会社のお手洗いから出た私は、首を捻る。
 ――生理が来ない。
 悠を妊娠してからは月経が止まったわけだが、産後の翌月にはもう再開された。私は三十日周期だけれど、月経は時計のように正確に訪れるわけでもない。ストレスなどの心理的な要因により、一週間ほど遅れることもあるという。それに一度出産しているので、以前と比べたら体調に変化があって然るべきだろう。
 出番のないナプキンが入ったポーチを握りしめ、私は小さくつぶやいた。
「まさか……妊娠じゃないよね?」
 柊夜さんはいっさい避妊をしない。それにもかかわらず私の体を頻繁に求めてくる。ということは、いつふたたび妊娠してもおかしくないわけである。
 私たちは一夜で子を授かったが、それは稀であるということは、世間の夫婦と照らし合わせて知っていた。
 ならば、どのくらいセックスすれば夫婦は子を授かるのだろうか。平均はいかほどなのか。
 私は柊夜さんが初めての相手で、しかも妊娠が発覚してから、かりそめ夫婦として同棲し、結婚するに至った。
 一般的とは言いがたい経路なので、標準がわからない。
「そういえば、ふたりめはいつ作るとか、夫婦で話し合うのよね……?」
 柊夜さんとそのような話をしたことはなかった。
 ふたりめはまだいいだとか、奥さんのほうが断るという情報を耳にしたことがある。
 妊娠の時期を操作できて当然という感覚に驚かされる。結婚したら、相談してお互いに納得したときにセックスをして、そうしたら予定通り妊娠できるという前提があるらしい。世の中の夫婦とは、そんなに予定調和になっているのか。
 もっとも、私が世間の推し進めるスケジュール通りに結婚と妊娠をこなさなかったゆえに、家族計画の練り方が備わらなかったとも言えるけれど。
 二十四歳までには結婚して、三十歳までにはふたりの子を産み、女性は子どもを三人は産むべき……結婚してから一年以内に妊娠しない夫婦はおかしい……。
 世間においてさも常識とされる人生計画を練りあげた先人は、なんの苦労も困難もなくそのスケジュールを達成できたのだろうか。
 かつておひとりさまだった私には、それがいかに無理難題で、机上の空論であるかよくわかる。
 なぜならば、結婚、そして妊娠するにはまず、相手が必要不可欠だからである。相手のあることなので、ひとりでじたばたと努力しても、まさに独り相撲なのだ。
 その相手から『俺の正体は夜叉の鬼神だ』と、打ち明けられたときの対処法も、ぜひうかがいたいものだ。
「みんな同じ家庭を作りましょうなんて推奨されても、その通りになるわけないのよね……。だって旦那様がそれぞれ違う人なんだから」
 ふたりめを相談するにしても、悠がいるリビングで話すわけにはいかないので、寝室でということになるだろうか。
 強引な柊夜さんは耳を貸さない気がする。なにしろ妊娠させてから『俺と結婚するしか道はない宿命がきみに生じた』などと言う男なので。
 柊夜さんとしては、悠が生まれたことにより夜叉の後継者は確保できたので、目的は達成したと考えるのが妥当だろう。だから彼はふたりめは意識していないのかもしれない。私のほうも、悠のことで手いっぱいで、ふたりめを考える余裕がなかった。
 今さらふたりめを相談しようとしても、もう遅いのかもしれないけれど……。
 そわそわしつつ、お腹に手を当てる。
 もし、ふたりめということになると、もちろんその子も鬼の子である。
 今のところ、悠の見た目に特殊な兆候は見られず、能力としてはあやかしが認識できていることくらいだが、成長したらどうなるかはわからない。
 私は柊夜さんの鬼の姿を見たことがある。
 それは気高く美しい夜叉だったが、柊夜さん自身は見られたくなかったと語っていた。目の色が赤いので、周囲から忌避されたトラウマもあるのだろう。
 その苦悩を悠も背負うことになると思うと、今から心配でたまらない。そしてふたりめの子を産むということは、やはり同じ重荷を背負わせてしまう。子どもに苦労をさせたいわけではないのに。
 鬼神の子を産むという行為が、悲劇へとつながっていくのだろうか。
 すべては私が騙されて孕まされたせいだ……と、始点に帰結してしまう。
 ふるりとかぶりを振った。
 柊夜さんひとりを悪者にするなんて、どうかしている。彼は私や家族のためにこれまで尽くしてくれたのだから。