それからの日々は、色のないままに過ぎていった。
僕は僕なりに、精一杯努力をしているつもりだ。胡桃には頻繁に声をかけ、近くの席にいる莉桜には今まで通りに話しかける。初めこそ警戒をしていた胡桃だったが、徐々にそれは解けてきて、最近では僕の話にくすくすと笑ってくれることもある。
莉桜には一度、あの日のことで謝罪をした。「過ぎたことだし、もう忘れた」と莉桜は笑って言ってくれて、今ではちょっとした会話ができるくらいには関係は修復された。
それでも、完全な元通りというわけにはいかない。
「莉桜は予備校で、拓実はデート、胡桃は……グループの子たちと勉強会か」
今までどうやって四人で一緒に過ごしていたのだろう。そんなことすらわからなくなるほどに、僕らはバラバラに過ごしていた。
「時間が戻ればいいのに……」
胡桃はいつしか明るい女子グループの一員となり、莉桜は誰とでも分け隔てなく接するものの、特定の誰かといることはなくなった。
戸塚ちゃんの彼氏という肩書のみが、拓実を表わす代名詞となり、そして僕はといえば昼休みは逃げるように屋上でパンを齧り、バイトのない放課後は図書室でぼーっと時間をつぶしてから帰宅する生活を送っている。
「これから大雨になるらしいから、早く帰った方がいいんじゃない?」
今日も僕は、図書室で鬱々としながら窓の向こうを眺めていた。すると、正面の席で分厚い小説を読んでいた高野さんが、片手でスマホをいじりながらそんなことを言ったのだ。
「大雨? こんなに晴れてるのに?」
少しだけ顔をあげた僕は、再び机の上へと頭を落とす。と、頬と机の間に硬い絵本が差し込まれた。
「石倉が残ってたら、図書室閉められないでしょーが。あたしが大雨に濡れたらどうしてくれるわけ?」
よく見せる面倒そうな表情。どうやら早く帰りたいのは、高野さん本人のようだ。
僕は渋々荷物をまとめ、図書室を後にする。昇降口に向かう中、空き教室で拓実と戸塚ちゃんが頭を寄せ合って勉強しているのを目にした。ふたりは楽しそうに笑い合いながら、お互いのノートを見せあっている。
「雨のこと、知ってんのかな」
声をかけようかと止めた足を、僕は再び動かした。あのふたりは、きっとなんだって楽しいんだ。大雨だろうが雷だろうが、拓実は戸塚ちゃんさえいればいいのだろう。
拓実はもう、僕たちといたときの拓実ではない。
「みんなが雨に濡れて風邪を引いたりしなければ、それでいいや」
楽しく笑ってくれていれば、それでいい。
そんなことを考えてから、僕のことを気にするひとは誰もいないのだろうと気付いて、じくりと胸の奥が鈍くきしんだ。
運動靴に履き替えて、みんなと並んで歩いた海沿いの道をひとりで行く。ただただポケットに両手を入れて歩いた。ザザ、と時折海が鳴く。足早に潮風を切っていれば、そこに湿った雨の匂いが混じりだし、あっという間に空を雨雲が覆う。
「なんだよ、本当に降るのか」
小さく悪態を空へ投げれば、それを合図にしたかのようにポツリと頬に落ちる雨。それはあっという間に大粒へと姿を変え、強い風までもが吹き荒れてきた。傘なんてもっていたら、あっという間に空へ飲み込まれてしまっただろう。
そこで僕はふと、あることに思い至った。
──猫は、大丈夫だろうか。
終業式の日以来、僕らがそろってあの広場を訪れることはなくなっていた。それでも僕が行けば殻になった缶詰が置いてあったり、汚れたタオルが新しいものと取り換えられたりしていたので、拓実や莉桜もそれぞれに世話をしに来ていたのだろう。
今ではあの猫だけが、唯一僕らを繋いでくれる存在のようにも感じられていた。
「いつか、胡桃に会わせようと思っていたのに……」
最近ではそう思っていたことすら忘れてしまっていた。いや、考えないようにしていたのかもしれない。
バチバチと容赦なく打ち付ける大粒の雨。それを降らせるグレーの敵をキッときつく睨み上げる。びゅうびゅうと耳たぶを引きちぎらんばかりに向かってくる風は、小さな猫にとっては大きな脅威だろう。もしも高波が来てしまったら、堤防があるとは言え、安全とは言い切れない。
「急げ、急がないと」
家とは反対方向へと、僕は走った。ぐんぐんと押し戻そうとする雨風と、それに逆らう僕。
あの猫を、救いたかった。僕らを繋ぐあの小さな存在を、どうしても守りたかった。今度こそ、失いたくなかった。
やっとの思いで広場へ到着した僕は、急いで子猫の姿を探す。ところが、木の茂みにも、びしょ濡れになった段ボールの中にもその姿はない。靴の中まで浸水していて、一歩出すたびに靴の中でぐしゃっと嫌な感触が響いた。
「出ておいで、大丈夫だから。怖かっただろ、もう大丈夫だよ。僕が絶対に守るから」
そこには、僕以外誰もいなかった。僕たち四人と一匹の猫がいたこの場所には、もう誰もいないのだ。
「僕は……どこで間違ったんだろう」
ぽつりとこぼした言葉は、大粒の雨によって地面へと打ち付けられる。
「ただただ大事で、みんなで一緒にいたかっただけなのに」
なぜだろう。何がいけなかったんだろう。いや、すべてが間違っていたんだ。壊したのは、僕自身。
あんなに楽しくて、あんなに幸せだったのに。大事にしていたはずなのに。
サァッと視界が急に明るくなった。モノクロになっていた海と空を裂くように、まぶしい光が僕を照らす。その光はチカチカと何度か瞬きを繰り返し、僕は思わず目を細めた。
──瞬間、くらりとした眩暈に襲われた僕は、光の中で意識を手放したのだった。