僕たちは「青春」を追いかける。


それから僕が眠るのに時間はかからなかった。


気がつけば、真っ白な空間の真ん中にベッドが一つだけ置いてあって、僕はそこで眠っている。

ふわふわで、もこもこで。

まるで雲の上にいる気分で思わず頬が緩む。


「ねえ、向葵くん」


ふいに、聞こえた聞き覚えのある声。

三日月さん……?

そう思っても、眠たすぎて瞼が上がらない。

どこにいるんだろう?


僕の肩に、わずかに重みが加わる。そして、温もりも。

だから僕の後ろにいるんだと思った。

なに、返事をしようと思っても、のどの奥から声が出てこない。

そんな僕をよそに。


「向葵くん、あのね──…」


彼女が口を開いたけれど、そこから先は何も聞こえなくて。


──そこで、意識はプツリと途切れたんだ。



「──あ、そうだ。藍原くんから本渡されたんだけど」


放課後の帰り道、なんの脈絡もなく告げられた言葉に、え、と困惑した声をもらしながら顔をあげる。


「……もう、本渡されたの?」

「…? うん、そうだけど」


え、だって僕が藍原に本を渡したのは昨日の休み時間なのに、もう読み終わったのか?

ていうかそもそも藍原が本を読むようには思えなくて、読み終えるとも思わないけれど。


「向葵くんが渡す時間がないからって藍原くんに頼んだって言ってたけど、そうなの?」

「え?」


……あいつ、そんな嘘ついたのかよ。


「あれ、違った?」


けれど、ここで否定してもまた藍原にあとで何か言われても面倒くさいしなぁ。


「…あ、うん、そうだったかも」


不本意ではあったけれど、頷くほかなかった。


そしたら、へぇそっかぁ、と笑って、


「もしかして藍原くんと仲良くなったの?」

「いや、それはない」


僕はきっぱりと即答した。

藍原と仲良くなんて一生かかっても無理だ。


そんな僕の返事に、ふーん、と大して興味なさげに答えたあと、


「でも、もしかしたら藍原くんはそうじゃなかったりして、ね」

「……え」

「向葵くんが自分から藍原くんに何かを頼み事するなんて意外なんだもん」

「だからそれは…」


藍原が嘘ついただけで、と言おうと思ってやめた。

その嘘を説明してしまえば藍原が三日月さんに嘘をついたということがバレる。そうしたら、あとで僕にとばっちりが来るのは予測できていた。


「だからそれは?」

「いや、なんでもない」


真実をゴクリと飲み込んで、のどの奥に押し込んだ。


「向葵くんって何気に言いかけたこと飲み込むよね」

「そう、かな」


確かに自分でも自覚済みだけれど、今のは藍原のために仕方なく……だ。

いや、藍原のためってのも何かおかしいけど。


まあいーや、と言って笑ったあと、


「それより私ね、綺麗な景色見てみたい」


なんの前触れもなく告げられるから「は?」と思わず声がもれる。


三日月さんは、いつも突然だ。

話の前後の流れが全然違う。だから僕は、その時間軸に追いつけずに、思考が停止することがよくある。


「……綺麗な、景色?」

「ほら私、まだこっち来て日が浅いから分からないの。おすすめのスポットとかおすすめの景色とかあったりする?」


そりゃあ確かに三日月さんより、この街に住んで長いし。なんなら生まれたときからこの街だけれど。

「それ、僕に聞く?」

「だってこの街に詳しいでしょ」


僕が知ってて当たり前。僕が知ってて当然だ、とでも言いたげな表情で、僕を見る。

けれど、友達もいなければ、放課後誰かと遊びに行ったことのないこの僕が、


「そんなこと知ってると思う?」


僕は、知らない。

生まれてずっとこの街にいるのに、何も知らない。

僕が住んでる街のことなんて今まで知ろうとも思わなかったし。


「向葵くんなら知ってるかなって思ったんだけど」

「なんで?」

「だって向葵くん、あの文庫本好きでしょ?」


そう告げられた瞬間、藍原に貸した文庫本が頭に浮かぶ。

僕は「あ」と声をもらす。

なぜならば、あの中に登場する展望台はこの街が題材となっているからだ。


「だから、あの展望台がどこにあるかも知ってるのかなって思ったんだけど…」


違ったらごめん、と声色を落とした三日月さん。


……ほんとだ。三日月さんに言われて思い出した。

僕は、あの展望台に幼稚園児のときも小学生のときも家族と一緒にいったことがある。

あの場所から見える景色が僕は好きで、何度も親にせがんだ。

たくさんの建物と、たくさんの自然と、遠い遠い向こうの彼方に広い海が広がって見える。
夜になると、ネオンの光がキラキラと輝いて、花火大会になると絶景ポイントだとこぞって人が集まった。

そんな思い出の場所を僕は、いつから忘れてしまっていたんだろう。


「……知ってる」

「え」

「今、思い出した。三日月さんが文庫本のこと言ってくれたから」


ついでに昔の記憶も。

懐かしくて、楽しくて、家族で行くあの雰囲気が僕は好きだった。

だから、


「……今から行ってみる?」


立ち止まって僕は、三日月さんを見つめた。

そしたら三日月さんも僕を真っ直ぐ見つめた。


そして、


「行ってみたい」


告げたあと、唇が弧を描いた。


つられて僕も、笑った。

* * *

「うわー、きれー」


展望台につくと、三日月さんは声を張り上げた。

その姿を僕は後ろから見つめた。

まるで、小さな子どもが楽しそうにはしゃいでいるような姿に見えて。


「…かわい」


思わず、口をついて出た。


………ん? 今のなんだ? は? 僕が誰を可愛いって?

いやっ、今のは何かの間違いだよな…?!


フェンスに手をつきながら、んー?と僕の方へ振り向くと、


「向葵くんどうかしたの?」

「いやっ、なにも!」


首がもげそうなほど振って否定すると、ふーん?といまいち納得してない顔色を浮かべながら、また景色へと視線を戻す。


……あっぶない。もう少しで聞かれるところだった。


ていうか、僕は何を考えていたんだ。

可愛いってのは、ただ単に子どもみたいに見えただけであってそれ以上でもそれ以下でもない……よな?

なんで自分の言葉で動揺してるんだよ。


「向葵くんもこっち来ればー」

「え?! …ああ、うん」


ぎこちなく返事をしたあと、おそるおそるフェンスへ近づくけれど、三日月さんから距離を取った。


それなのに妙な胸騒ぎが落ち着かない。

高台に来たからか? 子どもの頃は大丈夫でも今はダメになったとか?


「向葵くん?」


声がやけに近くで聞こえるなと思って顔を上げると、僕に距離を詰めていた三日月さんの顔がドアップで視界に映り込んで。

「ぅわあっ…!」


思わず声をあげて尻餅をついた。


……うわ、最悪。
僕ってなんでこんなに失態ばっかり晒してしまうんだよ。

恥ずかしくてしばらく顔を上げられずにいると、プッ、と笑い声がもれた。


「……な、なんだよ」

「いや〜、いきなりどうしたのかなぁと思って」


絶対僕のことからかってる。

楽しんでる雰囲気が伝わってくる。


「べつにどうもしてない。ただ今のは足が滑っただけだ」


強がるように告げた言葉だけれど、思いのほか小さくて弱々しく聞こえた。

どうせ僕のことなど信用しないんだろうな、思いながらこれからどうしようかと考えていると、


「確かにここ、少しだけ滑るもんねぇ」


言いながら、僕に向かって手を伸ばしてくる。


その手に視線を合わせると、その向こうに見えた瞳がぼんやりと見えた。
それは、少しだけ笑っているように見えて、絶対信じてない、そう思った。


「……どうも」


けれど僕はそれに気づかないフリをして、手を掴むと、立ち上がる。

瞬間、自然にパッと手は離れた。


「次は滑らないように気をつけてね」


笑いを堪えながら言っているのが見え見えで、


「……ほっとけ」

小さく毒吐く僕は、どうやらまだまだ子どものようで。

大人なら、もっと落ち着いた態度をすればこんなふうにからかわれずに済むのに。


「ほら、早く景色見よう?」


僕に向かって微笑んだ彼女に、うん、と頷いた。


「ここ、すっごく綺麗だね」

「…ああ、うん」


何年ぶりかに来た展望台は、確かに見晴らしがよくて綺麗だった。

デッキに足を乗せて、かかとを上げて、流れてくる少し生温い風を感じながら、


「まるで物語の世界の中に自分も入り込んだみたいな気分になる」


と、言って目を細めた。


「物語の世界?」


彼女の斜め後ろで声をかけると、うん、と頷いて、


「私あの文庫本好きなの。世界観とかストーリーとか特に気に入ってて、ここに来たらほんとに物語の世界に入り込んだのかなって錯覚しちゃう」


僕なんかより物語にのめり込んでいるように見えた。


「だからね、今すっごく嬉しいんだ」

「物語の題材となったから?」


それもあるけれど、と言って僕の方へくるりと顔だけを向けると、


「久しぶりにこんな綺麗な景色見れたから」


と、嬉しそうに笑った。

周りの空気と彼女の笑顔に飲み込まれそうになったけれど、わずかにいつもと違うように感じて、あの、声をかけようと思ったけれど、のどの奥に張りついて出てこなかった。


そんな僕を時間は待ってくれずに、だから、と続けると、


「向葵くんのおかげでいい思い出ができた」

「そんな大したことしてない…」


なんなら、もうずっとここのこと忘れてた。

そんな僕に、ここを紹介する資格なんてあったのかなと落ち込んだ。

そんなことないよ、と言って微笑むと、


「向葵くんがここの場所知ってたから私、来られたんだもん。だから、ありがとう」


僕を見据える瞳が、真っ直ぐ僕に向かっていて、恥ずかしい。

けれど、逸らすことさえもできなくて、


「…僕の方こそ、ありがとう」


思わず、口をついて出た。


「どうして向葵くんがお礼言うの?」

「……どう、してだろう?」

「なーんかおかしな向葵くん」


バカにされているわけでもないし、からかわれているわけでもない。

だから不思議とそれが嫌じゃなくて、むしろ、三日月さんといる時間が少しずつ心地よくなっている自分がいた。


「あっ、見て」フェンスの向こうに指をさすと、


「あそこに学校が見えるよ!」


大はしゃぎの三日月さんは、学校の姿より少し幼く見えた。