借りてきた『ソロモンの指環』を読みながら、本を読むってなんだか不思議な体験だ、と思った。
この本が書かれたのは20世紀で、書いた博士はもう亡くなっている。でも、そのひとが考えたことや感じたことを、この本を読む俺が同じように考えたり感じたりしながら読んでいる。
年齢も、立場も、文化的な背景も違うのに気持ちが分かるということが――考えてみれば当然なのだろうけど――新鮮な発見だった。博士がいろいろなハプニングに見舞われるたびに、一緒に情けなくなったりびっくりしたり慌てたり、自分の心が動くことが楽しい。
もちろん、学問的な面白さもある。
新しいことを知ったときの「そうなんだ?!」という驚き。授業で何かを教わるときとは全然違う。どこかで役に立つとも思えない知識なのに、知ることが純粋に楽しい。
それに、研究者という道の困難さと喜びを垣間見ることもできた。諒が進もうとしている研究の道というのはこういうことなのだとイメージできた。まあ、諒は家に研究対象を持ち込んだりはできないはずだからありがたい。
本を読むのはおもに通学の電車と寝る前。しぃちゃんと話すために始めた読書だけれど、すぐに、電車で本を読むのが当たり前になってしまった。今まで俺は、どれほどもったいない時間を過ごしてきたのだろう! と、後悔するほど面白い。
「しぃちゃんにもお薦めするよ」
放課後の図書館カウンター当番の日、薦める口調につい熱がこもってしまった。と言っても、本の面白さだけが理由というわけではない。
待ちに待った今日の当番。この数日、宗一郎と彼女が話しているのを見かけても我慢して、自分の中に話したいことを蓄えてきたのだ。
「とにかく面白いんだ。生き物の自然な行動を観察する研究だから、いろんな動物を家の中とか周りで放し飼いにしたり、育てたりしてて」
放課後の利用は勉強目的が中心のようで、昼休みよりもずっと静かだ。貸出と返却は最初の十分くらいでひと段落し、今はカウンター内に並んで座っているだけ。話す声が響かないようにトーンを落とすと、しぃちゃんがそっと肩を寄せてきた。予想していなかった彼女の動きに、一瞬、息が止まる。
「奥さんが小さい娘さんをサルのいたずらから守るために、娘さんのための檻をつくったこともあったんだって」
少し早くなった鼓動を隠し、声が届くように俺も体を傾ける。お互いの袖が触れたかすかな感触が鈴の音のように体を駆けぬけた。
「檻? サルじゃなくて子どもの?」
こちらに向けられた大きな瞳。この距離でまっすぐ視線を向けられると……思わず見入ってしまいそう。
「うん。絵があったよ。博士は奥さんの我慢強さとか工夫にすごく感謝してたみたい」
微妙なラインを越えないように、心を強く持って笑顔をつくる。
「育てたヒナと心が通じ合ってほっこりする話もあるんだけどね、カラスの群れに近付くために変装したり、鳥になりきって庭を歩きまわったり、自分でもいろんなことをやってみるんだよね。で、それを近所の人に見られちゃって」
心を強く持とうと思っても、こんな距離で話していると、もっと近づきたくなってしまう。おでこをごっつん、なんてしてみたら? 肩をちょん、と当てるだけなら?
「そうか! 他人に見られちゃうんだ。それは恥ずかしいね」
声をひそめてしぃちゃんが笑う。笑いながら姿勢が戻り、ふたりの距離はただの“カウンター当番”に戻った。残念な一方で、緊張から解放された気分であることも確かだ。
「でも、やっぱりすごい人なんだよね」
この距離で聞こえる小声もちゃんと出せるのだ。
「何年もかけて観察を続けたってこともそうだし、実際に鳴き声で意思の疎通ができたってこともすごいよ。何があってもくじけないでさ。それに文章がいいんだ。気さくで、少しとぼけた感じで面白くて、でも動物に対する愛情が伝わってきて」
「そうなんだ……」
しぃちゃんが微笑んでほうっと息をついた。
「景ちゃん、いい本と出会ったね」
――あ。
そうか。これが本との出会い……いい出会いなんだ。楽しいと思えて、それが嬉しくて、誰かに話したくなるような。
「うん。雪見さんとしぃちゃんのお陰だね」
「え? あたしは何もしてないよ」
「そんなことないよ。しぃちゃんがいなければ、本を読むこと自体を思い付かなかったと思うよ」
しぃちゃんは「そうかなあ?」と首を傾げてから、思い出したようにふっと笑って。
「そんなことないよ。図書委員なんだから!」
「そりゃそうか」
カウンターの中でこっそり一緒に笑うって、なんて楽しいんだろう!
まあ、正確に言えば宗一郎の存在も読書を始めた理由の一つだけれど、ふたりでいるときに宗一郎の名前など出すものか!
放課後の当番は30分程度。その後は雪見さんが一人で対応するそうだ。しぃちゃんとこんなふうに過ごせるなら、もっと当番の回数が多くてもいいと思う。……でも、部活の大会前はちょっと困るかな。
「そうだ」
この数日、言わなきゃと思っていたことを思い出した。
「礼央の頼み、きいてくれてありがとう」
しぃちゃんが不思議そうな表情で見返してくる。「ほら、くぅちゃんのこと」と言うと、彼女は驚いた様子で首を横に振った。
「あたしは伝えただけだよ。いい結果になったのは、礼央くんが自分でくぅちゃんの信用を勝ち取ったからだよ」
「うん。でも、しぃちゃんは礼央の頼みを断ることもできたはずだよ。しぃちゃんも礼央を信じてくれたってことだよね」
「そう言えばそうね……」
彼女は小首を傾げた。それから顔を上げて。
「うん。あたしも礼央くんを信用してる。でもね、それは景ちゃんが礼央くんを信じてるからだと思う」
「俺?」
「うん、そう。景ちゃんと礼央くんが一緒にいるときって、ふたりともすごくリラックスしてる。ありのままっていうか。だから、景ちゃんを信用できるなら礼央くんも大丈夫って」
この笑顔。屈託なく向けてくる視線。彼女は心から言ってくれているのだ。
しぃちゃんは俺を礼央よりも先に信用できると思ってくれたんだ。もしかして、俺、しぃちゃんの中では好感度抜群だったりするのかな? 意外と第一印象から、とか――。
「クラス替えの最初の日にね」
――やっぱり?!
「いちごと景ちゃんのやり取り見てて、いちごが景ちゃんのこと信用してるって分かったの。だからあたしも、景ちゃんのことは信じていいんだなって思ったの」
――いちごかーーーーーっ!
人前で俺を貶めてばかりいるいちごのお陰だなんて、なんて皮肉な結果だろう。いちごがこれを知ったら、また感謝しろって言われそうだ。
「いちごがいなかったら、景ちゃんとはなかなか話せなかったと思うな。景ちゃんって女子とはあんまり話さないでしょう? 図書委員で一緒になっても接し方に迷って、もっと事務的な感じになってたと思う」
「そうかなあ……」
いちごがいてもいなくても、俺は俺だし、しぃちゃんはしぃちゃんなのに。
「でも……」
しぃちゃんがつぶやいた。それからにっこりして。
「景ちゃんって、やっぱりいいひとだなって思うな」
「え……」
――いいひとって……。
思わず固まってしまった。その意味を判断しかねて。
褒められたのだということは分かる。好感度が高いということも分かる。でも、どのくらい?
友だちとして信頼できるということか。それとも、彼氏になり得るということか。この感じだと……?
彼氏に、つまり恋愛の対象としてだったら、こんなにストレートに言うだろうか? もう少し恥ずかしそうに、とか、何かそれらしい素振りがあるのでは? つまりこれは、そういう対象じゃないという牽制?
「そ……、そうかな?」
いやいや、牽制だと決めるのは早い。もうひと押し、何か言ってくれないかな? お願い、何か言って!
「うん。意地悪なところとか、他人を馬鹿にしたりするところがないし、親切でやさしいでしょ? 乱暴な言葉を使わないところも、話していて安心なんだよね。一緒にいてストレスがないって感じ?」
「ふうん……、そうかー……」
めちゃくちゃ褒めてくれた。褒めてくれたし、「一緒にいてストレスがない」というのは「一緒にいて構わない」とも受け取れる。だけど……、だけど!
「ありがとう。そんなに褒められると申し訳ないような気がしちゃうな。あははは」
「でも、本当だよ?」
その表情が!
あまりにもまっすぐ過ぎる!
――せめて「一緒にいたい」って言ってくれたら。
この言葉なら手放しで喜べるのに……。
それでもまあ、仕方ない。全体的に見れば高評価なわけだし。友だちから恋人になる可能性だってあるわけだし。
「俺、書架整理行ってくるよ」
気を取り直してカウンターから出たところで思い付いた。
「あのさ」
カウンター越しにしぃちゃんに声をかける。もちろん小声で。そして決意が鈍らないように急いで。どんどん大きくなる鼓動を隠しながら。
しぃちゃんが「なあに?」という表情で軽く身を乗り出した。
「しぃちゃんも、すごくいいひとだと思う。俺もしぃちゃんのこと信用してるよ」
くるりと向きを変えてカウンターから離れた。たぶん、俺の顔はかなり赤くなっているから。そのまま急ぎ足で書架の間に飛び込む。
――言っちゃった。
バクバクしている心臓。額に噴き出てくる汗。大きく息を吸って、ゆっくり吐いて。
――しぃちゃんはどんな顔してるだろう?
気になるけれど、自分が落ち着くまでは確認する勇気はない。ひたすら本の背を見ていられる書架整理はちょうどいい作業だ。
二列ほど終わったところで隙間からカウンターを窺うと、しぃちゃんは日誌を書いていた。穏やかな表情はやさしげで、いつもと変わった様子はない。
――そうだよな。
彼女は俺に堂々と「いいひと」だと言ったのだ。自分が言われても恥ずかしくもなんともなくて当然だ。
俺だけがこんなふうに照れている。それは、俺の想いが一方的だってことなのかな……。