花咲く庭で愛の誓いを


 次郎さんが毎日熱心に手入れをしているお屋敷の庭は、人目に付く本館回りだけでなく、あまり人が訪れない裏庭の隅まで美しい。

 季節ごとに色とりどりの花が咲いて異国情緒の漂う、洋館の表の庭の雰囲気も悪くはないが、わたしは簡素だけれど趣のある別館の裏庭の雰囲気が好きだった。

 箒を引きずりながら和館の横を通り過ぎると、庭のほうからぶわっと風が吹いてきた。箒が倒れないように柄を強く握りしめて目を細めると、薄紅色の細かな塵のようなものが風とともに吹き流されてくる。

 額に手を翳してよく見ると、それは小さな花弁で。つい数日前にここに来たときには枯れ木も同然だった裏庭の老木が、薄紅色の花をその枝いっぱいに咲かせていた。

 なんて綺麗なんだろう。

 箒がわたしの手からぽとりと落ちた。薄紅色の花を咲かせる老木に導かれるように近付き、枝垂れた枝の先に付いた花に指を伸ばす。

 恐々そっと触れようとしたとき、裏庭にさらさらと吹き込んできた風がまた花弁を舞い散らした。

「綺麗でしょう? ここの枝垂れ桜。おれのお爺様の自慢だったんだ」

 背後から聞こえてきた声に、ビクリとする。

 伸ばしていた手を慌てて引こうとしたら、枝の尖った部分に指先が擦れて小さな痛みが走った。

 痛む人差し指の先を反対の手のひらで包んで振り向くと、和館の縁側に黒の学生服を着た少年が立っていた。

 わたしみたいに下っ端の使用人がお屋敷に住む方々と直接関わることはほとんどない。けれど、そこに立っているのがこの家の御子息の清一(きよかず)様だということは下っ端のわたしでも知っていた。


「君、最近ここに来た子でしょ? 名前、なんて言うの?」

 縁側の窓の縁に背を凭れながら首を傾げた清一様が、にこりと笑いかけてくる。

 同年代の男の子はもちろん、五つか六つは年上と思われる清一様のような男の子から声をかけられたのは初めてのことで。どうしていいのかわからず、胸が騒いだ。

 枝で引っ搔いた人差し指を握りしめて黙っていると、清一様が縁側の外に置いた下駄を突っかけて庭に出てくる。

「指、どうかしたの?」

 下駄の音をカラコロと鳴らしながら近付いてきた清一様が、わたしの手を取った。

「あぁ、枝で切れちゃったんだね」

 清一様が薄っすらと血の滲むわたしの人差し指を見て哀れむように眉尻を下げる。使用人の分際で、この家の御子息にこの程度の怪我を気にかけていただくなんて恐れ多い。

 急いで手を引こうとすると、軽く背を曲げて姿勢を低くした清一様が、わたしの人差し指をそっと口に含んだ。思いもよらないできごとに、身体が固まって動けなくなる。

「汚い」と。そう思うのに、もう長いこと声を出していないわたしの唇は、清一様を見つめてただ震えただけだった。

 姿勢を低くした清一様の目を伏せた顔は、睫毛が長く、鼻筋がすっと通っていて美しい。目の前の清一様をじっと見つめていると、彼が上目遣いに視線を上げて、口に含んだ私の人差し指先を熱い舌でゆっくりと吸い取るように舐めあげた。

 彼の黒曜石のような瞳が揺らめいて、わたしを捉える。ゾクリとした。子どもと大人の狭間にいる彼が一瞬だけ見せた、艶美な表情に。


「浅めの傷だから、血が止まれば大丈夫かな」

 わたしの指を口から離した清一様が、さっきまでとはまるで違う、少し幼さの残る表情で笑う。コクコクと何度も頷いて、手を離してもらったあとも、私の心臓は病かと思うくらいにドクンドクンと大きな音をたてて鳴っていた。

「あぁ、そうだ。名前を聞いているところだったよね。おれは、江藤(えとう) 清一(きよかず)。君は?」

 清一様に柔らかく微笑みかけられて、わたしは小さく首を横に振った。

「名前、わからないの?」

 困った顔で俯くと、清一様のほうが悲しそうに瞳を曇らせた。

 もしかしたら生まれたときは──、否、まだ産みの母が生きていた頃はわたしにも名があったのかもしれない。けれど物心ついたときにはわたしのそばには酒呑みの父しかおらず、その父は飲んだくれて暴れるばかりで、記憶にある限りわたしの名を呼んだことなどなかった。

 わたしを引き取ってくれた伯母や次郎さんは、わたしに声をかけるときに「おまえ」とか「あんた」とか呼ぶ。それだけで事足りるから、誰かに名乗る名前が必要だと感じたことはなかった。

 今、この瞬間までは。

「じゃぁ、おれがつけてもいい? 君の名前」

 黙っていると、清一様がわたしの頬に手で触れた。僅かに頷いたわたしに、清一様が優しく微笑みかけてくる。

「さくら」

 清一様が低く柔らかな声でわたしを呼んだとき、風に吹かれて散った枝垂れ桜の花弁がわたしたちの周囲を包み込むようにひらひらと舞った。

 薄紅色の花弁の舞う桜の木の下。清一様の姿が清らかに美しくわたしの()に映る。

 そのときから、わたしの心は彼で埋め尽くされた。枝垂れ桜の花が咲く、春の出会いの記憶とともに。


 清一様がわたしを「さくら」と呼ぶようになってから、お屋敷の使用人たちのあいだにもその名前が次第に定着していった。

 お屋敷に年の近い子どもがいなかったせいか、清一様は使用人のわたしのことを妹のように可愛がってくれた。学のなかったわたしに読み書きを教えてくれたのも清一様だった。

 彼の存在は特別で、わたしを象る世界の中心だった。

 けれど、年齢を重ねるにつれて清一様がわたしと過ごせる時間は少しずつ減っていった。年頃になっても使用人であるわたしと親しくしていることを旦那様や奥様に咎められたのだろう。

 それでも清一様は、お屋敷の中や庭でわたしの姿を見かけると、子どもの頃と同じように優しく笑って話しかけてくれた。

「さくら」と。

 低く柔らかな、優しい声で。

 そして時が経つほどに、清一様が呼ぶ声はわたしの胸をきゅっと息苦しく締め付けた。

***

 ある年の冬、いつになくお屋敷内が騒ついていた。人の出入りが激しく、旦那様が忙しそうに日々忙しそうに動き回っている。

 清一様もお忙しそうで、ここ数週間はお顔を見かけても少し足を止めてわたしに笑いかけてくれるだけだった。

 何かがあるのだろうが、下っ端の使用人であるわたしの耳には、旦那様や清一様の私用な情報は入ってこない。ただ、言われたことを言われたとおりにこなすだけ。

 けれど仕事の最中に、旦那様に近い使用人たちの噂話を聞いてしまった。

 冬が明ける頃、旦那様が異国へと行かれるらしい。そこには、清一様も同行されるとかされないとかで。わたしの胸は騒めきたった。

 清一様がこの屋敷からいなくなるかもしれない……。

 使用人のわたしが清一様のことを慕ったところで、どれほど恋焦がれたところで、想いが通じ合うことなどないことはわかっていた。

 華族の御子息である清一様は、いつか彼に見合うような身分の御令嬢と結婚される。

 もしそのとき、清一様の使用人としてでもおそばにお使えすることができれば……。

 それはとても幸せなことだし、わたしの望む夢でもあった。けれど、望んでも叶わない夢なのかもしれない。

 沈んだ気持ちで、箒を持って和館の裏庭へと向かう。

 幼い頃は重くて引きずっていた箒は、いつのまにか簡単に持ち運べるようになった。背の高さだって、とうに箒の長さを超えた。小さな子どもではなくなったわたしにはもう、清一様の庇護は必要ない。

 箒で履く手を止めて、和館の裏庭に立つ枝垂れ桜の老木を見つめる。

 清一様と出会ったあの春の日に、薄紅の花を無数に付けていた木の枝が冬の冷たい空気に晒されてひどく寒そうだった。

 じっとしていると悴んでくる手で箒の柄を握り直す。

 懐かしい思い出に浸っている場合ではない。早く、掃除を終わらせてしまわなければ。

 握った箒を動かそうとしたそのとき、和館の縁側の窓が横に轢かれる音がした。

「さくら」

 懐かしい記憶を思い出していたからだろうか。背中から聞こえてきた清一様の声にいつも以上に胸がきゅっと切なく詰まる。

 振り向くと、清一様が出会った頃よりも青年らしくなった顔で微笑んだ。 

「やっぱり、ここにいた」

縁側の外に持ってきた靴を下ろすと、清一様が裏庭に出てくる。

「寒くない?」

 清一様が箒をつかんで白くなったわたしの手に視線を向ける。ブンッと大きく首を左右に振ると、清一様がふっと息を漏らした。

「これ着て」

 清一様が上着を脱いでわたしに差し出してくる。

 そんな、滅相もない……!

 清一様の行動を見てさらに大きく首を左右に振ると、彼がわたしに歩み寄ってきて肩から上着を羽織らせた。

「さくらの頬っぺた、すごく冷たい」

 清一様がわたしの頬にそっと手の甲で触れる。けれど、清一様の真っ直ぐな黒の瞳でじっと見つめられたせいで、寒さに冷え切ったわたしの頬はすぐにでも熱く火照りだしそうだった。

 ひさしぶりに至近距離で向き合う清一様のことを直視できずに、目を伏せる。清一様は、そんなわたしの頬を優しく撫でると呟いた。

「さくら。春になったら、しばらくここを離れる。父さんの研究の手伝いで、ドイツに行くことになったんだ」

 清一様の言葉に、火照りかけていた頬の熱が冷める。

 やはり、旦那様と清一様が異国へ行くという使用人たちの噂は本当だったのだ。

 血の引いた青ざめた顔をあげると、清一様がどこか切なげな目をしてわたしを見つめていた。しばらくの沈黙ののちに、清一様がわたしに羽織らせた上着のポケットに手を入れる。

「さくらに、渡したいものがあって」

 清一様が躊躇いがちに差し出してきたのは、桜の花の髪飾りだった。

「必ず迎えに来るから、待っていてほしい。急にこんなこと言ったとして、さくらはおれのことを受け入れてくれる?」

 髪飾りを持つ清一様の手が、微かに震えているのがわかる。

 彼がわたしにくれた名前と同じ花の髪飾り。それを差し出しながら伝えられた彼の言葉に、許されない期待で胸が震えた。

「ずっと、さくらのことが好きだった」

 少し苦しそうに微笑んだ清一様の声が、わたしの胸を貫く。

「わ、たし、は……」

 不必要なことは話さないように。求められたこと以外には答えられないように。

 酒呑みだった実の父が生前にわたしに教えたことはそれだけで。父の姉に引き取られて成長していくなかでも、わたしはその教えを馬鹿みたいに忠実に守った。

 上の人の指示には逆らわなかった。不必要な言葉は口にしてこなかった。それは、わたしに優しくしてくれる清一様の前でも同じだった。

 でも、今は──。今だけは、わたしの言葉を口にしてもいいだろうか。

 生涯で、たった一度きりにするから。

「わたしは清一様のことをずっとお慕いしています。初めて貴方にお会いしたときからずっと……」

 わたしは貴方のことが好きです。

 言葉を詰まらせたわたしの肩を、清一様が引き寄せる。

 わたしの髪に桜の花の髪飾りをさすと、清一様が掠れた声で囁いた。

「ありがとう、さくら」


 清一様からの手紙が届いたのは、彼が日本を経ってから一年が過ぎた冬だった。

『裏庭の桜が咲く頃に、君のことを迎えに行きます』

 ひさしぶりに目にする清一様の字に、手紙を抱きしめた胸が踊った。

 春はまだ先だというのに、毎日のように和館の裏庭に足を運んでは桜の木につき始めた蕾から花開くのを待った。

 やがて冬が終わり、春が訪れ、裏庭の枝垂れ桜はひとつ、ふたつとその枝に花を咲かせ始めた。

 ひとつ目の花が開いた日、もしかしたら清一様が現れるのは今日かもしれないとそわそわとした。

 五分咲きになった日、普段よりも丁寧に髪を鋤いて、桜の髪飾りを付けて朝から晩まで張り切って働いた。

 満開になった日、清一様との出会いを懐かしんで、桜の木の下で会いたい想いを募らせた。

 薄紅色の花が半分ほど散ってしまった日、髪飾りを握り締めながら薄い布団の中で、未だ現れない人を想って静かに泣いた。

 桜が咲く頃に迎えに来ると言った清一様は、ついに花が全て散ってしまってもわたしの前に現れなかった。