しん、とフロアが静寂に包まれる。
 私の体はまるで石像のように固まり動けない。
 一瞬ののち、驚愕の声が響き渡った。
「よりによって星野さんなの⁉ 神宮寺さん、もしかして知らないのかしら。星野さんは鬼山課長と結婚してるのよ」
「もちろん、それは知っていますねえ」
「だったら、どうして⁉ 星野さんはおひとりさまを装っておいて、ちゃっかり課長と結婚したくせ者よ!」
「そうよ、べつに美人でもないのに、どうしてイケメンばかり星野さんを好きになるわけ⁉」
 言われ放題だが、柊夜さんとは政略結婚であり、羅刹は鬼神の眷属という事情が挟まっているのである。それをみんなに打ち明けられないのが切ない。
 それにしても、いったい羅刹はどういうつもりなのだろうか。
 柊夜さんに対抗したいのなら、彼の前だけで主張すればよいのに、社内で堂々と私を交際相手に指名するだなんて、火の粉を撒き散らすのも同然である。私の目眩がとまらない。
 詰め寄る女性たちに、羅刹は流麗な容貌をきりりと引きしめて言い放つ。
「相手の肩書きや外見で恋するかどうかを判断するわけではありませんから。恋心って、そういうものでしょう」
 ふたたびフロアが水を打ったように静まり返った。
 正論だ……。説得力のある羅刹の発言に誰も言い返せず、女性たちはうつむく。
 けれどそれは略奪愛も厭わないというわけで。
 柊夜さんがこの場にいなくてよかった。もし旦那様である鬼山課長がいたなら、収まりがつかなかったところだ。
 この空気に耐えきれなくなった男性社員たちはフロアから、忍び足で脱出しようとしていた。 
 だが出入口で「ひっ」と細い悲鳴をあげ、彼らは慌てて走り去っていく。
 何事かと振り返った私は息を呑んだ。
「聞き捨てならない台詞を耳にしたが、どういうことだろうか。神宮寺さんに説明を求める」
 鬼のような形相の柊夜さんが私の真後ろに佇んでいた。本物の鬼だけど。
 これまでで最強の低音である。地獄の底から響いてきたかのような柊夜さんの声に、なぜか玉木さんがこっそり私の背後に身を隠した。
 最悪の状況を生みだした責任の一端は玉木さんにもあると思うんですけども?
 悠然とした微笑を浮かべた羅刹は臆することもなく、女性たちの輪を抜けだす。
 彼は堂々と胸を張り、柊夜さんと対峙した。
「僕は星野さんを花嫁にします。どんな手段を使ってもね」
「貴様の浮ついた信念は承知している。明日には戯れ言だったと、てのひらを返そうが俺は許そう」
「どうかな。案外本気かもしれませんよ。寝取られてもその寛大な心で許してくださいね、鬼山課長」
「ほう。いい度胸だ」
 ふたりの鬼神は一歩も引かず、火花を散らす。
 幕を開けた新たな戦いは、ついに部署内に知られることとなってしまった。
 間に挟まれた私は鬼ににらまれた蛙のごとく、身動きがとれない。
 私たちを取り囲んだ女性たちが行く末を見守るなか、背を丸めた玉木さんはフロアから出ていった。
「イケメンはなにを言っても認められるんだからなぁ……ぼくに人権はないのか、まったく……」
 玉木さんにとっては、のけ者にされたように感じたらしい。
 そのとき彼の背に、フッと黒い靄のようなものがくっついた気がした。
「えっ」
 驚いた私は目を瞬かせるが、すでに玉木さんは廊下の向こうへ去っていた。
 今のは、なんだろう。なにかの影と見間違えたのだろうか。
 確かめたかったが、柊夜さんと羅刹に腕をとられて会議室へ連行される。
 両脇の鬼神がにらみ合っている狭間で食べるお弁当はまったく味がわからない。圧迫感がすごい。
「あかり。俺の玉子焼きをやる。好きだろう?」
「あかり。このお茶を飲んでみなよ。僕がブレンドした美容にいいお茶なんだ」
 生返事をしつつ、ふたりの好意を受け取る。
 このふたりは、むしろ仲がよいのではあるまいかと思い始めてきた。妙に息が合っている。なにより、ふたりとも私を花嫁にしたいという奇特な好みである。さすがは鬼神というべきか。
 それにしても、先ほど玉木さんに襲いかかるように射し込んだ影が気になる。
 性悪イケメンたちにちやほやされるという、悪夢のごときお昼休みをようやく終えた。
 やがて玉木さんも、企画営業部のフロアに戻ってきたのを見届ける。
 私はデスクからそれとなく彼の様子を観察した。
 特に変わったところは見られない。相変わらず玉木さんは猫背でパソコンを見つめている。電話対応するときは呪いをつぶやくような小声だ。いつもどおりである。
 だが羅刹と業務について話しているとき、玉木さんはしきりにこめかみに手を当てていた。彼の癖だろうか。
 やがて終業時間を迎えた。
 私は時短勤務ではあるのだけれど、お迎えが遅れることをすでに保育園に連絡して残業という形にした。
 玉木さんは頭痛でもするのか、額を押さえながら早々にフロアを出ていく。そのあとを追うように、羅刹も退勤していた。