◇
ゆっくりと、だけど確かに時計の針は進んでいった。
それぞれが、それぞれの将来のために時間を費やす。放課後、莉桜と胡桃はすぐに予備校へ向かい、僕は図書室での自習、もしくはバイトに向かう。拓実はと言えば、ずいぶんと距離を縮めた戸塚ちゃんと町の図書館で勉強したりしていて、僕たちはバラバラで過ごすことが増えた。
「毎日よくがんばるね」
「頑張ろうって思わせてくれる周りがいるからさ」
高野さんは毎日のように、僕の自習を見てくれている。
「バイトも続けてるんでしょ?」
「週に二日だけ。一応さ、できることは自分でやれるようにはしておきたいから」
大学とはいっても、偏差値は実にさまざま。ずっと勉強をしてこなかった僕にとっては一流大学なんてお門違いで、地元の私立大学を第一志望にすることにしている。強い想いや目的がない場合、身の丈に合った選択をするということも時には重要だ。
高野さんはそんな僕のことを「大人になりつつあるねぇ」と目を細めて笑っていた。
「胡桃、大丈夫かな」
「さっきメッセージしといたけど、既読つかないんだよね」
「熱、まだ高いままなのかな」
教室から見えるイチョウの木から、はらりと黄色い葉が落ちる。制服にグレーのカーディガンを羽織った莉桜は、ここ数日空席となっている胡桃の机をじっと見つめた。
『ちょっと早いインフルエンザにかかっちゃった』
胡桃からスマホを通して、そんな連絡が入ったのは今から二週間ほど前のこと。まだ流行時期ではないものの、インフルエンザは一年を通して発症するものらしい。
受験シーズンに重ならなくてラッキーじゃん、と僕はジョークで返した。そのくらいの気持ちだった。
「それにしても二週間休みっていうのは、あまりにも長いよな」
拓実の言葉に、僕と莉桜は同意を込めて顎を引く。胡桃はいまだに、登校はおろか、スマホのグループメッセージにさえ参加をしてこなかった。
僕らの言葉に三日に一度、『大丈夫だよ!』と返事を寄越すだけで、それ以外の反応はない。個人的に電話をしてももちろん出ないし、メッセージの返事もなかった。そしてそれは僕だけでなく、拓実や莉桜に対しても同じだったのだ。
「プリントを渡しに家へ行ったときも、胡桃には会えなかったしね……」
「あのときの胡桃のお母さん、愛想笑いしていたように見えたよな」
同じクラスにいて、連絡先はわかっていて、住んでいる家も知っている。それなのに、会うことができない。顔を見ることもできない。こんな状況は彼女に出会ってから初めてのことで、僕は言いようのない不安を抱えていた。
小柄で華奢な胡桃だったが、身体が弱いというような話は聞いたことがない。むしろ健康そのものという印象だったのに。
「ちょっと今日、帰りにもう一度胡桃の家に寄ってみる」
「お願い。わたし今日、予備校で」
「俺もバイト、入ってる」
放課後の時間を合わせることすら、以前のようにはいかなくなった僕たちだけど、それでも心の距離感はそれまでと変わっていない。
もしも何かがあったとしても、必ずみんながいてくれる。
いつしか芽生えた安心感は、僕のことを支えていた。胡桃も同じように、感じてくれていればいい。
「僕にできることなら、なんでもやりたいんだ」
連続で学校を休むと、登校しづらくなるというのも聞いたことがある。それでも胡桃が安心して学校へ来られるひとつの要素に、僕たちの存在がなれればいい。
「じゃあこれで、牛乳プリン買ってってあげて」
チャリン。莉桜が僕に小銭を手渡す。
「これも渡しといて。胡桃読みたがってたから」
トン。拓実が人気コミックの最新刊を机に置く。
こういうのが、とてもいいと思う。顔を見ることだとか、会いに行くことだとか、そういうのがすべてじゃない。みんなそれぞれの生活があって、やらなきゃいけないこともあって。その中でも、僕たちの心の中にはみんながちゃんと存在しているんだ。