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「ラブとライクの違いってなんだと思う?」
正座をする僕の前で、「なにを突然」と拓実がせんべいをかじった。
胡桃と別れる頃には雨はすっかり上がっていた。
どこかでご飯でもと思っていたけれど、胡桃のスマホにお母さんから連絡が入ったのだ。なにとは詳しく聞いていない。だけどすぐに帰らないと、という胡桃を僕はバス停で見送った。そこから拓実の用事が終わるのを待ち、そのまま家に上がり込んだというわけである。
「恋愛経験豊富な拓実を見込んで、真剣に聞いてるんだよ。拓実は莉桜のことを特別って言ってたけど、ラブとライクならどっちになるわけ?」
身を乗り出して問いかけても、拓実は漫画本を棚から出して開きながらせんべいをまたかじる。僕の話は片手間で十分とでも思っているのかもしれない。
「ちなみに、〝スペシャル〟って回答は無しな? ラブかライクの二択で!」
拓実の読んでいたバスケット漫画を取り上げた僕は、こほんと咳払いをして姿勢を正すと、拓実にも正座するように促した。
あとから思えば、こんな中学生のような質問に渋々といった様子ながらも答えてくれる拓実は本当にいいやつだ。胡座はかいたままだったけど。
「そんなの考えたこともない」
「じゃあ、今考えてみてよ。どう? ラブ? ライク?」
「お前は? 胡桃のこと、どう思ってんの?」
まっすぐに放たれた問いに、僕はウッと言葉に詰まる。僕が本当に知りたい部分を、ずばりと言い当てられたからだ。
胡桃のことをかわいいと思う。愛おしいと感じるし、笑っていてほしいと願う。一緒にいて楽しくて、もっと色々な表情を見てみたい。
それが友達としての想いなのか、それとも恋愛感情なのか、ずっとあやふやで過ごしてきた。だけどそろそろ、曖昧にしておくのも限界がきたようだ。僕は自分自身のこの想いの正体を、はっきりとさせたくなったのだ。
「なんだ、簡単なことだよ」
僕の説明を一通り聞いた拓実は、そう言って軽やかに笑った。こういうとき、やっぱり拓実は恋愛をたくさん経験してきているのだなと感じる。多分こういうものは、実際に自分が通ってみないとわからないものだ。
「他の誰にも渡したくなくて、触れたいと思うのが恋愛感情」
拓実曰く、恋愛関係になるかならないかは、具体的な接触が大きな鍵のひとつとなるらしい。
「葉は莉桜のこと綺麗だって言うじゃん? あいつのことも、ひとりの人間として好きだろ? でも、手を繋ぎたいと思うか?」
拓実の質問のふたつには顎を引き、最後のものには首を横に振って答える。
莉桜は大事な友達で、かけがえのない仲間だ。美人だと思うし信頼もしているけれど、別に手を繋ぎたいとは思わない。むしろ、そんなことを想像したこともなかった。
「じゃあ、胡桃は?」
すべてを見透かすような拓実の視線から、僕はゆるりと顔をそらす。一気に恥ずかしさがこみあげてきたのだ。ぽっぽっと顔に熱が集中する。
あたたかくて小さな、胡桃の手。長い指と、珊瑚のような淡いピンク色の形のいい爪は女の子特有のしなやかさを持っていた。
そんな彼女の手の感触がリアルに蘇ってくる。触れられた右手の甲がやたらと熱く感じられ、僕は大きく息を吐いた。
──こんなの、どう考えても〝恋〟でしかないじゃないか。
正体のわからなかった感情が、くっきりとした輪郭を持つ。そうすると頭の中もクリアになっていくようだ。
「な、簡単なことだろ?」
ふふんと笑った拓実は、再び漫画を手に取った。今度は僕も、それを取り上げるようなことはせず、照れ隠しにせんべいをかじった。
やっぱり、拓実は恋愛の上級者だ。僕がずっとウンウン唸って考えてもわからなかったことを、シンプルな基準で答えに導いてくれた。
しかしそこでふと、純粋に疑問が浮かぶ。
「拓実って、やたら女子に触るよな?」
「言い方ってもんがあるだろー? 俺は、スキンシップが多いだけ」
「同じじゃん」
苦笑いしながらも、僕は普段の拓実の行動を思い返す。結構な頻度で女子の肩にトン、と手を置いたり、言い寄ってきた子たちの頭をぽんぽんと撫でたりしている。
少女漫画の王子か?と思わないでもなかったけれど、実際それを嫌味なくやってのけるのが拓実だ。
「葉にもスキンシップのコツ、教えてやろうか?」
「いや、そうじゃなくってさ……」
そんな拓実だが、あれほど近い距離にいる莉桜に触れている場面は見たことがない。
例えば、胡桃と莉桜の頭に葉っぱがついていたことがあった。それに気づいた拓実が、胡桃のものは直接取ってあげていたのに対し、莉桜には口だけで伝えていたのだ。莉桜がなかなか、それを取ることができずにいたのにも関わらず。
それが僕の目には反って、不自然にも映った。
「頑なに莉桜に触ろうとしないのは、なにか別の理由があるわけ?」
拓実は驚いたように僕を見ると、「葉にしては鋭いな」と苦笑いする。
やっぱり僕の感じた違和感は、思い過ごしではなかったみたいだ。
「莉桜の場合は、そうだなぁ……。触れたいと思わないっていうよりは、触れちゃいけない、って感じに近いかも」
「なんだよそれ」
「いや、俺もよくわかんない」
僕らは一旦拍子をあけてから、顔を見合わせて笑った。
実際、僕には拓実の言っていることがよくわからない。だけど僕だって、胡桃の手にまた触れたいと思う反面、触れたら何かが壊れてしまうんじゃないかと怖く感じる気持ちもある。
繊細な年ごろである僕ら男子には、言葉では説明できない複雑な気持ちがあるものなのだ。
「で、どうすんの?」
「どうするって、なにが?」
「好きだって気付いたなら、その先は? 告白とか」
「こくはく……」
告白がうまくいけば、基本的には恋人同士になるはずだ。そんなことになれば、それはどんなにいいことか。だけどもしも振られたら、その後はどうなるのだろう。今までと変わらずに、一緒にいることができるのか。莉桜や拓実との関係は? 四人で過ごす居心地の良い場所を、失わずにいられるのだろうか。
「……っていうか。胡桃はいま、片思い中だって言ってた……」
こんなに大事なことを、どうして僕は忘れていたのだろう。ふわふわと浮足立っていた心は、ざばりとバケツの水をかぶされたように、一瞬でずぶ濡れ状態になってしまう。
「その片思いの相手が葉かもしれないし」
拓実の一言で、しゃきんと伸びる僕の背中。
「まあ、別の誰かかもしれないけどな」
今度はへにゃりと崩れる僕の背中。
拓実はおもしろそうに声を上げて笑ってから、そんな僕の肩をぽんっと力強く叩く。
「葉が自分の気持ちに気付いたところが、まずは第一段階なんじゃないの。あとは葉のペースで胡桃と向き合っていけば。恋愛感情を意識しすぎると、それまで自然に成り立っていたことがうまくいかなくなることもあるしな」
そんな経験をしたことがあるのだろうか。拓実はそう言って、にかっと白い歯を見せた。
拓実という人間は、基本的にこちらの言動を否定するようなことがほとんどない。それは胡桃や莉桜に対しても同じだ。その一方で僕は彼らに対し、「こうしたらいいのに」とか「本当はこうなんじゃないのかな」などと憶測を働かせてしまう。
さすがに口に出すことは、だいぶ我慢できるようにはなったけれど。
「仲間がいて、好きな子がいて……か。なんだかドラマみたいだな」
スマホのカメラロールを開き、四人で撮った写真を眺める。みんないい表情をしている。信頼しきっていて、楽しんでいて。
あえて変化させなくたって、僕のそばには胡桃がいる。拓実がいて、莉桜がいる。これ以上なにかを望んだら、バチが当たりそうだ。
はあ、と僕は、落胆とも感嘆とも言えぬため息を天井に向かって吐き出したのだった。