五月最後の週に、二度目の図書委員の昼休み当番がまわってきた。利用者が多くて忙しい昼休みの当番だけれど、しぃちゃんとの時間を確保できる大事な機会だ。

仕事に慣れて少し手際が良くなり、気持ちの余裕も生まれている。今回はどんな話ができるかとわくわくしながら、じれったい思いでお客が途切れるのを待った。

「景ちゃんは前転って得意?」

先に質問したのは彼女だった。返却本をかごに移しながら、「前転って、でんぐりがえしのこと?」と確認すると「そう」と彼女は言った。

「特に得意でも苦手でもないけど……」

前転のことで何かを考えたことはないと思う。どうして突然、前転の話なのだろう? と考えて、思い当たった。

「女子の体育、マット運動なの?」
「今日からね。で、首をぐきっとやっちゃって」
「ああ、それは痛いね」

うなずいたしぃちゃんが顔をしかめて首に手を当てる。そう言えば、さっきから首を気にしているようだった。

「無理しなくていいよ。仕事はだいたい分かるから、しぃちゃんはじっとしてて」
「ありがとう。でも大丈夫。仕事はできるから」
「だけど捻挫みたいなものだよね? あんまり動かさない方がいいよ」

貸出を1件さばいてから彼女がゆっくり振り返る。体ごと向きを変えたのは首を動かさないために違いない。

「あたし、年に何回かは首を痛めてるの。マット運動だと必ずだし、朝起きたときとか、うがいでもやっちゃうときがある。だから慣れてるんだ」
「慣れてるっていっても、痛いよね?」
「うん……、まあ、そうなんだけどね。それに、前転でやっちゃうのは初めてで、ちょっと落ち込んでる。いつもは後転なのに」

頭を動かした拍子にまた痛そうに手を当てた。前転でも後転でも寝起きでも首を捻挫した記憶がない俺には、その痛みを想像することしかできないけれど。

「誰でもやるものだと思ってたんだけど、前にお医者さんに行ったとき、『年に三、四回』って言ったら『多いですね?!』って驚かれて……、みんなはならないんだってね?」

尋ねた拍子にまた首が動いたらしい。「いたたた……」と顔をしかめている。大丈夫だと言われても、痛々しくて見ていられない。

「もう座ってなよ。俺、本戻してくるから」

椅子を向けてあげると、「ありがとう。ごめんね」と素直に腰掛けてくれた。カウンターの椅子はキャスター付きだから、少しは楽だといいけれど。

――保健室に行くように言おうかな。

本を書架に戻しながら考える。

保健室には湿布があるはずだ。当番の仕事は最初のラッシュが終わって落ち着いている。サボるわけじゃないし、いざとなれば雪見さんが手伝ってくれるだろう。

「せーんぱい」
「景先輩。こんにちは」
「ん」

今回はすぐに分かった。一年生の図書委員コンビだ。たしか名前は……。

「こっちが絵島で、背が高い方が見浦」
「そうでーす」
「お当番、ご苦労さまでーす」

この子たちの楽しげな押しの強さにもだいぶ慣れてきた気がする。

「先輩、やっぱりやさしいですね」
「委員長、具合悪いんですか?」

カウンターの中の俺たちを見ていたらしい。俺を冷やかしつつもしぃちゃんに向けたふたりの表情は真面目で、心配しているのは本心のようだ。賑やかなだけじゃなく、やさしいところもあるらしい。

「首を痛めてるんだよ。本人は大丈夫って言ってるけど、動くとだいぶ痛そうだよ」

俺が言うと、ふたりは「痛いの嫌だよね」と顔を見合わせた。と、すぐに俺に笑いかけて。

「でも、景先輩がついてるから」
「ね?」

そしてまた、ふたりでうなずき合う。

「俺がついてても、痛いものは痛いよ」
「でも、心は癒されます」
「景先輩、やさしいから」
「ほめてくれてありがとう」

どうしても俺をからかいたいようだけれど、今日は受け流せる心の余裕がある。

それにしても、最近、「やさしい」と言われる回数が増えた気がする。俺自身は特別に変わったわけではないのに。

「委員長にお見舞い言ってこようか」
「そだね。お手伝いしてもいいし」

ふたりがうなずき合う。しぃちゃんが後輩に慕われていることで、胸の中がほんのり温かくなる。

「あ、ちょっと待って」

歩き出そうとしたふたりを呼び止めた。実は、この前から少しばかり気になっていたことがあるのだ。

「『委員長』じゃなくて、ちゃんと名前で呼んであげてくれるかな?」

思いがけない内容だったらしい。ふたりは目をぱちくりさせて俺の顔を見上げた。

それはそうだろう。「委員長」という呼び方は当たり前に使われている。そして、ふたりはこの言葉を使うことには何の悪意もない。それにあの日、俺もみんなの前ではっきりと、しぃちゃんを「委員長」と言ったのだ。なのに今度は名前で呼べなんて。

「ごめんな。そんなにたいしたことじゃないんだけど」

そうだ。たいしたことじゃない。それでも。

俺はしぃちゃんが傷付いたという事実を忘れられない。俺のせいで傷付いてしまったことを。彼女は今でも否定するだろうけれど。

「細かいこと言ってごめん」
「いいえ、そんなことないです。たしかに、『委員長』って固有名詞じゃないですもんね」
「うんうん。何て呼ぶ? 『大鷹先輩』?」
「そうだねえ……、訊いてみようか」
「うん、そうしよ!」

カウンターに向かう背中を見ながら、素直に受け入れてくれてありがたいと思った。俺の中の漠然とした理由を上手く説明できそうにないから。

ひと通り本を戻してカウンターに戻ると、さっきのふたりがカウンターの両脇に立ってしぃちゃんと話していた。人が来ると声かけをして、しぃちゃんの手伝いをしているらしい。

新たな返却本をかごに移しながら、ふたりがしぃちゃんを「紫蘭先輩」と呼ぶのを聞いた。本の話で盛り上がっている彼女たちの間に変な遠慮は感じられない。本が好きな者同士の楽しい雰囲気がほんわりと漂っているだけ。

「あ、そう言えば」

少し前の出来事を思い出した。

「バレー部の一年に、高砂の話をしなかった?」

一瞬きょとんとした見浦と絵島が「ああ!」とうなずいた。

「しました。面白い先輩がいるよね? って言ったら通じなくて」
「高砂先輩、全然笑わないって言うから、そんなはずないよって言いました。そうですよね? オモシロいこといっぱい言って、電車の中で笑いが止まらなかったんですよ?」
「あのときあたしたち、礼央先輩にあいさつしたんです。景先輩のお友だちだから。そしたら一緒にいた高砂先輩がたくさんおしゃべりしてくれて」
「そうそう」

その情景が目に見えるようだ。

「なのに男子が高砂先輩は笑わないって言うから、あんたたちが何か失礼なことしたんでしょって言ったんです」
「もしかして、何か困ったことになったりしました?」
「いや。揉めたりはしてないよ。この前、一年生が俺のところに相談に来たから」

ふたりが顔を見合わせる。そしてうなずいた。

「やっぱり景先輩なんだ」
「うん。そうなんだね」
「何が?」

俺の名前が突然出て不安になる。しぃちゃんがにっこりした意味もよくわからないし。

「景ちゃんのところに相談に行ったこと、だよね?」

しぃちゃんの言葉にふたりが大きくうなずく。

「特別な意味なんかないよ。俺が副部長だからだよ」
「そうじゃありません」
「それだけじゃないと思います」

見浦と絵島が妙にきっぱり言いきる。

「じゃあ、怖くないからだろ」

自分で言うのもなんだけど、俺には誰かを怖がらせる要素はまったくない。それが必要な場合でも出てこない。中学時代は部活でよく「闘志がない」と言われたものだ。自分でもそうかも知れないと思う。

「まあ、それはそうですけど」
「景先輩はそれだけじゃなくて、ちゃんと受け止めてくれるっていうか」
「ちゃんと考えてくれそうっていうか」
「そうです。安心して相談できる雰囲気」

まあ、それはあるかも知れない。とは言っても、解決できるかどうかとなると話は別だ。けれど、三人はまるで安心感さえあれば十分みたいな顔でにこにこしている。

こんなに全面的に俺を肯定してくれるなんて、三人は何か大きな勘違いをしているのではないだろうか。戸惑いしか湧いてこないし、背中がむずむずする。

で、返却本第二弾をかごに入れ、その場を離れることにした。



「今日はありがとう」

閉館後、教室へと階段を上りながらしぃちゃんがお礼を言ってくれた。首のことをほんの少し気遣っただけなのに。

「いつもと同じことしかしてないよ。あ、そうだ」

今ごろ思い出しても遅いけれど。

「保健室に行ったらって言おうと思ったんだった。すっかり忘れてたよ。湿布もらえると思うよ?」
「ありがとう。でも大丈夫」

また「大丈夫」って言った。動いた拍子に「いたたたた……」と首を押さえて。

「首の湿布って目立つんだもん」
「恥ずかしいってこと? 痛いのに」
「見た目もそうだけど、みんな気を使って『どうしたの?』って訊いてくれるでしょ? そうしたら、原因を説明しなくちゃならないでしょ? 単なる前転だよ? どれだけ不器用なのかって、自分でもあきれちゃうもん。もう少し難しい技ならまだしも、前転じゃあ……」

なるほど。前転が原因というところが彼女なりにショックなのか。

「足首の捻挫なら恥ずかしくないのに」

そう言ってため息をつき、また「いたた」と首に手を当てる。痛いだけじゃなく、気分も落ち込んでいるようだ。

「足首だったら、この階段は俺がおぶってあげるんだけどなあ。治るまで、朝と帰り、毎日」
「え? ほんとう?」

ぱっと顔を上げた彼女が「うっ、いたっ」と顔をしかめた。でも、すぐに瞳が楽しげにきらめいて。

「じゃあ、次は頑張って足首の捻挫にする」
「いいよ。いつでもどうぞ」
「背が高いから、おんぶされたら景色が変わるよね、きっと」

彼女は冗談だと思っているだろうけれど、俺は半分は本気でやってもいいと思っている。と言っても、たぶん断られるだろうな。

「で、景ちゃんが捻挫したら、あたしがおんぶする」
「え? いや、それはいいよ」
「遠慮しないで。あたし、景ちゃんが思ってるよりも力持ちかもよ?」
「そうかなあ?」

こんなふうに言い合えることがとても楽しい。

「ただね、」

と、にやりとしたしぃちゃん。

「景ちゃんは背が高いから、床に足を引きずっちゃうかも知れない」

その途端、赤いマントを床に引きずって歩く王さまの絵が頭に浮かんだ。そして、肩にしがみついた俺を引きずって階段を上るしぃちゃんの姿が。

「教室に着くのが三時間目くらいになりそうだなあ」
「上りはいいけど下りはかなり危ないね」

こんなくだらない話を楽しく話せるってことは、やっぱりしぃちゃんと俺は上手くいくんじゃないだろうか。

もうすぐ礼央とくぅちゃんが会う日だ。付き添いの俺たちも、一歩進めるかも?