ふたたび鉄棒を掴もうと血に濡れた手を伸ばしたとき――。
「無駄だよ、あかり」
 背後からかけられた冷涼な声に振り向く。
 そこには嫣然と微笑んだ羅刹がいた。
 端麗な着物を纏った彼の傍らには、人間ほどに大きな狼が寄り添っている。
「グルルル……」
 灰色の毛並みの狼は、黄昏のような黄金色の瞳をしていた。
 はっとした私は、あの子犬の正体を知る。
「羅刹……あなたが悠たちをさらったのね! その狼が子犬のふりをしていたんだわ」
「その通り。こいつはタソガレオオカミといって、僕の忠実なしもべさ。子犬のように小さく変身できるから、現世に連れていくのも便利でね。うまくきみたちをおびき寄せられた」
 子犬に化けたタソガレオオカミは、私たちを監視していたのだ。私が意識を逸らした一瞬の隙に、悠たちを闇の路に連れ去った。路の途中で大型の獣が合流していたのは、タソガレオオカミが子犬から成獣に姿を変えたからなのだろう。
 すると羅刹が悠たちをさらったのは、計画的ということになる。
「マダラに紋を刻んで私たちを妨害させたのも、羅刹なのね。どうして、そんなことをするの?」
 いつも薄い笑みを浮かべている彼は真顔になる。
「どうして、か。あかりにそう問われると、傷つくね。僕はきみを花嫁にしたいと言っただろう。初めは夜叉を挑発するためだけだったけれど、あかりの優しさや芯の強さに惹かれてしまったんだ。ほしいものを獲得するためには、手段なんて選んでいられないんだよ」
 彼の狙いは私だったのだ。
 そのためにマダラや悠を利用した。
 優美な笑みの下に隠された冷酷な鬼神の本性を見て、驚愕に背を震わせる。
「私は、夜叉の花嫁なの。柊夜さんだけを愛しているの! だから、あなたの花嫁にはなれません」
 魂から迸る想いを率直に告げる。
 柊夜さんを、愛している――。
 その想いは、ずっと胸のうちにあった。
 けれど伝えるべき柊夜さんは、いない。
 愛してもいない男に初めて想いを告白することになるという皮肉と、その事態を招いてしまった己の浅はかさに愕然とした。
 私の想いを聞いた羅刹は、ぞっとするような冷徹な双眸を見せた。
「あかりの今の気持ちはね、あまり関係ないんだよ。子どもと夜叉がいなくなれば、きみは僕のものになるという道を選ぶしかなくなる。ひとりは寂しいからね」
「悠をどうするつもりなの⁉」
「この人喰い籠は腹を空かせていてね。神気にあふれた夜叉の赤子は、さぞ美味だろう。夜叉と赤子を亡き者にして、帝釈天に恩を売っておくのも悪くない」
 鬼神である羅刹には温情など持ち合わせていない。悠をいたぶるように殺すつもりなのだ。
 それでも彼の情けに縋ろうと、私は床に跪き、手をついた。
「お願いします、子どもの命だけは助けて! 私が代わりに生贄になります」
 お腹を痛めて産んだ我が子は、自分の命より大切な存在だ。
 私は、柊夜さんと悠がいてくれたおかげで、”愛おしい”という真の意味を知ることができた。
 悠を救うためならば、切り刻まれて帝釈天に差しだされてもかまわない。
 震えながら嘆願する私に、「ふうん」と思案げな声が降る。
 そのとき、タソガレオオカミが唸り声をあげる。すぐに扉に向かって激しく吠えたてた。
 はっとしてそちらに目を向けたとき、勢いよく扉が開け放たれる。
 漆黒の塊が室内に飛び込む。
 それは数多のコウモリだった。
 空間を覆い尽くすほどのたくさんのコウモリが、いっせいに部屋になだれ込んできた。
「あかり、無事か!」
 コウモリたちとともに駆け込んだ柊夜さんは、まっすぐに私のもとへ向かってくる。
 囚われていたマダラの仲間たちを解放できたのだ。
 柊夜さんにふたたび会えた喜びが、私の声を弾ませた。
「柊夜さん、ここです! 悠とヤシャネコが……」
 私を守るように抱きしめた柊夜さんは、人喰い籠に囚われた悠たちに目を向ける。
 もう鋭い針は小さな体を突き刺すほどに迫っていた。恐怖で伸び上がったヤシャネコにしがみついた悠が、声をあげる。
「ぱぱ!」
 悠が初めて、“パパ”と発した。
 その呼び声に触発され、柊夜さんの体から神気が漲る。
 強大な力の覚醒を感じた。
 私は間近で鬼神の本性が露わになるのを目にする。
 シャツが裂け、強靱な肉体が顕現する。振り乱れる漆黒の髪には凶暴な鬼の角、そして口元に獰猛な牙が生える。
 咆哮をあげた夜叉は、鉄棒を鷲掴みにした。頑強な腕から人外の力が迸る。ぐにゃりと、人喰い籠の形状がゆがんだ。 
「あわわ、今だにゃん!」
 伸びきったまま動けないヤシャネコを抱えた悠は、閉じ込められていた籠から這いずるように抜けだす。