「記憶障害とは、認知症などの病によるものや、頭部損傷による外的要因が──」
「ずいぶん難しい本、読んでるね」
誰もいない放課後の図書室で分厚い本を開いていた僕は、思わぬ声にヒェッと情けない悲鳴を上げる。そんな僕を見て、いつの間にか真横から僕の手元を覗いていた女性はひゃっひゃっひゃと愉快そうに笑った。
「わたし、高野。ここの司書やってんの」
知らなかったでしょ、わたしもキミのこと知らないもん、と高野さんはまたしゃくりあげるように笑った。
高校の図書室。それは建物の中に当たり前のように存在していたけれど、この瞬間まで僕は、図書室を利用したことがなかった。だからこそ、うちの図書室に司書さんがいるということも、いま初めて知ったわけである。
「記憶障害なんて、難しいこと調べてるね」
ちら、と机に積まれた本たちに視線を走らせた高野さんは、そのまま僕の向かいの席へ腰を下ろした。司書さんとは、一緒に本を読む人だったのだろうか。
僕がきょろきょろと図書室内を見回すと高野さんは机を肘にたて、頬杖をついた。
「別にいいじゃん、誰もいないんだし」
金色とまではいかないけれど、かなり明るく脱色された長い髪の毛は、高い位置でポニーテールにされている。真っ赤な無地のエプロンの胸元には大きなキャラクターがついたボールペンがいくつも。
司書と言えば、もっと落ち着いたイメージだった。髪の毛の色は黒で、シンプルな服装に紺色とか深緑のエプロンをしていて、みたいな。
「もしかして、三年一組の生徒?」
僕のイメージとは正反対の装いの司書、高野さんは、トンと人差し指で本の表紙を叩く。キラリと爪先でラインストーンが光った。
胡桃が事故による記憶障害を負ったことは、職員会議でも取り上げられただろう。高野さんはそのことから、僕と彼女を結び付けたようだった。
「事故による記憶障害って、治ることはないんでしょうか……」
僕は高野さんの質問には答えず、しかしぽつりと口を開く。それを質問への肯定と受け取ったのだろう。高野さんは、僕が積み上げた『脳科学』『記憶の不思議』などといった本の背表紙を視線でなぞった。
「脳の細胞が傷ついてしまった場合、それは難しいだろうね」
高野さんの冷静な言葉。僕の心臓は、途端に血管を細くしたかのようにひゅっと苦しい痛みを放った。
朝のホームルームが終わったあと、拓実と莉桜、そして僕は担任から呼び出されていた。普段から胡桃と親しくしていたのを知っていたからだ。
そのとき、担任は確かにこう言っていた。
『中田の記憶障害は、脳の細胞の一部損傷によるものだ』
──と。
つまり、胡桃が記憶を取り戻すことは限りなく不可能に近い。
その残酷すぎる事実に、僕はがくんと頭を下げる。途端に体の力が入らなくなってしまったのだ。
「ちょっと、大丈夫?」
つむじの向こう側で、高野さんの声がゆらゆら揺れる。
体中の血液がこめかみに集中してしまったかのように、その部分だけがやたらと熱い。それなのに、心臓のあたりがひどく冷たいのだ。
「ちゃんと息吐くことに集中して。そうしたら、自然と吸うこともできるから」
体の奥で、赤いサイレンがピコンピコンと光を放つ。意識が遠のきそうになる中、僕は高野さんの言う通りに、細い息を吐き出すことに全神経を集中させた。
「……落ち着いた?」
しばらく深い呼吸を繰り返した僕は、やっとまともに顔を上げることができた。
「はい……すいません、なんか」
「いいよ、そんなの」
よくあることよ、とカラリとした口調で言った高野さんは、カチカチとキャラクターのついたボールペンを何度か無意味にノックする。
「事故に遭った生徒と、仲、よかったの?」
「……はい。いつも四人で一緒にいて」
「そっか……。それじゃあ、ショックも大きいよね」
高野さんの言葉に、僕はぼんやりと天井を見上げた。
昼休み、ネットで事故のことを調べた。胡桃の名前は明らかとなってはいなかったが、その事故が起きたのは夏祭り当日。午後七時のことだった。
「僕が……」
「ん?」
「僕がいけないんです……」
そのときからずっと、頭の中に浮かんでは無理やりに沈めたひとつの想い。
──もしも僕があんなことを言わなければ。
──三人でも夏祭りに行っていれば。
胡桃が事故に遭うことは、なかったかもしれない。記憶を失うことだって、なかったかもしれない。
「僕のせいだ」
出会わなければよかった、なんて。
まさか本当に、胡桃の記憶が出会う前に戻ってしまうなんて思わなかったんだ。
自分の声に乗って耳へと入ってくる事実と憶測は、想像以上に僕の心をえぐっていった。
自分の犯してしまった過ちと、それ故に起きてしまった災難。僕の行動ひとつで、胡桃は事故に遭わずに済んだかもしれない。
後悔なんて、してもしきれない。
「だけど、時間は戻らない」
高野さんは、静かにそう言った。
どれほどに後悔しても、やり直したいと願っても、過ぎた時間は戻らない。運命は変えられない。
僕はもう一度、ふぅーっと長く細い息を吐き出した。
今の僕ができることは何なのか。
それを考え、ここへ来た。
記憶障害とは、どういうことなのか。それを理解することが、今の胡桃を理解することに繋がると思った。
そして、僕の軽率な言動でバラバラになってしまった四人の絆を、結びなおす。
それが、後悔を抱える僕に残された、今できる精一杯のことだ。
「キミたちのこれからに、奇跡はきっとあるよ」
高野さんは、優しい音色でそう言った。
それは一見すればひどく無責任で、他人事にも聞こえる言葉だ。だけど〝奇跡〟という二文字は、僕の心に強く響いた。
僕は奇跡を、起こせるのだろうか──。
窓の外に目をやると、胡桃がクラスの女子たちに守られるように囲われながら、校門を出ていくところだった。