那伽は発言を求めて、軽く手を上げた。
「ヤミガミについては了解。――ところでさ、オレから報告があるんだけど……」
 言いにくそうに言葉尻を窄める。
 ゆったりと黒檀の椅子にもたれた柊夜さんは促した。
「聞こう」
「薜茘多が永劫の牢獄を出たんだってさ。帝釈天に許されたらしいぜ」
 ぴくりと羅刹の眉が跳ね上がる。だが彼はなにも言わない。
 薜茘多は柊夜さんに敗れた八部鬼衆のひとりだ。永劫の牢獄に囚われていたはずだったが、もとより彼は帝釈天側の鬼神である。夜叉に敗れた罰として幽閉されていたのだ。
「そうだろうな。俺への復讐を目論んでいることは想像に易い」
「どうすんの?」
「どうもしない。薜茘多はさほどの敵でもない。仕掛けてきたら相手をしてやるだけだ」
 頼もしい柊夜さんの答えに、私は安堵の息を漏らす。
 双眸を細めた羅刹が、面白そうにつぶやいた。
「余裕だねえ」
「守るものがあるからな」
 それは私たち家族ということだ。
 柊夜さんの思いを感じた私の胸は感激で満たされる。
 私の旦那様が家族を大切にしてくれている――。
 それを知っただけで、こんなにも幸福感にあふれるなんて。
 とても幸せな境遇であることを改めて感じた。
 ふうん、と羅刹は思わせぶりにつぶやく。
 悠は「あうーうー」としゃべり、落ち着きがなくなってきた。どうやら、お腹が空いたらしい。
 私は那伽と抱っこを交代し、会合を中座したのだった。



 天守閣からの眺望は素晴らしい絶景だ。
 眼下に広がる城下町を臨め、その向こうには遥か遠くに山々が連なっている。棚引く白練の雲が美しく、青い空はこんなにも広いのだと知った。
 壮大な景色を眺めていると、後ろではにぎやかな声があがる。
 風天と雷地に遊んでもらっている悠は、小さな足を繰りだしてふたりと追いかけっこに興じていた。
「悠さま。こちらでございます」
「悠さま。だるまさんがころんだでございます」
 それはちょっと違う遊びじゃないかな……。
 苦笑いしつつ、楽しそうに遊んでいる三人を見守った。
 石像のあやかしだそうだが、風天と雷地はとても軽いようで、ふわりふわりと身を浮き上がらせている。風天の纏う羽衣を捕まえようと、悠は弾けるような笑い声をあげながら手を伸ばしていた。
 はしゃぐ子どもたちの姿を、私のとなりで一緒に見守っていた柊夜さんは、朱の欄干に手をかける。
「悠は楽しそうだな。初めての場所なので泣くかと思ったが、豪気なものだ」
「勇気がありますもの。……なんて、親馬鹿ですね」
「違いない。子どもに期待したり憂えたり、一喜一憂させられるな」
「柊夜さんもですか。私もです」
「気が合うじゃないか」
 そよぐ風が、朗らかに笑う柊夜さんの漆黒の髪をなびかせていた。
 鬼衆協会の会合は無事に終わった。中座した私は持ち込んだベビーフードを悠に食べさせていたので、最後まで参加できなかったけれど、風天と雷地の話によれば平穏に終了したという。
 那伽と羅刹はふたりとも現世へ戻っていった。明日は平日なので、学校と会社があるのだ。
 私たちも帰宅しなければならないので、束の間の休息である。
 つと柊夜さんは笑いを収め、真紅の双眸に憂慮を浮かべた。
「悠は夜叉の後継者として、初めて会合に参加した。だが将来、必ずしも夜叉を継承できるとは限らない。悠に苦労させないためには、俺が父親との確執を解消しておく必要があると改めて感じた」
「……柊夜さんのお父さんのこと、風天から聞きました。御嶽さまは郊外の屋敷に隠居されていると」
 柊夜さんの手にわずかな力が込められ、欄干を握りしめる。
 父子の間に、どんなことがあったのだろう。
 柊夜さんの古い傷を抉りだすなんてことはとてもできなくて、私は事情を聞けなかった。
 うつむいた私の心中を察してか、彼は気遣わしげに声をかける。
「いずれ、あかりに詳しいことを話そう。俺が父親と険悪なままでは、悠が大人になったとき、やはり父親である俺を憎むようになる。その負の連鎖を、俺は断ち切りたい」
 柊夜さんの思いに、私は深く頷いた。
 私は父子にとっては赤の他人かもしれない。私が立ち入る問題ではないのかもしれない。
 でも、柊夜さんの力になりたい。
 彼が父親と和解できることを、私も望んでいた。
「いつか……お父さんに会わせてくださいね。悠の顔も見てもらいたいです」
「ああ……約束しよう」
 そうつぶやいた柊夜さんは、ほのかな微笑を私に向けてくれた。