「石倉くんの家、こっちの方なの?」
「うん、この先をずーっと行ったあたり。今日はこれからバイトなんだけど」

 僕のある種の告白──友達にならない?というあれだ──に、彼女が答えることは結局なかった。手がベトベトになっていることに気付いて慌てる僕を見て、彼女はもうひと段階、その警戒を解いてくれた。
 半分体を後ろに引いたような〝構え〟の姿勢がなくなったのがその証拠。だからこそ今僕は、彼女と一緒にこの海沿いに敷かれたアスファルトを並んで歩けているわけだ。

「中田さんの家は、近く?」
「うちは、バスで十分くらい」

 最寄りのバス停までは、学校から歩いて十五分。ちょうど僕の帰路の途中にそれはある。つまり、そこまでは一緒に並びながら帰れるということだ。僕は小さく、体の脇でガッツポーズを決める。

「バイトって、何してるの?」
「コンビニだよ。同じクラスの、高橋拓実(たかはしたくみ)と一緒にやってる」

 彼女からの質問に意気揚々に答えれば、彼女は瞳を空へと少し向けてから「ああ」と頷いた。どうやら名前と顔は一致しているみたいだ。

「どうしてバイトしてるの?」
「卒業したら一人暮らししたいんだ。あと、ただ家にいてもつまんないしさ」

 彼女の方から自分のことを聞かれた僕は、気分がよくなっていた。質問をしてくれたということは、完全なる無関心というわけじゃないってことだ。

 まあ、社交辞令という可能性は捨てきれないけれども。

「中田さんは、バイトとかしてないの?」
「うん。大学生になってからかな」
「そうなんだ。兄弟とかは?」
「ううん。お父さんとお母さん。あとはおばあちゃんが、一緒に暮らしてるような感じ」
「ばーちゃんと暮らしてるの、いいな。うちのばーちゃん、北海道に住んでるからなかなか会えないよ。あとで電話してみようかな。北海道って行ったことある? 叔父さんが、北海道に行くといつも木彫りの熊買ってきてさ。だからうちには、木彫りの熊がめっちゃある。あとキーホルダーも」

 ぺらぺらとしゃべりながらポケットから家の鍵を取り出した僕は、そこでハッと口を結んだ。家の鍵と雑多につけたキーホルダーたちが、ぶつかり合ってチャリンと音を鳴らす。

 ……まずい。こんな機関銃のように一方的に話していては、新学期初日の二の舞となってしまう。

 しかし、そんなことは僕の杞憂に過ぎなかったらしい。

「わ、本当にクマだ」

 中田さんはまじまじと僕の手元を見つめると、指先でキーホルダー群の中から古い熊を見つけ出した。それから「かわいい」と小さく笑って、人差し指でその鼻先をちょんとつつく。海に夕日がきらめいて、彼女の笑顔をオレンジ色に柔く染めた。

「中田さんの方が」

 ──綺麗だ。

 という本音はすんでのところで飲み込んだ。
 こんなことを口にすれば、また彼女は警戒してしまうかもしれない。不思議そうな表情を向けた彼女に、僕は慌てて顔を背ける。

「中田さん、木彫りの熊が好きなんて、意外と渋いなぁ」

 僕はうまく、笑えているかな。
 せっかく少しだけ近づけた距離を、遠ざけるようなことはしたくないから。

「──葉、ってすごくいい名前だよね」

 不意に呼ばれた下の名前に、僕の心臓は大きく揺れた。
 周りはみんな、僕のことを葉と呼ぶ。だからそれは呼ばれ慣れているはずのものなのに。彼女の声で紡がれる自分の名前は、それまでに感じたことがないほど、強く心を震わせたのだ。

「本当は石倉くんって、ひまわりの花みたいな、ぱぁっとしたイメージだったの。ひたすらに明るくて、楽しいことが大好きで。だけど今日話してみて、名前の通り、葉っぱのような人だなって思った」

 とくりとくりと、心臓はたしかに大きく揺れ動く。

 底抜けに明るい、陽気なキャラクターである僕。悩みなんてなくて、誰とでも打ち解けることができて、いつも楽しそうと言われてきた。だけど彼女は、僕の明るさに〝なにか〟を感じ取ってくれているのだろうか。

「太陽の光をいっぱいに浴びて、誰かを元気にするための栄養分を蓄えて。日差しが痛いときには日陰を作ってくれて、雨が降ったときには傘のようになってくれて、心地よい風を送ってくれる青々とした葉っぱ。なんだか石倉くんって、そんな感じがする」

 だから石倉くんの周りには、人がたくさん集まるんだね。彼女はそう言って、ゆっくりと微笑んだ。

 一気に距離を詰め過ぎちゃいけない。
 焦ったりしちゃいけない。
 信頼関係は時間をかけてゆっくりと築いていくんだ。
 周りへの警戒心が強い子が相手なら、尚更──。

「葉でいいよ」

 不意をつかれたような表情をする彼女を前に、僕の口はもうとどまることを知らなかった。

「だから僕も、〝胡桃〟って呼んでもいい?」

 友達になろうと言う僕に、彼女が直接言葉で答えることはなかった。だけどきっと、友達というのは気付いたらなっているものなのかもしれない。

 目の前の彼女は頬をわかりやすいほどに赤く染め上げたあと、ぷいと顔を海の方へと向けてしまう。

「もう、強引だなぁ……」

 小さな呟きは、潮風に乗って僕のネクタイをふわりと揺らす。

 背中を向けたままの胡桃は、ちらりと手元の腕時計に視線を落とした。それからこちら振り向くと、困ったような表情で笑う。そしてこう言ったのだ。
「バイトの時間に遅れちゃうんじゃないの? 葉」
 ──ってさ。