素直になる、ということはどうしてこんなにも難しいのだろう。叔父さんの言葉を聞いて、嬉しくないわけがなかった。だけどそれをそのまま受け入れるほどの余裕と成熟さが、今の僕には足りなかったのだと思う。

「ほんと、自分が嫌になるな……」

 どうしてこんな自分なんだろう。なんでこれほど弱いんだろう。まっすぐに生きることができないんだろう。
 どうしようもなく、幼い自分。胡桃に「葉は変わった」と言われたけれど、まだまだだ。家庭環境という部分で僕はまだ、なにとも向き合うことなんてできていない。

「……胡桃、なにしてるかな」

 こんなとき、彼女の声が聞きたくなる。コロコロと楽しそうに笑う彼女と、なんでもない話をしたい。ただただ声を聞きたい。

 そう思ったときには、手が勝手に動いていた。三コール鳴らして出なかったらすぐに切ろう。
 海沿いの道を歩きながら、スマホを耳にあてる。

 プルルルル。
 勢いでかけたけど、なにを話そう。

 プルルルル。
 いやいや今は夕飯時だし、出ないに決まっている。

 プルルルル。
 いいんだ、繋がらない方が。弱いところは見せたくないし、きっとすごく心配するし。

『──もしもしっ!』

 切ろうとした瞬間、胡桃の声が受話器で弾む。よほど慌てていたのだろうか、その勢いに僕は小さく笑ってしまう。この状況でも笑える自分がいることに、僕は内心驚いていた。いや、それが胡桃のパワーなのかもしれない。

「葉だけど。ごめん、忙しかった?」

 自分がどんな暗闇にいたとしても、世の中はいつも通りに動いている。胡桃の声にはそのことを教えてくれる力があって、家を出てから入りっぱなしになっていた肩の力がふっと抜ける。

 胡桃は「ううん!」と言いながらもなにやらバタバタとしている。後ろで家族がなにかを言っているのが聞こえたが彼女はそれには答えず、やがてその背後は静かになった。

「ごめんね、ちょっと慌ただしくなっちゃって」
「いや、平気だよ」

 うん、と頷いた胡桃の応答に、僕は言葉が出なくなってしまっていた。理由はよくわからない。ただ、彼女がこの電波の向こうにいてくれるというだけで、胸がいっぱいになっていたのだ。

「……葉? なにかあった?」

 彼女の声に、真綿のようなやわらかさが含まれる。

「……自分のこと、よくわかんなくてさ」

 いつから自分のことが、こんなにもわからなくなったんだろう。嬉しいことに嬉しいと言えず、悲しいことや怒りは偽物の笑顔で包むようになって。ひたすらに明るく振る舞い、深く考えることにストップをかけて。

 そうやって生きてきたらここに来て、本当の自分というものがわからなくなってしまった。

「本当は別に、働きたいわけじゃないんだ。だからといって、大学で学びたいことがあるわけでもない」

 どんな大人になりたいかなんてわからないし、ただひたすらに与えられた毎日を消化するだけ。
 僕が見つけた唯一の居場所である仲間たちとの関係だって、これから形は変わっていく。それでいい。変わらないものだってあると、僕はちゃんと理解している。

 それでもどこかで、自分だけが取り残されていくような不安感を抱えていたのも事実だった。

「僕はさ、自分があの家を出ることがみんなにとって一番いいと思ってきたんだよ……。僕が自立すれば、経済的にも精神的にも落ち着くんだ。鈴だってこれからやりたいことや欲しいものが増えていく。そんなときに、少しでも恩返しできるようにと思って今から貯金をしてる。僕はあの家族の邪魔をしたくないだけなんだ」
「お父さんとお母さんが、そう言ったの?」

 静かな胡桃の言葉に、僕はゆっくりとかぶりを振る。そんなことをあの人たちは絶対言わない。そして多分、思ってもいない。

「あのふたりはそんなこと言わないよ。本当に優しい人たちだから」
「葉は本当に、ご両親のことが大好きで、たいせつなんだね」

 胡桃の優しい声に、僕はゆっくりと顔を上げる。ジャリ、と小さく砕けた貝殻がスニーカーの下で音を立てた。

 〝両親〟のことが、〝大好き〟で〝大切〟。

「葉の言っていることって、全部家族のことを想っての言葉だもん。お父さんとお母さんにこれ以上負担をかけたくない。鈴ちゃんがやりたいことができるようにしてあげたい。家族みんなに、幸せでいてほしい」

 こうして客観的に自分の気持ちが言葉になるというのは、とても不思議な感じがした。自分で考えるといつだって『でも』とか『だけど』がついてしまう。そんなものを全て取っ払ったら、これほどにシンプルな想いが残るのだろうか。

「前に葉が、自分の両親は本当の親じゃない、って言ってたけど。そんなことはないんじゃないかな」

 なんでだろう。一から十までを彼女に話したわけではないのに、胡桃の言葉は僕の中に渦巻いていた正体不明の固い岩を柔らかく包んでいく。きっと僕が叔父さんに抱きしめられたあの日から積み重ねてきてしまった、ひねくれた恩や愛情の、あるべき姿を思い出させてくれるように。

「葉たちはもう、ずうっと前から、本当の家族なんだよ」

 受話器から流れ込んだその言葉に、潮風がぶわりと空へと舞い上がる。パチパチパチッと砂が僕の脛に当たっては流れていった。

 そのとき、遠くから僕の名前を呼ぶ誰かの声が聞こえた気がした。

「言葉にしなくちゃ伝わらないことが、いっぱいあるよ」

 受話器を耳に押し当てて、ゆっくりと振り返る。暗い暗い向こう側から、誰かがこちらへ走ってくるのが見えた。

「だからちゃんと、言ってあげてね。葉の本当の気持ちを」

 やたらと綺麗なフォームでこちらへと近づいてくるその人は、やっぱり僕の名前を呼びながら腕を振る。割とどんくさいところがあるから、勝手に運動音痴なのだとばかり思い込んでいたのに。

「胡桃、ありがとう」

 気付けば僕は、笑っていた。彼女に「またあとで連絡する」と告げ、通話終了のボタンをタップする。それから全力疾走してくる、ある人の到着を待った。

「葉くんっ‼」

 ずっと一緒に暮らしてきたのに、こんなに綺麗なフォームで、しかもこれほどに速く走れるだなんて。僕はずっと、知らなかったよ。
 目に見える部分でも知らないことがあるんだから、言葉にしていない心のうちなんて、きっともっと、知らないことばかりなんだ。

 知るべきことも、伝えるべきことも、僕たち家族にはたくさんある。。

「走るのめちゃくちゃ速いじゃん、──〝お母さん”」

 僕のものか、それともお母さんのものなのか。もしかしたら、ふたりのものだったのかもしれない。胸が震える音がした。