高校三年生の夏は、からっぽのまま過ぎていった。
蝉の鳴き声を煩わしいと言いながらアイスを食べることもなく、砂浜で水をかけあって遊んだりすることもなく、夜のビーチで花火をすることもなく。そしてもちろん夏祭りだって行かず、ただ時計の針だけが進んでいった。
あの後、僕たちは誰からともなく連絡を取ることを避けた。
『あの日は僕の勝手な行動で、みんなに嫌な思いをさせてごめん』
そんな内容のメッセージを何度も打っては消すということを繰り返し、結局僕らの最後のやりとりはあの日の朝のもので終わっている。
直接顔を合わせれば、もう少し自然な流れで謝れるだろうと思いながらも、幸か不幸か夏休み真っ只中。偶然出会うなんてこともなく、拓実とはどういうわけかシフトが被ることもなく、ただ日々だけが過ぎていった。
「えーっとな、まずみんなに説明しておかないといけないことがあってな」
新学期初日、朝のホームルームで担任がガシガシと後頭部を掻いた。
朝からバタバタしていて始業時間ギリギリに教室に滑り込んだ僕は、拓実と莉桜の姿は認めたものの、胡桃が教室にいないことに小さな不安を感じていた。風邪でも引いたのだろうか。ずっと連絡を取っていなかったから近況を全く知らないのだ。
「中田なんだが、夏休み中に事故に遭ってな。記憶の一部が──」
キィンと鋭い耳鳴りが、僕のことを襲った。
担任によると、夏休みのある夜、彼女が乗ったバスにトラックが突っ込むという事故が起きた。不幸中の幸いで、運転手や乗客に命に関わるような重傷者は出なかった。
しかし、トラックが衝突した側に座っていた胡桃は頭を強打。その後遺症として、記憶障害が起こってしまったとのことだった。
三週間ほどの入院を経て、現時点での日常生活への支障はないと診断された胡桃は、担任の説明のあとに緊張した様子で教室へと入ってきた。それから「よろしくお願いします」とぺこりと頭を下げたのだ。
僕と彼女の視線は、一度も交わることはなかった。
「あの、くる……中田さん……」
昼休み、僕は意を決して彼女の元へと向かった。彼女は莉桜と一緒に弁当を広げていて、きょとんとした様子でこちらを見上げている。そこには前回別れたときの、悲しみややるせなさといった色は全くといっていいほど含まれていなかった。
そのことが、僕の小さな望みを打ち砕く。
「えっと……」
「同じクラスの、石倉葉だよ」
「いしくらくん」
助け舟を出した莉桜に次いで、胡桃が僕の名前を口にする。見知らぬものを、記憶するように。
それがひどく、ショックだった。
仲良くなる前、彼女は僕のことを「石倉くん」と呼んでいた。どこか怯えたような、警戒したような目をしながら距離を保っていた彼女。そんな彼女が、再び僕の目の前にいる。僕のことを「葉!」と呼び、屈託ない笑顔を向けてくれた彼女はもういない。
──彼女は、僕を忘れてしまったのだ。
「学校のこととか家族のことはわかるんだけど、クラスメイトの顔や名前があやふやで……。小学校の頃のこととかは覚えているのに、高校に入ってからのことはほとんど思い出せないの。ごめんね」
申し訳なさそうに微笑む胡桃と、僕から視線を逸らしたままの莉桜。
拓実は教室にはいなかった。二限の休憩時間に胡桃に声をかけていたのを見たから、もう彼女の記憶に自分たちとの思い出がないことは確認済みなのだろう。
「いや……。中田さんが謝ることじゃないし、これからまた、思い出を作っていけばいいし」
どこかカタコトのようなぎこちなさを含む、僕の言葉。
今の彼女に、これ以上眉を下げさせたくなくて、僕は必至に自分を保つ。
それに、この言葉に嘘はないのだ。彼女はすべてを忘れてしまったわけではない。失くしてしまった記憶だって、いつか何かのタイミングで取り戻すことはあるだろうし、絆や思い出だってこれからまた作っていけばいい。
「ありがとう、石倉くん」
拓実も莉桜も、胡桃も僕も、ちゃんとこの場所にいる。当たり前に顔を合わせ、会話ができる距離にいる。
それならば大丈夫。絶対に大丈夫。僕たちならば大丈夫なはずなんだ。
僕は自分にそう言い聞かせ、「それじゃ」とその場を去った。