ふいと、玉木さんは電車を待つ列を抜けだした。ひとけのないホームの端へ、ふらふらとした足取りで向かっていく。
 私たちもそのあとを追うと、彼のつぶやきが耳に入った。
「ああ、そうだね……ぼくなんか、世界から消えてもいいよね……そうしたら解放される……神になれる……」
 掠れた声で淡々と述べるさまは狂気を匂わせる。
 ふいに玉木さんは、なにかに操られたように頭をもたげて空を見上げた。
 そのとき、彼と対向してホームに電車が入ってきた。
「あっ」
 唐突に私の心臓が跳ね上がる。
 なんの前触れもなく玉木さんは、その体をぐらりと傾げた。
 電車に轢かれることを望むかのように。
 ホームに飛び込む寸前、咄嗟に駆けた柊夜さんが浮き上がる体を抱き留める。
「うっ、うわあああぁ……はなせええぇ……!」
 玉木さんの絶叫が通り過ぎる電車の音にかき消される。
 すかさず羅刹が指先で五芒星を描いた。
 青白い光を突き抜けた腕が、玉木さんの首の後ろを掴む。
 ずるりと黒い物体が引きずりだされた。
 羅刹のてのひらに収まるほどのそれは、丸みを帯びたぬいぐるみのような形をしている。手足かと思える小さな突起がばたついて、不穏に蠢いていた。
「ピキッ! ギッギギ……」
「玉木さんに取り憑いていたのは、このあやかしだったんですね」
 あやかしが暴れるたびに、がさがさと紙袋が擦れるような音が鳴る。
 ぬいぐるみは被り物らしい。だから私にも姿が見えるのだ。
 真っ黒な袋を取ってあげようと手を伸ばしかけると、羅刹がひょいと掴んだあやかしを上に掲げた。
「おっと。さわってはいけないよ。この器の下の本体を見た者は、死ぬと言われているからね」
「えっ⁉ それじゃあ、このあやかしは……」
「そう、ヤミガミだ。こいつは心の弱い人間に取り憑いて、悪事を行わせるのさ。もっとも玉木さんのような善人は、自分の身を傷つけるという方向へいってしまったようだけれどね」
 このあやかしが、会合で話題にあがったヤミガミだったのだ。
 羅刹は事も無げに、ヤミガミを握り潰す。
 ピキィ……と切なげな悲鳴をあげて、ヤミガミの黒い体は消え去った。
 器も、その下にあるはずの本体も、塵のように消滅してしまう。羅刹のてのひらから、かすかな黒い煙が立ち上った。
「え……殺してしまったんですか⁉」
「いいや。死んだわけでも、消滅したわけでもないよ。散ったんだ。ヤミガミは現世の塵のようなものだから、また現れる」
 はらりと、ヤミガミが纏っていた黒い布の切れ端がホームに舞い落ちる。それも霧のように儚く溶けて消えた。
 柊夜さんが支えていた玉木さんは、呻き声をあげる。意識が戻ったようだ。
「玉木、しっかりしろ」
「う……うぅん……あれ、課長? それにみなさんも。いったいどうしたんですか」
 私たちを見回した玉木さんは、夢から醒めたように瞬きをした。
 取り憑いていたヤミガミが離れたので、もとに戻ったのだ。
「きみは貧血を起こして、少々意識を失っていたんだ。偶然通りかかった我々が気づいてよかったな」
「あ……そうだったんですか。ご迷惑をおかけしました。気分はすっきりしているので、もう大丈夫のようです」
 立ち上がった玉木さんはそれまでの記憶が抜け落ちているようだ。何度も首を捻っている。
 もしかしたら、イケメンに嫉妬したときの負の感情が、ヤミガミを引き寄せたのかもしれない。
「ぼく……不思議な夢を見ましたよ。それまで神様だったぼくは降格されて、絶望するんです。その哀しみを誰かにわかってほしくて、よくないことをしようとするんですよね……どうしてあんな夢を見たのかなぁ」
 それは操られていたときに見た、ヤミガミの記憶だろうか。
 堕落した神と言われるヤミガミの哀しい一片を垣間見た私の胸が引き絞られる。
「自分の気持ちをわかってほしいという思いは、誰にでもありますものね」
「ええ、まあ……でも普段はそんなこと考えないんですけどね。人付き合いなんて面倒ですから」
 けろりとした玉木さんは私たちに礼を述べると、次の電車に乗って帰宅した。
 彼方へ去っていく車両を見送り、柊夜さんは双眸を細める。
「現代社会の闇だな。ヤミガミは今後も人間の心の隙間にもぐり込むだろう」
「哀しいあやかしですよね……」
 本当は誰かにわかってほしいのに、その姿を見せようとはしないという矛盾が、現代社会に生きる人々に似ている気がする。ヤミガミには悪意があるのではなく、己を理解してくれる人を探しているように思えた。
 しんみりした思いを抱え、私たちはホームを出ようと足を向ける。
 そのとき、ぎらりと羅刹が視線を巡らせた。
 素早く腕を上げた彼は五芒星を飛ばす。
「キキッ」
 青い光に撃たれたものは、ぽとりとホームに転落した。
 それは小さなコウモリのようだ。黒い羽をばたつかせている。
「どうして撃ったんですか? かわいそうです」
 素早くコウモリを拾い上げた羅刹は、口元に弧を描く。
 その笑みに悪意の片鱗を見て、私の背筋が怖気立った。
「ヤミガミかと思ったんだ。僕の思い違いだったようだね」
「羅刹。そのコウモリは……」
 柊夜さんが声をかけたが、羅刹はすぐにコウモリを空に向けて解き放つ。
 小さなコウモリは慌てたように飛んでいった。幸いにも、怪我はなかったようだ。
 けれど、その背に五芒星の印が刻まれているように見えたのは、目の錯覚だろうか。
 瞬いたときにはもう藍の天に紛れ、コウモリの姿は消えていた。
「気にすることはないよ。この世には、あらゆるものが闇に蠢いているからね」
 なんでもないことのようにつぶやいた羅刹は踵を返す。
 柊夜さんのあとに続いて、私も階段へ向かった。
「さあ、保育園へ迎えに行こう。悠が待っているだろう」
「ええ……そうですね」
 一度だけ振り返ると、ホームの向こうに見える切り取られたような夜空には、静かに星だけが瞬いていた。