「葉くん、気が付いた?」

 うっすらと開けた瞳に映るのは、見慣れた部屋の天井。そこへ、眉を寄せた心配そうな叔母さんの顔が現れた。

「あれ……僕……」

 起き上がろうとすると、ずきりとこめかみあたりに鈍い痛みが走った。そんな僕の体を、叔母さんはゆっくり横たわらせる。

「昨日のこと、覚えてない?」

 額に手をあて、熱がだいぶ下がったことを確認した叔母さんは、安堵した表情で問いかける。そこで僕は改めて、自分の記憶が昨日の堤防でストップしていることに気が付いた。一体どうやってこの場所まで帰ってきたのだろうか。

 たしかいったん雨がやんで、光の筋が差し込んで──。

「堤防で倒れていたのを、中田さんが見つけてくれたの。それから、井岡さんと高橋くんとで、うちまで送り届けてくれたのよ」

 想像していなかった三人の名前に思わずもう一度飛び起きかけ、そしてベッドに倒れるということを繰り返してしまう。

 胡桃と莉桜と拓実が三人で、僕のことを助けてくれた。その事実はジワジワと、心の中を優しい気持ちで満たしていく。
 バラバラになったように感じた僕らだったけど、やっぱり心は繋がっていたんだ。みんな同じ気持ちだったんだ。

 はあ、とついた安堵の息と共に熱いものが込み上げる。ぐっとタオルを鼻先まで持ち上げたとき、ピンポーンとチャイムが鳴り響いた。

「おにい~! おともだち~!」

 下の階から、鈴の大きな声がする。

「きっと中田さんたちね。学校帰りに寄ります、って昨日言ってたから」

 上がってもらってもいい?と聞かれた僕は、頷く他ない。頭もぼさぼさで、正直体を起こすのはまだしんどい。それでもみんなの顔が見たかった。そして直接、お礼を伝えたかったのだ。

「おじゃましまーす」

 優しく微笑む叔母さんと入れ替わりに、胡桃たちが部屋に入ってきた。おずおずと、所在なさげにしている胡桃の様子がかわいらしくて僕はちょっと笑ってしまう。ずきんとこめかみがまた痛む。こういうときくらい、素直に笑わせてくれたっていいだろうに。

「葉、熱下がったって? 今、お母さんが教えてくれたよ」
「一日で下がるんだから、さすが葉だよな」
「今度アイスキャンディおごってもらわなきゃ。昨日、重たかったんだから」

 ぞろぞろと入ってきた三人は、各々に勝手なことを言っている。まるで僕らの確執なんてなかったかのような自然なふるまいに、僕は一瞬夢を見ているのかもしれないと疑った。
 しかし、頬をつねってみてもちゃんと痛いし、ぺしんとおでこを叩いてみても目が覚めることはない。

「……なにしてるの?」

 訝しげな表情を浮かべる三人に、僕は思わず笑ってしまう。ずきりと痛みは出たけれど、それでも僕は笑うのを止めることができなかった。

「いや、なんか安心したっていうか……。三人とも、本当ありがとう」

 ひとしきり笑った僕がそう告げると、彼らは心底ほっとしたように息を吐き出した。本当に心配をかけてしまったみたいだ。
 しかしそこで、今度は猫の安否が確認できなかったことを思いだす。

「……猫、大丈夫だったかな」

 あれだけの暴風雨の中、猫の姿を見つけられなかったのだ。

「やっぱり葉、あの子を探しに行ってたんだね。大丈夫だよ、うちにいるから」

 胡桃の柔らかな声に、ふっと僕は緊張を解く。たしか胡桃のお父さんは、猫が苦手だったはずだ。それでもさすがに大荒れの天気の中、娘が連れ帰ってきた小さな命を受け入れないわけにはいかなかったのかもしれない。

 ──と、そこで僕は大きな違和感に気が付いた。

 胡桃が、僕を見つけた? 胡桃が、あの猫を保護した? すべて忘れてしまったはずの彼女が、莉桜と拓実に助けを求めて僕をここまで運んだ?

「胡桃……、思い出したのか……?」

 目の前に座る胡桃は、確かに僕を『葉』と呼んだ。警戒心ゼロの無垢な瞳で、僕のことを見つめている。記憶をなくす前の、僕がよく知る彼女がそこにはいたのだ。

「葉ってば、まだ熱あるんじゃないの?」
「熱に浮かされるって、こういうことを言うんだな」

 呆れる莉桜と拓実の言葉に、狐につままれたような気持ちになる。ふたりだって胡桃が事故によって僕らを忘れてしまったことを、わかっているはずなのに。
 しかし彼らは、さらに驚くべきことを口にしたのだ。

「最近雨ばっかりだし、そろそろ梅雨入りするかもね。今年の夏は、暑くなるって」
「受験生に夏休みはないとは言っても、少しくらい夏っぽいことしたいよな。せめて夏祭りくらいはさ」

 僕らの夏は、過ぎ去ったはずだ。終業式の日にすれ違いが生じて、そのまま夏休みが始まったじゃないか。その間、僕らは顔を合わせることもなかった。夏祭りだってもちろん行かないままに新学期が始まって、そして胡桃は──。

 そこで僕はやっと気付いたのだ。衣替えが終わり、長袖姿となったはずの三人の制服が、半袖の涼しげなもののままだということに。

「夏服……」

 ぶわりと変な汗が首筋に浮かぶ。壁にかけた日めくりカレンダーは、六月十三日。確かに僕は、これが十月になるのを見たはずなのに。

「六月?」

 ベッドの中で僕が小さく口にすれば、三人はきょとんとした表情を見せてから「本当に大丈夫?」と眉を寄せた。それから、莉桜がこう言ったのだ。
「今は、高校最後の六月だよ」──と。