その日の夕方、僕は胡桃とふたりで海沿いの道を歩いていた。特進クラスの莉桜は特別授業を受けに予備校へ行き、拓実はバイト。特に予定のなかった僕たちは、ふたりでアイスキャンディ片手に帰路についていた。

「今日は、ありがとう」

 僕が口火を切ると、胡桃は「なんのこと?」ととぼけた。胡桃は嘘をついたり素知らぬふりをするときには、唇がつんと尖る。本人は気付いていないみたいだけど。

 あのあと、拓実と僕は照れくささのようなものを抱えながら図書室へ戻った。ちょうどそこでは高野さん含めた女子三人が会話に花を咲かせている最中で、僕たちはなにもなかったかのようにその場所へ戻ることができたのだった。

「とにかく、感謝してるってことだよ」

 僕は彼女のとぼけた表情に笑いながら、ぐーっと両手で伸びをする。手首をツウっと、アイスキャンディの雫がつたう。

「また汚してる。子供じゃないんだから」
「暑くなってきたから、溶けやすいんだよ」

 呆れながらも、僕の手元をタオルでぬぐってくれる胡桃。
 こういうのって、なんだか恋人同士のようでくすぐったくて、心地よい。

 だけど当の胡桃にはそんな発想はないらしく、「葉はなんでもすぐにこぼすんだから、タオル持ち歩いた方がいいよ!」などと小言をこぼしている。
 恋をする、というのは、ちょっとしたことが幸せに感じられることなのかもしれない。

「それにしても、拓実の片思いの相手が戸塚ちゃんだとは……」

 恋という言葉で、図書室でのやり取りが思い出される。

「わたしはずっと、そうじゃないかなぁって思ってたけど」

 拓実には好きな人がいる。その相手があの戸塚ちゃんだと本人がカミングアウトしたのは、女子三人が繰り広げていた恋愛ドラマの話がひと段落ついたときだった。
 しかしながら大声をあげて驚いたのは僕ひとりで、胡桃と莉桜は「今更?」みたいな顔をしていたし、高野さんに至っては「誰?」と頬杖をついていた。
「なんだ、胡桃はわかってたのか」

 どうして、どこが、と詰め寄る僕に、拓実はうざったそうな顔をしながらも「あの子と俺は似た者同士だから」と説明をした。

 もしかしたら一度目の夏だって、本当は拓実から戸塚ちゃんに告白をして付き合ったのかもしれない。それを僕は、逆だと思い込んでいたのだ。

「うん、なんとなくだけどね。コンビニでの接し方も、拓実は感情を押し殺しているように見えたし」

 空の半分が青とオレンジのふたつに分かれる。この時間帯の海はどちらの色も映し出し、互いが溶け合うような不思議な輝きを放っている。

「そっか……。戸塚ちゃんが苦手だから目を合わせなかったわけじゃなくて、その反対だったんだな」

 記憶を手繰り寄せれば、あの日の帰りにも胡桃は同じようなことを言っていた。まったく僕は本当に、恋愛に関してはとことんだめだ。
 さらに過去の僕は、莉桜の気持ちまで勝手に推測して傷つけるという失態も犯した。その後悔は、ずっと胸の中に残っている。

「あれ……」

 しかし、そこでコツンと、違和感という名の小石が胸の奥で転がった。
 確かに戸塚ちゃんは、何度か僕らのバイト先を訪れている。しかし今回、胡桃はあの場に居合わせていなかったように記憶している。

「胡桃って、コンビニで戸塚ちゃんに会ったんだっけ……?」

 正直に言うと、僕もそのあたりの記憶は曖昧だ。重複している日の出来事は、どちらがどちらだったかわからなくなることもある。それでも今回のような印象深い日の出来事は、きちんと覚えているはずなのだ。

 すると胡桃は、きょとんとした表情を浮かべ、それから軽快に笑う。

「ああ、お店の中にわざわざ入らなくても、ガラス張りの店内はよく見えるんだよ。わたし、おばあちゃんのおつかいで病院によく行くでしょ。帰りにいつも、葉たちいるかなーって覗いたりしてたの」

 普段通りの胡桃の様子に、「ああ」と納得しながら息を吐いた。

 ここには存在しない、別の〝過去〟があったことを、胡桃が知っているのではないか。そんな考えが一瞬頭をよぎったのだ。あの過去は胡桃にとっても僕らにとっても、決して幸せなものではなかった。そんな過去を、彼女が知る必要はない。

「莉桜は、もっと前から気付いていたみたいだけどね。不特定多数の女の子と遊ぶのをやめて、はやく素直になればいいのにって。いつも言ってた」
「そうなんだ……」

 思い込みはやめると決めた。それでもフラッシュバックしてしまうのは、過去に見た、莉桜の陰った表情。素直に祝えないなんて友達失格だと言った、弱々しい笑顔。
 だけどそれが意味するのは、僕が想像していたような恋愛感情に直結するようなものではないのかもしれない。

「莉桜は、拓実には幸せになってほしいって言ってた」

 その言葉もきっとまた、莉桜の本心なのだろう。胡桃が言っていた通り、〝好き〟には色々な感情があるのだから。

 それなのに、僕ときたら──。

『莉桜、僕たちには本心を話したっていいんだよ』
『拓実がいなくて寂しいって、認めていいんだ。本当は拓実のこと──』

 前回の夏、莉桜に放った言葉が頭の中でリフレインする。自然と足が止まってしまい、その場で頭を抱えて「はあ……」と大きなため息を吐きだした。

「本当に、僕はなにもわかってなかったんだな……」

 夏はリセットされた。莉桜は僕に言われた言葉をなにも知らない。だけど、僕が彼女を傷つけたこと、拓実や戸塚ちゃん、そして胡桃を悲しませたことは、紛れもない事実だ。

「誰かを傷つけてしまったとき、同じ傷が自分にもできるんだって」

 僕に合わせ、その場で歩みを止めていた胡桃。彼女の言葉は、リン、と胸の奥の鈴を鳴らし、停滞してしまった僕の心にやわらかな風を送り込んでくれる。

「傷つけることも傷つくことも、できれば避けて生きていきたい。だけど、悪意なく傷つけてしまうこともあれば、それがわかっていても傷ついてしまうこともある。誰だって笑顔で、楽しいことだけで生きていきたいだけなのにね」

 僕の中に残る大きな後悔。それはときに、ジクジクと鈍く強い痛みを放つ。もしも胡桃の言う通りだとするならば、僕の中には僕自身がつけた傷跡が残っているのかもしれない。深くて重い、消えることのない心の傷跡。

 だけどそれでいい、消えなくていい。この痛みがあるから気付いたことがある、知った真実がある。これからもこの想いを抱えながら、ときに痛みを取り出しながら、大事なものと向き合っていくのだ。

「──応援しないとな、拓実の恋」

 二度目の夏、戸塚ちゃんと拓実の距離が近づいてしまわぬよう、僕は目を光らせていた。親友を誘惑から守ろうという考えからの行動は、結果として親友の恋路を邪魔することとなった。
 それがすべての理由ではないかもしれないけれど、ふたりが付き合ったはずの日付を過ぎても、こうして八月になっても、彼らは恋人同士になっていない。

「拓実が本気で戸塚ちゃんを好きなんだから、うまくいくように全力で応援する。莉桜だって、拓実の幸せを願ってるんだもんな」

 拓実の本心を知った今、親友としてできることは、「戸塚ちゃんは遊び人だからやめた方がいい」と彼女を知らない僕が勝手な忠告をすることではなく、「がんばれ! 幸せになれ!」と心から応援することだ。

「葉、変わったね」

 目を細めた胡桃が、優しく微笑む。

「そうかな」

 そう言いつつも、本当は自分でも感じていた。内側で、小さな変化が起きているということに。
 だけどそれは、決して自然に起こった変化じゃない。一度目の夏に、ただ通り過ぎてしまっただけの出来事。それらとひとつずつ対峙することで、僕は色々なことに気付かされているのだ。

「葉は変わったよ。ひとりひとりと、それから自分自身と、面と向かって話をしてる。わたしも葉みたいに、逃げたりせずに自分と向き合わなくちゃ」

 胡桃は胡桃なりに、いろいろな悩みを抱えているのだろう。生きているのだからそれはきっと当然のことで、大学受験を前にした彼女には多くのプレッシャーなどがのしかかっているのかもしれない。

「胡桃は胡桃のままでいいんだよ。それでも苦しいときは、いつだって頼ってほしい」

 一度目のからっぽだった夏、僕はただ呼吸を繰り返していただけだった。だけど今、僕はたしかにこの瞬間を〝生きている〟。

 僕だってもう、気付いているんだ。夏休みが終わり、イチョウの葉が黄色くなり、街が雪化粧をしたあとに、僕たちは卒業する。
 いつまでも、この日々が続くわけじゃないことを。

「僕はいつでも、胡桃の味方だ」

 限りがあるからこそ、強く思う。僕たちに残されたこの日々を、この時間を、めいっぱいに使い果たしたい。

 離れ離れになったとしても、たしかな絆が重なるように。思い出が、未来の僕らを繋げるように。