「しぃちゃん、行こう」

放課後になってすぐに声をかけた。計画したとおりに。

図書委員の当番。俺がもたもたしていたら「先に行くね」と言われそうだし、「用意できた?」などと疑問形で声をかけたら「先に行ってて」と言われそうだ。だから「行こう」という言葉を選んだ。

「あ、うん」

返事は簡単なものだったけれど、拒否はされなかった。礼央に合図して教室を出ながら、後ろに彼女が続いていることを肌がピリピリするくらい感じている。

「今日はどれくらいお客さん来るかなあ?」

能天気を装って声をかけると、「どうだろうね」と答えが返ってきた。視線は足元に向けられて。

階段だから下を見ているのは当然だよ、と、心の中で説明しつつ、こっそり傷付いている。

――やっぱりダメなのかな。

気付かれないようにため息をついた。

しぃちゃんは俺のことが嫌いになったのだろうか。顔もみたくないほど? まるで彼女と俺の間に透明な壁があるみたいだ。

日曜日はこれほどではなかった。扉が閉じてしまったと感じたけれど、それでもまだ彼女は俺と向き合ってくれていた。

「今日はあたしが棚戻しをやるね」

図書館の戸を開けながら彼女は振り返ったけれど、彼女が見たのはたぶん俺の腕だけだろう。

雪見さんの穏やかな笑顔を見たら、なんだか無性に弱音を吐きたくなった。雪見さんならきっと微笑みを浮かべて聞いてくれるに違いない。静かにうなずきながら。そして最後に「大丈夫だよ」と言ってくれるだろう。

――でも……、無理だよな。

雪見さんとふたりで話せるチャンスがない。

やっぱり自分でなんとかしなくちゃ。今はまずは図書委員の仕事だ。心を奮い立たせてカウンターに立つ。

返却箱に入れられた本のバーコードを読み取り、戻す本の場所に置いていく。貸し出し手続き、取り置き予約本の対応、検索の依頼……、今日はお客が多い。ふと見回すと、学習コーナーの机が以前よりも埋まっている。部活を引退した三年生が増えているのかも知れない。

書架の前にしぃちゃんがいた。返却本を入れたかごを持って。高い棚に手を伸ばす姿を見て、俺の背の高さのことで笑って話をしたことを思い出した。図書館にはちゃんと踏み台があるから、背が低くても仕事はできるけれど……。

「あ、いたいた」

近付いてきた声に顔を上げると、2年4組の図書委員、早川(はやかわ)正弥(まさや)だった。

「夏休み用のコーナー作り、来週の昼休みに打ち合わせをやろうと思うんだけど、どうかな?」

夏休み用のコーナー。図書委員のおすすめ本のコーナーのことだ。本の紹介を書かない俺は、コーナーの看板や飾りを作る担当に入っていた。

「昼休みね。OK」

しぃちゃんがおすすめ本を選ぶ手伝いをしたのはいつだっけ。あのときはすごく楽しかった。後になってから、あれは彼女が俺の気分を気遣って声をかけてくれたのではないかと思い至ったのだった。そう思えるくらい、彼女を近く感じた。それが今日は……。

「あ、早川くん」

戻って来たしぃちゃんに、早川は「や」と手を上げた。それににっこりと微笑みを返したしぃちゃんは、いつもと変わりない彼女。

「来週から夏休み用コーナー作りも動き出すよ」
「早川くんは去年も担当だったよね? 斬新な看板、覚えてる」
「今年も目立つの作るからね」
「うん。頼りにしてるよ」

会話が弾んでる。もしかしたら、しぃちゃんの気分が変わったのかも。でなければ、俺のマイナス思考で勝手に不安を増大させていただけだったとか。

期待がそうっと忍び込む。けれど。

そのあと残りの返却本を戻しに行った彼女は、当番終了時間が近付いてもカウンターに戻って来ない。ずっと書架整理をしているのだ。

もちろん、書架整理だってれっきとした図書委員の仕事だ。けれど、カウンターにひとりでいると、放課後の静けさと相まって、思考は悲しい方へと傾いてゆく。

「少し早いけど、もういいよ。あとは僕がやるから」

雪見さんが本が詰まった箱を持ってやって来た。ぼうっとその箱を見ていた俺に気付いて、「新着図書だよ」と教えてくれた。

「新着図書……」

届いたばかりの本。

沈んでいた気持ちの下からわくわくする気持ちが顔を出す。生徒はまだ誰も触っていない本だなんて。

「見る? もう登録済んでるから貸し出しできるけど」
「いいんですか? じゃあ、しぃちゃん呼んできます」

しぃちゃんはきっと見たいはずだ! 新着図書コーナーに並ぶ前の本!

カウンターを出たところで彼女の様子を思い出した。俺が声をかけても喜ばないかも知れない。迷惑そうな顔をされてしまうかも。

だけど。

ここで声をかけなかったら、俺はきっと何日もそのことでくよくよ悩むに決まっている。そんな自分を簡単に想像できる。それと比べたら、今この場で拒否される方がましだ。

「しぃちゃん」

覚悟を決めて、壁際の書架の前にいたしぃちゃんに小声で声をかける。近付く俺を少し驚いたような顔をして彼女が見上げた。何かトラブルがあって呼びに来たのだと思ったのかも知れない。

「雪見さんが新着図書を見てもいいって。まだ箱に入ってるやつ」
「え? 新着図書? ほんとう?」

瞳をきらめかせ、彼女が一歩近づいた。その様子にほっとする。

「うん。登録済んでるから借りられるって」
「わあ、見たい。景ちゃんは? 部活、まだ大丈夫?」

彼女の言葉に心臓がきゅっと反応した。俺のことをちゃんと気遣ってくれた。

「ざっと見るくらいなら大丈夫」

答えると、彼女がにっこりした。

――呼びに来てよかった。

拒否されなかったどころか、とても嬉しそうだ。一緒に見ることも嫌がっていない。

カウンターに戻るとき、彼女がそっと「ありがとう」と言った。そのとき彼女はうつむいていたけれど、ここに来るときとは何かが違う。なんだか……どこかが触れ合っているような気がしてドキドキしてしまった。

いそいそと戻って来た俺たちを微笑んで迎えた雪見さんが、「悪いけど、ついでにブックトラックに出してもらっていいかな?」と言った。こういう丁寧な言葉のかけ方がとても雪見さんらしいと感じる。

俺たちは張り切って「はい」と言い、声が重なったことが少し可笑しくて顔を見合わせた。

新着図書を見ていたのは十分足らずだったと思う。でも、そのあいだにしぃちゃんと俺の関係はかなり修復された。

何度も目が合ったし、もちろん静かにだけど、一緒に笑いもした。ただ、俺は少し警戒して、彼女には近付き過ぎないように気を付けていた。

本を手にとっては目を輝かせる彼女。その一瞬一瞬が俺の心に光を投げかけてくれる。

――もしかしたら、雪見さんは……。

ふと思った。

俺たちの様子がいつもと違うことに気付いていて、この本を見てもいいと言ったのだろうか。一緒に何かをすることで、俺たちが壁を乗り越えられるように。

――そんなはず、ないかな?

離れていたけど、それぞれちゃんと仕事をしていたし。まったく口を利かなかったわけじゃないし。

でも……。

なんとなく、雪見さんなら気がつきそうな気がする。今の雪見さんには俺たちを気にする素振りは微塵もないけれど。

新着図書を堪能した俺たちは、雪見さんにお礼を言って図書館を出た。部活に向かうためしぃちゃんに「じゃあ」と手を上げると、彼女は「うん」とうなずいた。階段の手前で振り返ると彼女はまだそこにいて、無言で手を振ってくれた。

――訊くの忘れちゃったなあ。

部室で着替えながら思い出した。彼女の態度が変わった理由を尋ねようと思っていたのだ。でも、新着図書のお陰で元に戻れた気がするからいいか。

――ほんとうに元に戻れたのかな……。

明日になってみないと、確かとは言えないかも知れない。そう考えると不安になるけれど……。

考え始めるときりがない。だから、今は部活に集中しよう。