「浅めの傷だから、血が止まれば大丈夫かな」
わたしの指を口から離した清一様が、さっきまでとはまるで違う、少し幼さの残る表情で笑う。コクコクと何度も頷いて、手を離してもらったあとも、私の心臓は病かと思うくらいにドクンドクンと大きな音をたてて鳴っていた。
「あぁ、そうだ。名前を聞いているところだったよね。おれは、江藤 清一。君は?」
清一様に柔らかく微笑みかけられて、わたしは小さく首を横に振った。
「名前、わからないの?」
困った顔で俯くと、清一様のほうが悲しそうに瞳を曇らせた。
もしかしたら生まれたときは──、否、まだ産みの母が生きていた頃はわたしにも名があったのかもしれない。けれど物心ついたときにはわたしのそばには酒呑みの父しかおらず、その父は飲んだくれて暴れるばかりで、記憶にある限りわたしの名を呼んだことなどなかった。
わたしを引き取ってくれた伯母や次郎さんは、わたしに声をかけるときに「おまえ」とか「あんた」とか呼ぶ。それだけで事足りるから、誰かに名乗る名前が必要だと感じたことはなかった。
今、この瞬間までは。
「じゃぁ、おれがつけてもいい? 君の名前」
黙っていると、清一様がわたしの頬に手で触れた。僅かに頷いたわたしに、清一様が優しく微笑みかけてくる。
「さくら」
清一様が低く柔らかな声でわたしを呼んだとき、風に吹かれて散った枝垂れ桜の花弁がわたしたちの周囲を包み込むようにひらひらと舞った。
薄紅色の花弁の舞う桜の木の下。清一様の姿が清らかに美しくわたしの瞳に映る。
そのときから、わたしの心は彼で埋め尽くされた。枝垂れ桜の花が咲く、春の出会いの記憶とともに。