結局、三十分ほど経ったところで拓実からメッセージが入った。
『まだかかる。先帰ってて』
だから僕たちはふたりで、並んで校門を出たのだ。淡いブルーの小さな折りたたみ傘の中、肩を寄せ合って。
「マジでごめん! まさかアルミホイルが入ってるとは……」
僕の言葉に胡桃がころころと笑う。その度に、シャンプーの香りが隣で揺れた。
梅雨入りしたと気象庁が発表したのは一週間ほど前。そんな今日は、午後から雨が降る〝かもしれない〟という予報だった。だから僕は部屋の隅に置いてあった黒い折りたたみ傘をリュックに押し込んだのだ。カバーに入れられたそれは、確かに傘同様の重みと形を保っていた。
ところがつい五分前、僕がリュックから取り出したのは、折り畳み傘のカバーに入った、アルミホイル──芯に巻き付いたままのもの──だったのだ。
「妹がやったんだと思うけど」
はあ、と僕がため息をつくと胡桃が意外そうな顔をした。
普段あまり、妹の話はしないようにしている。というよりは、家庭の話だ。僕が暮らす家はちょっと事情アリなので、その話をして周りに気を遣わせるのが嫌だからだ。
小学校や中学校のときには親同士のネットワークみたいなものがあり、僕の特殊事情はみんなの知るところではあった。しかし、高校ではそんなことを知る人も少ない。それがとても気楽で、だからこそ僕は胡桃たちにも話していなかったのである。
「葉、妹がいたんだ。知らなかった」
別に自分のことを不幸だなんて思わないし、むしろとても恵まれていると思う。話さなかった理由は、気を遣わせたくないというシンプルなものだったけれど、ここまで仲良くなっておいて話さないというのもなんだか不義理な気もする。
そこで僕は、努めて明るく事情を話すことにした。胡桃がおばあちゃんの話をしてくれたということも、僕の背中を後押しした。
「──うちの両親さ、本当の親じゃないんだ」
その一言を発するのには、自分で思っていたよりも大きな勇気が必要だった。僕はそのことに、言葉を放ったいま、気付いたのだ。
「小学校にあがる前に、シングルマザーだった母親が突然いなくなったんだよね」
しかし話し出してしまえば、スルスルと口からは過去の出来事が滑り出した。
母が消えた理由は今でもわからないし、生きているのか死んでいるのかもわからない。そんな僕を引き取ってくれたのが、母親の兄である叔父。その後、叔父は結婚し、養子縁組により正式に僕を息子として迎え入れてくれたのだ。
「しばらくしてから、妹が生まれた。叔父さんも叔母さんも優しいし、妹の鈴はかわいいし、特殊だけど不幸とかじゃ全然ないし。そうそう、叔母さんの作る酢豚は絶品でさぁ」
ぺらぺらと僕はしゃべった。
噓じゃない。噓じゃないんだ。
それでも胡桃の反応を見るのが怖くて、僕はひとりでひたすらにしゃべっていた。
思い返してみれば、こんなふうに家のことを自分から話したのは、初めてのことだ。
「叔父さんは昔からずっと優しいし、叔母さんだって目の上のたんこぶでしかなかったはずの僕を受け入れてくれてさ。年が離れた鈴だって、僕のことを〝おにい〟なんて慕っていて」
そうだ。僕は本当に恵まれている。すごくすごく、幸せなんだ。ちょっと変わった家庭環境かもしれないけれど、だからって不幸だなんてことはきっとなくって──。
「それで……」
──それでも僕はいつだって、自分がどこにも存在していないように感じていた。
「……葉?」
自分の心に突如浮いてきた本音に、僕の足はぴたりと止まった。心の小さな躓きは、保っていたバランスをいともたやすく崩していく。
不幸じゃない、不幸じゃない。
だけどそうやって言うってことは、不幸だと思っている本音を、隠すためなんじゃないのか?
「僕は、不幸なのか……?」
僕の自問自答は、パタパタと足元に落ちる水滴と共にアスファルトの色を染める黒の一部になってしまう。
じめじめとした雨と熱のこもった匂いが、肺の中に広がっていく。スニーカーの上、大きな水滴がぽたんと落ちて、じわりと大きなシミとなる。傘の露先から落ちたのだろう。
──わからない。自分のことなのに、よくわからない。
そのとき不意に、傘の柄を握る右手にやわらかなぬくもりが重なった。小さいと思っていた、彼女の左手。
「葉、見て」
ゆっくりと顔をあげれば、隣にいる胡桃は海を眺めている。いつの間にか、海の向こうには薄い光が差し込んでいたようだ。
大粒だった雨は霧雨のような細かいものに変わっている。灰色の雲が動き、徐々に広がっていく光の輪。それが照らした先には、美しい海がキラキラと輝きながら凪いでいた。
青と、白と、黄色と、金と、エメラルドグリーンと、群青と──。きっとこれが、〝ラズライト・ブルー〟。
そのコントラストは息を呑むほどに美しく、非日常を感じるほどに神々しくて。ガラにもなく、僕は泣き出したくなっていた。
どうして泣きたいのか、なんでそんな気持ちになるのか、よくわからない。だけどこみ上げてくるなにかが確かにあって、ごくりと喉が大きく上下してしまう。
「いいんじゃないかな、我慢なんかしなくても」
胡桃は海を見つめながら口を開く。
「全部全部、この青のせいにしちゃえばいいんだよ。あまりにも綺麗だったからさ、──って」
優しく細められた彼女の瞳に、情けない顔をした僕が映る。口元を歪めた僕の表情は、まるで小さな子供みたいだ。さらりと風が彼女の髪の毛をさらっていくと、薄茶色の向こうに光が透ける。
僕は心から美しいと思った。海と空と光と霧雨が織りなすこの景色を。そこにまっすぐに立つ、胡桃のことを。
「泣いてるの?」
優しく微笑む彼女が、わざとそう問う。
泣いてなんかいない。ただちょっと、ほんのちょっと。涙が込み上げてきただけなんだ。
胸いっぱいにこの空間を吸い込むと、瞳に張られた涙の幕が揺れ、キラキラと景色がきらめく。
「──あまりにも、綺麗だったからさ」
僕がその言葉をゆっくりとなぞらえれば、彼女は嬉しそうに目を細めた。