結城ミナツは時々、クッと両目を押し上げてみせる。
 透明プラスチックの窓ごしに、三日月みたいに細くなる瞳。
 あの表情の意味が、僕には分からない。

「え~~っ、なにこれ、欲っしい! けど買えない!」
 後ろの席の女子軍団が雄叫びをあげた。

 僕はビクッと肩を揺らし、女子達に気づかれないように体をしっかり前に向ける。ついでに手近にいた男子の会話にするりと滑り込んだ。

「高すぎだよ! え~っ、でもキティちゃんコラボかぁ。あたしのマスク、もう去年の型なんだけど。親、買い替えてくんないかなぁ」
「こういう流行りっぽいの、すぐ飽きるからやめなさいって言われそうじゃね?」
「あー、確かに。でもキティちゃんコラボ可愛いよ~。猫耳にリボンだよぉ?」
「じゃあブランドの高いのじゃなくって、フツーに猫用マスクかぶっちゃえば」
「人類の顔、入るサイズないって!」
 大声で笑う女子軍団の話題は、学生用フルフェイスマスクの新作らしい。

 公立中なら全員国家支給の標準マスクだから、生徒に選択の余地はない。だがうちの学校は、標準マスクだと、皆つるっと真っ白いプラスチックの卵みたいで区別が付かないから、「第二の顔、マスクにも個性を」との校長の方針で、市販のマスクでの登校が認められてる。

 僕は親と相談した結果、長く使えそうな紺色にシンプルなスポーツメーカーのロゴ入りのにした。本当はブラックの方が良かったんだけど、姉ちゃんに「温泉卵」って言われてやめた。クラスの男子は大体、紺かグレーか、そんな無難なカンジだ。

 無駄に陽気で明るい名前とジミな性格がチグハグな僕は、好きなのと無難なのなら、迷いなく無難なのを採ることにしてる。

 女子の方はもう目がチカチカするような色合いだ。蛍光イエローだったり、どピンクのに造花をボンドで貼って飾り立ててたり、さっきの猫耳だか犬耳だかの、卵のうえにぴょんと三角耳の立ったやつは、造花の次の、これからやってくる流行だそうだ。改造マスクの度がすぎて、こめかみのモニタリングセンサーまで覆っちゃってるようなのまで。

 あれでちゃんと対汚染機能は働いてんのかなと、他人事ながら心配になる。でも「汚染空気モニタリングセンサー」はひまわりの花の影でチカチカ赤く点滅してるから、一応、呼気吸気清浄動作はしてるんだろう。

 給食係が教室に戻ってきた。
 僕らはわいわいとトレイをもらいに行って、自分の席へ戻ってくる。

「いただきますの、ロック解除です」
 教壇で先生がリモコンを押すと、クラス全体でピピッと電子音が響く。僕も顎ボタンを押し込み、マスクの下顎パーツを首までさげた。

 今日の給食は、砂糖たっぷりの揚げパンに、ビーフシチューだ。
 ホワイトボードに投影された学習アニメーションの甲高い音声が、箸と食器の音しかしない教室の空気を上滑っていく。

 濃いシチューのスプーンを口に押し込みつつ、ちらり、目だけで隣の席を窺った。

 首を前に向けてさえいれば、プラスチック窓の奥、目線がどこを向いてるのかなんて、気づくヤツはいないハズだ。気づかれたとしたら、そっちだって僕を窺ってたってことだもんな。

 結城ミナツの、あらわになった口元。パンを噛みちぎる白い前歯。

 僕はごくりと牛肉ブロックを呑み下した。大きすぎた塊が、喉の奥をいっぱいに押し広げて落ちていく。

 ミナツの顎は細くてシュッとしている。僕は女の人の素顔なんて母と姉ちゃんしか見たことないけど、二人とも、もっとモタッと丸い感じだったと思う。それにジッと観察していると、二人は「すっぴん見ないで!」と家の中でも慌ててマスクをかぶってしまうから、見たことないようなもんだ。

 ミナツのマスクは、このクラスでただ一人、国支給の標準マスクだ。ただのつるっとした白卵。家の事情でたまにそういう生徒もいるにはいるが、みんな卵にそれこそ造花を盛ったりペインティングしたり、元の形が分からないほど改造してるのがフツーだ。

 だからミナツはクラスの女子の中で浮いていて、大体いつも一人でいる。僕はスマホの通知が十分に一通は来ないと不安になってしまうけれど、ミナツがスマホをいじっているのは見たことがない。

 ミナツが肉を食む顎が大きく動く。

 僕は自分が頭から食われてるような気になってきて、肩に力が入る。

 ホワイトボードのアニメ主人公は、何かずっとしゃべってる。
 誰かが牛乳瓶とお皿をぶつけて、カツンと高い音が鳴った。
 いや、鳴らしたのは僕だ。ミナツを眺めてて、手元が狂ったらしい。

 慌てて瓶を置き直してから、急いでミナツに目を戻す。

 ――すると。

 ミナツはもう下顎パーツを元に戻していた。
 プラスチック窓の奥、またあの三日月になった瞳が、僕を見つめた。

 えっと驚いた僕の横で、ミナツが立ち上がる。トレイを手にした片手が、すっと僕の机の上を滑っていった。

 残された、まっしろいノートの切れ端。

 まるで彼女のマスクのカケラみたいなそれを、僕は大慌てでジャケットのポケットへ突っ込んだ!