「まだ妊娠と決まったわけじゃないものね」
 もう少し時間が経過しても月経が訪れなかったら、妊娠検査薬を試してみよう。検査薬が使用できるのは月経予定日から何日後だったかな……。
 そんなことを考えながら、企画営業部のフロアへ戻る。
 するとそこでは、羅刹もとい神宮寺さんに群がる女性たちが争いを繰り広げていた。
「神宮寺さん、私とお昼に行きましょうよ。お弁当を作ってきたんです」
「あら、本田さんが料理ができるなんて初耳だわ。それに神宮寺さんは私と約束していたのよ」
「なんですって⁉ そんなことないでしょ。ねえ、神宮寺さん」
 本田さんを含めた独身女性たちは、イケメンの羅刹を落とそうとライバルを牽制しつつ懸命にアプローチを仕掛けていた。
 彼の正体は鬼神なので、近づかないほうが平穏な人生を過ごせると思う……。
 心の中でつぶやいた私は目立たないよう、こっそりデスクに戻ろうとした。
 が、思わぬ人物に捕まってしまう。
「星野さ~ん! なんとかしてくださいよ」
 私に追い縋るように走り込んできた玉木さんに泣きつかれる。
 彼は羅刹とペアになり、会社の先輩として仕事を教えていたはずだけれど。
 新たな火種となった私を、お願いだからこれ以上は巻き込まないでほしい。
 しかし気の毒な玉木さんを追い払うことなどできるはずもない。会社の同僚として状況をうかがってみた。
「どうしました、玉木さん?」
「神宮寺さんに近づけないんですよ。まだ仕事の話があるのに。お昼休みが近くなると、女性たちがぼくを押しのけちゃうんです。ぼくが注意すると鬼みたいな顔するのに、神宮寺さんには女神の微笑ですよ。それを鬼山課長に訴えたら、なんて言われたと思います?」
「……答えがわかりそうな気もしますけど、一応聞いておきますね」
「こうですよ。『人は誰でも鬼なのだ』だって! つまり、どうしようもないって言いたいらしいです。ひどいじゃないですかぁ」
 ご丁寧に玉木さんは、柊夜さんの台詞の部分を真似てくれた。けっこう声色が似ているのでイメージが浮かぶ。
 あなたがそれを言うな、と突っ込みたいですよね……。
 苦笑いをこぼしつつ課長のデスクに目をやると、無人だ。そういえば午前中の鬼山課長は得意先を訪問する予定だったことを思いだす。
「解決策としては、玉木さんが神宮寺さんのお弁当を作って、ふたりで食べればいいんじゃないかなと思います」
 私なりのアドバイスを述べると、玉木さんは子どものように唇を尖らせた。
「ええ~? そこじゃないですよ。神宮寺さんが誰かひとりを選んだら、この合戦状態が決着するわけですよね。鬼山課長が星野さんと結婚して、長い戦いに終止符を打ったのと同じように」
 私の顔に苦渋が浮かぶ。
 ひとこと多い玉木さんは決して悪い人ではないのだけれど、どうにも無意識に核心を突いて、相手に重傷を負わせてしまうようだ。
 玉木さんはまるでディスカッション時のように熱く語りだした。
「だから、さっさと誰かを指名すればいいんですよ! それなのに神宮寺さんときたら、女性たちが争うのを見てるだけじゃないですか。モテるのを楽しんでいるなんて、性悪イケメンです。イケメンだからって性悪でもいいんですか。星野さん、どうですか?」
 どうですかと意見をうかがわれても非常に困る。
 その性悪イケメンのカテゴリには、柊夜さんも含まれてしまったようだ。当たらずも遠からずなので、妙に説得力がある。
 モテない玉木さんにとって、イケメンとは敵でしかなく、その凶悪な敵に擦りよる女性たちは食いものにされる哀れな子羊といったところなのだろう。
 私こそ凶悪な鬼神に孕まされた無知な獲物というわけで、図星なので耳が痛い。
「玉木さんってば、偏見ですよ。女性のほうも顔だけ見ているわけじゃありませんから。それから結婚したら顔の造形はどうでもよくなります」
 職場でイケメン上司を捕まえた勝者とうらやまれている私だが、家庭内では夜叉の旦那様を抱えて苦悩しているわけである。
 しかも鬼神の羅刹が略奪愛を匂わせてくる。
 鬼神が性悪イケメンという称号には納得するが、誰かを選んで結婚すればすべてが丸く収まるわけではないのだ。
 結婚により、戦いに終止符が打たれると思わないほうがよい。むしろ、新たな戦いの幕開けと捉えるべきだ。
 そのとき、がたんと音を立てて羅刹が席を立ち上がる。
 彼に群がっていた女性たちは、いっせいに口を噤む。
 玉木さんの体が、びくりと飛び上がった。
 性悪イケメンは敵ゆえに、玉木さんは恐れているらしい。それならもっと声をひそめてくださいね……。
「玉木さんの言う通りだね。誰かひとりを選べば、この不毛な戦いに決着をつけられる」
 妖艶に微笑んだ羅刹は玉木さんの意見に賛同した。この場で誰かとの交際を宣言するのだろうか。
 息を呑んだ女性たちは、爛々と目を輝かせる。
 ひたりと、羅刹は私に目線を定めた。
「僕は星野さんと、お付き合いしたいな」