「そうでしたっけ……。それって、妊娠を告白したら、柊夜さんの正体が夜叉だと返されたときですよね」
「その通りだ。どうやら覚えていないようだな」
 柊夜さんの言い方に、むっとした私は唇を尖らせる。
 今さらどうしようもないことではあるけれど、心に引っかかっていたから話しただけだ。それなのに、また私が悪いかのような流れに持っていく気がして、歯がゆさが湧いてしまう。
 こんなふうに不満を覚えるのはいけないと、わかっているのに。
 ジレンマに陥っていたとき、リビングから「ふえぇ……」という泣き声が聞こえてきた。
 悠が目覚めたようだ。
 自然に腰を浮かせた私は、絡められていた柊夜さんの腕をするりと解く。
「悠が起きて……」
 そうつぶやきかけたとき。
 ぐい、と肘を掴まれる。突然のことに驚いて振り返った。
「愛している」
 低く告げられたその言葉のあと、ふいに唇を塞がれる。
 雄々しい唇の弾力と、抱きしめられた腕の力に呆然として甘美なキスを受け入れた。
 少し唇が離され、切なげな真紅の双眸が私を捕らえる。
「わ、私も……」
 ――愛しています。
 そうつぶやきかけたとき、悠の泣き声がひときわ大きくなる。
 私と柊夜さんは息を合わせるように寝室を出た。



 寝起きの悠は抱っこしてあやすと、憮然とした表情からすぐにけろりとした。
 陽射しの降り注ぐ明るいリビングで、満面の笑みを見せた悠は空になったマグカップを掲げる。
「ま!」
「わあ、すごい! 悠、上手に飲めたね」
 ほ乳瓶を卒業するため、コップ飲みのトレーニングを行おうと柊夜さんが提案したのだ。
 まだ一歳くらいの小さな子が、コップに口をつけてこぼさないように飲むのは難しい。初めは蓋があり、ストローのついているトレーニング用のマグカップでリンゴジュースを飲むところから始めた。
 啜るという動作にびっくりしていた悠だけれど、こつを掴んだら上手にストローでジュースを啜ることができた。しかも、『ママ』と言いかけた気がする。
 こうして子どもは一歩ずつ大きくなっていくのだと思うと、子育てにやりがいを感じる。
 悠のためにも、柊夜さんとケンカしないようにしようと、改めて心に刻んだ。
 それにしても先ほどのキスは本当にびっくりした。
 あれは仲直りのキスだったのかな……?
 柊夜さんとくちづけを交わすたびに愛しさが降り積もっている気がする。かつては空っぽだった私の体が、満たされていくのを感じた。
 私もまっすぐに『愛している』と、そのうち言えるようになりたい。
 柊夜さんをうかがうと、悠を抱いていた彼は、どこかぼんやりとしていた。
「柊夜さん……どうしたの?」
「ん? いや、なんでもない」
 瞬きをした柊夜さんは、膝に抱っこしている悠のつむじを見下ろした。
 私とケンカをしたことが気にかかっているのだろうか。もう不機嫌さは消えているのだけれど。
 首をかしげつつ、私はジュースのおかわりを補充すべく、マグカップを持ってキッチンへ向かった。
 冷蔵庫からジュースを取りだしてコップに補充していると、ふと気配を感じた。
 いつの間にか傍にいたヤシャネコが、こちらを見上げている。散歩から戻ってきたようだ。
「ヤシャネコ、おかえりなさい」
「にゃん? おいら、ずっと家にいたにゃんよ」
 ヤシャネコは金色の瞳を瞬かせて首をかしげた。
「ずっと? さっきはいなかったけど……散歩に行ってたんじゃないの?」
「おいら、悠のとなりに……にゃ、そういえば、行ったかもしれにゃいね……」
 目を逸らしたヤシャネコは「にゃごにゃご」と口ごもる。
 私の見間違いだろうか。もしかするとヤシャネコは私と柊夜さんが言い争いをしていたのを聞いて、気まずい思いをしたのかもしれない。
 ばつが悪くなった私は今後は気をつけようと思いつつ、マグカップを持ってリビングへ戻った。
 するとリビングでは、柊夜さんがリズムをつけて、悠の両腕をバンザイしたり下ろしたりしていた。きゃっきゃっと、悠は楽しげな声をあげている。
 そんな小さな幸せに、心を綻ばせた。
 私が手にしているマグカップを目にした悠は、こちらに手を伸ばす。
「はい、悠。おかわり」
 小さな両手でマグカップの取っ手を持った悠は、ふたたびストローに唇をつけた。
 赤ちゃんの突きだした唇は三角になる。その可愛らしさに目元を緩めていると、ふいに柊夜さんが告げた。
「あかり。今日は午後から、鬼衆協会の会合がある」
 一緒に暮らし始めてから二年近くになるので、柊夜さんの副業ともいえる鬼衆協会についても、ある程度把握していた。月に数回は神世の城にメンバーが集合して会合を開くのだ。