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「胡桃と莉桜、ちゃんと浴衣で来てくれるかなぁ」
スースーとする足元が落ち着かなくて何度かその場で足踏みすると、拓実に「トイレ?」なんて言われてしまった。違う。そうじゃない。
僕らは今日、浴衣を着ている。僕は濃紺の浴衣で、拓実はカサカサの木の幹のような──なんて言ったらどつかれたけどその例えが一番ぴったりくる──ベージュ色の浴衣だ。先週末、ふたりで買いに行った今日のための勝負服である。
「ついに、この日がやって来た……」
八月一週目の日曜日、この街の夏祭り。僕にとっては胡桃の運命を大きく変える、大事な日だ。
朝から緊張していた僕は、なにかと理由をつけながら何度も胡桃に電話をかけた。胡桃はそのつど「どうしたの?」と笑いながらも電話に出てくれて、そのたびに僕は深呼吸をしなければならなかった。
「誰も体調崩したりしなくて、よかったよな。夏祭り、すっげー楽しみにしてたもんな」
そんな拓実の言葉は、たしかに事実だ。しかしそれと同時に、絶対に彼女を守らなければという緊迫感が僕の中にはずっとあった。
前回の夏、あの事故が起きたのは午後七時のことだった。その時間にバスに乗ってさえいなければ、胡桃が事故に巻き込まれるのを阻止することができる。
現在、午後六時。このままいけば、七時になったとき、僕たちは夏祭りの出店を見てまわっているはずだ。
「おまたせーっ!」
ガチャリと、後ろで玄関扉が開く音がした。いつもならば、中間地点で待ち合わせをする僕ら。だけど今日に限っては、僕の強い申し出により胡桃の家まで迎えに行くことにしていた。
莉桜も今日は、胡桃のお母さんに浴衣の着付けをしてもらうとのこと。そういうわけで僕たちは、ふたりの登場を待っていたというわけだ。
「ふたりともちゃんと浴衣着てき──」
勢い良く振り返った僕は、思わず言葉を飲み込んでしまう。目の前に立つふたりがあまりにも、綺麗だったからだ。
落ち着いた藤色に小さな花びらがあしらわれた浴衣をまとった莉桜は、おろしたままの黒髪に凛とした赤い牡丹の花飾りを挿していて、唇にもそれと同じ種類の紅を引いていた。いつもの姿よりも、ぐんと大人っぽく見える。
隣にいる拓実も、まじまじと莉桜の姿を眺めている。
「あの、葉……。どう、かな?」
そして恥じらいながらこちらを見上げる胡桃は、可憐さと美しさを兼ね備えていた。白を貴重とした浴衣には大柄の椿の花が水彩画のように開いており、アクセントとなるように深い色が挿し色として使われている。
薄茶色の髪の毛はふんわりと後側にまとめられていて、形の良い唇にはほんのりとしたピンク色がのせられていた。
「いや、そのなんていうか……」
普段はあまり目に飛び込んでくることのない細いうなじだとか、耳の後ろからの後れ毛だとか、袖から除く華奢な手首だとか。そういうもの全てが、胡桃は女の子であるということを僕にひしひしと感じさせる。
「……かわいい」
ぼそりとこぼれ落ちた本音に、胡桃が弾かれたように顔をあげる。それから一気に顔を赤くした。
「あっ、うん……! 似合ってる! いいじゃん! 莉桜も胡桃も、すごくいい!」
慌てて明るい声を出した僕は、ふたりに向かった親指をたてて褒め称える。胡桃はパタパタと両手を顔の前で扇いでいた。
ポンポン、ピーピー、ヒュルリラリー。シャランシャランと響く鈴の音と、「せいっ、やっさぁー!」という掛け声と。この空間全体が、ほんわりとしたオレンジ色で包まれる。
「たこ焼き食べたい!」
「お好み焼きも食いたい!」
「かき氷も!」
「ベビーカステラは外せないだろ!」
胡桃と僕は、食べたいもので大忙し。ところせましと立ち並ぶ屋台を覗き込んでは、「あれがいい、これがいい」とひとしきり騒いでから購入する。それを拓実と莉桜はちょっと離れたところで見守っている。
簡単に言えば、僕たちが食べ物調達係で、拓実たちが食べる場所を取る係、みたいな感じだ。
「たこ焼きは葉のおごりでーす!」
両手にプラスチックのパックや、イカ焼きの乗った紙皿を持った僕たちは、境内の脇に座っているふたりの元へと戻った。
「お前ら、買いすぎじゃねーの?」
呆れたような表情の拓実にたこ焼きパックを手渡した胡桃は、「まだまだ! 勝負はこれからだから!」と息巻いている。
「胡桃、お祭りのために朝からなにも食べてないんだって」
莉桜が暴露すれば、胡桃はなぜか得意げに胸を反らせた。
「だってだって、おいしいものいっぱい食べたいもん! 後悔ないように毎日を生きないと!」
そんな大げさなことを言う胡桃がおかしくて、僕たちは笑った。
胡桃はきっと僕と同じくらいに、このお祭りを楽しみにしていてくれたんだ。おいしいものを食べてお腹を満たしたら、今度は金魚すくいや射的や型抜きでもして子供のように思い切り遊ぼう。
本来ならば、僕たちが行くことのできなかった夏祭り。あのとき時間を戻さなければ、この瞬間は永遠に訪れなかった。そう思うとなおさらに、いまこの幸せな空間をめいっぱい楽しまなければと思えてくる。
「あ、お箸が一膳足りないね。さっきのたこ焼き屋さんで、わたしもうひとつもらってくる!」
そう言ってくるりとこちらへ背中を向けた胡桃は、タタッと三歩ほどいったところで足を止めた。それから不安げにこちらを振り返る。
「あのさ……、どのたこ焼き屋さんだったっけ」
境内の中に出しているたこ焼き屋はひとつしかない。今僕たちが食べようとしているものはすべて、この神社の境内の中で買ったものだ。それでもこの祭り自体にはたこ焼き屋はたくさん出店しているため、迷ってしまったのかもしれない。
「僕も行くよ。拓実と莉桜は、先に食べてて」
そうして僕たちは再び、露天の立ち並ぶ光の通路へと向かったのだ。
「祭りの店ってさ、どれも同じに見えるよな」
どこか申し訳なさそうにしている胡桃に向かって、僕は言葉を投げかける。似たような店が立ち並ぶ中でどこだかわからなくなるだなんて、別に大した話ではない。それなのに胡桃は、必要以上にそのことに不安がっているようにも見えた。
「でも、買ったお店なんだから普通わかるじゃん」
「さっき、一度にいろんなものを買ったからだよ」
そうかなぁ……、とため息をつく胡桃。そのとき、人の波に彼女が半歩流された。伸ばした僕の手が、華奢な指先をきゅっと掴む。そこに灯る、確かな熱。彼女の体温が指先からこちら側へと流れ込んでくるようで。汗ばんだ手のひらを気付かれないよう、指先だけを、だけどしっかり、彼女のそれに僕は絡めた。
ドクンドクンと心臓が大きく揺れて、賑やかな祭りの雑踏がどこか遠くにも感じられる。ちらりと彼女の表情を盗み見れば、同じようにちらりとこちらを見上げた茶色い瞳と視線が絡む。きゅっと胸の奥底が切ない音を上げ、僕はきゅっと唇を噛んだ。そして汗ばむ手も気にせずに、しっかりと胡桃の手を握りしめた。小さくて柔らかな、あたたかい手のひらを。
「胡桃」
「……なぁに」
楽しそうな笑顔に、拗ねたような膨れ面。あんず飴のじゃんけんに挑む真剣な表情に、眉を下げた申し訳なさそうな顔。
ころころと表情を変えるその姿を見るたびに、消えたはずの過去のことを──、僕のことをわからず、申し訳なさそうに眉を下げた彼女の姿が瞼に浮かぶ。
「今日の浴衣姿、すごくかわいい。世界で一番、かわいくて綺麗だと思う」
素直になる。思ったことを照れずにちゃんと、まっすぐ伝える。心の中で思っているだけじゃ、想いが伝わることはない。
胡桃が、教えてくれたこと。
「──葉も、浴衣似合ってるよ」
頬をピンク色に染め上げた胡桃は、瞳をうるませながらゆっくりと微笑む。嬉しそうに、幸せそうに、この瞬間を噛みしめるように。
ポンポン、ピーピー、ヒュルリラリー。シャランシャランと響く鈴の音と、「せいっ、やっさぁー!」という掛け声と。
ある夏の、祭りの夜。祀られている漁師を守る神様は、僕らのこともきっと守ってくれるのだろう。記憶の海で溺れぬように。果てない人生という名の青に、自分を見失ってしまわないように。
午後七時。ドォーンと頭上で、光の花が大きく開いた。