の僕には足りなかったのだと思う。
「ほんと、自分が嫌になるな……」
どうしてこんな自分なんだろう。なんでこれほど弱いんだろう。まっすぐに生きることができないんだろう。
どうしようもなく、幼い自分。胡桃に「葉は変わった」と言われたけれど、まだまだだ。家庭環境という部分で僕はまだ、なにとも向き合うことなんてできていない。
「……胡桃、なにしてるかな」
こんなとき、彼女の声が聞きたくなる。コロコロと楽しそうに笑う彼女と、なんでもない話をしたい。ただただ声を聞きたい。
そう思ったときには、手が勝手に動いていた。三コール鳴らして出なかったらすぐに切ろう。
海沿いの道を歩きながら、スマホを耳にあてる。
プルルルル。
勢いでかけたけど、なにを話そう。
プルルルル。
いやいや今は夕飯時だし、出ないに決まっている。
プルルルル。
いいんだ、繋がらない方が。弱いところは見せたくないし、きっとすごく心配するし。
『──もしもしっ!』
切ろうとした瞬間、胡桃の声が受話器で弾む。よほど慌てていたのだろうか、その勢いに僕は小さく笑ってしまう。この状況でも笑える自分がいることに、僕は内心驚いていた。いや、それが胡桃のパワーなのかもしれない。
「葉だけど。ごめん、忙しかった?」
自分がどんな暗闇にいたとしても、世の中はいつも通りに動いている。胡桃の声にはそのことを教えてくれる力があって、家を出てから入りっぱなしになっていた肩の力がふっと抜ける。
胡桃は「ううん!」と言いながらもなにやらバタバタとしている。後ろで家族がなにかを言っているのが聞こえたが彼女はそれには答えず、やがてその背後は静かになった。
「ごめんね、ちょっと慌ただしくなっちゃって」
「いや、平気だよ」
うん、と頷いた胡桃の応答に、僕は言葉が出なくなってしまっていた。理由はよくわからない。ただ、彼女がこの電波の向こうにいてくれるというだけで、胸がいっぱいになっていたのだ。
「……葉? なにかあった?」
彼女の声に、真綿のようなやわらかさが含まれる。
「……自分のこと、よくわかんなくてさ」
いつから自分のことが、こんなにもわからなくなったんだろう。嬉しいことに嬉しいと言えず、悲しいことや怒りは偽物の笑顔で包むようになって。ひたすらに明るく振る舞い、深く考えることにストップをかけて。
そうやって生きてきたらここに来て、本当の自分というものがわからなくなってしまった。
「本当は別に、働きたいわけじゃないんだ。だからといって、大学で学びたいことがあるわけでもない」
どんな大人になりたいかなんてわからないし、ただひたすらに与えられた毎日を消化するだけ。
僕が見つけた唯一の居場所である仲間たちとの関係だって、これから形は変わっていく。それでいい。変わらないものだってあると、僕はちゃんと理解している。
それでもどこかで、自分だけが取り残されていくような不安感を抱えていたのも事実だった。
「僕はさ、自分があの家を出ることがみんなにとって一番いいと思ってきたんだよ……。僕が自立すれば、経済的にも精神的にも落ち着くんだ。鈴だってこれからやりたいことや欲しいものが増えていく。そんなときに、少しでも恩返しできるようにと思って今から貯金をしてる。僕はあの家族の邪魔をしたくないだけなんだ」
「お父さんとお母さんが、そう言ったの?」
静かな胡桃の言葉に、僕はゆっくりとかぶりを振る。そんなことをあの人たちは絶対言わない。そして多分、思ってもいない。
「あのふたりはそんなこと言わないよ。本当に優しい人たちだから」
「葉は本当に、ご両親のことが大好きで、たいせつなんだね」
胡桃の優しい声に、僕はゆっくりと顔を上げる。ジャリ、と小さく砕けた貝殻がスニーカーの下で音を立てた。
〝両親〟のことが、〝大好き〟で〝大切〟。
「葉の言っていることって、全部家族のことを想っての言葉だもん。お父さんとお母さんにこれ以上負担をかけたくない。鈴ちゃんがやりたいことができるようにしてあげたい。家族みんなに、幸せでいてほしい」
こうして客観的に自分の気持ちが言葉になるというのは、とても不思議な感じがした。自分で考えるといつだって『でも』とか『だけど』がついてしまう。そんなものを全て取っ払ったら、これほどにシンプルな想いが残るのだろうか。
「前に葉が、自分の両親は本当の親じゃない、って言ってたけど。そんなことはないんじゃないかな」
なんでだろう。一から十までを彼女に話したわけではないのに、胡桃の言葉は僕の中に渦巻いていた正体不明の固い岩を柔らかく包んでいく。きっと僕が叔父さんに抱きしめられたあの日から積み重ねてきてしまった、ひねくれた恩や愛情の、あるべき姿を思い出させてくれるように。
「葉たちはもう、ずうっと前から、本当の家族なんだよ」
受話器から流れ込んだその言葉に、潮風がぶわりと空へと舞い上がる。パチパチパチッと砂が僕の脛に当たっては流れていった。
そのとき、遠くから僕の名前を呼ぶ誰かの声が聞こえた気がした。
「言葉にしなくちゃ伝わらないことが、いっぱいあるよ」
受話器を耳に押し当てて、ゆっくりと振り返る。暗い暗い向こう側から、誰かがこちらへ走ってくるのが見えた。
「だからちゃんと、言ってあげてね。葉の本当の気持ちを」
やたらと綺麗なフォームでこちらへと近づいてくるその人は、やっぱり僕の名前を呼びながら腕を振る。割とどんくさいところがあるから、勝手に運動音痴なのだとばかり思い込んでいたのに。
「胡桃、ありがとう」
気付けば僕は、笑っていた。彼女に「またあとで連絡する」と告げ、通話終了のボタンをタップする。それから全力疾走してくる、ある人の到着を待った。
「葉くんっ‼」
ずっと一緒に暮らしてきたのに、こんなに綺麗なフォームで、しかもこれほどに速く走れるだなんて。僕はずっと、知らなかったよ。
目に見える部分でも知らないことがあるんだから、言葉にしていない心のうちなんて、きっともっと、知らないことばかりなんだ。
知るべきことも、伝えるべきことも、僕たち家族にはたくさんある。。
「走るのめちゃくちゃ速いじゃん、──〝お母さん”」
僕のものか、それともお母さんのものなのか。もしかしたら、ふたりのものだったのかもしれない。胸が震える音がした。
◇
「胡桃と莉桜、ちゃんと浴衣で来てくれるかなぁ」
スースーとする足元が落ち着かなくて何度かその場で足踏みすると、拓実に「トイレ?」なんて言われてしまった。違う。そうじゃない。
僕らは今日、浴衣を着ている。僕は濃紺の浴衣で、拓実はカサカサの木の幹のような──なんて言ったらどつかれたけどその例えが一番ぴったりくる──ベージュ色の浴衣だ。先週末、ふたりで買いに行った今日のための勝負服である。
「ついに、この日がやって来た……」
八月一週目の日曜日、この街の夏祭り。僕にとっては胡桃の運命を大きく変える、大事な日だ。
朝から緊張していた僕は、なにかと理由をつけながら何度も胡桃に電話をかけた。胡桃はそのつど「どうしたの?」と笑いながらも電話に出てくれて、そのたびに僕は深呼吸をしなければならなかった。
「誰も体調崩したりしなくて、よかったよな。夏祭り、すっげー楽しみにしてたもんな」
そんな拓実の言葉は、たしかに事実だ。しかしそれと同時に、絶対に彼女を守らなければという緊迫感が僕の中にはずっとあった。
前回の夏、あの事故が起きたのは午後七時のことだった。その時間にバスに乗ってさえいなければ、胡桃が事故に巻き込まれるのを阻止することができる。
現在、午後六時。このままいけば、七時になったとき、僕たちは夏祭りの出店を見てまわっているはずだ。
「おまたせーっ!」
ガチャリと、後ろで玄関扉が開く音がした。いつもならば、中間地点で待ち合わせをする僕ら。だけど今日に限っては、僕の強い申し出により胡桃の家まで迎えに行くことにしていた。
莉桜も今日は、胡桃のお母さんに浴衣の着付けをしてもらうとのこと。そういうわけで僕たちは、ふたりの登場を待っていたというわけだ。
「ふたりともちゃんと浴衣着てき──」
勢い良く振り返った僕は、思わず言葉を飲み込んでしまう。目の前に立つふたりがあまりにも、綺麗だったからだ。
落ち着いた藤色に小さな花びらがあしらわれた浴衣をまとった莉桜は、おろしたままの黒髪に凛とした赤い牡丹の花飾りを挿していて、唇にもそれと同じ種類の紅を引いていた。いつもの姿よりも、ぐんと大人っぽく見える。
隣にいる拓実も、まじまじと莉桜の姿を眺めている。
「あの、葉……。どう、かな?」
そして恥じらいながらこちらを見上げる胡桃は、可憐さと美しさを兼ね備えていた。白を貴重とした浴衣には大柄の椿の花が水彩画のように開いており、アクセントとなるように深い色が挿し色として使われている。
薄茶色の髪の毛はふんわりと後側にまとめられていて、形の良い唇にはほんのりとしたピンク色がのせられていた。
「いや、そのなんていうか……」
普段はあまり目に飛び込んでくることのない細いうなじだとか、耳の後ろからの後れ毛だとか、袖から除く華奢な手首だとか。そういうもの全てが、胡桃は女の子であるということを僕にひしひしと感じさせる。
「……かわいい」
ぼそりとこぼれ落ちた本音に、胡桃が弾かれたように顔をあげる。それから一気に顔を赤くした。
「あっ、うん……! 似合ってる! いいじゃん! 莉桜も胡桃も、すごくいい!」
慌てて明るい声を出した僕は、ふたりに向かった親指をたてて褒め称える。胡桃はパタパタと両手を顔の前で扇いでいた。
ポンポン、ピーピー、ヒュルリラリー。シャランシャランと響く鈴の音と、「せいっ、やっさぁー!」という掛け声と。この空間全体が、ほんわりとしたオレンジ色で包まれる。
「たこ焼き食べたい!」
「お好み焼きも食いたい!」
「かき氷も!」
「ベビーカステラは外せないだろ!」
胡桃と僕は、食べたいもので大忙し。ところせましと立ち並ぶ屋台を覗き込んでは、「あれがいい、これがいい」とひとしきり騒いでから購入する。それを拓実と莉桜はちょっと離れたところで見守っている。
簡単に言えば、僕たちが食べ物調達係で、拓実たちが食べる場所を取る係、みたいな感じだ。
「たこ焼きは葉のおごりでーす!」
両手にプラスチックのパックや、イカ焼きの乗った紙皿を持った僕たちは、境内の脇に座っているふたりの元へと戻った。
「お前ら、買いすぎじゃねーの?」
呆れたような表情の拓実にたこ焼きパックを手渡した胡桃は、「まだまだ! 勝負はこれからだから!」と息巻いている。
「胡桃、お祭りのために朝からなにも食べてないんだって」
莉桜が暴露すれば、胡桃はなぜか得意げに胸を反らせた。
「だってだって、おいしいものいっぱい食べたいもん! 後悔ないように毎日を生きないと!」
そんな大げさなことを言う胡桃がおかしくて、僕たちは笑った。
胡桃はきっと僕と同じくらいに、このお祭りを楽しみにしていてくれたんだ。おいしいものを食べてお腹を満たしたら、今度は金魚すくいや射的や型抜きでもして子供のように思い切り遊ぼう。
本来ならば、僕たちが行くことのできなかった夏祭り。あのとき時間を戻さなければ、この瞬間は永遠に訪れなかった。そう思うとなおさらに、いまこの幸せな空間をめいっぱい楽しまなければと思えてくる。
「あ、お箸が一膳足りないね。さっきのたこ焼き屋さんで、わたしもうひとつもらってくる!」
そう言ってくるりとこちらへ背中を向けた胡桃は、タタッと三歩ほどいったところで足を止めた。それから不安げにこちらを振り返る。
「あのさ……、どのたこ焼き屋さんだったっけ」
境内の中に出しているたこ焼き屋はひとつしかない。今僕たちが食べようとしているものはすべて、この神社の境内の中で買ったものだ。それでもこの祭り自体にはたこ焼き屋はたくさん出店しているため、迷ってしまったのかもしれない。
「僕も行くよ。拓実と莉桜は、先に食べてて」
そうして僕たちは再び、露天の立ち並ぶ光の通路へと向かったのだ。
「祭りの店ってさ、どれも同じに見えるよな」
どこか申し訳なさそうにしている胡桃に向かって、僕は言葉を投げかける。似たような店が立ち並ぶ中でどこだかわからなくなるだなんて、別に大した話ではない。それなのに胡桃は、必要以上にそのことに不安がっているようにも見えた。
「でも、買ったお店なんだから普通わかるじゃん」
「さっき、一度にいろんなものを買ったからだよ」
そうかなぁ……、とため息をつく胡桃。そのとき、人の波に彼女が半歩流された。伸ばした僕の手が、華奢な指先をきゅっと掴む。そこに灯る、確かな熱。彼女の体温が指先からこちら側へと流れ込んでくるようで。汗ばんだ手のひらを気付かれないよう、指先だけを、だけどしっかり、彼女のそれに僕は絡めた。
ドクンドクンと心臓が大きく揺れて、賑やかな祭りの雑踏がどこか遠くにも感じられる。ちらりと彼女の表情を盗み見れば、同じようにちらりとこちらを見上げた茶色い瞳と視線が絡む。きゅっと胸の奥底が切ない音を上げ、僕はきゅっと唇を噛んだ。そして汗ばむ手も気にせずに、しっかりと胡桃の手を握りしめた。小さくて柔らかな、あたたかい手のひらを。
「胡桃」
「……なぁに」
楽しそうな笑顔に、拗ねたような膨れ面。あんず飴のじゃんけんに挑む真剣な表情に、眉を下げた申し訳なさそうな顔。
ころころと表情を変えるその姿を見るたびに、消えたはずの過去のことを──、僕のことをわからず、申し訳なさそうに眉を下げた彼女の姿が瞼に浮かぶ。
「今日の浴衣姿、すごくかわいい。世界で一番、かわいくて綺麗だと思う」
素直になる。思ったことを照れずにちゃんと、まっすぐ伝える。心の中で思っているだけじゃ、想いが伝わることはない。
胡桃が、教えてくれたこと。
「──葉も、浴衣似合ってるよ」
頬をピンク色に染め上げた胡桃は、瞳をうるませながらゆっくりと微笑む。嬉しそうに、幸せそうに、この瞬間を噛みしめるように。
ポンポン、ピーピー、ヒュルリラリー。シャランシャランと響く鈴の音と、「せいっ、やっさぁー!」という掛け声と。
ある夏の、祭りの夜。祀られている漁師を守る神様は、僕らのこともきっと守ってくれるのだろう。記憶の海で溺れぬように。果てない人生という名の青に、自分を見失ってしまわないように。
午後七時。ドォーンと頭上で、光の花が大きく開いた。
「石倉葉! 全身全霊をかけて今日から勉強しまっす!」
去年の運動会で使った白いハチマキを頭に結んだ僕は、朝の教室で声高らかに宣言する。
高校最後の夏休みが終わり、新学期が始まった。徐々に秋めいてくるという例年の流れを無視して、新学期と同時に訪れた突然の秋。夏休み最終日までは暑くてしかたなかったのに、翌日にはガクッと気温が下降した。
「お、心境の変化?」
スマホ片手に、椅子にもたれるようにして座る拓実の言葉に、僕は鼻歌交じりに答える。
「うん。親のためにもね」
陸上部でインカレ出場経験を持つ叔母──いや、母との約束だ。
あの夜以来、僕は叔父さんのことを「お父さん」、叔母さんのことを「お母さん」と呼ぶようになった。正直照れくささもあるけれど、ふたりがあまりに嬉しそうにしているので今更戻すわけにもいかない。
それまで遠慮をしていたのは、僕も両親も同じだったみたいだ。少しずつ、だけど確実に、僕たちは本音で向き合うことができるようになっている。
「母親がさ、大学には進んでほしいって言うからさ。やりたいことがないなら、大学に行って色々なものを見てほしい、って」
そのときにしか感じられないことや見られない景色が必ずあるから、と、母は真剣な顔をして言っていた。それから、寂しくなるからできれば家にいてほしい、とも。
「本当、近くにいても気付かないことってあるものだよな」
全部、胡桃の言う通りだった。一緒に住んでいたとしても、言葉にしなくちゃ伝わらないことはいっぱいあった。そしてまだまだ、言葉にできていないこともたくさんある。一気には無理でも、少しずつそれを伝えていけばいいのだろう。
「俺てっきり、葉ははやく大人になりたいから働く道を選んだのかと思ってた」
「働くのが大人になることだ、って考えが短絡的だったって気付いたんだよ」
「そんなまともなこと言うの、葉らしくないな」
教室に入ってきた胡桃と莉桜に、「葉がおかしくなったぞー」と拓実が声をかけて、僕がそれに「おい‼」とつっこむ。ケラケラと笑う胡桃と莉桜。
僕は今日、みんなが揃うのを心待ちにしていた。
「あのさ、ちょっとみんなに提案したいことがあるんだけど」
二学期が始まって、僕たちの生活はより一層受験に向けたものとなるだろう。放課後に海沿いの広場でいつまでもしゃべったり、休みの日になんとなく集まったり、そういう時間も少なくなっていくはずだ。
四人で過ごすこの日々のタイムリミットは、あと少し。
「卒業式の日、みんなで朝日を見ないか?」
当たり前の毎日にも終わりがあることに、僕たちは気付いている。その最後が卒業の日であるということも。
だからこそ僕はその日の始まりを、三人と一緒に迎えたかった。この先ずっと、それぞれの心に残る瞬間を切り取りたかったのだ。
「朝日……」
「みんなで、ね……」
彼らは顔を見合わせると、一様になぜか照れくさそうな表情を浮かべる。ザ・青春っぽい感じがするのかもしれない。だけどなんかいいじゃないか。節目の日に、大事な仲間で朝日が昇る瞬間を迎えるなんて。
「うん、すごくいいと思う」
最初に答えたのは、やっぱり胡桃だった。
「約束!」と小指を立てる彼女に、僕は自分のそれを絡める。そこに莉桜が重なって、最後に拓実が加わった。
僕たちはこれから徐々に大人になる。それに伴い関係だってきっと少しずつ変わっていく。だけど今のこの時間が、僕らの過ごすかけがえのない時間が、永遠にみんなの心に残るように。
◇
ゆっくりと、だけど確かに時計の針は進んでいった。
それぞれが、それぞれの将来のために時間を費やす。放課後、莉桜と胡桃はすぐに予備校へ向かい、僕は図書室での自習、もしくはバイトに向かう。拓実はと言えば、ずいぶんと距離を縮めた戸塚ちゃんと町の図書館で勉強したりしていて、僕たちはバラバラで過ごすことが増えた。
「毎日よくがんばるね」
「頑張ろうって思わせてくれる周りがいるからさ」
高野さんは毎日のように、僕の自習を見てくれている。
「バイトも続けてるんでしょ?」
「週に二日だけ。一応さ、できることは自分でやれるようにはしておきたいから」
大学とはいっても、偏差値は実にさまざま。ずっと勉強をしてこなかった僕にとっては一流大学なんてお門違いで、地元の私立大学を第一志望にすることにしている。強い想いや目的がない場合、身の丈に合った選択をするということも時には重要だ。
高野さんはそんな僕のことを「大人になりつつあるねぇ」と目を細めて笑っていた。
「胡桃、大丈夫かな」
「さっきメッセージしといたけど、既読つかないんだよね」
「熱、まだ高いままなのかな」
教室から見えるイチョウの木から、はらりと黄色い葉が落ちる。制服にグレーのカーディガンを羽織った莉桜は、ここ数日空席となっている胡桃の机をじっと見つめた。
『ちょっと早いインフルエンザにかかっちゃった』
胡桃からスマホを通して、そんな連絡が入ったのは今から二週間ほど前のこと。まだ流行時期ではないものの、インフルエンザは一年を通して発症するものらしい。
受験シーズンに重ならなくてラッキーじゃん、と僕はジョークで返した。そのくらいの気持ちだった。
「それにしても二週間休みっていうのは、あまりにも長いよな」
拓実の言葉に、僕と莉桜は同意を込めて顎を引く。胡桃はいまだに、登校はおろか、スマホのグループメッセージにさえ参加をしてこなかった。
僕らの言葉に三日に一度、『大丈夫だよ!』と返事を寄越すだけで、それ以外の反応はない。個人的に電話をしてももちろん出ないし、メッセージの返事もなかった。そしてそれは僕だけでなく、拓実や莉桜に対しても同じだったのだ。
「プリントを渡しに家へ行ったときも、胡桃には会えなかったしね……」
「あのときの胡桃のお母さん、愛想笑いしていたように見えたよな」
同じクラスにいて、連絡先はわかっていて、住んでいる家も知っている。それなのに、会うことができない。顔を見ることもできない。こんな状況は彼女に出会ってから初めてのことで、僕は言いようのない不安を抱えていた。
小柄で華奢な胡桃だったが、身体が弱いというような話は聞いたことがない。むしろ健康そのものという印象だったのに。
「ちょっと今日、帰りにもう一度胡桃の家に寄ってみる」
「お願い。わたし今日、予備校で」
「俺もバイト、入ってる」
放課後の時間を合わせることすら、以前のようにはいかなくなった僕たちだけど、それでも心の距離感はそれまでと変わっていない。
もしも何かがあったとしても、必ずみんながいてくれる。
いつしか芽生えた安心感は、僕のことを支えていた。胡桃も同じように、感じてくれていればいい。
「僕にできることなら、なんでもやりたいんだ」
連続で学校を休むと、登校しづらくなるというのも聞いたことがある。それでも胡桃が安心して学校へ来られるひとつの要素に、僕たちの存在がなれればいい。
「じゃあこれで、牛乳プリン買ってってあげて」
チャリン。莉桜が僕に小銭を手渡す。
「これも渡しといて。胡桃読みたがってたから」
トン。拓実が人気コミックの最新刊を机に置く。
こういうのが、とてもいいと思う。顔を見ることだとか、会いに行くことだとか、そういうのがすべてじゃない。みんなそれぞれの生活があって、やらなきゃいけないこともあって。その中でも、僕たちの心の中にはみんながちゃんと存在しているんだ。
放課後、胡桃の家を訪れた僕を迎え入れてくれたのは、優しそうなおばあちゃんだった。
「同じ高校の同じクラス? お友達なのかいね? ほぉー、葉くんっていうの。あらあ〜ばあちゃんてっきり、胡桃ちゃんの彼氏なんかと思ったよぅ〜」
おばあちゃんはそう言いながら、トポトポと急須でお茶を入れる。
胡桃は現在、ちょっと出かけているとのこと。庭掃除をしていたおばあちゃんは縁側に僕を招き入れ、おもてなししてくれているというわけだ。
「羊羹は好きかいね? いただきものが、あるんのよぅ」
僕がいま座っているこの場所は、厳密に言えば胡桃の暮らしている家ではない。同じ敷地内に新しい一軒家と、昔ながらの日本家屋が並んでいる。今僕がいるのは、おばあちゃんが暮らしているという立派な瓦屋根の家だ。広い庭の向こうには、うっすらと海が見えた。
胡桃が、〝おばあちゃんと一緒に暮らしているようなもの〟と言っていたのは、こういうことだったようだ。
「ちょうど、お腹すいてた!」
素直にそう返すと、おばあちゃんはニコニコと顔にしわをたくさん作りながら笑う。どこか北海道のばーちゃんに似ていて、僕は懐かしさを覚える。
ときおり向けられる柔らかな視線は、胡桃のそれと同じあたたかさがあった。
「はい、どんぞ」
木の茶托と一緒に手渡されたお茶は深みのある緑色。そこにぷかりと浮かぶ柱を僕は見つけた。
「あ、茶柱! おばあちゃん、茶柱立ってる!」
茶柱なんて初めて見た。若干興奮気味に湯呑を向ければ、おばあちゃんは「おやまあ」と目を丸くしてから顔をしわくちゃにして笑う。
「ばあちゃんも久しぶりに茶柱なんて見たよぅー。葉くんが来てくれたからだねぇ」
以前、胡桃からおばあちゃんは色々なことがわからなくなっていると聞いた。だけどこうして接していると、それも勘違いなのではないかと思えてくる。
だっておばあちゃんはとてもしっかりしていて、僕だって会話をしていて楽しいくらいなのだ。
歳を重ねれば物忘れをしていくことも増えるだろう。色々とわからなくなる、というのは家族だからこそ気にしすぎてしまう部分なのではないかと、僕はそんなことを感じていた。
「胡桃ちゃんはねぇ、小さい頃は本当にお転婆な女の子でねぇ」
おばあちゃんは先程から、胡桃の現在の様子については話してこない。小さい頃はあの庭の木に登っていただとか、胡桃ちゃんは蝋梅の花が大好きでねだとか、幼い頃の話ばかり。つまり、今の胡桃の状態について特に話すことはないということだ。
なんだ、僕たちが心配するほど体調を悪化させているというわけではなさそうだ。大体、出かけることができるのだから、大丈夫なのだろう。
僕は小さく胸を撫で下ろした。
「それにしても、本当に立派なおうちだ」
僕がぐるりと見回すと、おばあちゃんは「古い家だよぅ」と嬉しそうに笑う。
畳張りの居間に使い込んだ立派な座卓。和ダンスの上にはかわいらしいこけしが三体並んでいて、その隣にいくつかの写真立てが飾ってあった。ちょっと距離があるからよく見えないけれど、きっと家族のものだろう。その奥には綺麗に掃除された仏壇が置かれていた。
「あれ……」
そのとき、足元でチリンと小さな鈴が鳴ったのだ。視線を落とすと、そこにいたのは海沿いの広場に住み着いていたあの猫。
「ミイ子や、こっちおいで。にぼしあげるからねぇ」
おばあちゃんの声に、猫がトトトッとこちらへと走り寄る。
僕が時間を遡ったあの雨の日、胡桃は子猫を家に連れ帰ったと話していた。猫嫌いのお父さんは大丈夫か、僕は何度か尋ねていたのだが、彼女はいつも笑顔で「問題ないよ」と答えていた。
胡桃の〝家〟はふたつある。両親と暮らす家と、同じ敷地内にあるおばあちゃんの家。猫はおばあちゃんの家で暮らしているようだ。それも、愛情をたっぷりと受けながら。
「ほらほら、えーっとなんだっけ。とにかくほら、これをあげていいからねぇ」
おばあちゃんは僕の名前を忘れてしまったらしい。にこにこと差し出されたニボシの袋を受け取った僕は、そっと上半身を倒して猫の鼻先へと人差し指を近付けた。猫と人間の挨拶になると、前に胡桃から教えてもらったのだ。
「ところで今日は、あそこの松を切りに来てくれたんだっけねぇ。そうそう、ついでにたまったゴミを燃しちゃおうと思ってるんだけど、植木屋さん、手伝ってくれるかいね?」
クンクンと鼻先を鳴らしていたミイ子は、僕を思い出したのか、今度はすりすりと手全体に身を寄せる。背中を何度か撫でてやってからにぼしをやれば、ミイ子は喜んでそれをかじった。
──おばあちゃんは、僕が誰であるかを忘れてしまったのだ。つい十分前までは、僕のことを胡桃の友達であるとわかっていたはずなのに。
「……そうか。そういうことなのか」
思わず落ちてしまう、小さなつぶやき。胸の奥はきゅっと小さく萎んだままだ。
忘れられていくというのは、自分が自分でなくなることのようにも感じられた。おばあちゃんが悪いわけじゃない。だけどおばあちゃんを蝕む病は、おばあちゃん本人だけではなく周りの人々をも追い詰めていくのだ。
胡桃はいつも、どんな気持ちでおばあちゃんと接してきたのだろう。
「よっこらしょ、っと。もうばあちゃんねぇ、年寄りだからだめだねぇ」
古新聞や雑誌のようなものをどこからか出してきたおばあちゃん。よたよたと運ぶおばあちゃんに駆け寄った僕は、両手でそれを受け取った。
「これを、庭で燃やせばいい?」
「そうそう。あそこにね、焼却炉があるでしょう? ぽーんっと投げて、ボッと燃しちゃっていいからねぇ」
昔ながらの日本家屋。その庭の端には、小さな焼却炉が置いてある。昔は可燃ごみを自宅で焼却することもあったのだと、社会科の授業で聞いたことがあった。
「植木屋さんにこんなことまでお願いしちゃうの、悪いんだけどねぇ」
「いえいえ、喜んでお手伝いさせてもらいます!」
にこりと笑顔を向けると、切ない気持ちが込み上げてしまう。どうして人の記憶というものは、こんな風にあやふやになってしまうものなのだろうか。
マッチマッチ、と部屋の奥へと向かったおばあちゃんの丸い背中を見送った僕は、隣に積み上げられた雑誌類をぱらりとめくる。おばあちゃんが昔作ったのだろうか、赤ちゃんの編み物というタイトルのものから料理本まで、古い雑誌が数冊重ねられていた。
色あせた紙の束たち。その中に僕は、鮮やかなブルーの背表紙を見つけて思わず手を伸ばしたのだ。
「うわ、懐かしいな……。なんだ、胡桃が持ってたのか」
それは、僕がどうしてもと三人を巻き込んで始めた交換ノート。とは言っても一周もせず、そのノートはどこに行ったのかわからなくなっていたのだ。
まだ、ほんの数か月前のことだ。それなのになぜか無性に懐かしくなり、僕はそのノートを開いた。一番最初のページは僕だ。わざわざひとりひとりの名前を呼んで、熱いメッセージが綴ってある。
「こうして見ると、僕って本当に思い込みが激しくて、暑苦しいやつだな……」
読み返すのを辟易してしまうものの、どこか微笑ましくも思ってしまう。
次のページは莉桜。彼女らしい綺麗な文字で日付が書いてあって、あとはりんごの模写。なぜりんご? たださすがは美術部員、とてもうまい。僕じゃこんな風には絶対描けない。
そしてページを開く。胡桃の番だ。
『交換ノートなんて小学生ぶりに書くよ。えっと……なにを書いたらいいのかなぁ。今日の夕ご飯はおばあちゃん特製カレーでした!』
くすりと小さく笑ってしまう。戸惑いながらも一生懸命書いている姿が浮かんだからだ。しかしそのページはその一行で終わっている。僕はぺらりと次のページを開いた。
『ちょっと聞きたいことがあるんだけど……。みんなは、自分がどこになにを置いたか忘れることってある? 一度や二度じゃなくて、頻繁に』
僕の眉間には、ゆっくりと力が入っていく。かろうじて読み取れるその一文は、ぐるぐるとボールペンで消すようにされている。僕は次のページに目を移した。
『今日一瞬、おばあちゃんがわたしのことを忘れていた。わたしのことを見て「志保ちゃんのお友達?」って。志保ちゃんって、お母さんのこと。おばあちゃん、本当にわからないのかな』
もう誰にも渡すことはないと決めたのか、そこからの言葉は全て、僕らへ向けてのものではなくなっていた。そう、これは〝胡桃の日記〟だったのだ。
『みんな、ちゃんと進路を考えていてすごい。わたしはどうなんだろう。まだあのことが解決していないのに、本当に大学なんて目指してもいいのかな』
『歴史のテストの結果が散々だった。必死に勉強したはずなのに、頭の中が真っ白になった。もしかしてこれも、症状のひとつなのかな。先生には考えすぎないでって言われたけど、色々考えてしまう』
『みんなの前でも、わからなくなってしまった。たこ焼き屋なんて、境内の中にひとつしかなかったのに。みんな変に思ったよね。どうして思い出せないんだろう。簡単なことなのに、どうしてわからなくなっちゃうんだろう。記憶障害が起こる病気は、遺伝することもあるらしい。怖い』
日付は特に記されてはいない。だけどこれが夏祭りのときのことだろうということは察しがついた。
あのとき、たこ焼きを買った出店の場所がわからないと、胡桃は不安そうな表情を浮かべていた。その背景には、彼女のこの想いがあったのだ。
「記憶障害……? 病気って……」
僕はなにかに取り憑かれるようにそのノートのページをめくった。そこに書かれていたのは、漠然とした彼女の不安感。そして、僕らとの日々が彼女にとってどれほどにかけがえのないものであるかということ。その想いが強くなればなるほどに、比例して大きくなっていく恐怖心が書かれていた。
ドクドクと心臓に血液が集中していくのがわかる。酸素が薄くなったように感じ、僕は浅い呼吸を繰り返した。
胡桃は心配性だ。起きてもいないことを危惧して、わからない未来を案じて、最悪の事態を想定して必要以上に不安になったりする。
「他人のことなら、ドーンと背中を押すだけの大胆さがあるのに……」
なぜか、自分のことには妙に慎重だった。きっと胡桃は、考え過ぎだ。もっと気楽に生きていいのに。できれば僕が、この不安を取り除いてあげたい。
――ペリ。ページをめくろうとしたときに、それまでの捲る感覚とは違うものが指先に伝わった。紙自体が張り付いているような、硬さを持っていたのだ。
「……涙?」
ぎゅんとした焦燥感が身体を包む。心はそのページを捲りたくないと拒否反応を示したが、僕は大きく深呼吸をしてそれを無視した。破いてしまわぬよう、ゆっくりと。そのページをめくったのだ。
『十代でこの病気を発症する人なんて、世界的にもほとんどいないらしい。限りなく0に近い確率に、どうしてわたしが入ってしまったんだろう。やっぱり運命は、変わらないみたい』
僕は何度も、その文章を目でなぞった。何度も、何度も。
病気を発症? わたしが入ってしまった? それはつまり、胡桃が、記憶障害が起こる病気だと診断されたということか?
ぐるぐると目が回る。いや、なにかの間違いに決まっている。このあとだって、日記が書かれた形跡はある。きっとこのあと、その間違いが訂正されるに違いない。
ぐっと奥歯を強く噛みしめ、僕はまたページを捲る。指先が震えていることには、気が付かないふりをして。
『本当に忘れちゃうのかな。こんなに毎日ちゃんと生きてるのに、いろんな思い出がたくさんあるのに、全部本当に忘れるの? なんで? どうして忘れるの? お父さんのこともお母さんのこともおばあちゃんのことも、わからなくなるの? 葉に拓実に莉桜のことも? こんなにずっと一緒にいるのに? あんなにたくさん楽しいことがあったのに? 忘れろって言われても無理なのに、本当にいつか全部消えるの?』
『病院に行った。まだ本当に初期の段階だからそんなに気落ちしないでって先生から言われて、叫びだしそうだった。初期だろうがなんだろうが、病気なのは確かなのに。わたしだって知ってる。この病気は、完治することがないっていうことも』
『全部夢だったらいいのに。夜もいつ眠ってるんだか、いつ起きてるんだかよくわかんない。なにも考えたくない』
『今日葉から、みんなで夏祭りに行ったときの写真が送られてきた。あのときは楽しかった。空気がキラキラしてて、青春って感じで。葉が家まで送ってくれて、すごく嬉しかった。一生忘れないだろうなって思った。だけど忘れるのかな。この瞬間にも、わたしの脳の細胞は、どんどん壊れていってるのかな。
本当に? やだよ、忘れたくない。忘れたくない。忘れたくない忘れたくない忘れたくない忘れたくない』
──胡桃はひとり、闘っていた。
特効薬があって感知する可能性の高い、インフルエンザじゃなかった。今の医療では治すことは難しい──限りなく不可能に近いと言われている病と、胡桃は対峙していたのだ。
「……なにかの、間違いだよな」
わなわなと唇が震えてしまう。
間違いだと思いたい。間違いだと信じたい。
だけどこの日記から伝わってくるのは、胡桃のどうしようもない絶望と心の叫びだ。
「だって僕は……胡桃を事故から救ったじゃないか……記憶を失った彼女の過去は、僕が塗り替えたはずじゃないか……」
胡桃は過去に一度、事故によって記憶を失っている。だけど僕が時間を戻して、それを阻止した。
あの時点で胡桃が記憶を失うという運命は変わったはずなのだ。だからきっとこれもなにかの間違いで──。
「うーさーぎーおーいし、かーのーやーまー」
トントントン、という包丁の音と共に、おばあちゃんの歌声。次いで、お出汁のやさしい香りが奥から風にのってやって来た。
おばあちゃんはもう、ゴミを燃やすことからは意識が離れていったようだ。僕がここにいることも、もしかしたら忘れてしまったかもしれない。
そこでふと、日記に書かれた言葉が思い出された。
──遺伝性の病気。
しわくちゃに笑うおばあちゃんの顔と、不安そうに瞳を揺らした胡桃の顔がぼんやりと重なった。
「運命は、変わってなんかいなかったのか……?」
中田胡桃は、いつか必ず記憶を失う。
それが、彼女の運命だというのだろうか──。
「……葉?」
ずっと聞きたかった、恋しかったはずの声が、僕の鼓膜をゆるやかに震わせた。
「胡桃……」
庭に植えられた松の木の先端に、傘の閉じた松ぼっくりがいくつもついている。その木の前、胡桃は立ち尽くすようにしてこちらを見ていた。
たった二週間。それなのに僕の目の前にいる彼女は、一回り小さくなったように感じられる。
「ああ、それ見ちゃったんだね」
しかし、彼女から発されたのはあまりにもあっさりとした、そんな一言だった。
「ごめんね、心配かけて」
僕の手元に視線を落とした彼女は、申し訳なさそうに、だけど笑った。その表情自体は、僕の知る彼女のものと変わらなくて、そのことは僕を混乱させる。
だって僕が今見た日記の中で、彼女は悲痛な心のうちを嘆き叫んでいた。笑うことなんて忘れてしまったように、ただただ悲しみと戸惑いが書かれていたのに。
どうしてそんな風に、笑うことができるのか。
「読んだ通り、記憶障害の病気になっちゃったんだ。でもね、本当幸いなことに初期も初期で。今すぐにどうこうってわけじゃないから」
「だけど……」
「最初はすごく落ち込んだんだけどね、なんとなく、こんな日が来るんじゃないかなーって思ってたところもあって。だから今はもう、大丈夫」
僕らが学校で普通の生活を送っていた間、彼女なひとりで苦しんでいたのだ。
「どうして何も、言ってくれなかったんだよ……」
そんなの、本当はわかっている。きっと胡桃は、僕たちに心配をかけたくなかったんだ。気を遣わせるのが嫌で、周りの目が変わるのが怖くて、外の世界にいる僕たちに打ち明けることなんてできなかった。胡桃の優しさが、そうさせたのだ。
それでも話してほしかったと思ってしまうのは、完全なる僕のエゴだ。
頼ってほしかった、ひとりで苦しまないでほしかった。
「──これは、わたしが自分と向き合わないといけない問題だったから」
だけど胡桃は、凛とした表情でそう言った。
ころんと足元でミイ子が腹を出して寝転がる。胡桃はその場にしゃがむと、慈しむような表情でそのお腹を撫でてやった。
つられるように、僕もその場にゆっくりと屈みこむ。
「ずっとね、不安要素としてわたしの中にあったことなの。昔から忘れ物が多かったり、うっかりすることが多くて。おばあちゃんの付き添いで病院に行くこともあったから、そこで物忘れ外来の看護師さんやボランティアのカウンセラーさんとも仲良くなってね。いろいろ相談したりしてたんだ」
診察にしては遅い時間帯に、病院帰りだとコンビニに寄った胡桃を思い出す。なるほど、彼女はおばあちゃんの診察以外でも、狭間病院に足を運ぶ機会が多かったのかもしれない。
「もう何年も前から、いつ爆発するかわからない爆弾を抱えているような気持ちだった。だから心の準備もできていたし、本当に大丈夫。専門的に相談できる人たちもいるし。それに今の医療って進歩がすごくて、もしかしたらわたしが大人になる頃には、治療法が見つかっている可能性もあるんだよ」
ゴロゴロと、ミイ子は気持ちよさそうに喉を鳴らす。
「それにね──。人に与えられた運命は、何度やり直したって変えることはできないの」
〝何度やり直したって〟という言葉に、僕は反射的に顔を上げた。
過去をやり直すことで、未来は変わった。過去をやり直すことで、僕らの夏は取り戻された。それを知っているのは、僕だけのはず。
「まさか──」
胡桃も、僕と一緒に二度目の夏を生きていた?
思い返してみれば、不自然なことがいくつもあった。
まず、戸塚ちゃんと拓実のコンビニでのやりとりを、胡桃が知っていたこと。
外から見えた、なんて言っていたけれど、拓実の表情までもが窓の外から見えていたとは考えにくい。
胡桃の、『葉、変わったね』という言葉だってそうだ。過去の僕と、今の僕を見てきた彼女だからこそ、その変化に気付いてくれた。
さらには僕が両親とぶつかり家を出たとき。
『前に葉が、自分の両親は本当の親じゃないって言ってたけど。そんなことはないんじゃないかな?』
どうしてあのときに気付けなかったのか。
僕が叔父夫婦と暮らしていると打ち明けたのは、一度目のときだけだ。〝二度目の夏を生きる胡桃〟は、そのことを知るはずがない。
そして、今彼女から放たれた〝何度やり直したって〟という言葉。
「胡桃。もしかして、胡桃も僕と同じで──」
「わたしには葉たちがいてくれるから、大丈夫だよ」
真意を尋ねようとした僕の言葉を、胡桃の明るい声が柔らかく遮った。
「葉がいつも笑っていてくれるから、わたしもちゃんと前を向こうと思えた。なんで、とか、どうして、とか。そういうことを考えるのはやめたの」
胡桃は自分が、過去に記憶を失ったことを知っていた。もしかしたら夏祭りのあとだって、再び記憶を失うことを恐れながら過ごしてきたのかもしれない。
僕が感じていた『胡桃の心配性』には、きちんとその理由があったのだ。
それなのに僕は、何も気付けなかった。彼女が全てを知った上で、〝今〟を生きているということに。
「ねえ葉、笑ってよ」
奥歯が擦れる鈍い音に、胡桃の穏やかな声が重なる。
「葉のおかげで、わたしはこんなに強くなれた。葉がわたしたちの手を離さずにいてくれたから、四人の絆だってこんなに確かなものになったの」
胡桃の透き通った目はまっすぐに、僕のことを射抜いた。そこには、強い意志が込められている。
「だから絶対に、〝何もできなかった〟なんて、思ったりしないでね」
胡桃には適わない。
彼女はなんでも、お見通しだ。
僕は、細く長い息を吐き出すと、胡桃の視線をまっすぐに受け止めた。
こんな彼女を前に、僕がいつまでも下を向いているわけにはいかない。僕が励まされている場合ではないんだ。
──やっぱり、胡桃は強い。本当に強くて、誰よりも優しい女の子だ。だから僕も、強くなりたい。強くなろう。
「四人で一緒に、卒業しよう」
声が震えぬようみぞおちに力を入れてそう言えば、彼女の顔には、満面の笑顔が咲いたのだった。
バチバチと大粒の雨が僕の頬を打つ。かろうじて灰色を残した黒い空は、ごうごうとすごい音を立てながら無数の雨を降らせていた。うねりを上げる濃紺の海は、一度吞まれたら二度と海面へは戻さないという意志すら感じさせる。
そんな豪雨の中、僕はひたすらに猫を探していた。どこかにいるはずの、小さな命。助けなければならない、大事なもの。しかしその姿はどこにもない。
ふと雨があがり、濁った灰色から一筋の光が差し込む。照らされた海面は、闇と光の間を行き来するようにきらきらと光を放つ。ふと後ろを振り向くと、少し離れたところに誰かが立っているのが見えた。それは──。
ハッと目を開けると、見慣れた天井が僕のことを見下ろしている。
「またこの夢……」
手の甲で額を拭うと、じとりと汗が滲んでいる。胡桃と最後に会ってから、毎晩のようにこの夢を見ている。見覚えがあるような景色なのに、思い出そうとするとずきんずきんと頭が痛くなるのだ。
「……よしっ、起きよう! ただの夢ただの夢!」
バシッと両手で頬を叩き、僕は勢いよく起き上がった。今日は、胡桃が久しぶりに登校する日なのだ。
「わ、みんな来てくれたの?」
かちゃりと開いた玄関から現れた胡桃は、僕たち三人の姿を見ると目を丸くした。
「おはよー胡桃! 待ってたよ」
「おはよ、よく眠れた?」
いつも通りに彼女を迎え入れる莉桜と拓実に、胡桃は嬉しそうな表情を見せる。とことこと小走りにこちらへやって来た胡桃は「みんなおはよう」とはにかんだ。
今日という日を迎えるまでに、一週間弱がかかった。胡桃は莉桜と拓実を呼び出し病気のことを打ち明け、それからやはり学校へ向かうには心の準備が必要だったのか、数日の空白期間を経て、今日を再出発の日と決めた。
「胡桃、予備校やめたの?」
「うん。とりあえずは、きちんと卒業できることを目標にしようと思って。その先のことは、また考える」
胡桃が休んでいる間にも、当然のことながら授業は進んでいた。この空白分は、僕と高野さんが放課後の図書室で埋めることになっている。
「そういえば、担任から保健室登校でもいいって電話きたんだって?」
「うん。いろいろと配慮してくれたみたいでね。だけどわたしは、みんなと一緒に教室で授業を受けたいって言ったんだ」
胡桃の病気のことは、教職員と僕ら以外は知らされていない。それでも長く休んでいた胡桃が教室に入ることを決めたのは、勇気がいったことだろうと思う。
「僕たちだって同じ気持ちだよ。胡桃のいない教室は、なんだか変な感じがしたんだ。酸素が多すぎるっていうか」
僕が軽口を叩いてみれば、胡桃が「そんなに酸素使ってませんー!」といつもの膨れ面を復活させ、僕らはみんなで笑った。
穏やかな毎日が、戻ってきていた。胡桃の現在の病状は初期段階。何度も同じことを質問したり、財布がどこにあるかわからなくなり、もしかしたら盗まれたのかもしれないと不安がることもあった。今までの胡桃と同じように元気に登校するときもあれば、体調不良で学校に来られない日もある。
それでも僕たちは、毎朝胡桃の家まで彼女を迎えに行き、休んだ日には放課後に顔を見に行く。登校した日の放課後は図書室で一緒に勉強し、自宅まで送り届ける。そんなルーティンができあがっていた。
「このまま行けば、卒業日数も大丈夫そうだな」
放課後の図書室、スマホのカレンダーで数えながら僕が言えば、胡桃はやったーと両手を天井へと突き上げる。よかった、これで約束通り、四人揃って卒業することができそうだ。
ちなみに放課後での図書室勉強会では、胡桃は授業の予習復習、僕は第一志望の大学の過去問題を解いている。疑問点があるときに答えてくれるのが、高野さんだ。驚くことに高野さんはどんな教科でも知識が深く、それでいて教えるのもうまかった。教師にならなかったのが惜しいくらいだ。
「四月からは、みんな大学生かぁ……」
そんな胡桃の小さな独り言は、カキーンという野球部の音と共に、窓の向こうへと吸い込まれていく。
こういう音を聞くことも、残り少なくなってきているのだろう。
「わたしも。こんな青春っぽい音とも、あと少しでお別れだわー」
自分の心を読み上げられたのかと思った。しかし司書席の高野さんは、こちらなど見ずに窓の方へと顔を向けているだけだ
「お別れ……?」
胡桃が首を傾げると、高野さんはこちらを向いて、コキコキと首を鳴らす。
「わたしも石倉たちと一緒。三月でここを卒業して、実家に戻るの」
息をするように話された事実に、僕たちは驚きを隠せなかった。
適当にやっているようで、高野さんは本をとても愛していたし、司書という仕事にも誇りを持ってやっていた。その仕事をやめ、嫌だと言っていた旅館の仕事をするというのだ。
僕たちの顔を交互に見た高野さんは、「なあにその顔」と吹き出した。どうやら同じような表情をしていたみたいだ。
「自分がやりたいことと、大事にしなくちゃいけないもの。ずっと迷っててさ」
それは今まで語られることのなかった、高野さんの本音の部分。今までの高野さんの言動から、やりたいことは司書の仕事で、大事にしなくちゃいけないものというのが家族や旅館だということはなんとなくわかった。
「自分の人生なんだから自分の思うように生きるんだー!って思ってたのよ、ずっと。だけど歳を重ねていくとさぁ、それはそれでいろいろなことが見えてきちゃうわけ」
例えばお父さんの頭ってこんなに白かったっけ、とか。
お母さんの背って、こんなに小さかったっけ、とか。
お客さん全然いないけどやってけてるのかな、とか。
お父さんとお母さんが引退したら、ここで働いてる人たちどうすんのかな、とか。
「ちょっと顔見るだけのつもりで帰ったら、他のものまで見えちゃって。やんなっちゃうよ」
お盆期間中、高野さんは文句を言いながらも実家に帰省していた。手土産にと買ってきてくれた温泉まんじゅうはとてもおいしくて、胡桃がおかわりをしていたくらいだ。きっとその帰省の中、色々と感じる部分があったのかもしれない。
「いつだって自分のために生きていたい、わたしの人生だし。でもね、まあ色々、世の中には仕方がないことも多い」
それでもその道を選んだのは、他でもない高野さん本人だ。
どうして大人になると、仕事をひとつにしか絞れないのだろう。学校では数学や国語、化学に美術など、たくさんのことを学ばされるのに。
学校の先生なら先生、旅館の女将なら女将、司書なら司書。それ以外の仕事は許しません。ひとつのことを極めてこそプロフェッショナルです!という風潮が、大人の世界にはある。
「とりあえずは旅館立て直して、黒字になったら速攻で図書室作る。そしたらみんなで勉強合宿しに来てもいいよ?っていうか、それいい。塾とか学校向けに勉強合宿プランも提案しようか。あれだな、富裕層の集まる学校とか塾をターゲットにして──」
突然手元のノートに、カリカリとペンを走らせる高野さん。僕と胡桃は相変わらず、その思考回路と行動についていけず、ぽかんと見ているだけだ。
「高野さん、司書やめるんじゃないの……?」
僕の言葉に、高野さんは「はい?」と眉をひそめた。
「旅館も大事だし、本に関わって生きてく人生も捨てらんない。女将なんだから司書はやっちゃいけないなんて、そんなのナンセンスでしょ」
高野さんは立ち上がり、つかつかとこちら側へと歩み寄った。そして僕の向かいに座る胡桃の真横で立ち止まったのだ。
「だからね、中田。行きたいなら、大学に行けばいいんだよ」
カシャンと、胡桃の手からシャープペンシルが落ちた。
「ちょっと、高野さんっ……」
思わず口を挟んだ僕を、高野さんは「いいから」と制した。
高野さんだって、胡桃の病気のことは知っている。進行を遅らせることはできても、完治するのが難しい病気だということも、物事を忘れていってしまう病気だということも。
「大学って、頭がいい人が行くところじゃない。学びたい人が行くところなんだから、中田に学びたいって意欲があるなら行けばいい。病気だから大学は行っちゃいけないなんて、そんなことありえないんだよ」
高野さんの言葉は当然のことで、だけどそのことを忘れていた僕は、目から鱗が落ちるような心持だった。しかし当の胡桃としては、「それじゃあ行きます」だなんて簡単に思えないだろうことも容易に想像がついた。
「学んだところで忘れちゃうし……」
「わたしだって、大学で勉強したことなんてザルみたいに流れてっちゃったよ」
「でも……試験だってうまくできるかわからないし……」
「色々な大学があるし、受験のスタイルも様々でしょ。自己推薦とかもあるんだし、いいじゃん受けてみたら」
「それでもやっぱり、病気のこともあるし……。入学しても大学側に迷惑をかけちゃうかもしれないし……」
「誰にでも平等に、学ぶ権利がある。楽しむ権利も、遊ぶ権利も、今をめいっぱい生きる権利も」
高野さんはピシャリと放った。
「いいじゃない。いつか忘れてしまう可能性がありますが、学びたい意欲は誰よりも強いです!って、胸を張ればいい。中田にしかできないことが、中田だからできることが、絶対にあるから」
今年間に合わないなら、また来年チャレンジすればいい。とことん付き合うよと、高野さんはそう言った。
純粋に、僕は心を打たれていた。
僕は知らずのうちに、胡桃の状況を「病気だから仕方がない」と思ってしまっていた。そうすることが、彼女に寄り添うことだと勘違いしていた。胡桃が大学受験をやめたことも、やりたがっていた卒業式の合唱の演奏を諦めたことも、仕方がないことだと受け入れてしまっていた。だけど、本当はそうじゃない。
「高野さん……、ありがとう……」
胡桃はそう言うと、きゅっと口元を結んで天井を見上げた。ふるふると瞳の表面で涙が揺れる。高野さんの言葉は、胡桃にもきちんと響いたのだ。
やっぱり高野さんは、ちゃんと大人なんだ。物事を広い視野で見て、こうだからこう、という固定観念を外すことのできるひと。
「高野さんって、すごいな」
僕がそう言うと、そこで高野さんはこちらをまっすぐに見つめ、顔を崩した。
「石倉たちが教えてくれたんだよ。今という瞬間を精一杯に生きて、楽しんで。泣いて笑って怒ってさ。石倉は、奇跡は〝起こす〟ものだって言ったけど、わたしはそう思わない。奇跡って、きっと本当はそこに〝ある〟ものなんだよ」
──奇跡は、〝起こす〟ものじゃない。
──奇跡は、〝気付けばそこにある〟もの。
「わたしにとっての奇跡は、石倉たちと出会えたこと」
思わぬ言葉に、僕は大きく目を見開く。
学校において、大人と生徒の関係というのは、基本的に教える側と教わる側に分けられる。高野さんは教師ではないけれど、それでも僕らに多くのことを教えてくれる。そんな高野さんが、僕たちとの出会いを奇跡だと言ってくれるなんて。
僕もこんな大人になりたい。願わくば、胡桃と拓実と莉桜と一緒に──素敵な大人になっていきたい。そう思えることさえも、奇跡と呼んでもいいのだろうか。
◇
結局、胡桃は色々と大学の資料を取り寄せたりはしたものの、受験はしなかった。
莉桜は第一志望の医学部に一発合格。拓実は第一希望の私立大学に、そして僕も同じ大学への入学切符を手に入れた。今度はお前と腐れ縁かよ、なんて言われたけれど顔が笑っていたのがなによりの真実だ。
「なんか、あっという間だったよなぁ」
コンビニのカウンターで横並びになり、拓実がそう口にした。店内にいる客は、若い男性がひとりと、スーツ姿の女性ひとりだ。
「卒業式まで、あと一週間か」
時間が過ぎるのは、本当にはやい。ついこの間、みんなで夏祭りに行ったと思っていたのに、気付けば寒い冬も終わりを告げようとしている。
「石倉くーん、休憩入って~」
裏から店長に声をかけられ、僕は「はーい」と返事をする。と、目の前にコトンと缶コーヒーがふたつ置かれた。
この会計を終えたら、休憩に入ればいい。
「もしかして、〝葉くん〟かな?」
突然見知らぬ声に呼ばれた僕が顔をあげれば、そこには物腰のやわらかそうな男性が立っていた。出で立ちを見るに、僕らより三、四歳年上だろうか。ベージュのジャケットを着たその人は、首から下げた写真付きの身分証をこちらに見せた。
〝川口昌“と書かれたそれは、狭間病院のスタッフが常に身に着けているものだった。そこで僕は、この人は胡桃と関わりのある人だろうと悟ったのだ。
「少し、話せるかな?」
休憩時間に入る、ということはさきほどの店長の声でばれてしまっている。戸惑いながらも、僕はその言葉にうなずくしかなかった。
数分後、川口さんと僕は、コンビニの裏側に回った。ここは従業員用の喫煙スペースになっていて、灰皿とパイプ椅子がふたつ置かれている。僕はそのうちのひとつを川口さんに勧め、自分も腰を下ろした。
「改めて自己紹介させてもらうね。大学院に通う傍ら、狭間病院でカウンセラー見習いとしてボランティアをしている、川口です」
ブラウンのニットに黒いズボン姿の川口さんは、人の良さそうな笑顔を向けた。そして先ほど購入した缶コーヒーをひとつ、こちらに差し出す。
「胡桃ちゃんと色々話すことも多くて。その中で、葉くんの話がよく出てきてたんだ。それで、一度話してみたいなと思って」
胡桃が僕の話をしていた。そのことは、こんな状況でもやはり嬉しく感じてしまう。彼女にとって自分が、それなりに意味がある存在であると感じられたからだ。
僕はお礼を言って缶コーヒーを受け取った。ぷしゅりとプルタブを引くと、苦い香りが鼻先をかすめていく。
「胡桃ちゃんのこと、石倉くんもショックだったと思う。だけど彼女は本当に強くてね……。葛藤しながらも、比較的すんなりと状況を受け入れたから、僕らも驚いたよ」
病院で過ごしていれば、様々な状況の患者さんと出会うだろう。自分の病と様々な方法で闘い、乗り越えてきた人々を見ることも、少なくはなかったはずだ。
そんな川口さんの目から見ても、やはり胡桃は〝本当に強い“女の子なのだ。
「普通は病気であることを受け入れられないことがほとんどなんだ。なにかの間違いじゃないかとか、自暴自棄になったり無気力になったり。そういう段階を経て、少しずつ病と向き合うということができるようになっていく」
僕の父親なんて、そこまでに一年以上かかったと、川口さんはわざと呆れたように笑った。
「あまりにも聞き分けがいいというか、そういうところが心配に思えることもあって……」
僕は、胡桃の日記を思い返していた。
あそこには、彼女の悲しみや絶望、嘆きが綴られていた。胡桃は決して、最初からすんなりと病を受け入れたわけじゃない。苦しみ、もがき、だけど自分を見失うことだけはしたくなかったのかもしれない。「仕方がない」と何度も言い聞かせることで、どうにか自分の中で折り合いをつけたのだ。
だからこそあの日記の言葉には、常に諦めの色が滲んでいたのだ。
「胡桃は胡桃のやり方で、病気と向き合っているんだと思います」
うん、と川口さんは、自分を納得させるように頷いた。それから缶コーヒーをぐいっと煽る。
「胡桃は絶対、大丈夫ですよ。川口さんのような相談相手もいるし。なによりも、僕たちがいますから」
──このときの僕は、本気でそう思っていた。思い込んでいたのだ。
だから気付くことができなかった。小さな体で受け止めきれないほどの運命を背負った彼女が、ギリギリのところでどうにか立っていたことに。
卒業式をあと二日後に控えた日、胡桃は入院することになった。