その微笑みに、私は未来を信じたのだった。



 夜叉の居城をあとにして、私たちは現世へ戻ってきた。
 悠は様々な体験の連続で疲れたのか、すでに熟睡している。
 闇の路から出てマンションのリビングに到着し、ほっと息を吐いた。
 出かけるときは陽が射し込んでいたが、窓の外は藍の闇に染まっている。
「あかり、疲れたろう。悠はもう眠っているから、ベッドに下ろそう」
「そうですね。私もとても楽しかったです。夢のような時間でした」
 夜叉の居城で花嫁として迎えられ、豪華な装いをして会合に参加できた。風天と雷地にも出会えて、行きたいと願っていた城内も見学した。
 今日の出来事は私の大切な思い出のひとつになる。
 なによりも、柊夜さんが神世へ連れていってくれたということが嬉しかった。
 決して鬼衆協会にかかわらせず、神世のことに私が触れないよう避けていたのに。そんな彼が私の気持ちを汲んでくれたのだ。
 私も、柊夜さんと同じ世界にいたいという気持ちを――。
 午前中にケンカをしたことが、嘘のようだった。
 満足感に満たされた私は、抱きかかえていた悠をベビーベッドにそっと横たえる。いつものようにヤシャネコが添い寝してくれると思い、首を巡らせた。
 すると、いつの間にか足元にいたヤシャネコは、か細い声を出す。
「おかえりにゃん――……て……きたにゃん……」
「えっ? ヤシャネコ、どうしたの……?」
 私は目を疑った。
 ヤシャネコの姿が薄くなり、まるで砂がこぼれるかのように消えていく。
 そういえば出かけるとき、耳が陽射しに溶けるように見えたけれど、あれは光による錯覚だと思っていた。
 慌ててヤシャネコの体を抱きしめる。
 だが、もっふりとした黒い毛並みが感じられなかった。
 ヤシャネコの体が、透けている。伸ばした手には、なにも触れられなかった。
「消えちゃう……どうして⁉ 柊夜さん、ヤシャネコが……!」
 焦って柊夜さんに助けを求めるが、彼は冷静に見下ろしていた。
 まるで、そうなることがわかっていたかのように。
「ヤシャネコが消えるわけではない。消滅するのは、あかりの腹に残っていた神気だ。子を出産したので、きみの神気が消えようとしている」
 愕然として立ち尽くした。
 ただの人間である私にあやかしが見えていたのは、お腹に鬼神の子を宿したからだった。赤子の持つ神気が原因であり、出産してからも胎内に神気が残っていたので、今までヤシャネコと接することができたのだ。
 そのことは柊夜さんから説明を受けていた。
 わかっていたはずなのに、私はまるでもとから備わっている能力であるかのように思い込んでいたことに気づかされる。
 出産を果たせば、いずれ胎内に残留していた神気は薄れ、消滅する。
 私はあやかしが見えなくなる。ヤシャネコばかりか、今日会った風天や雷地の姿も見えず、話せなくなる。それどころか二度と神世にも行けなくなるかもしれない。神世は、人間の入れる場所ではないのだから。
「ヤシャネコ……まって……いなくならないで……」
 涙を浮かべながら懸命に撫でるけれど、私の手は空を切るばかりだった。
 ヤシャネコの声は次第に遠くなった。
「おいら、いつでもあかりんのそばにいるにゃん――……かぞく、まもるにゃ――……」
 薄れていくヤシャネコの姿は、やがて完全に消えた。
 消えたのではない。私のほうが、いなくなったのだ。彼らの存在する世界から弾きだされた。
 ヤシャネコの最後の台詞は、“家族だよ”と私が告げたことを汲んでくれていた。そのことに私は大粒の涙をこぼした。
 そして、家族なのに私のほうからは認識できないという深い哀しみを、よりいっそうもたらした。
 頻繁にヤシャネコがいなくなったように感じていたのは、神気がなくなりかけていたから、私が見えていなかっただけなのだ。
 ヤシャネコの態度がどことなくぎこちなかったのは、こうなることを予期していたからだろう。おそらくヤシャネコから話しかけても、私が無視する状況があったので、切れかけた神気に気がついたのではないだろうか。
 それを気遣って、あえて私に伝えなかったのだ。もちろん、そんな私たちを見ていた柊夜さんも察していた。
 柊夜さんは泣きじゃくる私の肩にそっと触れる。
「ヤシャネコは今、悠のとなりに寝そべっているよ。いなくなったわけではない。変わらず、そこにいる」
「……柊夜さん。わかっていたんですね。私の神気がなくなりかけていることを」
「ああ。ヤシャネコがいないと思っていることも多いようだったから、そろそろだろうと気づいていた」
“私の神気”ではなかった。正確には悠が持っている神気が、私の胎内に残留していたのだから。
 悠と、柊夜さんのおかげで、私は彼らの世界に存在することができていた。
 やはり私はなんの力もない人間であることを突きつけられる。