花咲く庭で愛の誓いを


 箒で履く手を止めて、和館の裏庭に立つ枝垂れ桜の老木を見つめる。

 清一様と出会ったあの春の日に、薄紅の花を無数に付けていた木の枝が冬の冷たい空気に晒されてひどく寒そうだった。

 じっとしていると悴んでくる手で箒の柄を握り直す。

 懐かしい思い出に浸っている場合ではない。早く、掃除を終わらせてしまわなければ。

 握った箒を動かそうとしたそのとき、和館の縁側の窓が横に轢かれる音がした。

「さくら」

 懐かしい記憶を思い出していたからだろうか。背中から聞こえてきた清一様の声にいつも以上に胸がきゅっと切なく詰まる。

 振り向くと、清一様が出会った頃よりも青年らしくなった顔で微笑んだ。 

「やっぱり、ここにいた」

縁側の外に持ってきた靴を下ろすと、清一様が裏庭に出てくる。

「寒くない?」

 清一様が箒をつかんで白くなったわたしの手に視線を向ける。ブンッと大きく首を左右に振ると、清一様がふっと息を漏らした。

「これ着て」

 清一様が上着を脱いでわたしに差し出してくる。

 そんな、滅相もない……!

 清一様の行動を見てさらに大きく首を左右に振ると、彼がわたしに歩み寄ってきて肩から上着を羽織らせた。

「さくらの頬っぺた、すごく冷たい」

 清一様がわたしの頬にそっと手の甲で触れる。けれど、清一様の真っ直ぐな黒の瞳でじっと見つめられたせいで、寒さに冷え切ったわたしの頬はすぐにでも熱く火照りだしそうだった。

 ひさしぶりに至近距離で向き合う清一様のことを直視できずに、目を伏せる。清一様は、そんなわたしの頬を優しく撫でると呟いた。

「さくら。春になったら、しばらくここを離れる。父さんの研究の手伝いで、ドイツに行くことになったんだ」

 清一様の言葉に、火照りかけていた頬の熱が冷める。

 やはり、旦那様と清一様が異国へ行くという使用人たちの噂は本当だったのだ。

 血の引いた青ざめた顔をあげると、清一様がどこか切なげな目をしてわたしを見つめていた。しばらくの沈黙ののちに、清一様がわたしに羽織らせた上着のポケットに手を入れる。

「さくらに、渡したいものがあって」

 清一様が躊躇いがちに差し出してきたのは、桜の花の髪飾りだった。

「必ず迎えに来るから、待っていてほしい。急にこんなこと言ったとして、さくらはおれのことを受け入れてくれる?」

 髪飾りを持つ清一様の手が、微かに震えているのがわかる。

 彼がわたしにくれた名前と同じ花の髪飾り。それを差し出しながら伝えられた彼の言葉に、許されない期待で胸が震えた。

「ずっと、さくらのことが好きだった」

 少し苦しそうに微笑んだ清一様の声が、わたしの胸を貫く。

「わ、たし、は……」

 不必要なことは話さないように。求められたこと以外には答えられないように。

 酒呑みだった実の父が生前にわたしに教えたことはそれだけで。父の姉に引き取られて成長していくなかでも、わたしはその教えを馬鹿みたいに忠実に守った。

 上の人の指示には逆らわなかった。不必要な言葉は口にしてこなかった。それは、わたしに優しくしてくれる清一様の前でも同じだった。

 でも、今は──。今だけは、わたしの言葉を口にしてもいいだろうか。

 生涯で、たった一度きりにするから。

「わたしは清一様のことをずっとお慕いしています。初めて貴方にお会いしたときからずっと……」

 わたしは貴方のことが好きです。

 言葉を詰まらせたわたしの肩を、清一様が引き寄せる。

 わたしの髪に桜の花の髪飾りをさすと、清一様が掠れた声で囁いた。

「ありがとう、さくら」


 清一様からの手紙が届いたのは、彼が日本を経ってから一年が過ぎた冬だった。

『裏庭の桜が咲く頃に、君のことを迎えに行きます』

 ひさしぶりに目にする清一様の字に、手紙を抱きしめた胸が踊った。

 春はまだ先だというのに、毎日のように和館の裏庭に足を運んでは桜の木につき始めた蕾から花開くのを待った。

 やがて冬が終わり、春が訪れ、裏庭の枝垂れ桜はひとつ、ふたつとその枝に花を咲かせ始めた。

 ひとつ目の花が開いた日、もしかしたら清一様が現れるのは今日かもしれないとそわそわとした。

 五分咲きになった日、普段よりも丁寧に髪を鋤いて、桜の髪飾りを付けて朝から晩まで張り切って働いた。

 満開になった日、清一様との出会いを懐かしんで、桜の木の下で会いたい想いを募らせた。

 薄紅色の花が半分ほど散ってしまった日、髪飾りを握り締めながら薄い布団の中で、未だ現れない人を想って静かに泣いた。

 桜が咲く頃に迎えに来ると言った清一様は、ついに花が全て散ってしまってもわたしの前に現れなかった。


***

「あぁ、またここにいたのね」

 風に乗って舞う薄紅色の花弁をぼんやりと眺めていると、和館の陰から伯母が姿を見せた。

「庭掃除からなかなか戻らないから、何をしているのかと思ったら」

 気まずげに頭を下げると、彼女が出会った頃よりも老いて柔和になった顔を歪めた。

「今年も待ってるのかい?」

 彼女が呆れた目でわたしと、横髪にさした髪飾りを見つめる。

「いくら待ったところで、使用人のあんたは清一様の妾にもなれないよ。それに、このお屋敷はもう前の旦那様の持ち物でもないんだよ」

 ややきつい口調で諭すように語りかけてくる彼女が、内心では身内としてわたしを心配してくれているのはわかっている。それに、清一様のことを諦めてお屋敷で使用人として働く年頃の男性と身分相応の結婚をするべきだと思っていることも。

 手紙が届いてから三度の春が過ぎても、清一様はわたしを迎えに来なかった。

 裏庭の枝垂れ桜の花が開く度、今年こそは、今年こそは……と願うわたしの期待は打ち砕かれる。

 清一様が日本を経って二年が過ぎた頃、お屋敷の持ち主が変わった。清一様のお父様である旦那様が、親戚一家に使用人も含めて売り渡したのだ。

 主人が変わっても、お屋敷に勤める私たちの生活は変わらない。だが、元旦那様や清一様のことは何一つわからなくなった。

 半年ほど前に、清一様が何処ぞの華族の御令嬢との婚約したらしいという、出処のよくわからない使用人間の噂話を聞いた。それを聞いて以降、わたしが清一様を待っていることを知っていて黙認していた伯母が、わたしに他の男性との結婚の話を持ち出してくるようになった。

 元々、叶うはずのない恋だった。

 それが一瞬だけでも成就しただけで満足しなければいけないはずなのに。わたしは、約束と手紙をくれたまま数年経っても現れない清一様のことが忘れられない。

 それに、どうしても信じられないのだ。わたしに優しかったあの人がこのまま約束を放棄するなんて。

 だから、裏庭の枝垂れ桜の花が開くと期待してしまう。

 今年こそあの人がわたしを迎えに来るかもしれない、と。


「庭の掃除はさっさと済ませて、台所のほうを手伝ってちょうだいよ。今日はお客様があるらしくて、忙しいんだって」

 桜の花を見つめているわたしに、伯母が声をかける。それに小さく頷くと、彼女はため息を溢しながら去ってしまった。

 風に舞う桜の花弁を横目に眺めながら掃き掃除を再開させていると、不意に庭の砂を蹴る音がした。伯母が戻ってきたのかと思って気にせず掃除を続けていると、近付いてきた足音が背後で止まる。

「さくら」

 わたしの名前を呼ぶ低く柔らかな声に、ドクンと胸が高鳴る。

 振り向いたその先に見えたのは、清一様で。力の抜けた手のひらから箒が離れて、地面に落ちた。

「ごめんね。向こうで滞在期間が伸びてしまって、帰ってくるのが遅くなってしまった」

 放心するわたしを見つめながら、清一様が困ったように眉根を寄せる。

「あのあと何度か手紙を出したんだけど、さくらからの返事がなくて……だから、もうここへ来ても会えないかと思った」
「手紙、は……」
「うん?」
「わたしが受け取った手紙は、一通だけです」

 震える声でそう言うと、清一様が大きく目を見開いた。

 どうして他の手紙がわたしの手元に届かなかったのかはわからないけれど。わたしが受け取ったのは、四年前の冬に貴方がくれた一通だけ。

 だから……。


「ずっと、待っていました。清一様がこの場所で約束してくれたから。桜の咲く頃に迎えに来ると、手紙をくれたから」

 ずっと待っていた。貴方の言葉だけを信じて。

「ありがとう。待っていてくれて……これからはずっと、おれのそばにいてくれる?」

 泣きそうに顔を歪めながら頷いたわたしの肩を清一様が優しくそっと引き寄せた。

 数年ぶりに感じる彼の温もりに、募らせた想いが込み上げて目尻から溢れる。

 抱き合うわたしたちを包み込むように、風に散る枝垂れ桜の花弁が舞った。

 貴方のことが好きです。

 誰よりも、貴方のことを愛しています。

 巡り逢ったこの場所で、風に舞う薄紅色の花に誓おう。

 わたしと貴方の永遠を。


fin.

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