「人ん()の庭の桜がそんな珍しいか?」
「これ、桜?」

 びっくりして問い返すと、お兄さんのほうも驚いたような顔をした。

「どっからどう見ても桜だろ。お前、見たことないの?」
「見たことあるよ!あるけど……」
「けど?」

 お兄さんの口調が、あたしをバカにしているような気がしてむっとする。

「あたしが知ってる桜はもっと早くに咲いて、もうとっくに散ってたよ」

 ここに来る前通っていた小学校の通学路にあった、桜の並木道を思い出す。
 あそこの桜は、毎年入学式の少し前に満開になって早々に散ってしまう。
 あたしの入学式のときも、綺麗な薄紅色の花吹雪が新入生を祝福するみたいに盛大に舞っていた。


「あぁ、ここら辺は四月になっても寒いからな。桜も遅咲きなんだよ」
「遅咲き?」
「満開になって散るのは早くて五月の頭かな。二回も花見ができて、今年はラッキーじゃん」

 お兄さんはそう言うと、大きな手のひらをあたしの頭の上にぽんっと無造作にのせた。

「ほら、帰るぞ。まだ夕方は寒いからな」

 ぽかんと口を開けたあたしに、お兄さんが手を差し出してくる。
 茫然と見ていると、お兄さんが「さぁ、繋げ」とばかりにその手のひらをさらにぐっと突き出してきた。

「やめてください。子どもじゃないんで」

 可愛げのない声でそう言うと、お兄さんがゲラゲラと笑った。

「お前が子どもじゃなけりゃ、誰が子どもだよ」

 失礼な笑い方にむっとしていたら、お兄さんがほとんど無理やりあたしの手をとった。


「ちっこい手。やっぱ、ガキじゃん」

 揶揄うように笑うお兄さんに、ますますむっとする。
 でも、お兄さんの大きな手に包まれたあたしの手は、確かに小さくて。何も言い返せなかった。

「ほら、帰るぞ」

 迷子の手を引くみたいにして、お兄さんが歩き出す。
 その直前、あたしを振り返ったお兄さんの眼差しがとても優しかった。
 そのことを、あたしはきっと一生忘れられないと思う。だって、それがあたしの初恋だったから。



 寒い。
 マフラーをきゅっと巻き直してから、指先の冷えた手をコートのポケットに突っ込む。
 この地域の冬の寒さにはだいぶ慣れてきたつもりだけど、今日は一段と寒い。それなのに、学校に手袋を忘れてきた。

 少しでも寒さが紛れるように、ポケットのできるだけ奥にぎゅーぎゅーと手を押し込みながら早足で歩いていたら、後ろから肩を叩かれた。

「今帰りか?」

 振り返ると、黒のリクルートスーツに紺のコートを着たお兄ちゃんがにこっと笑った。

「そっちこそ、早いね」
「あぁ、たまにはな」

 そう答えるお兄ちゃんは、何だか機嫌がよさそうだった。
 次の春で大学を卒業する予定のお兄ちゃんは、最近就職活動で毎日忙しそうだ。
 黒のリクルートスーツを着て、説明会だ、面接だと時間刻みで動き回っているらしい。


 普段見慣れないスーツ姿が大人っぽくてかっこいいな、なんて。
 あたしは呑気にそんなことを思って見てたけど、自己分析だとか、企業研究だとか、エントリーシートを何社に送っただとか。お兄ちゃんが食事のときに叔父さんや叔母さんにする話は難しくて、何だか大変そうだった。

 お兄ちゃんなら、就職なんてすぐ決まるんだろうな。
 勝手にそんなふうに思ってたけど、そう簡単にはいかないのが現実らしい。

 そのせいか、最近お兄ちゃんはいつもちょっとピリピリしてたけど、今日は何となく纏う雰囲気が柔らかい。

「いいことあったの?」
「わかる? 俺、内定決まった」

 何気なく聞いたら、お兄ちゃんが弾むような声で返してきた。

「内定?」

 よくわからずぽかんとするあたしに、お兄ちゃんが笑顔で頷く。


「あぁ、つまり就職先が決まったってこと。最終面接受けてた東京の会社から、今日電話もらったんだよ」

 嬉しそうなお兄ちゃんの言葉に、あたしの頭は一瞬にして真っ白になった。

「東京……? お兄ちゃん、この町出るの!?」

 おめでとうの言葉よりも先に出たあたしの叫び声に、お兄ちゃんが驚いたように瞬きをした。

「あぁ、そのうちな……」
「そのうちって、いつ?」

 言葉を濁して誤魔化そうとするお兄ちゃんに、つかみかかる勢いで必死に訊ねる。

「いつ、って……まだまだだよ」

 お兄ちゃんは苦笑いを浮かべると、ふと足を止めた。
 つられて足を止めたあたしの視線の先には、帰り道の曲がり角にある家の桜の木があった。
 まだ葉も蕾をつけていない裸の桜の木は、冬の木枯らしに吹きさらされてひどく寒そうだった。


「あの桜の花が散る頃かな」

 お兄ちゃんのつぶやく声にはっとする。
 顔をあげたら、お兄ちゃんが笑ってあたしの頭に手のひらをのせた。

「研修は実家から通える工場で受けて、それから配属先が決まるらしい。だから、ここ出てくのなんて、まだずっと先だよ」

 お兄ちゃんが優しい目をしてそう諭す。
 だけどそう言ってくれたのは、今にも泣きそうな顔をしているあたしを一時的にでも慰めたかったからだ。

 この辺りの桜は遅咲きだから、満開になった花が散り始めるのは五月の初め。

 まだずっと先だ。

 お兄ちゃんはそう言って笑ったけれど……

「さよなら」までの時間が残り少ないことが、あたしにはちゃんとわかっていた。

 寂しげに立ちすくむ冬の桜の木は、儚げで頼りない。それをじっと見つめたまま、あたしは最後まで就職先が決まったお兄ちゃんに「おめでとう」の言葉が言えなかった。


 その日、玄関のドアを開けた瞬間に、とてつもない違和感を覚えた。

 嫌な予感がして靴箱を開けると、そこにあったはずのお兄ちゃんの靴が全て消えてなくなっていた。

 言いようのない焦燥感に襲われて、心拍数が徐々に上がっていく。
 慌てて靴を脱ぎ捨てると、あたしは「ただいま」も言わずに二階へと駆け上がった。

 きっちりと閉じられているお兄ちゃんの部屋のドアを、一縷の望みを抱きながら勢いよく開く。
 その瞬間、視界に飛び込んできた見慣れない風景に、目眩がしそうになった。

 部屋の中には、お兄ちゃんがいつも使っていた机やベッドなどの大型家具がそのまま置いてある。
 けれど、今朝あたしが家を出るときにはそこにあった、お兄ちゃんの衣類、本、雑貨やゲーム機。
 いつも通りそこにあって、いつも通り乱雑に散らばっていたそれらが、部屋から全てごっそりと消えてなくなっていて。そこで生活していたはずのお兄ちゃんの気配そのものが、完全に消え失せていた。


 今目の当たりにしている事実が信じられなくて、ふらふらとした足取りで階段を降りてリビングの叔母さんのところに向かう。

「叔母さん!」
「あら、おかえりなさい」

 今はもうよく思い出せない。けれどかつては母に似ていると思った、叔母さんの穏やかな優しい声があたしを迎え入れてくれる。
 目を細めて柔らかに笑いかけてくる叔母さんを、あたしは泣きそうな顔で見つめた。

「お兄ちゃんは?」

 まさか、もう行ってしまった?
 あたしに黙って。さよならすら言わずに。
 あたしは何も聞いてない。

 泣かないように手のひらをきつく握りしめるあたしに、叔母さんが小さく首を傾げた。

「あら、その辺で会わなかった? コンビニに行くとか言ってたけど」
「コンビニ……」

 それを聞いた瞬間、あたしはすぐに家を飛び出した。