僕らの奇跡が、君の心に届くまで。


 高校三年生の夏は、からっぽのまま過ぎていった。

 蝉の鳴き声を煩わしいと言いながらアイスを食べることもなく、砂浜で水をかけあって遊んだりすることもなく、夜のビーチで花火をすることもなく。そしてもちろん夏祭りだって行かず、ただ時計の針だけが進んでいった。

 あの後、僕たちは誰からともなく連絡を取ることを避けた。

『あの日は僕の勝手な行動で、みんなに嫌な思いをさせてごめん』

 そんな内容のメッセージを何度も打っては消すということを繰り返し、結局僕らの最後のやりとりはあの日の朝のもので終わっている。

 直接顔を合わせれば、もう少し自然な流れで謝れるだろうと思いながらも、幸か不幸か夏休み真っ只中。偶然出会うなんてこともなく、拓実とはどういうわけかシフトが被ることもなく、ただ日々だけが過ぎていった。


「えーっとな、まずみんなに説明しておかないといけないことがあってな」

 新学期初日、朝のホームルームで担任がガシガシと後頭部を掻いた。

 朝からバタバタしていて始業時間ギリギリに教室に滑り込んだ僕は、拓実と莉桜の姿は認めたものの、胡桃が教室にいないことに小さな不安を感じていた。風邪でも引いたのだろうか。ずっと連絡を取っていなかったから近況を全く知らないのだ。

「中田なんだが、夏休み中に事故に遭ってな。記憶の一部が──」

 キィンと鋭い耳鳴りが、僕のことを襲った。


 担任によると、夏休みのある夜、彼女が乗ったバスにトラックが突っ込むという事故が起きた。不幸中の幸いで、運転手や乗客に命に関わるような重傷者は出なかった。
 しかし、トラックが衝突した側に座っていた胡桃は頭を強打。その後遺症として、記憶障害が起こってしまったとのことだった。
 三週間ほどの入院を経て、現時点での日常生活への支障はないと診断された胡桃は、担任の説明のあとに緊張した様子で教室へと入ってきた。それから「よろしくお願いします」とぺこりと頭を下げたのだ。

僕と彼女の視線は、一度も交わることはなかった。

「あの、くる……中田さん……」

 昼休み、僕は意を決して彼女の元へと向かった。彼女は莉桜と一緒に弁当を広げていて、きょとんとした様子でこちらを見上げている。そこには前回別れたときの、悲しみややるせなさといった色は全くといっていいほど含まれていなかった。
 そのことが、僕の小さな望みを打ち砕く。

「えっと……」
「同じクラスの、石倉葉だよ」
「いしくらくん」

 助け舟を出した莉桜に次いで、胡桃が僕の名前を口にする。見知らぬものを、記憶するように。

 それがひどく、ショックだった。

 仲良くなる前、彼女は僕のことを「石倉くん」と呼んでいた。どこか怯えたような、警戒したような目をしながら距離を保っていた彼女。そんな彼女が、再び僕の目の前にいる。僕のことを「葉!」と呼び、屈託ない笑顔を向けてくれた彼女はもういない。

 ──彼女は、僕を忘れてしまったのだ。

「学校のこととか家族のことはわかるんだけど、クラスメイトの顔や名前があやふやで……。小学校の頃のこととかは覚えているのに、高校に入ってからのことはほとんど思い出せないの。ごめんね」

 申し訳なさそうに微笑む胡桃と、僕から視線を逸らしたままの莉桜。
 拓実は教室にはいなかった。二限の休憩時間に胡桃に声をかけていたのを見たから、もう彼女の記憶に自分たちとの思い出がないことは確認済みなのだろう。

「いや……。中田さんが謝ることじゃないし、これからまた、思い出を作っていけばいいし」

 どこかカタコトのようなぎこちなさを含む、僕の言葉。
 今の彼女に、これ以上眉を下げさせたくなくて、僕は必至に自分を保つ。

 それに、この言葉に嘘はないのだ。彼女はすべてを忘れてしまったわけではない。失くしてしまった記憶だって、いつか何かのタイミングで取り戻すことはあるだろうし、絆や思い出だってこれからまた作っていけばいい。

「ありがとう、石倉くん」

 拓実も莉桜も、胡桃も僕も、ちゃんとこの場所にいる。当たり前に顔を合わせ、会話ができる距離にいる。

 それならば大丈夫。絶対に大丈夫。僕たちならば大丈夫なはずなんだ。

 僕は自分にそう言い聞かせ、「それじゃ」とその場を去った。


「記憶障害とは、認知症などの病によるものや、頭部損傷による外的要因が──」
「ずいぶん難しい本、読んでるね」

 誰もいない放課後の図書室で分厚い本を開いていた僕は、思わぬ声にヒェッと情けない悲鳴を上げる。そんな僕を見て、いつの間にか真横から僕の手元を覗いていた女性はひゃっひゃっひゃと愉快そうに笑った。

「わたし、高野(たかの)。ここの司書やってんの」

 知らなかったでしょ、わたしもキミのこと知らないもん、と高野さんはまたしゃくりあげるように笑った。

 高校の図書室。それは建物の中に当たり前のように存在していたけれど、この瞬間まで僕は、図書室を利用したことがなかった。だからこそ、うちの図書室に司書さんがいるということも、いま初めて知ったわけである。

「記憶障害なんて、難しいこと調べてるね」

 ちら、と机に積まれた本たちに視線を走らせた高野さんは、そのまま僕の向かいの席へ腰を下ろした。司書さんとは、一緒に本を読む人だったのだろうか。
 僕がきょろきょろと図書室内を見回すと高野さんは机を肘にたて、頬杖をついた。

「別にいいじゃん、誰もいないんだし」

 金色とまではいかないけれど、かなり明るく脱色された長い髪の毛は、高い位置でポニーテールにされている。真っ赤な無地のエプロンの胸元には大きなキャラクターがついたボールペンがいくつも。

 司書と言えば、もっと落ち着いたイメージだった。髪の毛の色は黒で、シンプルな服装に紺色とか深緑のエプロンをしていて、みたいな。

「もしかして、三年一組の生徒?」

 僕のイメージとは正反対の装いの司書、高野さんは、トンと人差し指で本の表紙を叩く。キラリと爪先でラインストーンが光った。

 胡桃が事故による記憶障害を負ったことは、職員会議でも取り上げられただろう。高野さんはそのことから、僕と彼女を結び付けたようだった。

「事故による記憶障害って、治ることはないんでしょうか……」

 僕は高野さんの質問には答えず、しかしぽつりと口を開く。それを質問への肯定と受け取ったのだろう。高野さんは、僕が積み上げた『脳科学』『記憶の不思議』などといった本の背表紙を視線でなぞった。

「脳の細胞が傷ついてしまった場合、それは難しいだろうね」

 高野さんの冷静な言葉。僕の心臓は、途端に血管を細くしたかのようにひゅっと苦しい痛みを放った。

 朝のホームルームが終わったあと、拓実と莉桜、そして僕は担任から呼び出されていた。普段から胡桃と親しくしていたのを知っていたからだ。
 そのとき、担任は確かにこう言っていた。
『中田の記憶障害は、脳の細胞の一部損傷によるものだ』
 ──と。

 つまり、胡桃が記憶を取り戻すことは限りなく不可能に近い。

 その残酷すぎる事実に、僕はがくんと頭を下げる。途端に体の力が入らなくなってしまったのだ。

「ちょっと、大丈夫?」

 つむじの向こう側で、高野さんの声がゆらゆら揺れる。
 体中の血液がこめかみに集中してしまったかのように、その部分だけがやたらと熱い。それなのに、心臓のあたりがひどく冷たいのだ。

「ちゃんと息吐くことに集中して。そうしたら、自然と吸うこともできるから」

 体の奥で、赤いサイレンがピコンピコンと光を放つ。意識が遠のきそうになる中、僕は高野さんの言う通りに、細い息を吐き出すことに全神経を集中させた。

「……落ち着いた?」

 しばらく深い呼吸を繰り返した僕は、やっとまともに顔を上げることができた。

「はい……すいません、なんか」
「いいよ、そんなの」

 よくあることよ、とカラリとした口調で言った高野さんは、カチカチとキャラクターのついたボールペンを何度か無意味にノックする。

「事故に遭った生徒と、仲、よかったの?」
「……はい。いつも四人で一緒にいて」
「そっか……。それじゃあ、ショックも大きいよね」

 高野さんの言葉に、僕はぼんやりと天井を見上げた。

 昼休み、ネットで事故のことを調べた。胡桃の名前は明らかとなってはいなかったが、その事故が起きたのは夏祭り当日。午後七時のことだった。

「僕が……」
「ん?」
「僕がいけないんです……」

 そのときからずっと、頭の中に浮かんでは無理やりに沈めたひとつの想い。

 ──もしも僕があんなことを言わなければ。
 ──三人でも夏祭りに行っていれば。

 胡桃が事故に遭うことは、なかったかもしれない。記憶を失うことだって、なかったかもしれない。

「僕のせいだ」

 出会わなければよかった、なんて。
 まさか本当に、胡桃の記憶が出会う前に戻ってしまうなんて思わなかったんだ。

 自分の声に乗って耳へと入ってくる事実と憶測は、想像以上に僕の心をえぐっていった。
 自分の犯してしまった過ちと、それ故に起きてしまった災難。僕の行動ひとつで、胡桃は事故に遭わずに済んだかもしれない。
 後悔なんて、してもしきれない。

「だけど、時間は戻らない」

 高野さんは、静かにそう言った。

 どれほどに後悔しても、やり直したいと願っても、過ぎた時間は戻らない。運命は変えられない。

 僕はもう一度、ふぅーっと長く細い息を吐き出した。
 今の僕ができることは何なのか。
 それを考え、ここへ来た。
 記憶障害とは、どういうことなのか。それを理解することが、今の胡桃を理解することに繋がると思った。
 そして、僕の軽率な言動でバラバラになってしまった四人の絆を、結びなおす。
 それが、後悔を抱える僕に残された、今できる精一杯のことだ。

「キミたちのこれからに、奇跡はきっとあるよ」
 
 高野さんは、優しい音色でそう言った。

 それは一見すればひどく無責任で、他人事にも聞こえる言葉だ。だけど〝奇跡〟という二文字は、僕の心に強く響いた。

 僕は奇跡を、起こせるのだろうか──。

 窓の外に目をやると、胡桃がクラスの女子たちに守られるように囲われながら、校門を出ていくところだった。

 それからの日々は、色のないままに過ぎていった。

 僕は僕なりに、精一杯努力をしているつもりだ。胡桃には頻繁に声をかけ、近くの席にいる莉桜には今まで通りに話しかける。初めこそ警戒をしていた胡桃だったが、徐々にそれは解けてきて、最近では僕の話にくすくすと笑ってくれることもある。

 莉桜には一度、あの日のことで謝罪をした。「過ぎたことだし、もう忘れた」と莉桜は笑って言ってくれて、今ではちょっとした会話ができるくらいには関係は修復された。
 それでも、完全な元通りというわけにはいかない。

「莉桜は予備校で、拓実はデート、胡桃は……グループの子たちと勉強会か」

 今までどうやって四人で一緒に過ごしていたのだろう。そんなことすらわからなくなるほどに、僕らはバラバラに過ごしていた。

「時間が戻ればいいのに……」

 胡桃はいつしか明るい女子グループの一員となり、莉桜は誰とでも分け隔てなく接するものの、特定の誰かといることはなくなった。
 戸塚ちゃんの彼氏という肩書のみが、拓実を表わす代名詞となり、そして僕はといえば昼休みは逃げるように屋上でパンを齧り、バイトのない放課後は図書室でぼーっと時間をつぶしてから帰宅する生活を送っている。

「これから大雨になるらしいから、早く帰った方がいいんじゃない?」

 今日も僕は、図書室で鬱々としながら窓の向こうを眺めていた。すると、正面の席で分厚い小説を読んでいた高野さんが、片手でスマホをいじりながらそんなことを言ったのだ。

「大雨? こんなに晴れてるのに?」

 少しだけ顔をあげた僕は、再び机の上へと頭を落とす。と、頬と机の間に硬い絵本が差し込まれた。

「石倉が残ってたら、図書室閉められないでしょーが。あたしが大雨に濡れたらどうしてくれるわけ?」

 よく見せる面倒そうな表情。どうやら早く帰りたいのは、高野さん本人のようだ。
 僕は渋々荷物をまとめ、図書室を後にする。昇降口に向かう中、空き教室で拓実と戸塚ちゃんが頭を寄せ合って勉強しているのを目にした。ふたりは楽しそうに笑い合いながら、お互いのノートを見せあっている。

「雨のこと、知ってんのかな」

 声をかけようかと止めた足を、僕は再び動かした。あのふたりは、きっとなんだって楽しいんだ。大雨だろうが雷だろうが、拓実は戸塚ちゃんさえいればいいのだろう。
 拓実はもう、僕たちといたときの拓実ではない。

「みんなが雨に濡れて風邪を引いたりしなければ、それでいいや」

 楽しく笑ってくれていれば、それでいい。

 そんなことを考えてから、僕のことを気にするひとは誰もいないのだろうと気付いて、じくりと胸の奥が鈍くきしんだ。

 運動靴に履き替えて、みんなと並んで歩いた海沿いの道をひとりで行く。ただただポケットに両手を入れて歩いた。ザザ、と時折海が鳴く。足早に潮風を切っていれば、そこに湿った雨の匂いが混じりだし、あっという間に空を雨雲が覆う。

「なんだよ、本当に降るのか」

 小さく悪態を空へ投げれば、それを合図にしたかのようにポツリと頬に落ちる雨。それはあっという間に大粒へと姿を変え、強い風までもが吹き荒れてきた。傘なんてもっていたら、あっという間に空へ飲み込まれてしまっただろう。
 そこで僕はふと、あることに思い至った。

 ──猫は、大丈夫だろうか。

 終業式の日以来、僕らがそろってあの広場を訪れることはなくなっていた。それでも僕が行けば殻になった缶詰が置いてあったり、汚れたタオルが新しいものと取り換えられたりしていたので、拓実や莉桜もそれぞれに世話をしに来ていたのだろう。
 今ではあの猫だけが、唯一僕らを繋いでくれる存在のようにも感じられていた。

「いつか、胡桃に会わせようと思っていたのに……」

 最近ではそう思っていたことすら忘れてしまっていた。いや、考えないようにしていたのかもしれない。

 バチバチと容赦なく打ち付ける大粒の雨。それを降らせるグレーの敵をキッときつく睨み上げる。びゅうびゅうと耳たぶを引きちぎらんばかりに向かってくる風は、小さな猫にとっては大きな脅威だろう。もしも高波が来てしまったら、堤防があるとは言え、安全とは言い切れない。

「急げ、急がないと」

 家とは反対方向へと、僕は走った。ぐんぐんと押し戻そうとする雨風と、それに逆らう僕。

 あの猫を、救いたかった。僕らを繋ぐあの小さな存在を、どうしても守りたかった。今度こそ、失いたくなかった。

 やっとの思いで広場へ到着した僕は、急いで子猫の姿を探す。ところが、木の茂みにも、びしょ濡れになった段ボールの中にもその姿はない。靴の中まで浸水していて、一歩出すたびに靴の中でぐしゃっと嫌な感触が響いた。

「出ておいで、大丈夫だから。怖かっただろ、もう大丈夫だよ。僕が絶対に守るから」

 そこには、僕以外誰もいなかった。僕たち四人と一匹の猫がいたこの場所には、もう誰もいないのだ。

「僕は……どこで間違ったんだろう」

 ぽつりとこぼした言葉は、大粒の雨によって地面へと打ち付けられる。

「ただただ大事で、みんなで一緒にいたかっただけなのに」

 なぜだろう。何がいけなかったんだろう。いや、すべてが間違っていたんだ。壊したのは、僕自身。

 あんなに楽しくて、あんなに幸せだったのに。大事にしていたはずなのに。

 サァッと視界が急に明るくなった。モノクロになっていた海と空を裂くように、まぶしい光が僕を照らす。その光はチカチカと何度か瞬きを繰り返し、僕は思わず目を細めた。

 ──瞬間、くらりとした眩暈に襲われた僕は、光の中で意識を手放したのだった。


「葉くん、気が付いた?」

 うっすらと開けた瞳に映るのは、見慣れた部屋の天井。そこへ、眉を寄せた心配そうな叔母さんの顔が現れた。

「あれ……僕……」

 起き上がろうとすると、ずきりとこめかみあたりに鈍い痛みが走った。そんな僕の体を、叔母さんはゆっくり横たわらせる。

「昨日のこと、覚えてない?」

 額に手をあて、熱がだいぶ下がったことを確認した叔母さんは、安堵した表情で問いかける。そこで僕は改めて、自分の記憶が昨日の堤防でストップしていることに気が付いた。一体どうやってこの場所まで帰ってきたのだろうか。

 たしかいったん雨がやんで、光の筋が差し込んで──。

「堤防で倒れていたのを、中田さんが見つけてくれたの。それから、井岡さんと高橋くんとで、うちまで送り届けてくれたのよ」

 想像していなかった三人の名前に思わずもう一度飛び起きかけ、そしてベッドに倒れるということを繰り返してしまう。

 胡桃と莉桜と拓実が三人で、僕のことを助けてくれた。その事実はジワジワと、心の中を優しい気持ちで満たしていく。
 バラバラになったように感じた僕らだったけど、やっぱり心は繋がっていたんだ。みんな同じ気持ちだったんだ。

 はあ、とついた安堵の息と共に熱いものが込み上げる。ぐっとタオルを鼻先まで持ち上げたとき、ピンポーンとチャイムが鳴り響いた。

「おにい~! おともだち~!」

 下の階から、鈴の大きな声がする。

「きっと中田さんたちね。学校帰りに寄ります、って昨日言ってたから」

 上がってもらってもいい?と聞かれた僕は、頷く他ない。頭もぼさぼさで、正直体を起こすのはまだしんどい。それでもみんなの顔が見たかった。そして直接、お礼を伝えたかったのだ。

「おじゃましまーす」

 優しく微笑む叔母さんと入れ替わりに、胡桃たちが部屋に入ってきた。おずおずと、所在なさげにしている胡桃の様子がかわいらしくて僕はちょっと笑ってしまう。ずきんとこめかみがまた痛む。こういうときくらい、素直に笑わせてくれたっていいだろうに。

「葉、熱下がったって? 今、お母さんが教えてくれたよ」
「一日で下がるんだから、さすが葉だよな」
「今度アイスキャンディおごってもらわなきゃ。昨日、重たかったんだから」

 ぞろぞろと入ってきた三人は、各々に勝手なことを言っている。まるで僕らの確執なんてなかったかのような自然なふるまいに、僕は一瞬夢を見ているのかもしれないと疑った。
 しかし、頬をつねってみてもちゃんと痛いし、ぺしんとおでこを叩いてみても目が覚めることはない。

「……なにしてるの?」

 訝しげな表情を浮かべる三人に、僕は思わず笑ってしまう。ずきりと痛みは出たけれど、それでも僕は笑うのを止めることができなかった。

「いや、なんか安心したっていうか……。三人とも、本当ありがとう」

 ひとしきり笑った僕がそう告げると、彼らは心底ほっとしたように息を吐き出した。本当に心配をかけてしまったみたいだ。
 しかしそこで、今度は猫の安否が確認できなかったことを思いだす。

「……猫、大丈夫だったかな」

 あれだけの暴風雨の中、猫の姿を見つけられなかったのだ。

「やっぱり葉、あの子を探しに行ってたんだね。大丈夫だよ、うちにいるから」

 胡桃の柔らかな声に、ふっと僕は緊張を解く。たしか胡桃のお父さんは、猫が苦手だったはずだ。それでもさすがに大荒れの天気の中、娘が連れ帰ってきた小さな命を受け入れないわけにはいかなかったのかもしれない。

 ──と、そこで僕は大きな違和感に気が付いた。

 胡桃が、僕を見つけた? 胡桃が、あの猫を保護した? すべて忘れてしまったはずの彼女が、莉桜と拓実に助けを求めて僕をここまで運んだ?

「胡桃……、思い出したのか……?」

 目の前に座る胡桃は、確かに僕を『葉』と呼んだ。警戒心ゼロの無垢な瞳で、僕のことを見つめている。記憶をなくす前の、僕がよく知る彼女がそこにはいたのだ。

「葉ってば、まだ熱あるんじゃないの?」
「熱に浮かされるって、こういうことを言うんだな」

 呆れる莉桜と拓実の言葉に、狐につままれたような気持ちになる。ふたりだって胡桃が事故によって僕らを忘れてしまったことを、わかっているはずなのに。
 しかし彼らは、さらに驚くべきことを口にしたのだ。

「最近雨ばっかりだし、そろそろ梅雨入りするかもね。今年の夏は、暑くなるって」
「受験生に夏休みはないとは言っても、少しくらい夏っぽいことしたいよな。せめて夏祭りくらいはさ」

 僕らの夏は、過ぎ去ったはずだ。終業式の日にすれ違いが生じて、そのまま夏休みが始まったじゃないか。その間、僕らは顔を合わせることもなかった。夏祭りだってもちろん行かないままに新学期が始まって、そして胡桃は──。

 そこで僕はやっと気付いたのだ。衣替えが終わり、長袖姿となったはずの三人の制服が、半袖の涼しげなもののままだということに。

「夏服……」

 ぶわりと変な汗が首筋に浮かぶ。壁にかけた日めくりカレンダーは、六月十三日。確かに僕は、これが十月になるのを見たはずなのに。

「六月?」

 ベッドの中で僕が小さく口にすれば、三人はきょとんとした表情を見せてから「本当に大丈夫?」と眉を寄せた。それから、莉桜がこう言ったのだ。
「今は、高校最後の六月だよ」──と。

 ◇

 寝ても覚めても逆立ちしても、確かに今は六月だった。学校へ行っても担任は当然のように「七月の模試は大事だから、しっかりやるように」だとか「夏休みは羽目をはずしすぎないように」などと口にする。
 朝が来るたびに新聞の日付をチェックしてもやはり日付は六月で、すでに明けたはずなのに、ニュースキャスターが真顔で『気象庁が梅雨入りを発表しました』などと言っていた。

 僕が一度通り越したはずの、高校最後の夏。それが再び、訪れようとしている。

「なにがどうなってるんだ……」

 どうにか平静を装い二度目の六月を送っている僕は、ある放課後、思い立って図書室を訪れた。目の前には、積み上げられた五冊ほどの本。いくらそんなものを読んだって、自分の身に起きたことを理解することはなかなかできなかった。

「ずいぶん難しい本、読んでるね」

 誰もいなかったはずの図書室で声をかけられ、僕は「ヒェッ」と情けない声をあげる。それからすぐに、声の主が高野さんであるとわかり、安堵と既視感に思わず小さく笑ってしまった。

「高野さん、いつの間に?」

 今日ここを訪れたとき司書席は空席で、図書室内には誰もいなかったはずだ。しかしそこで高野さんは「わたしのこと知ってるなんて、レアだね」と笑い、僕はハッと自分の口元を抑えた。

 そうだ、僕が初めて高野さんと出会ったのは、胡桃が僕を忘れてしまった秋だった。つまりその前であるこの六月は、まだ僕と高野さんは出会っていないことになっているのだ。

「まあこの髪の毛じゃ、目立つといえば目立つのかしらねー」

 高野さんは僕の言葉には大して疑問を持たなかったらしい。学校の職員なのだから、名前を知られていても不思議はないのだろう。

 高野さんは、やはり以前と同じように自然な動作で僕の正面の席に腰を下ろし、積み上げられた本の背表紙を詰め先でなぞった。

「ふんふん。『タイムトラベラーの歴史』、『時間を巻き戻す方法』、『タイムスリップの原理』か」

 前回、高野さんと出会ったときに僕が積み上げていたのは、記憶に関する書物だった。そして今回のものは高野さんが読み上げたタイトルの書物をはじめ、すべて時間を操作するという類のものだ。

「どの時代にも行けるって言われたらさ、未来と過去、どっちに行きたい?」

 高野さんはそんな質問を僕に向ける。こんな本を前に頭を抱えている僕には、なんらかの悩みがあると思ったのかもしれない。
 だけどそれを直接的に聞き出そうとするではなく、僕自身が自分と向き合えるような質問をする高野さんに、やはりこの人は僕が出会う前からこの人だったのだと、当たり前のことを思う。

「過去に行って、後悔したことをやり直したいです」

 即答する僕に、高野さんは「ふむ」と興味深そうな目を向ける。

「過去の失敗や間違いを正せば、未来だっていい方向に向かうと思うんです。過去も今も未来も、全部繋がっているから。だからもしも、やり直せるチャンスがもらえるとしたならば──」

 言葉にしたことで、僕の中でのいくつもの疑問がストンと落ちていくのを感じた。拓実の家で感じたのと、同じ感覚。

 そうか、そういうことだったのか。これぞまさに、〝腑に落ちる〟だ。

「僕が、奇跡を起こします。大事なひとを救って、大事な仲間を守って。残酷な運命なんて、変えてみせます」

 きっとこれは、神様が僕にくれたチャンスだ。当たり前だった僕たちの毎日を、絆を、守るためのチャンス。そしてなにより、胡桃の記憶というかけがえのないものを守るために。

「過去を変えれば、未来も変わるってことだよね」
「はい。必ず」
「ひとの持つ、運命も変えられるって思う?」
「──はい」

 胡桃の運命が、記憶を失うことだなんて、絶対に許さない。そんなこと、僕がさせない。

「そんなの、必ず変えてみせます。僕の手で」

 堂々と言い放つ僕を見て、高野さんは眩しそうに目を細めた。

 時間を遡ったのかもしれない、という仮定は、生活を重ねるにつれて確信になっていった。僕の記憶にある出来事が、それこそデジャヴのように立て続けに起こったからだ。

「小テストを返すぞ。今回は石倉が、なんということか百点を取った。どんな勉強法使ったのか、俺が教えてほしいくらいだ」
「僕には予知能力があって、先生がどの問題を出すかわかってたんで」
「はいはい。エスパー石倉の誕生だな」

 担任と僕のやりとりに、教室内がドッと沸く。
予知能力があるというのは嘘だけど、後半は本当だ。だって僕にとっては二度目の同じテストだったのだから。

「先生、今日の体育は絶対に体育館にした方がいいと思う」
「なんだ石倉、この快晴に日を浴びたくないとでもいうのか?」
「このあと、すっごいスコールが来るんですよ。雨の匂いがするんで」
「ははは。いつから鼻効きの気象予報士になったんだ? 残念ながら今日の天気は快晴。降水確率はゼロパーセントだぞ」

 体育教師は僕の言葉を笑い飛ばして、予定通り校庭でサッカーが行われることとなった。
 もちろんミニゲームの途中で雨雲が襲来。僕らはびしょ濡れとなった。
その後しばらく、石倉葉には犬並みの嗅覚が備わっていると噂になった。

 だけど、一度目の記憶と異なることもあった。
 例えば、戸塚ちゃんが僕らのバイト先を男と訪れた日、胡桃が姿を現すことはなかった。
 進路ガイダンスのあともそうだ。胡桃が読んでいたのは石の本ではなく莉桜から借りた恋愛小説で、僕はおばあちゃんの話を聞くことなく、そして自分の話を打ち明けることもなくただ帰路についたのである。

 確かに僕は、一度過ごした日々をもう一度なぞっている。しかし、その全てが同じというわけではないのだろう。言動一つ違うだけで、結果も変わる。僕だって自分の行動をひとつひとつ覚えているわけではないから、自然と前回とは異なる流れもできて当然。
 その中で、必ず防がなければならないことを抑えていれば、問題はないだろう。



「あ、戸塚ちゃんだ」
「ふうん」

 昼休み、誰もいない図書室はクーラーが効いていてとても快適だ。どうしてこんな場所に僕と拓実のふたりがいるかというと、高野さんから力仕事を頼まれたから。

 僕が一度ここを訪れて以来、僕ら四人はなにかと図書室に立ち寄ったり、高野さんからこうして雑用を頼まれたりすることが増えた。高野さんは学校の職員ではあったものの、この人の作り出す空気感に僕らは居心地の良さを感じていたのだと思う。

「葉って、戸塚と知り合いだったっけ」

 だいぶ年季の入った時点を発行年数ごとに並べる拓実の言葉に、僕はびくりと肩を揺らす。

「ああ、えっとほら、そう! コンビニに来たじゃん。あのあと学校で顔を合わせて、それから話すようになって」

 時間を遡った僕は、のちに拓実の恋人となる戸塚ちゃんの素性を調べることにした。とは言っても探偵でもなんでもないので、本人に接触したり周りの評判を聞いたりするくらいのものだけれど。
 しかしその結果、僕は大きな真実を掴むことに成功した。それは──。

「今日もまた、違うやつと昼飯食べてるね」

 清純そうな見た目とは反対に、戸塚ちゃんが男関係が派手だという確固たる証拠だ。

「あのときコンビニに来た相手も、結局恋人じゃなかったんだよな」

 莉桜の言う通りだった。これは戸塚ちゃん本人にも確認したから、間違いない。そして実際、彼女は見かけるたびに違う男を連れていたのである。

 あるときには好青年風のイケメン、あるときには金髪のホスト風、またあるときには筋肉隆々の角刈りスポーツマン……と守備範囲も広い。さらには僕にまで「葉せんぱぁい」と語尾にハートマークをつけてくれる丁寧さ。

「葉は、戸塚のことどう思う?」

 不意に飛んできた質問に、僕は面食らってしまう。しかし、拓実の視線は窓の向こうへと向けられたままだ。

「……かわいいと思うし、もてるだろうなぁと思う。だけど、恋人にしたら心配事が絶えないだろうとも思う」

 戸塚ちゃんは、悪い子ではないのかもしれない。だけど、今の状況を見ている限り、やっぱり拓実がそこに巻き込まれるのを放っておける気はしなかった。

「だよなぁ。俺もそう思う」

 しかしそこで拓実が眉を下げて笑ったので、僕はほっと心の緊張を解いた。

 案の定と言うべきか、女子からの戸塚ちゃんの評判はそれはひどいものだった。彼氏をたぶらかされただとか、そういった修羅場もたびたび起こっていたらしい。
 あのまま付き合っていたら、いつか拓実も傷つくことになっていただろう。そして戸塚ちゃんも、どこかで莉桜の存在を意識してつらくなっていたかもしれない。

「戸塚ちゃんに告白されたら、どうする?」

 二度目のこの夏、そんなことはきっと起こらない。意外なことに、戸塚ちゃんは拓実のことを恋愛対象として見ていないということを、先日彼女の口から聞いたばかりだからだ。
 てっきり戸塚ちゃんが拓実に言い寄ったのだと思っていたが、僕の言動により過去の事実は変わったのだろう。それでも念のため、拓実の気持ちを確認しておきたかった。

「ないだろ。俺のこと、そういう風に見てないし」
「万が一、そういうことが起きたら!ってことだよ」

 拓実は訝し気に眉を潜めて、呆れたようにため息をついた。手元の古い書物を、紐でぐるりと巻いて、きゅっと結ぶ。こういう細かい作業も、拓実は難なくやってのける。手先まで器用なのだ。

「起こりもしないこと考えたって、仕方ないじゃん。そんなことより、今年はどうすんの?」

 同じように力を入れて巻いてみるも、僕の手元のひもはゆるりとたゆんでしまう。
 どうやら拓実はこれ以上、戸塚ちゃんの話をするつもりはないみたいだ。

「どうすんの、ってなに? あー、僕本当これ苦手なんだよな。ちょうちょ結びなんてできない」

 もう一度最初からやり直してみる。数冊束ねた本の角を合わせて、そこをぎゅっと押さえて紐をかけて。

「だから、夏祭りだよ」

 拓実の声に、僕の手はぴたりと止まった。

 脳裏に浮かぶのは、前回の夏に「俺、パス」と即答した拓実の顔。ゆっくりと拓実を見れば、彼は当然のことを話しているかのような表情で僕を見返す。

「夏祭り、行くだろ? 四人で」

 力が抜けたせいだろう。ぴんと張っていた紐が、しゅるりと指の間を滑り落ちていった。
 夏が好きだ。もう一年中夏だったらいいくらいに、夏が好きだ。なんて言うと「情緒がないなぁ」と胡桃は呆れるんだけどさ。

「夏休み何する⁉ どこ行く⁉」

 両手を勢いよく突き上げれば、アイスキャンディの滴がキラリと舞う。すでに学んでいる胡桃は、被害を免れるためにサッと拓実の後ろに隠れた。

 終業式を終えた僕らは、四人並んでいつもの海沿いを歩いていた。前回の夏、僕はこの日、この場所で、莉桜と胡桃を傷つけた。それをずっと、後悔することになるとも知らずに。

 嫌な記憶がみぞおちあたりまで押しあがり、僕はぶんぶんと頭を振った。

「あれはもう、なくなった過去だ」

 誰にも聞こえないよう、僕は自分に言い聞かせる。あれはもう、僕の中にだけ残っている過去の出来事だ。
 状況は変わった。もう二度と、同じことを繰り返したりはしない。いや、そういうことにはならないだろう。

「本当に葉は、夏大好き!って感じだよね」

 無邪気に笑う胡桃の、夏服の襟がさわやかに揺れた。

 四人で一緒に夏の海を前にアイスキャンディを食べる。これが当たり前なんかじゃないってこと。神様がくれたチャンスによって取り戻した夏なんだってことを、僕だけが知っている。だからこそ僕は、この夏を一生に残るものにしようと思っていたのだ。

「胡桃、今日何時に待ち合わせする?」
「授業始まるのが五時だから、十五分前くらいに着けばいいかなあ」

 しかし、自然と繰り広げられる女子ふたりの会話に、僕は思わず首をかしげた。
 授業? 五時に始まる? 

「胡桃も、莉桜と同じ予備校に入ったんだっけ」

 女子ふたりの会話に拓実が加わる。夏の強い日差しが、僕の心をジリジリと焼き付け焦がす。

 高校三年生の夏休み。それは、受験生の夏休みとも言い換えることができる。たしかに最近は学校でもやたらと、進路についての話が出ているとは思っていた。だけどそのことが、僕の楽しみにしていた時間を奪うことになるとは。

「勉強漬けの夏休みかぁ」

 がっくりと肩を落とす僕の背中を、胡桃がとんとんと軽く叩く。

「夏祭りは行けるし。それに受験が終われば、ぱぁーっとみんなで遊べるよ」

 胡桃の言葉に、僕は気持ちを切り替えるように空を見上げた。入道雲がもくもくと立ち上る夏の空は、どんなときでも僕の好きな色をしている。

 いつまでもうじうじしているのは僕らしくない。なによりも前へ進もうと頑張っている仲間の背中を押すのが僕の役目だ。

「莉桜は今でも成績優秀なのに、やっぱり受験って本当に大変なことなんだな」
「いやいやぁ。高い医学部の壁だって、莉桜様の前にはひれ伏すと思うけど」

 おどけたような拓実の言葉に、じろりとそちらを睨む莉桜。いや、医学部って……。

「莉桜、医者になるの?」

 そんなの初耳だ。そもそも僕たちは毎日を楽しくなんとなくだらだらと過ごしてきたけれど、こういった将来の話をしたことがあまりなかったのだ。みんな大学へ進学するのだろうとは漠然と感じてはいたが、具体的なことは話していなかった。
 もしかしたら僕以外の三人は、それぞれで何かしらの情報を交換していたのかもしれない。あまりにも僕が、進路について無頓着だったから話題に出さなかっただけで。

「ああ、家を継ぐから」

 莉桜は耳たぶを指先で触りながら、さらりと言った。

 継ぐ──。つまり、莉桜の親って──。

「狭間病院の院長だよ。バイト先の裏にある、あそこのな」

 拓実の言葉に、僕は思わず大声で「マジか‼」と叫んでしまった。隣にいる胡桃が両手で耳を塞いでいたので、相当な声量だったのだと思う。

 狭間病院──、それはこの街では一番大きな総合病院だ。何かあれば狭間病院。救急車だって、目指せ狭間病院なのである。
 そこの娘が莉桜だなんて、まったく知らなかった。

「莉桜は、ずっと医者になりたかったの?」

 小さい頃から医者である親の背中を見ていると、自然と目指したくなるものなのかもしれない。

「〝なりたい〟っていうよりは、〝なるんだろうな〟みたいな感じ。小さい頃から、医者になるのが当たり前みたいに言われて育ってきたから」

 いつもと同じ、冷静な莉桜の横顔。その言葉には、どんな感情も込められていないように感じた。夢を語るような期待感なんてまるでなくて、だからと言って自分のやりたいことをあきらめているという絶望感もまとっていない。
 彼女の言う通り、医者を目指すことは莉桜にとって当然の出来事なのだろう。

「医者って、そう簡単に目指せるものじゃないだろ? それを当然って言えるの、本当にかっこいいな」

 素直にそう述べると、莉桜は不思議なものでも見るような目をしたあと、ふっと吹き出す。何がおかしいのかよくわからなかったけれど、次いで胡桃が笑い出し、拓実までもがそっぽを向きつつ、口元を緩めていた。

 これまでは、〝今〟だけが大事だと思ってきた。だけどこうして未来のことを話してみるのも、悪くはないのかもしれない。きっと僕らの未来には、それぞれお互いの姿があるから。

「胡桃は? 行きたい大学とかあるの?」

 そんな莉桜と同じ予備校に通うことに決めた胡桃は、どんな未来を描いているのだろう。胡桃は大きな瞳を右上に動かすと、しばらく考えるような素振りを見せた。

「わたし、自信をつけたいんだよね。ちょっと高い目標を掲げて、そこに向かってちゃんと努力できるとか結果を出せるとか。そういうので自分もちゃんとやれるんだ、って思いたい。特になりたい職業や、やりたいことがあるわけじゃないんだけどね」

 たしかに胡桃は、ふとした中で自分に対して不安そうな言動を取ることがあった。
 例えば宿題の箇所を何度も確認したり、ふたりで会話をしているときに「今のわたしがした話、ちゃんと伝わった? 大丈夫?」なんて聞いてくることも一度や二度ではなかった。
 大丈夫だよと僕が言っても、あまりその言葉が効いていなかったのは、自分に自信が持てずにいたからだったらしい。

「胡桃、すごいじゃん」

 純粋に、胡桃の考え方をすごいと思った。

「自分で改善したいところを見つけて、どうしたら克服できるのかって考えてさ。自分の弱さと向き合うことだって難しいのに、きちんと行動ができるってすごいことだよ」

 僕の言葉に彼女は少し目を見開いて、それからはにかむように微笑む。

「拓実は地元のF大でしょ? 葉はどうするの?」

 莉桜の話に出てきたF大は、このあたりからは一番近くにある私立大学だ。偏差値もそこまでは高くないので、合格圏内だろうということだった。
 僕以外、みんなちゃんと、将来のことを考えているんだ。いや、僕だってまったく考えていないというわけではない。

「僕は家を出て、働くことに決めたんだ。あと四年も勉強しなきゃいけないなんて、僕には耐えられそうにもなくて」

 ぶるぶるっと大袈裟に肩を震わせ、自分の両腕をさすって見せる。
 進学せずに働くなんて、なにか事情があるのだろうと思われてもおかしくはない。それでも、大変だなとか、かわいそうだとか、そういう感情は向けられたくない。この三人ならばそんな風に思ったりはしないだろうと自分に言い聞かせながらも、こうして表情を作ってしまう僕は、やはり信じ切れていないのかもしれない。

「幸か不幸か、僕にはかなえたい夢も学びたいこともあるわけじゃないからさ」

 勉強は性に合わないみたいだ、と笑う僕を、三人はどんな目で見ているのだろう。それを確認するのが怖くて、なかなか前を向くことができない。

 昔向けられたような同情の目がそこにあったらどうしよう。
 腫れ物に触るような感覚で、接せられたらどうしよう。
 次に僕はどんなおどけた顔をすれば、みんなが不審がらずに、いつもと同じ顔をしてくれるのだろう。

「働く──か。いいね」

 俯く僕の耳を、莉桜のさらりとした声が柔らかくかすめていく。

「仕事はなにやんの?」

 拓実の声も、何の濁りもなく鼓膜を揺らす。だから僕は、少しだけ顔をあげることができたんだ。

「……今のコンビニで、そのまま働いてもいっかなーって」

 本当は、進学しない理由ならちゃんとある。叔父さんと叔母さんに、これ以上迷惑をかけたくない。鈴との家族水入らずの時間を過ごしてほしい。
 だけどこんなことは、みんなが知らなくていいことだ。これから受験で大変な時期に入るというのに、僕のことで色々気を遣わせたくはないから。

「いいね! 葉、あの制服似合ってるもん」

 軽やかな胡桃の言葉が、僕の心にそっと寄り添う。

 ──ああ、大丈夫だ。この三人は、ここにいる〝僕〟を、見てくれている。
 一般的な常識やものさしで測ったりせず、きちんとまっすぐ向き合ってくれる。
 僕のそばにいる三人が、この三人で本当によかった。

「あー、なんか……幸せだー!」

 熱いものが溢れる前に、僕は水平線へと身体を向けた。

 分厚い入道雲に、穏やかに凪ぐ青い海。
 たしかにこの夏は、きっともう二度は巡らない。それでも大事な三人が、将来へと向かうための大きな意義のある時間になることもまた事実だ。それならば僕は精一杯、みんなのことを応援しよう。たとえ夏休み中、なかなか顔を合わせられなくても──。

「若者たちよ! 夏休みは学校の図書室で勉強会なんていかがでしょう? 超優秀な講師付きよ!」

 そのときだった。僕らの後ろに、この街には不釣り合いな真っ赤なオープンカーが停まった。

 ◇

「高野さん、絶対ひとりじゃ暇だからって、僕らを呼んだんだ」

 赤いオープンカーで通勤する我が校の司書、高野さんの提案にまんまと乗ってしまった僕たちは、夏休みだというのに毎日毎日登校するはめになってしまった。

 学校の決まりで、お盆期間以外は夏休み中も図書室を開けなくてはならないらしい。図書室を利用する生徒はほとんどいない状況にも関わらず、だ。そのため、仕事中に暇を持て余すだろうと予想した高野さんは、勉強会と称して僕らを招集したというわけである。
 超優秀な講師というのは当然のごとく高野さんのことで、だけど実際に教わる場面はほとんどなかった。なぜなら、僕らには超優秀な莉桜というブレーンがいたからだ。

「こら石倉。人聞きの悪いこと言わないの! いいでしょ、仲間たちと図書室で勉強会なんて青春って感じじゃん」

 分厚い小説を読んでいた高野さんは、僕の言葉にフフンと笑う。
 たしかに、たしかにそれはそうなんだ。
 
 胡桃と莉桜がほぼ毎日予備校に行くと聞いたときは、夏休み中に頻繁に会うことを諦めかけたけれど、この勉強会のおかげで今までと変わらず四人で過ごすことができている。胡桃たちはこの時間に予備校の宿題や予習なんかをやっていて、僕と拓実はそれぞれなんらかのテキストを解いていた。

「三人は過去問で、石倉は学年まとめの問題集?」
「一応ね。この状況で、僕だけスマホでゲームするわけにもいかないし」

 高野さんは「意外と律儀だよねー」と笑う。
 律儀かどうかはわからないけど、僕はこの夏休み、ひとつだけ決めていることがあった。それは絶対に、三人の邪魔はしないということ。
 そうなると自然と、やることも集中力もない僕が高野さんと会話するという構図が出来上がる。まさに高野さんの狙い通りというわけだが、仕方ない。

「高野さんってさ、なんで司書になったの?」

 三人とは少し離れた司書席に座る高野さんのもとで、座りっぱなしで凝り固まった体を捻りながら僕は問う。
 この間、三人と将来のことを話したからか、一風変わった司書さんの歴史を聞いてみたくなったのだ。

「んー。なんだろう、とりあえず家業は継ぎたくなかったのよね。じゃあなにやる?ってなったとき、本が好きだから本屋か司書だなーと。それで結果、司書になってた」

 夢も希望もなくて申し訳ないけど、と高野さんは言葉の割には全く申し訳なくなさそうに話す。だけど僕はそれよりも、高野さんの家業というものに興味が湧いた。それを素直に尋ねれば、「旅館」という短い返答だけが返ってきた。

「高野さんは、なんで旅館やりたくないの?」
「なんでって……。なんかさぁ、やりたくなかったのよ。決められたレールを走るのは性に合わないし」
「それだけ?」
「まあ、それだけっちゃそれだけだね。いくらでもかっこよさそうな理由を後付けすることはできるけど、実際そんな複雑な話じゃない。自分の道は自分で決めたかったんだろうね、あの頃のあたしは」
「ご両親は高野さんに継いでほしかったんじゃない?」
「そりゃそうだろうね、あたしひとり娘だし」
「継いであげたらいいのに」
「まあ、あたしの人生だからさ」
「……そっか」

 高野さんの言っていることは、なんとなくわかるような気もした。だけどそれと同時に、なんだか心にしっくり来ないと感じたのも事実だった。




「高野さんって、不思議な人だよね」

 二時間ほどの自習を終えたところで、紙パックのレモンティーをストローで飲み干した胡桃が口を開く。当の高野さんは、十五分ほど前に職員室へ行ったところだ。

「司書っぽくないし、なんかこう、大人はこうあるべき、みたいのに当てはまらないよね」

 髪の毛だって明るいし、赤いオープンカーに乗っているし、口調だって若者のそれとまるで変わらない。
 
 普通、学校で働いている大人というのは一貫して「ああしなさい」「こうした方がいい」「それはだめ」と人生の先輩として色々なことを教えようとしてくるものだ。だけど、高野さんにはそれがなかった。むしろ先ほどのように「実際そんな複雑な話じゃない」などと、一回りほど下の僕を相手に自分をさらけ出すこともある。

「わたしは、高野さんが羨ましい」

 コーヒー牛乳のパックを手前に引き寄せると、今度は莉桜がぽつりとこぼす。

「親に家業を継げって言われてるってさ、わたしも同じじゃない? わたしはそのことになんの疑問も持たず、医者になりたいとか人々を救いたいとかそういう思いはないままに、ただ医者になるのが当然だって思ってきて。だけど高野さんは、ちゃんと自分を持っている」

 先ほどの僕と高野さんの会話は、問題を解いていた三人にも聞こえていたのだ。

「老舗旅館の一人娘っていうだけで、そんなに期待や重圧があるんだな。僕には全然想像もつかない世界だよ」

 僕の質問に答える形で、高野さんは旅館について簡単に話してくれた。
 様々な重い足枷を外したかったがゆえ、若い頃はとにかくやんちゃをしたらしい。明るい髪色とあの雰囲気は、その時代の名残りというわけだ。それでもこの旅館の今後は娘に託したい。それが変わらぬ旅館高野の大旦那さんの意向。
 しかしそのひとり娘は、自分で自分の将来を決めたいと思い、家を飛び出した。──というわけだ。

「たしかにふたりはタイプも違うし環境も違うけど、家業を継ぐということにつながれている部分は共通してるね」

 胡桃も静かにそう頷いた。

 家を継ぐということに疑問を抱いた高野さんと、抱かなかった莉桜。それでもふたりとも、両親から求められているというのは確かだ。

「高野さん、旅館継いであげたらいいのになぁ。意外と似合いそうだし」

 情報を頼りにスマホで検索をかければ、高野さんの実家であろう旅館はすぐに出てきた。歴史のある、立派な旅館だということは写真だけでわかる。
 こんなに立派な旅館を任せたいだなんて、それだけ両親に信頼されている証拠だ。反発して違う道を進んだ娘に対し、それでもなお、大事な旅館を任せたいと言っているのだ。

「求めてもらえる場所があるって、すごく幸せなことなのに……」

 そう言っているうちに、僕は自分の状況と高野さんを比べていることに気が付いた。
 高野さんの人生なのだから、高野さんの好きに生きていい。そう思うのに、その反面で「どうしてそんなに恵まれているのに」と思ってしまう僕もいる。だからこんなに固執してしまうのだ。

「葉、大丈夫? 顔色、悪いよ」

 胡桃の言葉に、僕はごくりと空気の塊を飲み込んだ。今までの僕だったら、ここできっと笑顔を作ってかわしていただろう。気を遣わせるのが嫌だとか、同情されたくないとか、そういう思いが先行していたからだ。
 だけどこの三人にならば、僕が抱えているものを見せてもいいのかもしれない。みんなならばまっすぐに、そんな過去ごと、きっと僕を受け入れてくれる。

「実は、僕──」

 ばくばくと暴れ出しそうになる心臓を押さえながら、口を開いたときだった。

「継ぐとか継がないとか。他人の家庭の事情に口を出すほど、野暮なことはないと思う」

 キン、と冷たい声が響く。その声は、それまで黙っていた拓実のものだ。

「ずっと思ってたけど、葉は思い込みが強すぎるんだよ。感情だって考え方だって、人によって違う。なんでもかんでも首突っ込むなよ」

 その場の空気が、ぴしりと凍り付いたのがわかった。「拓実」とたしなめる莉桜に、ハラハラとした表情の胡桃。

 拓実は立ち上がると、窓際の席へと向かいこちらに背を向けて座ってしまう。
 ヴン……という空調の音だけがガランとした図書室に静かに響く。僕が最も苦手とする、無言の時間。誰も破ることのできない、気まずい時間。

「あー……ごめん、そうだよね、拓実の言う通りだ」

 ゆるやかに、僕は笑った。本当は笑いたかったわけじゃない。だけど怒りたかったわけでもなかった。
 ただただ、自分に失望したのだ。

「僕が口出しするようなことじゃなかった。家庭のことは、家族にしかわからないもんな。ごめん、こんな空気にしちゃって。ちょっと飲み物買ってくるわ。みんな、僕のことは気にせずに、勉強がんばれ」

 最後にもう一度、「ごめん」と頭を下げた僕は、そのまま図書室を後にしたのだった。