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「ただいまー」
「おかえりなさい。バイト、今日も遅かったね」
玄関でスニーカーの紐を緩めると、パジャマ姿の叔母さんがリビングからやって来た。鈴を寝かしつけた後だろうに、わざわざ起きて待っていてくれたらしい。
いつもそうだ。僕が帰宅するとき、叔母さんは必ずここまで迎えにやって来る。出かけるときも同様だ。それが僕には、正直負担だったりもする。申し訳なく思ってしまうから。
「お夕飯、ハンバーグなの。すぐあたためるね」
キッチンへ向かう叔母さんとは反対方向の洗面所の扉を開き、「いらないよ」と声をかける。なるべく家で食事を摂りたくない僕は、大抵バイト先で済ませるようにしているのだ。
叔母さんだって、いい加減気付いているはずだ。バイトがある日、僕が夕飯を食べないということくらい。それなのに毎日毎日、必ず僕の分まで作っている。それもまた、僕にとっては負担だった。
「僕の分まで作らなくても、平気なのに……」
手洗いうがいを済ませたらリビングの扉を一旦開けて、晩酌中のおじさんに顔を見せる。部屋でカバンなど片付けをした後、風呂に入ってベッドの中へ。
これがバイトがある夜の、僕のルーティンだ。しかし、この日はその通りにはいかなかった。風呂から出た僕を、叔父さんが待ち構えていたからだ。
「なになに? こんな改まって」
いつもと違う状況に内心焦りを感じつつも、その空気を打破しようと明るく振る舞う。
四人がけのダイニングテーブル。叔父さんと叔母さんが並んで座り、僕がその向かいに座っている。
普段、この三人で食卓を囲むことはない。いや、鈴が生まれる前まではそういうことも多かった。だけど鈴が生まれ、中学に進学した僕は、部活や勉強を理由に同じ食卓につくことから徐々に遠ざかるようになっていたのだ。
「葉、最近学校はどうだ?」
地元の銀行に勤めている叔父さん。真面目で優しい人だけど、きっとそれが度を過ぎているんだと思う。いつも面倒なことばかりを押し付けられ、損を見ていると昔、叔母さんが苦笑いしながらも言っていたっけ。
そういうことも関係しているのだろうか。叔父さんは未だ何の役職にもついてはいない。
「いや、特に変わったことはないよ。毎日楽しく過ごしてるから、なんの心配もいらない」
このやりとりは、今までだって何度もしてきた。叔父さんは昔から、僕の学校での様子を尋ねるのだ。
「学校が楽しそうなのは、すごくわかるわ。高橋くんたちみたいな、素敵な友達もいるみたいだし」
一方の叔母さんは、昔はバリバリのキャリアウーマンだったらしいが、鈴の妊娠を機に退職。現在は自宅でオンラインの英語スクールなんかをやっている。詳しくは知らないけど。
「葉、大学はどうするか決めたかな」
しかしそこで、叔父さんが柔らかな雰囲気を崩さないまま本題を切り出してきた。
どんなときでも、穏やかな叔父さん。今までだって、僕は叔父さんに怒られたことがなかった。鈴のことはピシャリと怒ることもあるのに。
やっぱり血が繋がっていないと、遠慮が生まれるのだろうか。
僕の中で、ジリリと胸の奥が小さく焼ける音がした。
今まで、こんな風に感じたことはなかったのに。もしかしたら僕は、開けてはいけないパンドラの匣を、自分で開いてしまったのかもしれない。
「夏休み明けに、三者面談もあるでしょう? だからその前に葉くんの気持ちも聞いておきたいなって思って」
叔母さんの言葉に、僕は笑顔の裏で小さくため息をついた。三者面談の手紙は学校で捨てたはずなのに、どうして知っているのだろう。
大丈夫だよ、迷惑をかけたりはしないから。僕のことは放っておいてくれれば、うまくやるよ。今まで散々世話になって、迷惑をかけて、家族水入らずの時間を邪魔してさ。高校まで行かせてもらって、もう本当に十分だから。
僕は小さく深呼吸をしてから、にこやかな笑顔を見せる。
「卒業したら家を出ることにしたんだ。働いて、一人暮らしをする。だから三者面談も来なくて大丈夫だよ」
今までこの話題が出ることはなかったし、僕の意見を尊重してくれるはずだ。それに何より、僕が出ていけばみんなが楽になる。金銭的にも、精神的にも。やっと、家族水入らずで過ごすことができるようになるのだから。
「──だめ」
ピンとその場の空気が張り詰めるのがわかった。叔母さんが、低くて鋭い声を出したのだ。叔母さんが僕に対してそんな声を出したのは、初めてのことだった。
「葉くん、それはだめよ」
まっすぐに見つめられるその瞳には、なにかの想いが込められている。だけど僕にはその正体がなにか、汲み取るだけの経験がなかった。怒りなのか、悲しみなのか、体裁なのか、なんなのか。
「家を出てもいいし、進学をせずに働いてもいい。葉くんの人生だから。だけど、勝手にひとりで決めたことを、はいそうですかと許可はできません」
そんな言葉に少しの間呆気に取られていた僕だったが、次第にじわじわとみぞおちのあたりから反抗心が湧き上がってきた。
僕の人生だから好きにしていいって言っているくせに、勝手にひとりで決めたことは許可できないなんて。そんなの矛盾だ。ここまで僕がすることに何も言わなかったのに、どうして突然そんなことを言い出したのだろう。僕が出ていけば、スッキリするはずなのに。
「ねえ葉くん、ちゃんと一緒に考えようよ」
僕は普段、怒りを感じることがあまりない。とりわけ、家庭内ではそれは顕著だった。多分、恩人であるふたりに対し、そんな感情を抱くこと自体が罪だと思ってきたのだろう。
それでも今、胸の奥底に湧き上がるのは、ふつふつとした怒りだった。どうしてこんなに腹立たしいのか、その正体もよくわからない。だけど僕はその怒りを、表現する方法を知らない。ぶつける方法がわからない。
だから、とりわけ長くて細い息を口から吐き出したのだ。
「とりあえず、落ち着いてよ。叔母さん」
へらり。無理やりに口の両端を持ち上げれば、不自然ながらに笑顔は作れる。正体不明のこの感情が暴れ出しそうなのを、笑顔でぎゅっと押しつぶした。
「心配はありがたいけど、僕のことなら大丈夫だよ、バイト先でも正社員にならないかーなんて声駆けられるほどには、仕事も任されてるんだ。一応自炊もできるしさ。もちろん家賃だって自分で払うし、叔父さんと叔母さんに迷惑をかけたりはしないから」
「そういう問題じゃないの。家賃とかお金のことはどうでもいいの。大体、迷惑なんてそんなこと──」
まあまあ、と叔母さんの言葉を僕は笑顔で遮った。迷惑だなんて、叔父さんや叔母さんが口にするわけがない。そんなことはわかってる。だから僕が、あえて自分で言葉にしたんだ。
「感情的になってぶつかっても、お互いにしんどくなっちゃうだけだし。もうやめようよ」
僕たちは普通の家族じゃない。ちょっとした血の繋がりはあったって、所詮は他人だ。
こんな風に僕ひとりの存在で、叔母さんが感情を振り回されたり、叔父さんが難しい顔をしていること自体が嫌なんだ。この家族の癌に、僕はなりたくないんだ。
「家族だぞ」
ひときわ低い声が、静かに、だけど地鳴りのように響いた。
「迷惑だとか、しんどいだとか、そんなのは関係ないだろ」
ぶわ、と鼻の奥から熱いものが込みあがるのがわかる。だから僕は、両手をぎゅっと強く握ったんだ。
耐えたいと思った、せまりくる波に呑まれないようにしないと──って。
「葉は、俺たちの息子なんだから」
叔父さんの瞳を見た瞬間、様々な残像が頭の中を駆け巡る。
若くて綺麗だった母親の姿。後ろ姿と、遠ざかるハイヒールの音。きつい香水とアルコール。
幼いながらに死んじゃうのかなと思った僕を抱きしめた、叔父さんの大きな腕。初めて食べた叔母さんのカレーライスに、テレビでしか見たことのなかった遊園地。ほにゃほにゃと柔らかい生まれたての鈴を、初めて抱っこしたときのあの感じ。
押し寄せてくる波に耐えるのに必死で、僕の笑顔は歪んでしまって。
「ちょっと頭冷やしてくるわ」
どうにか、ニッと歯を見せた僕は、わざとゆったりとした足取りで家を出たのだった。